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圏外

夢からの着想の短編です

圏外

ある初夏の夜に灰原はロードバイクで走り出した。

夜中に帰ってきた灰原と妻との間で少々諍いがあり、家にいづらい雰囲気だったからである。

自転車は羽原の唯一の趣味だ。

走り始めると風よりもねっとりと吹き出す汗が体を覆うのを感じた。

初夏とはいえ、七月の夜は暑かった。

先月新しいロードバイクを入手した灰原には、今は走るだけで楽しい時期だった。

川越街道を延々と走り続けた。

何度かコンビニに立ち寄り、トイレと給水を済ませた。

こんな暑さでは、熱中症や脱水症状への対処は必須だ。

そこまでは確かに記憶があった。

しかし気がついたときは野原で大の字になって、空を見上げていた。

野原の端には初夏なのに向日葵が咲き乱れているのが見えた。

大きく呼吸をしたくてヘルメットを脱いだ。

そのまま脇に放り投げた。

何か金属に当たったような音がした。

自分のバイクだと思って、そのまま天空を眺め続けた。

爽やかな風と、肌を刺激する芝生が心地良かったことを覚えている。

傍には真っ赤な羽原のロードバイクが転がっていた。

先月購入したての自慢の自転車だ。

頭上夜空の雲を数え続けているうちに、いつの間にか寝入ってしまった。

気がつくと頭上は白い雲の代わりに満点の星空だった。

触れたら切れそうな三日月が視界の隅で輝いていた。

三日月と目があったと思ったときに、ようやく意識が覚醒した。

汗で冷えた身体が一つ大きく震えた。

慌ててウェストバッグの所在を探った。

それはしっかりと腰に巻き付いていた。

バッグの中のiPhoneを探した。

最近バッテリーの怪しいiPhoneはかろうじて光っていた。

しかし電波状況が圏外を示していたのを不審に思った。

すかさずグーグルマップを起ち上げた。

なぜか現在地を示す矢印が出てこない。

何回か再起動を繰り返すが、状況は一向に変わらなかった。

時刻は二十一時を示していた。

羽原は急に激しい不安に苛まれた。

いったい自分はどこにいるのか?

圏外なのも構わずに自宅に電話をかけてみた。

案の定、電話は機能を果たさなかった。

妻の携帯にもかけてみたが、何の違いもなかった。

三日月を観たときから違和感を感じていた。

「狂気」を意味する「ルナティック」は確か満月のときのはずだ。

思いつく限り、違和感を探し続けた。

グーグルマップが位置を示さなかったことを。

iPhoneが圏外を示していることを。

辺りが妙に静か過ぎることを。

初夏なのに向日葵が満開なことを。

考え続けて頭が痺れ始めたとき、スマホがダメなら公衆電話を使うことを思いついた。

最近は見かけなくなった公衆電話だが街道筋なら一台くらいは残っているだろう。

さっき寄ったコンビニにあったかどうかは思い出せなかった。

善は急げと、バイクに乗ろうとしたとき異変に気がついた。

さっきまであった羽原の真っ赤なロードバイクのあった場所に、同じ赤でもカゴのひしゃげたママチャリが横たわっていた。

一瞬「盗難?」と思ったが、それも考えにくいことだった。

諦めてママチャリに跨ったが、サドルがやたらと低すぎることに気がついた。

焦る気持ちを鎮めるように、一旦降りてサドルを一番高いところで固定した。

街道を南下し始めたママチャリは遅いよりも異音を発して閉口した。

しかし行けども行けども、コンビニどころか灯一つも見当たらなかった。

この街道は真夜中でも長距離トラックの行き交う賑やかな道路だったはずだ。

そしてずっと三日月からの視線を背中に感じ続けていた。

真っ暗な道を走り続け、挫けそうになったときに昔ながらの電話ボックスが目についた。

喜び勇んでブレーキをかける。

耳障りなブレーキの軋む音に腹立たしさを感じた。

灰原は自転車の整備にはうるさい方だった。

帰宅したら、丹念に整備しようと決意した。

ふと目の前の電話ボックスを注視した。

おかしい。

何かがおかしい。

おかしいのはわかるが、何がおかしいのかはわからなかった。

丸みを帯びたベージュの箱は、いくらなんでも古くさ過ぎるように思われた。

いまにもクラーク・ケントが出てきそうな骨董品のように見えた。

灯りに集まった羽虫を振り払い、丸い取手に手をかけ、引いて開こうとした。

しかしそれは開けられるのを嫌がるように叫ぶような耳触りな音を立てて開いた。

「どいつもこいつも整備不良」

そう呟くと狭いボックスの中に侵入した。

そこには緑の公衆電話が鎮座していた。

周囲のガラスには一面風俗店のビラが貼られ、にっこりと艶然と微笑む女性が邪魔で、外が見えにくかった。

ポケットの硬貨を出して挿入した。

十円玉の側面に僅かな刻みを感じた。

投入口の下には細長いスリットが空いていた。

「テレホンカード?」

ここ十年ほどテレカなんか見ていない。

変だと思いつつ、自宅の番号をプッシュした、

長い沈黙の後に無情なアナウンスが流れた。

「この電話は現在使われておりません」

頭に疑問符が浮かんでいたかも知れない。

うちの電話はファックスと兼用だ。

最近はスマホばかりで固定電話を使う機会も減った。

仕事場の棚の片隅にファックスがあったのは間違いない。

他に記憶しているのは、実家の番号だけだった。

それも昨年母が死去したときに解約した記憶がある。

ダメ元で実家の番号をプッシュした。

長い呼び出し音のあとで神の啓示のように繋がった。

「もしもし‥‥」

返答する女性の声は若き日の母の声のように聞こえた。

反射的に受話器を叩きつけた。

どこにつながったのかはわからなかった。

「都市伝説?」

不意に視線を上げてみた。

ガラス越しに大量の猫がボックスを取り囲んでいた。

様々な種類の猫たちに共通点は見られなかった

ただ一様にじっと値踏みするようにこちらを睨んでいた。

不意に一匹の黒猫がママチャリの荷台の上に飛び乗った。

赤い自転車の上の黒猫は酷く不吉なものに思えた。

猫の背後に三日月が見えたからかも知れない。

そいつはボックス内にまで響くような大きな鳴き声をあげた。口元から覗く赤い舌と赤い首輪が妙に鮮やかに見えた。

恐る恐るボックスから出てみたが、不思議と猫は一匹も鳴いてはいなかった。

灰原が出てきたのをきっかけに、一斉に猫の集団が鳴き出した。

高い声。

カカカと威嚇するクラッキング音。

甘えるような声。

潰れたような太い声。

盛りのついたときの隠微な鳴き声。

切り裂くような叫び声。

しかし猫は微動だにしなかった。

まるで羽原の存在が見えてないようだった。

ゆっくりとママチャリに近づいて黒猫を追い払った。

一声鳴いた黒猫は、興味を失ったのか、向日葵まで跳ねて消え去った。

ママチャリの脇で佇んでいると、急にサイレンが鳴り響いた。

街道を急ぐ救急車の赤色灯が垣間見えた。

呆然として聞いていた。

ポツリと一言つぶやいた。

「ドップラー効果?」

サイレンを縫うように祭囃子らしき軽快な音楽が聞こえてきた。

「きさらぎ駅?」

まるで都市伝説の世界に放り込まれたような気がした。

再び自転車に跨ると、救急車を追うように漕ぎ出した。

相変わらずママチャリは、肺炎患者のような軋む音を立てていた。

漕ぎ続けながら、散らばった思考をまとめようと努力した。

実家の電話に出たのは誰なのか?

街道が見える場所なのに圏外なのはなぜなのか?

真っ赤なロードバイクはどこに行ったのか?

大量の猫たちはなんだったのか?

一つも答えは出てこなかった。

思考が止まったところでもう一度ボックスに戻った。

再び自宅に電話した。

財布の中の最後の硬貨だった。

側面を撫でると細かな刻みが感じられた。

「ラッキー、ギザ十だ」

財布に入っていたはずのテレカも見当たらなかった。

これがラストチャンスになるかも知れない。

さっきは番号の押し間違いかも知れない。

祈るような想いで丁寧にプッシュした。

しかし無情にも同じアナウンスが流れてきた。

もう一度ウェストバッグからiPhoneを取り出してみた。

画面の右肩の「圏外」は変わってはいなかった。

皮肉なことに隣のバッテリーは百パーセントを表示していた。

気がつくと、救急車のサイレンも消えていた。

耳の痛くなるような沈黙の中で三日月と自転車に跨った灰原だけが取り残されていた。

酷い渇きを感じ始めていた。

ウォーターボトルはバイクとともに消えていた。

やがて漕ぎ続けた灰原の視界に古びた自販機が映っていた。

それは真っ赤なコーラの自販機で、隅が酷く錆びていた、

背後の民家には昔ながらのホーローの看板がにこやかに丸メガネを光らせて笑っていた。

普段は飲まないコーラだが、天の恵みのように見えた。

しかしコインはさっきの電話でなくなった。

さらに紙幣の挿入口も見当たらなかった。

いくら古びた自販機とはいえ、いまはスマホの決済が主流である。

ましてや紙幣が使えない自販機なんかしばらく見ていない。

スマホのタッチセンサーも見当たらなかった。

赤い塗装の表面が鈍く光っているだけだった。

ふいに荒唐無稽な考えが浮かんだ。

「タイムスリップ?」

そのあまりにも非現実的な考えに、乾いた笑いしか出てこなかった。

使えない自販機に用はない。

まずは公園を探そうと思った。

確かこれまでの道のりにそれらしきものがあったはず。

三度、ママチャリに跨った。

三日月を背中に背負いながら、まずは自宅に帰ろうと思った。

酷く妻に会いたくなった。

彼女の顔を見れば全て解決されるように思った。

途中で公園と出会えるなら、それに越したことはないとも思った。

しかし混乱した頭を整理しながら、妻の顔が見たいと思った。

諍いの原因は思い出せないほど些細なことに思えた。

この不可思議な状況は妻の顔で解消されると感じたからかも知れない。

ロードバイクの盗難届も出さなくてはいけない。

確かリビングのサイドボードの引き出しに、書類と登録カードがあったはず。

ひたすら文句を叫ぶママチャリを宥めながら帰途を急いだ。

川越街道?を右へと曲がり、ダラダラ坂を重力に任せて下った。

うっすらとマンションのシルエットが見るところまで来た。

ようやく止めていた呼吸を再開し、ひとつ大きなため息をついた。

一言言葉が漏れた。

「助かった‥‥」

マンションに入ろうとしたときに今までにない強烈な違和感に襲われた。

灰原の住んでいるマンションは古いけどタイル張りの瀟洒なマンションのはずだった。

しかし目の前の建物は似ても似つかないものだった。

まるで一昔前の公団の団地だ。

階段室の灯りが漏れて辺りは明るかった。

その柔らかな灯りを見ながらつぶやいた。

「綺麗‥‥」

その明かりに吸い込まれるように階段室に上がろうとしたときに、真っ黒な何かが横切った。

それは真っ赤な首輪をした黒猫だった。

さっきの猫と同じかも知れないが、黒猫の判別はできなかった。

真っ黒な黒猫は立ち止まって一声鳴いた。

その鳴き声は「入るな!」というようにしか聞こえなかった。

しかし入らないわけにはいかなかった。

階段室の郵便受けをなんとなく眺めてみた。

そして三〇一号室の部分に自分の苗字を発見してしまった。

灰原のマンションの部屋も三〇一号室だ。

思わず階段室の手前で跪いてしまった。

まるで急にそこだけ重力が強くなったように。

再び郵便受けの名前を確認すると、重い足を引き摺って三階まで登った。

ベージュの鉄扉の脇には確かに灰原の苗字が書いてあった。

急に激しい既視感に襲われた。

「子供の頃の僕の家?」

確かに子供頃に公団に住んでいた。

不意に朧な違和感の輪郭が形作られた。

「ここは過去の時代?」

昔は都内のN区に住んでいた。

今は埼玉に住んでいたはずだった。

勇気を振り絞って呼び鈴を押した。

まもなく足音をたてて鉄扉が開かれた。

出てきた女性は若き日の母のように見えた。

母は昨年亡くなっていた。

この手で遺骨も骨壷に入れた。

あのときの鉄の箸の重さが蘇った。

火葬場職員の説明を妹と二人で聞いていた。

「ずいぶんしっかりしたお骨ですね」

それは喜んでいいのかわからない説明だった。

目の前の女性に思わず話しかけた。

「母さん?」

「は?」

当然の反応である。

「こちらは灰原さんのお宅じゃないのですか?」

返答にますます混乱は深まった。

「うちは安藤ですが‥‥」

恐る恐る『灰原』と書かれた表札を指差すが、答えは変わらなかった。

「うちは先週越したばかりでまだ表札も変えてないのですよ」

どうやらタイムスリップでさえないらしい。

そのとき、奥から少女が出てきた。

「おかーさん、お客様?」

そのあどけない笑顔を見て、灰原の緊張の糸が切れた。

その場で膝を抱えてしゃがんでしまった。

追い討ちをかけるように少女が囁いた。

「このおじさん誰?」

「お腹でも痛いの?」

そこで強い尿意を感じた。

立ち上がると、深く誤った。

「すいません勘違いです」

「申し訳ありませんが、おトイレを貸してはくれませんか?」

「ど、どうぞ」

遠慮なくビンディングシューズを脱いで、部屋に上がり込んだ。

脱いだシューズのビンディングの金属音が遠い世界の音のように聞こえた。

玄関脇にトイレはあった。

腰を落ち着けて考えようとしたが、そこには昔ながらの和式便器が設置されていた。

用を足した後に、立ったままで再び考察を巡らせた。

ロードバイクがママチャリに変化したこと。

スマホがずっと圏外でいること。

公衆電話がテレカ仕様だったこと。

謎の猫の集会。

自販機に紙幣の投入口のなかったこと。

自販機の脇の古めかしい看板。

羽原のマンションはどこに行ったのか。

そもそも灰原の意識はいつまであったかわからなかった。

いつから走り、どこに行こうとしていたのか。

考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだった。

丁寧にお礼を言って去ろうとしたとき、母によく似た女性が話始めた。

「ひょっとして以前お住まいになっていた方のお知り合い?」

「以前の方のことは知りませんが、何か分かったらお伝えしましょうか?」

社交辞令とは分かってはいたが、こんな状況の中では藁にも縋る思いだった。

教えられた番号はやはり実家の電話と同じだった、

スマホを出して登録する作業を怪しげな視線が語っていた。

口にこそ出さなかったが、その視線はこう語っていた。

「この人の持っているものは何?」

そのとき奥から子供の声が聞こえてきた。

「お母さん、おしっこ」

ここにはここの現実がある。

灰原も灰原の現実に帰らなくてはならない。

耳障りなビンディングシューズの金属音とともに階下に降りると、パトカーと警官がママチャリを囲んで待っていた。

さらにそれを取り囲むように近所の野次馬が集まっていた。

大勢の人がいる割に、妙に静かなことに違和感を感じた。

見渡すと野次馬がひとりも話していなかった。

これだけの人数が集まっているのに、みんな沈黙を守っていた。

まるで夜中に陳列されたマネキンのように見えた。

みんな一様にこちらを睨むばかりで、スマホひとつも出してはいなかった。

急に警官が近寄ってきた。

手帳を提示すると、詰問口調で話し始めた。

「これは君の自転車?」

違うとも言い難く黙り込んでしまった。

そのとき彼の肩のトランシーバーが叫んだ。

割れた音声は聞き取れなかった。

しかし警官は肩のマイクを持つと報告をし始めた。

「こちら現在職質中、自転車窃盗の疑いあり」

「まず、これはあなたの自転車?」

「はい」と言うしかなかった。

警官はしゃがみ込んで、自転車の防犯シールを確認した。

そしてマイクに向かって告げた。

「自転車の番号確認願います」

「あなたの身分証の提示を願います」

不吉な予感が浮かんだが、ウェストバッグから免許証を取り出した。

ライトで灰原の顔を確認しながら、免許と照らし始めた。

「?」

「写真はあなたのものですが、この『平成』とはなんの悪戯ですか?」

「まさか偽造免許じゃないのでしょうね?」

「本物みたいによくできている」

そう言いながら免許をパタパタと振りながら、灰原の肩を掴んでパトカーまで連れて行った。

後部ドアを開くと、後部座席に無理やり押し込んだ。

いつの間にか増えた警官に左右を挟み込まれた。

嫌な予感は的中したらしい。

『ここ』では灰原の免許は通用しないらしい。

嫌な汗が背中を伝うのを感じた。

運転席の警官が、振り向いてもう一度ライトを灰原の顔に当てた。

眩しさにしばらく何も見えなくなった。

警官はパトカーのマイクを持つと野太い声で言い放った。

「被疑者確保。このまま駅前派出所まで向かいます」

すぐに返事はあった。

しかし異国の言葉のようで何にも聞き取れなかった。

ガタンとパトカーが動き出した。

右側の警官がベルトから手錠を取り出した。

鈍く光手錠が街灯の灯りでギラリと光った。

「失礼します」

そう台本を読むように無表情で告げると、灰原の左手首に手錠をかけた。

すぐに右手首にも手錠はかけられた。

人生初の捕縛である。

しかし呑気にも「結構手錠って重い」などと考えていた。

両手に手錠の重みを感じながら、車窓に流れる景色を眺めるくらいの不思議な余裕があった。

派出所の中は安っぽい机とパイプ椅子が置かれていた。

壁には交通安全のポスターと安っぽいカレンダーがかけられていた。

カレンダーは七月のものだった。年号の部分には不思議な記号が描かれていた。

右の警官が腕を取り、引きずるようにパイプ椅子に座らされた。

汗で冷えたシャツが背中に張り付いていた。

肘に触るパイプの冷たさが煩わしかった。

自分で立てる貧乏ゆすりの音も酷く煩わしかった。

部屋の片隅の冷蔵庫の断続的なモーター音も煩わしかった。

することもなく手錠を観察していると、ようやく警官が奥の部屋から出てきた。

彼は黒表紙の帳面を机に叩きつけた、

そして高圧的で慇懃無礼な声で話始めた。

「えー、あなたの出した免許によると名前は『はいばらたいち?』

灰原は頷くしかなかった。

そして眉間の皺を深めて怒鳴った。

「で、生年月日の『平成元年』ってのはなんの冗談?」

乾いた笑いしか出てこなかった。

薄く笑う灰原を彼は不気味なものを見るように一歩後に下がった。

「冗談なんかじゃありません」

「それが私の生まれ年です」

彼の虚な瞳が光った。

「やはり偽物としか思えない」

免許を投げると、平手で大きく机を叩いた。

叩いた衝撃で、出されたお茶がこぼれた。

音に驚いて、若い警官がもう一人出てきて呟いた。

「あーあ、ぼくらは愛される警察を目指している公僕ですよ?」

若い警官が机を拭きながら、皮肉そうな笑顔を見せた。

「この人署内でも強面で通っているから、あまり刺激しない方がいいよ」

それは彼なりの優しさかも知れないが、そのときの灰原には挑発されているようにしか思えなかった。

そして机の上の免許を持つと、じっくり眺めた後に、嘆息混じりに言った。

「しっかしよくできた偽造だな」

「年号以外は本物と遜色のない仕上がりだ」

「カラーコピー?」

灰原は恐る恐る尋ねた。

「ちなみに今年は何年でしたっけ?」

返答はなぜか聞き取れなかった。

言われた年号が異星の言葉のようだったからかも知れない。

逆に『明治』とか『大正』と言われたほうが良かったかも知れない。

急に交番の床が抜けたように感じた。

そのままどこまでも落ちて行ったほうが良かったのかも知れない。

身体は椅子に座っていても、気持ちはどこまでも落ちて行った。

それからは何を訊かれても、「うん」とか「はい」としか答えることしか言えなかった

しばらくすると若い警官が結論を言った。

「これじゃ埒も明かないし、派出所の仕事とも思えない」

『本署に移送しなきゃなりません」

強面の警官は鼻息荒く頷いた。

「それじゃ、佐々木頼まれてくれるか?」

若い警官は佐々木というらしい。

衝撃の後の妙に落ち着いた気分で考えた。

この場から逃げるのは難しく悪手だろう」

佐々木さんは優しい声音で言った。

「立って歩ける?」

ここは従うしかないと思った。

「立って歩けます」

机の向こうで強面の警官がギロリと睨んだ。

佐々木さんは手早く荷物をまとめると、追い立てるようにパトカーまで先導した。

彼は後部座席に灰原を押し込んだ。

自分は素早く運転席に座った。

「さてと、夜のドライブといきますか」

先行きの不安はあった。

しかし彼の優しげな対応に気持ちが楽になったのは否めない。

パトカーはサイレンもパトライトも光らせなかった。

まるで気楽な深夜のドライブのように、混んだ街道を滑らかに走った。

流石に口笛を吹くまで呑気ではいられなかった。

しかし油断していると自分の置かれた立場がわからなくなった。

硬い後部座席におさまりながら、状況整理と今後の方針を整理した。

おそらく、免許は偽造と言われるだろう。

ハリソン・フォードみたいに逃げることもできないだろう。

身元引き受けにも希望は持てない。

誰に頼めばいいかもわからない。

八方塞がりとしか思えなかった。

素直に取り調べを受けようと決めたとき、ようやく大きな警察署に到着した。

玄関前には警杖を持った厳しい警官が仁王みたいに立っていた。

佐々木氏は軽く挨拶しながら入っていった。

灰原はいつの間にか現れた二人組の警官に左右を取られ入っていった。

そのまま小部屋に通された。

多分取調室だろう。

窓には頑丈な鉄の棒がはまっていた。

アニメや映画なら、斬鉄剣で逃げるだろう。

あいにく灰原はハルクでも五右衛門でもなかった。

窓から逃げることは諦めた。

狭い部屋でパイプ椅子に座っているこの状況に既視感を感じた。

まるで刑事ドラマの一場面のようである。

振り向くと鉄柵の窓の隙間から三日月が綺麗に見えた。

ふと「トゥルーマンショー」という映画を思い出した。

あれも月が人物を監視する物語。

しばらく呆けていると、騒がしく二人組の警官が入ってきた。

「夜も遅いし、取り調べは明日にします」

そう宣言すると、灰原の両腕を抱え込むように持って立たせると、暗い廊下を通り過ぎて留置場へと導いた、

四周を鉄柵で囲まれた檻のような部屋に押し込まれた。

中には仕切りもない便器と古ぼけた毛布が積まれていた

部屋に入れられる前に荷物は全て奪い取られた、

替わりに汚いスウェットを押し付けられた。

汗で冷え切った身体にはどんなぼろ着でも嬉しかった。

すぐに着替えると、どんなに自分の体が冷えているのかがわかった。

急に強烈な尿意を感じた。

仕切りのないトイレに抵抗はあったが、座ると延々と小便が出てくるのに妙なおかしさを感じた。

笑いは出てこなかった。

ただ窓からの月光が部屋に差し込んでいたことは忘れない。

留置されているのは、灰原ひとりのようだった。

強い孤独を感じた。

耳の痛くなるくらいの沈黙の中で、灰原の排尿音だけが響いていた。

排尿を済ませた後は、もう寝ることしかなかった。

昔なら南京虫を心配しそうな、毛布とも言えない薄い布に包まった途端、突き落とされるような睡魔に襲われた。

泥のように眠れると思った。

しかし横になっても、睡魔は仕事をしなかった。

逆に意識は怖いくらいに研ぎ澄まされた。

これからの行動を考えても見当もつかなかった。

強い絶望を感じた時に唇から独り言が盛れた。

「絶望とは静かなもの」

諦観とも言えない嘯きだった。

言葉にすることでますます絶望は深まった。

絶望の底に辿り着いて、ようやく開き直ることができた。

そこで睡魔が仕事を始めた。

泥のように眠ったが、すぐに看守に起こされた。

彼は警棒のようなもので鉄の檻を叩き続けた。

「朝だ」

ぶっきらぼうな野卑な大声にすぐに意識は覚醒した。

纏うのは薄汚いスウェット。

かけているのはいつ選択したかも分からないブラケット。

いるのは薄ら寒い留置所。

すぐに意識が否定の叫びをあげた。

「これは何かの間違い!」

すぐに朝食が運び込まれた。

それは弁当箱と具のないみそ汁だけの最低限の朝食だったのかも知れない。

しかし空腹に耐えかねて弁当箱の蓋を開けると香ばしい白米の香りに胃袋が切ない悲鳴をあげた。

「腹が減っては戦もできぬ」

そう呟くと、野良犬のようにがっついてご飯を掻き込んだ。

白米の真ん中の小梅を愛おしいと感じた。

緩いわかめの味噌汁さえ天上の食べ物のように感じた。

みるみる身体に力が沸くのを感じた、

そこで初めて自分が如何に空腹であったのか思い知らされた。

看守が下善しながら告げた。

「今日は九時から取り調べ」

「それまでこれでも読むといい」

ぶっきらぼうな口調だったが、案外いいやつなのかも知れない。

そして放り込まれた新聞に飛びついた。

それは全国版の新聞だった。

内容なんかに用はない。

まずは日付の確認だ。

しかしそこには、読めない図形が踊っていた。

続けて内容に目を移す。

ちゃんと文字を読めることが確認された。

一面は内閣支持率の低下だった。

頭が割れるような痛みを感じた。

困惑が波紋のように広がった。

両腕で頭を抱え込むと、そのまま新聞紙に突っ伏した。

顔を打つ衝撃に気絶したようだった。

目覚めると、病院の一室だった。

全身包帯でミイラ男のようだった。

傍に立つ妻が説明してくれた。

どうやらサイクリング中にトラックに撥ねられ、なんとか一命を取り留めたらしい。

あとから聞かされた話では、現場にはロードバイクは見当たらず、ぐしゃぐしゃになったママチャリだけがあったらしい。

妙な視線を感じた。

妻にカーテンを開けてもらった。

そこには三日月がニンマリと笑っていた。

薄く開けた窓から祭囃子らしき軽快な音が聞こえる気がした。

妻には何も聞こえなかったらしい。

「冷えるから閉めるわよ」

それを聞いた途端に睡魔が活動を始めた。

それから三日ほど眠り続けた。

目覚めると、病室に妻の姿はなかった。

開かれた窓からは暑い風が吹き込んでいた。

背後の青空には、うっすらと白茶けた満月がかかっていた。

ベッドの脇には枯れかけて褐色になった向日葵が生けてあり、水が半分しか入ってiいなかった。

花瓶の脇にはやたらと光ったギザギザの側面の十円玉が転がっていた。

ちっとも「ラッキー」とは思えなかった。

再び睡魔が働き始めた。

羽原は、次に目覚めるとどうなってしまうのか、怯えながら深い眠りについた。


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