三章
砂嵐シリーズの三章目です。
たくさん歩いた、
寺と少しの別れを告げてから十五分ほどたったころだろうか、木々の合間を縫って現れたわずかな開け地。そこに広がっていたのは、呼吸をも忘れさせるほどの壮大な湖だった。
「湖だ、」
思わず口からこぼれた。
この湖は「湖」なんて言葉の凡庸さでは、不適切になるだろう。 視界いっぱいに広がる水面は、絹のように滑らかで、一切の波がなかった。空を映しているというより、空と湖が地続きになっているかのような錯覚すら覚える。 その水の青は、透き通っていた。ただの透明ではない。奥底に何かを孕んでいるような、深くて、静かな青だった。
ひとつ、ふたつと風が枝葉を揺らすたび、水面に少しばかりの波が立つ。しかし、波打つ前にそれを抱き込んでしまうような不思議な重みを持った湖だった。
湖を取り囲むようにして、苔むした岩と白い石が点在している。
それは自然に転がっているというよりも、何者かの意志で「置かれている」ようにさえ見えた。
私は一歩、また一歩と足を踏み出し、湖の縁に近づいた。靴底が湿った苔に沈み込む音が、妙に大きく響いた。
耳鳴りがする。
風が吹いていないはずなのに、髪がそっと揺れた。
心臓の鼓動が早まる。呼吸がうまくできない。怖いわけじゃない。ただ、この場所の時間が、自分のものではないような感覚が、背筋をつたって降りてくる。
「……ここが、そうなんだな」
私はスケッチブックを開いた。
あの少女が見たがっていた湖。
彼女は、ここに来ることはできない。だから、自分が代わりに見る。描いて、届ける。
その思いが、鉛筆を持つ手に自然と力を与えていた。
線を引く。水面の輪郭。空を映す柔らかな境界線。周囲の岩の配置、傾斜のゆるやかさ、少し傾いた木の姿。
一枚では足りなかった。
もっと描きたい。もっと伝えたい。
私はページをめくり、角度を変えてもう一枚を描き始める。
木の根が湖に伸びている様子。倒れかけた祠のような岩の陰。空と水の境界が溶けるポイント。どれも、少女が見たがっているかもしれないもの。
二枚目、三枚目、四枚目、少年はただひたすらにスケッチに鉛筆を走らせていた。
鉛筆が走る音だけが、この世界のすべてのようだった。
五枚目を描き終えたころだろう。私はスケッチブックを閉じた。 湖の水面は、最初に見たときとまったく変わっていない。空の青を映しながら、それでもなお、湖は自分の色を出し続けていた。
私はふと、湖の中心を見つめる。
視線の先、ほんのわずかに、水が「沈んでいる」ように見えた。何かが底に――
そう思った瞬間、頭の奥に、鈍痛が走った。
「……!」
私は咄嗟に目を逸らした。
私は深呼吸をして、山を振り返った。
警告だろうか、私はスケッチブックを抱えて少し足早に山を下りはじめた。
帰り道は、行きよりもずっと暗く、静かだった。
枝の先に残っていた光の粒たちはすでに落ちて、木々の隙間から覗く空は、黒とは形容しがたく、まるで墨のような色に染まっていた。
靴下の内側には砂利が入り、ズボンの裾は湿った土で重たかった。
それでも、体は不思議なほど軽かった。
寺を過ぎたあたりで、街の明かりがぽつぽつと目に入りはじめた。
坂道を下り、自転車を停めていた場所まで戻る。
サドルに腰をかけ、足で地面を蹴った。ペダルを踏む。
――軽い。
まるで、風に押されているようだった。
病院に着くころには、門限をとうに過ぎていた。
きっと、先生たちは烈火のごとく怒るだろう。
「どこに行ってたんだ!」と何度も言われるに違いない。
けれど、私は胸の前にスケッチブックを抱えたまま、ふわりと笑っていた。
このページの中に、あの湖がある。
そう思うと、何も怖くなかった。
これから投稿速度上がると思います。また誤字脱字、修正点、などコメントしてくれると幸いです。感想もお願いします