六章
砂嵐シリーズの六章です。
夜が訪れるのは、いつもより早く感じられた。
雨は途切れることなく、寺の屋根を無遠慮に叩きつけている。
本堂の片隅、借りた布団に身を横たえても、眠気は訪れなかった。
風が障子を揺らし、遠くの木が軋む音が、ひときわ鋭く響く。
私は少女のことを考えていた。
あの絵の前で、じっと見つめていた彼女の眼。
驚きも恐怖もなく、まるで何かを“確かめる”ような眼差しだった。
あの絵は、いったい何だったのか。
描いた覚えは曖昧で、ただ筆が勝手に動いた印象だけが残っている。
だが確かに、あの絵は“何か”を引き寄せていた。
もしそれが、この嵐と繋がっているとしたら……?
胸の奥がひやりと冷える。
気づけば、布団から起き上がっていた。
少女のいる部屋へ行こう。
彼女もこの嵐の中、眠れていないかもしれない。
それに、話さなければならない。
あの絵のことも、今日のことも。
廊下は冷たく、床板がしずかに軋むたび、鼓動が跳ねた。
闇に包まれた廊下を歩き、やがて少女の部屋の前に立つ。
襖の向こうからは物音ひとつしない。
私は、手を軽く添えて、小さく声をかけた。
「……起きてる?」
一瞬の沈黙。
そして、かすかな声が返ってきた。
「……うん」
私は襖を開けようとしたが、手が止まる。
「開けられないの」
彼女が先に言った。
「え?」
「……わたし、ここから出られない。あなたも、入れない」
「……どういう意味?」
返答はなく、代わりに、襖の向こうにすっと気配が近づいた。
私は静かにその前に腰を下ろす。
ふすま一枚隔てて、ふたりで向き合う。
「少し……話せる?」
「いいよ」
私はその場に座り込んだ。ふすまの向こう側、同じように彼女もこちらに向き合っている気がした。
最初は沈黙が続いた。
けれど、彼女の方からぽつりと話し始めた。
「……ねえ、あなたって、どんな人生送ってきたの?」
突然の問いに、私は少しだけ笑ってしまう。
「いきなりだね。なんで?」
「なんとなく。知りたいの。あなたのこと」
その言葉に、胸のどこかが温かくなるのを感じた。
そして、私は話し始めた。
幼い頃のこと。両親のこと。絵を描きはじめたきっかけのこと。
学校でうまくいかなかった日々のこと。
そして、あの湖と出会ってしまったこと――。
少女は一つ一つの話に、小さく頷きながら耳を傾けてくれた。
「好きな本はある?」
「映画とか、見たことある?」
「誰かに絵を褒められたこと、ある?」
次々に投げかけられる質問。
私はそれに答えるたび、なぜか心が軽くなっていくのを感じた。
そして、話しているうちに、ふすまの向こうから小さな笑い声が聞こえた。
それは初めて聞く彼女の笑い声だった。
私は驚きとともに、なぜか嬉しくなってしまった。
「ねえ、ありがとう」
「え?」
「こうして、話してくれて。あなたと話してると、ちょっとだけ、ここが好きになれそうな気がする」
ふすま越しに伝わるその声は、まっすぐで、少しだけ震えていた。
しばらくして、彼女は静かに言った。
「……私ね、よく夢を見るの。ずっと昔から、同じ夢」
私は黙って耳を傾けた。
しばらくして、少女は静かに言った。
「……私ね、よく夢を見るの。ずっと昔から、同じ夢」
私は黙って耳を傾けた。
「湖の夢なの。深くて、冷たくて、静かな湖。そこには、黒い“何か”が沈んでる。
それは動かないの。でも、夢の中の私は、ずっとそれを見てるの。……見てるだけで、胸が苦しくなるような夢」
少女の声が、ふすま越しにかすかに震えていた。
「最近になって、その黒い何かが……少しずつ動くようになってきた。目を覚まそうとしてるのかもしれない。ずっと眠っていた何かが」
私は息をのんだ。
「……でもね、それだけじゃないの。もう一つ、見る夢があるの」
少女の声は、今度は少しだけ柔らかくなった。
「それは、温かい夢。ほんとうは夢の中だから、寒いとか温かいとか、ないはずなのに――確かに“ぬくもり”を感じるの。何度も見たことがあるのに、見るたびに、胸がじんわりして、涙が出そうになるの」
私は、自然と問いかけていた。
「どんな夢?」
「山の上なの。空がすごく澄んでて、風が静かで……そこに、三人いるの。
一人は男の人。優しそうな顔で、小さな女の子の手を握ってるの。もう一人は女の人。女の子の方を見て、笑ってる」
少女の語る声が、ゆっくりと情景を編み出していく。
「三人で、ピクニックをしてるの。レジャーシートを敷いて、お弁当みたいなのを広げて、笑い声が風に溶けていく。鳥の声も聞こえるし、草の匂いもする。……全部、夢なのに、すごくリアルで」
「その女の子は君なの?」
「わからない。でも、手の感触も、風の匂いも、笑ってる二人の顔も、全部――夢の中では“確かにあった”って感じられるのに、何ひとつ思い出せないの」
少女の声が、少しだけ遠くを見つめるような響きを帯びた。
「ただ……その夢を見るたびに、もう一度あそこに戻りたいって、思うの。理由はわからないけど、あの夢だけは、私をちゃんと覚えてる気がして」
少女の語る夢は、静かに、ゆっくりと、ふすま越しに私の心に染み込んでいった。
私は、言葉を探すように少し息を飲み、そっとつぶやいた。
「……それは、すごく幸せな夢だね」
ふすまの向こうで、すぐに返事はなかった。
音もなく沈黙が落ちる。けれど、何かが確かに変わった気がした。
少女は何も言わなかった。声も出さなかったし、笑いもしなかった。
でも
ふすまの隙間からこぼれるかすかな気配。息の震え。沈黙の向こうにある、目に見えないゆらぎ。
きっと、涙を浮かべている。
口にも出せない、顔にも出せない、そんな小さな涙。
それは悲しい涙じゃなくて、自分の中にずっと眠っていた何かが、そっと肯定されたようなそんな涙だと思った。
それからしばらくのあいだ、ふたりのあいだには言葉がなかった。
ふすま越しに、少女の息遣いだけが聞こえる。私も何も言わなかった。
それでよかった。
言葉よりも確かなものが、ふすまのあいだからそっと行き来していた。
嵐はまだ止んでいないはずだったが、不思議ともう、気にならなかった。
この寺の屋根の下、ふすま一枚を隔てたすぐそばに、彼女がいる。
それだけで、胸の奥のかたくなだった何かが、ゆるやかにほどけていくようだった。
いつしか私は、まぶたの重みに抗えなくなっていた。
「……おやすみ」
ふすまの向こうから、少女の声がした。
「おやすみ」
私も、目を閉じながら答える。
それが、この夜の最後の言葉だった。
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