出会いはコンビニで
コンビニの自動ドアが開くと、高音域の落ち着いたメロディーが流れる。
その音が鳴れば、客が行き来しているのは必然的なので、私は雑誌を並べる手を止め、自然と入り口に目をやった。そこには相川の姿がある。
「よう」仕事中にも関わらず、彼は私に話かけてきた。
相川は長身で長髪、相変わらず無精ひげを生やしている。年齢は二十代半ば、と聞いているが三十代後半に見えなくもなかった。
「何の用ですか?」
「おいおい、私は客だぞ。客ってのはな、何もしなくても店側から重宝される称号なんだ。つまり私は王様、奈津美は召使いという事になる」
「私はただのバイトです」
「バイトは王様よりも偉いのか?」
「働かない王様より、一生懸命働くバイトの方が偉いですよ」
「王様ってのはな、何が何でも偉いんだよ。王様より偉いのは神様ぐらいだ」
「そういう事では無くてですね」私は脱線した話を戻す。「私の用があって来たんでしょ」
「おお、そうだった。用があるんだった」相川は指を鳴らす仕草をするが、鳴らない。
「で? その用っていうのは」
「ここに村上って苗字のやつ、いるか?」
「むらかみ? ああ、村上ですか。村上なら」私は指を指す。「あの人ですよ。今レジをしている」
私は長い髪を後ろで結んでいる彼女に指を指した。
村上は私と同じ時間帯のシフトで働いている。彼女は私の前からバイトとして働いていた。最初の頃は教育係として、指導してもらったことがある。
彼女は同じ大学の同期らしい。らしい、というのは実際に彼女から聞いたわけではないからだ。同じサークルの人が教えてくれた。彼女は大学ではそこそこ有名らしい。
確かに、整った顔立ちは同姓の自分から見ても、とてもきれいだと思う。
「なるほど。予想以上に、美人だ」相川が感嘆する。
「で、私に何の用が。それと村上にも」
「お前、一昨日の事は覚えていないのか?」
相川が呆れた顔で溜息を吐いたので、とりあえず、私は一昨日の事を思い出してみる。
「相川さんの淹れたコーヒーは不味い」私はカウンターに座っている従業員の男に向かって言った。「ていうか、相川さんに淹れて欲しくなかったです」
「そんな事はだな、思っていても口には出さないんだよ。お前、もうすぐ二十歳だろ。大人になるとだな、我慢が出来ないと駄目なんだよ」
今、私がいる喫茶店はアンティークな造りをしている。そこらの清潔で殺風景な喫茶店よりも私は好きだった。それに合わせて流れるジャズが気分を落ち着かせる。
「それは言い返せない人の言い訳だと思うんですけど」
「人生をうまく生きるには大切なんだよ。ご機嫌伺いは大人の常識だ。ほら、今からその例を見せてやる」相川は人差し指を立てる。その指を私のいる場所から二席分空けて座っている中年の男性に向けた。「しっかりと見てろよ」
相川は先程の挽きたてのコーヒーをカップに注ぐ。そのカップを男性の前に置いた。
虚を衝かれた男性は顔を上げる。相川は満面の笑みで、「常連客へのサービスですよ。正さん」と言った。
「え? ああ」
正さんと呼ばれた男性は苦笑して、ありがとう、としゃがれた声で言った。少し躊躇いながらもカップに口をつける。
正さんというのは私と相川さんが付けた渾名のようなもので、本名は正和さんという五十代のサラリーマンだ。年のせいか、最近はスーツがくたびれているし、声も枯らしている。会社に勤めてもうすぐ二十五年目になる彼はそれなりの地位にいるらしいので、部下に叱責を飛ばしているのだろう。
「営業用の笑顔でよく嫌がらせができますね」私は感心する。
「これはな、心の底からの笑顔だ。正さん、お味のほうは?」
「なんというか、なかなかだね」曖昧な言葉で濁す。
「ほらな。まさに大人の鑑だ」
「正さん。本当のことを言わないと駄目ですよ。『こんなのコーヒーじゃない。色の濃い泥水だ』って」
「いや、さすがにそこまでは」正さんは人の良い笑顔を浮かべる。
「正さんを見習ったらどうだ。社会人一年生」
「はいはい。機会があったらね。それより相川さん、水、下さい」
コーヒーの口直しに私は注文する。相川は面倒臭そうな顔をわざと見せて、グラスを取り出した。
客に向かってそんな顔はないだろう。先程自分で言っていた客へのご機嫌伺いはどうしたのだ。
「なあ、相川君。例の件が上手くいっていないんだ」しばらくして、正さんが口を開いた。「君のアドバイスがふざけているとしか思えなくなってきたよ」言葉とは裏腹に、棘がある言い方ではなかった。
「正さん。物事にはね、例外がつきものなんです」相川がグラスに氷を入れながら、言った。
「君が言うとね、言い訳に聞こえるのが不思議だ」
「何の話をしているんですか?」
私はふたりに訊ねた。仕事の話をしているように見えるが、年が倍近く離れていて、職種も全く違う相川に助言を求めるというのは、少しおかしい気がした。
「いや、そのね」言いづらいのか、正さんは口をもごもごさせる。
「あ、別に話しづらいならいいんですけど」
「そこまで大事な話ではない」相川が代わりに答えた。
「私にとっては大事な話だよ」正さんが珍しく、声を荒げる。
まあまあ、と相川は正さんをなだめる。
「まあ、正さん。気長に待つ事が大事ですよ」相川は落ち着かせるような口調だった。「私と奈津美も協力しますから」
「は?」私は眉間に皺を寄せる。
「本当か」正さんの顔が輝く。「奈津美ちゃんも協力してくれるのか」
「ええと、その」
そんな顔をされると、断りづらい。
「実は、さっきその件をこっそり話してみたらですね、快くOKをもらったんですよ」相川が平然と嘘を並べる。
「そうか。そういえば」正さんは合点がいった様子で「奈津美ちゃんは涼子と同じコンビニでバイトしていたんだっけ」と言った。
「リョウコ?」リョウコって誰だ?
それより私は不審に思ったことがある。「というか、何で私がコンビニでバイトをしているって知っているんですか?」
「前に相川君が教えてくれたよ?」
「それでも、私は相川さんにも言った覚えは無いですよ」
そう言うと正さんも怪訝な顔になった。私と正さんは同時に相川を見る。
相川は肩をすくめる。「小さい事は気にするな。ほれ、水」
「私の記憶が正しければ、相川さんから何も聞かされていませんよ。正さんもその後すぐに帰っちゃったし、私もバイトがあったので」
「そうだっけ?」相川はとぼける。「奈津美がぼけている可能性もあるんじゃないか?」
「十代の記憶力を、なめないで下さい」
「都合のいい時は十代なんて言葉を使いたがるよな、十代って」
「三十路手前の負け惜しみですか。大体ね――」
相川をまくし立てようとした時に後ろから「おい津村」と知った声が耳に飛び込んできたので、背筋がしゃんと伸びる。
「店長」おそるおそる振り返ると、四十前後の眼鏡を掛けている男が腕を組んでいた。細くつり上がった爬虫類のような目で、細い体つきだった。
「俺ははやる気の無い奴に給料を払うつもりは無い。お前でも言っている意味ぐらい分かるだろ」出来の悪い学生を諭す先生のような口調だった。
「すみません」
「俺は謝れとは言った覚えは無い。行動で示せよ、行動で」
「すみません」壊れかけの録音機のように繰り返した。
「お前の代わりなんて、世の中に腐るほどいる」
店長はそれ以上何も言わず、自分の仕事に戻っていた。今日はあっさりと退いたな、と内心でほっとする。
私は店長が苦手だった。理由としては、確かに指摘は正しいが、粘着質な嫌味をずっと言われるのは我慢がならない。常にこちらを圧迫してくる高圧的な態度もある。
「なんだ、あの粘着質なトカゲ野郎は」相川は内緒話をするように、私の耳元で囁く。「ああいう野郎は部下には威張り散らすが、上司には徹底的に媚を売るタイプだ。いってみれば、私と違って小心者だな」
相川の人間予想はあながち外れてはいなかった。店長の口癖は「お客様は神様」で、どんな理不尽なクレームも謝り続けているのを見たことがある。
「初対面でそこまで悪く言える人も珍しいですけど。何で小声なんですか。もっと大きな声で喋って下さいよ」
「あのな、そうすれば、あいつに聞こえているかもしれないだろ?」
「はいはい」私は適当に切り上げる。「それじゃ、相川さん。話は仕事が終わってからにしましょう。また注意をされるのは嫌ですから」
「仕事が終わるのは何時だ?」
「そうですね……」私は店内にある時計を見る。午後八時を少し過ぎていた。「二時間後ぐらいですかね」
「そうか」そう言うと、相川は歩き出す。
「どうするんですか」
「とりあえず、先にこなしておく事がある」
「こなしておく事って?」
「村上を、口説く」
「は?」
彼が何を言っているのか、その時は分からなかった。