五章
砂嵐シリーズの五章です。
あれから一週間が経った。
熱は三日ほどで引いた。だが外出までは許されず、しばらくのあいだ、病院の白い天井を見上げる日々が続いた。
その間に少年は、残る四枚の湖の絵を、ほとんど無意識のような集中で描き上げた。
”描かなくては”
その焦燥にも似た感情だけが、少年を突き動かしていた。
目を閉じれば、あの湖面が浮かんできた。底知れぬ青、どこまでも静かな鏡のような水面。けれどその奥に、言葉にできない何かが潜んでいた。
それが何なのか、自分でもわからない。わからないまま、キャンバスへと手を伸ばした。
筆は止まらなかった。
描きながら、何度も目眩に似た感覚が襲ってきた。けれど、それすらも気づかぬふりで、色を重ねた。
そして、外出が許可された日の午後、少年は絵を包んだ箱を抱えて、再び山へ向かった。
空は晴れていたが、どこか湿った風が吹いていた。
道中の緑は深みを増し、木々のざわめきが、まるで自分を迎え入れるように聞こえた。
寺へと続く道を踏みしめる足取りは、不思議なほど軽かった。
「……来てくれたんだ」
少女はあの場所で待っていた。
着物の袖が風にゆれ、長い髪が陽に透けていた。
目元の影が少しだけ和らいでいるのに、少年は気づいた。
「君に、見せたくて」
そう言って、包みを差し出す。
少女は黙ってそれを受け取り、箱の中をのぞき込んだ。
やがて、一枚、また一枚と、絵を取り出していく。
目を見開き、口元に微かな息を宿しながら、何かを受け止めるように。
「こんなに、綺麗なのね、、」
ぽつりと、少女が言った。
その声は、涙を堪える人のように微かに震えていた。
「私、湖の色って、こんなに深かったんだって、はじめて思った」
少年は言葉に詰まり、うなずくしかできなかった。
それはまるで、彼の描いたものが、少女のなかの何かに触れた証のようだった。
五枚目に手がかかったとき、少女の指がふいに止まった。
「これは?」
その声色は、さっきまでとは違っていた。驚き、というより、戸惑い。
少年も顔を覗き込む。
それは湖の絵だった。けれど、他のものとはまるで違う。
湖面の中央。そこに、大きな岩のようなものが描かれていた。
だが、それは岩ではない。熱で変形したように歪んだその形は、まるでこの世界の輪郭から外れているかのようで。
そして何より、色。
それはこの世の黒という黒を、すべてかき集めたような黒だった。
塗り重ねられたその黒は、吸い込まれそうな重さを持ち、見つめるだけで背筋に寒気が走るようだった。
「……これ、何?」
少女が、震えるように問う。
少年はきょとんとした顔をした。
「……あれ? これ、なんだろう。描いた記憶、あんまりないや……なんか、筆が勝手に動いたというか……」
少女はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、目をそらすこともせず、じっとその黒い塊を見つめていた。
そのときだった。
「……それを、見てはいけません」
振り向くと、住職が静かに立っていた。
その目は、いつになく真剣で、柔らかな笑みもない。
少年はそのまなざしに気圧され、首を縦に振ることしかできなかった。
それからいくらか時間がたってあたりに少し西日が差してきたころ
「また先生たちに心配をかけるわけにはいかないから僕はもう帰るね」
と少女に別れを告げ、寺の門を出ようとしたその瞬間。
空が一変した。
厚い鉛色の雲が急速に広がり、冷たい雨粒が激しく降り始める。
慌てて寺の軒下に駆け込み、雨宿りを始めると、遠くからラジオの音がかすかに聞こえてきた。
「ただいま、気象庁より緊急速報が入りました。日本列島の南海上で、たった今、大型の台風が突発的に発生しました。現在、急速に勢力を強めており、今後の進路に注意が必要です」
すると、奥から慌てたように住職がでてきて静かに語り始めた。
「このような異常気象が突然起きることはまれでございます。おそらく何らかの災害に呼応して、自然が強 く反応しているのです。」
「今日はもう、病院へ戻ることはかなわぬと思います。安全のため、寺での雨宿りをお願い致します」
少年は混乱しながらも状況を飲み込み、胸に不安が波のように押し寄せた。
外の激しい雨音と風の音が、寺の静寂をさらに際立たせていた。
住職は静かに深呼吸をし、少年に向き直った。
「このような事態ですから、私は寺を開け、災害の原因究明にあたらねばなりません。あなたも無理はなさらぬよう、こちらで静かに過ごしてください。」
少年は不安と戸惑いを抱えつつも、住職の真剣な表情にただ頷くしかなかった。
雨は勢いを増し、軒先の木々を叩きつける音が一層大きくなる。
全てが嵐に飲まれていく、そんな気がした。
6章の更新は少し時間が空くかもです。感想や意見たくさん言ってくれたら幸いです。