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第六話 逃走



 コンテナを正体不明の男性に奪われた。

その情報を伊那野ひかりが手に入れたのは、6月7日 18時20分を過ぎた頃だ。奪取されてから、およそ3時間も経過した後だった。

『仔山羊』のフィレという名の少女が両腕を破壊され、治療と修理を行ったこと。

変装した偽の板野みう―――『子羊』である彼女たちを含める本国からの工作員は男性3名の監禁、そして女性達に首輪を装着させる作業に没頭していたこと。

そして『黒狼』である伊那野ひかりが、囚人たちの統率を図っていたことが重なり、報告が抜け落ちたのが遅れた原因だった。


それを知った誘拐犯たちは、通信機で急遽会議を行う事になった。


「ったく、イレギュラーに対処するのがこれだけ遅れるって、どういうことよ?」

『言い訳するわけじゃないけど、フィレの報告があまりに曖昧なのが原因よ。詰められても困るわ』

『私はちゃんと報告した。伝達を怠った『子羊』エポールのせい』

「この際、誰何を問い詰める時間の方が無駄ね。相手は?」

『男の人。捕まえてた女を解放したと思う』

「招待者が含まれているわね。招待者の中に『子羊』を紛れ込ませた事は把握されたか。男の人っていうのはまるで詳細の掴めなかったナナイという男性で良いのよね?」

『うん。格好良かった、好き』

『盛るなフィレ、簡単にコンテナを放棄してさ。舐めてんの?でもまぁ、男の人だっていうならこれってある意味じゃチャンスじゃない?』


 板野みうこと『子羊』の声に眉を潜めたのは伊那野ひかりだ。

フィレはアダム創世プロジェクト・楽園計画の為に産みだされた戦闘用歩兵。その訓練過程は当然、人権など一切考えてない過激なものだ。

1000人以上の幼児を使い一から育てられ、訓練とサバイバルを15歳まで生き残った子供はフィレを除いてフレンシェという少女1名だけ。

 そんな悍ましい戦闘兵を一人で撃退したという男。経歴不明・詳細は謎。何も分からない降って沸いたイレギュラー。

聞けば最先端技術でも不可能な、小型化したドローンに武装まで仕込んでいるという。

どう考えても一般人ではない。まさか男を使った他国の特殊兵士か?

ハニートラップなんてされたら、たちまち自分たちの組織は崩壊するな、と伊那野ひかりは身震いした。


「危険だと思うわ。干渉してこないなら放って置いた方が良いと思う。当初の予定通り、3名の男性を確保。これだけで私たちは人間に戻れるわ」

『狼さんはちょっと弱気すぎない?4人もの男性を手に入れれば素晴らしい功績よ?あ~、お腹が疼く。男の人に直接注がれるのって、全人類の夢よね』

『ナナイ君。好き。私は一人でも彼を手に入れに行きたい、っていうか行っていい?ううん、すぐ行く』

「……」


 これは止まりそうにない、と黒狼の伊那野ひかりは早々に諦めた。欲張ればそれだけリスクが増す。

成果を挙げている3人は、このまま計画通りに進めていけば確実に深夜には本国へ移送することが可能なのに。

霧鏡京介、火渡一門、井神真治。

この三人の男性を手に入れるだけでも、アダム創生プロジェクトは成っている。国に戻れば三カ国から勲章物の栄誉が約束されているのだ。

危険は少ない方が良い。

それにもし、ナナイという男性を捕獲するのに手間取れば、予定を変更せざるを得ない。

明日の朝か。最悪、明日の夜まで籠城などということに成りかねない。

日本の警察は優秀だ。勤めていたからこそ、身をもって知っている。エポールやフィレは、その事実を軽んじている様子が見られた。

何より、ナナイという超イケメンの魅力と不確定要素。

フィレを撃退するほどの実力を持っている事も恐ろしい。


とはいえ、ナナイの捕獲にまで成功すれば、4人の男性を手中に収めることが出来る。これは凄まじい事だ。彼女たちが言う様に未来は完全に開かれるのは間違いがない。

子羊と仔山羊。エポールやフィレがその気なら、黒狼である自分も手伝った方が勝算は高まるか。

日本で生まれ育った分、弱気というより感性が彼女たちと若干の齟齬が発生しているが、4人目の男性を手に入れるという誘惑を振り切るのは彼女でも難しかった。

協調を決めたのなら迷わない。

ひかりは髪を一つかき上げて、目を見開いて告げた。


「仕方ない。やりましょう。エポールから人員を割いてくれる?ナナイ君を確保する」

『ひゅう。流石ね。アタシ達のボスはそれくらいじゃなきゃ』

『何時に仕掛ける?』

「焦らないでね。 時計併せなさい。 40分ちょうだい。その後にランデブー……セットする時間は1940。時間になったら闇夜に紛れて奇襲、仮に逃走されても2200まで追うわ」

『了解。万事済ませて置く』

『了解』

「本国支援の調整はエポールに一任する」


 通信を終えると、それを見計らって磯辺ゆうこが近づいてきた。


「くくく、忙しそうじゃないか。手伝いが必要かい?」

「結構。素人に手出されるのは迷惑だわ。それより、ここの掌握はすんだ?」

「ああ、この刑務所を制御しているコントロールルームは抑えた。看守たちも全員、寝かせたぜ。4人ほど、殺しちまったが」

「あ、そ。別に殺してもいいけどね。全員は殺しちゃだめよ。牢獄の制御ができるパスを知ってるのは看守だけなんだから」

「わーってる。そこは言い含めて監督してるよ」


 この監獄は、日本でも最も計算されたセキュリティを誇っている。

収容している囚人その全てが絶対的終身刑である。社会的な極悪犯であり、脱走を企てるのに躊躇いの無い連中が殆どだ。どうせ黙っていれば死ぬだけの運命なのだから。

それを防ぐために、秘密裏に作られたこの刑務所には幾つもの防衛機構を備えていた。

収容されてから誰一人、外に出すことが無い歴史が、この牢獄の堅固さを証明している。 ―――それも、今日までだったが。 


 外部から来た一般人女性。そして招待者のほとんど。

おおよそ290名。

その膨大な数を奥多摩刑務所に押し込んで、隔離する予定である。囚人75名にはこの作業を行わせる必要があった。

囚人そのものは一時的に便利に使うだけの、使い捨てである。運がよければ脱走は出来るのだろうから、見返りはそれで十分だ。後は上手く隠れるなり、社会に紛れ込んで人生を楽しんでくれればいい。


 例外は磯辺ゆうこただ一人。彼女だけは本国へと一緒に向かう手筈だ。


「しかし、この首輪は良いな。鎖を付けて引っ張るのにも丁度いい」

「でしょうね。私も子供の頃、それを着けさせられて親の勝手に振り回されたものよ」

「ギャハハハ、なんだそれ、ガキにやることじゃねー。おもしれぇな、ホント」

「欲しいならあげるわ。自分にでも着けておいたら?」


 言い捨てて、伊那野ひかりは踵を返した。地上に戻って装備を整えなければならない。

フィレを撃退した以上、ナナイ相手は男性とは思わない方が良いだろう。

万全の態勢を整えて、自分と同様の実力を持ったプロの軍人を殺すつもりで奇襲を仕掛ける。


 懐から銃を抜いて、伊那野ひかりは安全装置を外しながらエレベーター跡地へと向かっていった。





「来れない?」

「はい、なんかその、事件が起きたそうで……」

「事件ならこっちでも起きてる。そんなおざなりな対応をするなんて―――くそ、ひかり、裏で手を回してたわね」


 水野ななは姫野ふうかの報告に、歯噛みして悔やんだ。

警察への通報は成功した。が、その警察はどれだけ切迫した状況であるかを説明しても柳に風とはぐらかすだけであったという。

挙句、3人もの男性が個人的なイベントを開く訳がない、とイタズラと疑われたらしい。

どんなに腐っていたとしても、この日本で警察がそんな杜撰な対応をするとは思えなかった。


「あれですよねぇ~、考えられるのは一つが警察機関に誘拐犯の一派が忍び込んでいた。一つが袖の下や賄賂による買収。一つがそもそも警察に電話が繋がっていない。そんなところでしょうかぁ?」

「他にも実際に外部で対応に追われる事件が本当に起こっているのも考えられるわね。いずれにしろ、警察は警戒されていたか……」

「あ~!陽動作戦ってやつですね!映画でよく見るやつですよねぇ」

「まずいわ、かなり後手に廻ってる……」


 いずれにせよ、当てにしていた警察との連携は無理だ。

伊那野ひかりは警察としても、個人としても非常に優秀な人材である。そのことは一緒に仕事をしていた水野ななが誰よりも分かっている。

彼女には尻ぬぐいばかりさせるなと言ってはいるが、困った時に助けてくれたのは何時も相棒だった伊那野ひかりなのだ。

抜けているようで細やかな気配り。ふわっとした見た目と周囲を巻き込むような話術。どれもななには持ち得ない才能に溢れていた。

長年の経験で阿吽の呼吸も分かっている。彼女の考えが分かる様に、水野ななの考えも見破られていたのだ。

外部と連絡を取れる水野ななは、護衛に擬態した板野みうによって殆どの人が首輪をつけるように指示され、従ったことを知っていた。

これはわざと、報せるように誘導された物だと思う。


 犯人たちの言い分は、事件を起こした『手首に巻いている黄色い帯』と『首輪をしている外部の人間』で別けて、犯人ではない事を証明するために着けて欲しいとお願いしていたようだ。

首輪の実物を見た訳ではないが、男性を3人も誘拐しようと考える組織だ。

目撃者を排除するため、警察の捜査の遅延や目を逸らす為に非人道的な手段をためらいなく実行してもおかしくない。

抜け目のない伊那野ひかりの事だ。警察の動きを封じる為にそのくらいはやる。


 そうなると、警察は人質を300人も取られたようなものだ。いくら男性を助ける事が最優先事項とはいえ、300人の人命が懸かっているなら彼女たちの救出を諦める訳にいかない。

水野ななは警察なのだから。

ひかりは『既に終わっている』と言ったのは、こういう事なのだろう。


「―――そう、そういう事なのね? 地下が刑務所ってことは、彼女たちをそこに押し込めるつもりだわ」


 いかに外部の一般人女性たちが烏合の衆の素人の集まりだとしても、数の暴力に人間は基本的に叶わない。

男性が助けてくれと声高に叫べば、己の命を賭けてでも多くの人は自分の命を秤にかけても、男性の救出を秒で決意するだろう。

男性を助けてヒロインになることは、女なら誰しもが持っている英雄願望である。

そのまま意中の男性とゴールイン、なんて夢を持つのは実に一般的な性癖だ。水野ななだって当てはまるもの。

天秤の錘が『男』であれば、例え反対の秤に『命』が乗っていたとしても、女の暴走は抑えられないからだ。


 ならば、隔離して閉じ込めておけば良い。

地下の刑務所はまさに、おあつらえ向き。 ひかりが上機嫌にペラペラと計画をバラすのも頷けるくらい、この場所は好条件が揃いすぎていた。


「どうします?」

「……あなたの会社、ヘリはある?」

「あります。ありますけどぉ……私の権限で動かせないものですよぅ。うちの虎の子の一機ちゃんです」

「男とか、特ダネがあるとかって言ったらどう?」

「え、良いんですか?それならマッハで来ると思いますけど」

「よし。いざという時の逃げ道は一つでも多く確保したいわ。外部との連絡体制はどこまで持つと思う?」


 姫野ふうかの友人は2人。警察に連絡を取ったという一人は護衛に引き離されてしまった事が分かっている。

もう一人は通信機を持っている女性。彼女の方は首輪を嵌められたことを伝えてきた。


「分かりません」

「現場から出来るだけ遠ざかるように指示してちょうだい。もう、安全を考慮しては相手を出し抜けない段階だわ。賭けるしかない」


『その賭け、少し待て』


 突如として、室内に男性の声が響いた。

ざわっ、と周囲がどよめくと同時、視線が声の発された音源と思われる一か所の集中する。

換気口からコンクリートの壁を伝い、一匹の黒い親指大の虫が闊歩していた。

その有り余る存在感は、ワアァっと周囲を騒がせて一気に部屋の中に喧騒が広がっていく。




 ―――やっぱり騒ぎになっちゃいますよね。生体ドローンとはいえ……ゴキブリって、恐怖の象徴ですよ。


「そんなことは知らなかった……世界中でごく普遍的に見られ、潜入に適した人間にも馴染みある生き物を選出したつもりだが……」


 あんなにも素晴らしい生命体を忌避するのは理解が及ばなかったが、そこは詰めても仕方がない。

ゴキブリが喋った! イケボは解釈違い!などという大きな騒ぎに発展しているが、一人の女性が場を鎮めようと奮闘してくれているようだ。


 搭載したカメラで映せば、その顔は脳裏に焼き付けてある。

水野なな。27歳。警察という組織に所属しており、ショートカットの黒髪に、タイトスカート。切れ長の目と凛々しい顔立ちが特徴的だ。

途中から聞こえていたが、この警察官の女性は優秀のようだ。

 隔離された状況でも事態の打破に向けて積極的に動き、外部との通信から現状がどうなっているのかの把握に努めて成果をあげている。

この拉致計画の首謀者がコードネーム黒狼・伊那野ひかりであることも察していた。

流石は京介が選んだエリートの一人と言った所か。

彼の見る目は本当に良いのだろう。招待者の中で協力者を募るなら、社会的地位も含めて彼女を仲間にすべきだ。


ナナイは時間を確認する。

1911。無駄に時間を浪費するのは避けたい。ゴキブリがここまで嫌われているのは計算外だった。

セキュリティールームのカメラ映像は、ドローン経由でハックし続けて30分ほど遅延した映像を流し続けているが、しっかりとカメラを監視していれば、そろそろループさせた映像に気付く頃合いだ。

状況を説明する時間も必要である。

かなりギリギリ。間に合うか。


 室内は一時、騒然としたがナナイの脳に焼き付けている情報から、水野ななと、その隣にいる姫野ふうかという女性に嗜められて落ち着きを取り戻しつつあった。

モニターへと視線を集中し、東雲みゆるが頷く。

宿平ほのかにはコンテナ周辺のカメラ映像の監視と、ドローンによる生体反応の索敵を担当して貰っている。

2人に視線を一度あわせ、問題が無い事を確認してからナナイはマイクを手に取った。


「目視でも確認しているが、首輪をつけた者はいるか?」

『……誰だか知らないけど、助けに来たって認識であっていますか?私は水野なな。警察です』


 警察手帳をゴキブリの前で翳しながら、ナナイは頷いた。


「ああ、そうだ。井神真治、火渡一門が行った試験部屋に隔離されている女性達にも、このゴキブリを利用して接触を試みている」

『そ、そうなの。生きてるゴキブリを使うとは、斬新で驚きました。良い発想だと思います』

「やはりそうか」


 ナナイは褒められた事で、自分が選んだゴキブリを優秀な警察の水野ななに評価されたように感じて、少しだけ自信が回復した。


『えっと、確認なんだけど、話をしている貴方は招待者へ送られた動画に出演された男性、ナナイ君であってますか?』

「肯定だ」

『分かりました。この部屋はもともと霧鏡京介さんに集められた招待者、35名が揃っています。首輪は誰も装着していませんが、招待者と共に訪れた友人の殆どは誘導に従って首輪をしているようです。正確な人数はこの部屋の中からは分かりませんでした』

 ―――板野みうさんから、報告。2階建物、西側側面の室外機を辿ってバルコニーへ潜入できたようです。


 ちらりと東雲みゆるの報告に頷きながら、同時に水野ななの分かりやすい状況説明に頷く。

やはり水野ななは優秀だ。こちらから問うまでもなく、欲している情報を纏めて口頭で伝えてくれている。

一区切りついたのだろう、隣の女性から水を貰い喉を潤している水野ななに、ナナイは口を開いた。


「こちらは本来の招待者である宇津木こころ、東雲みゆるの2名がコンテナ内に拘束されていたところを発見して救助している。集合時間前に拿捕されたようだ。参加する為の動画が入った携帯を押収されたことを確認している」

『では、招待者に変装し紛れた犯人がいるわけですね? 恐らく、それは火渡一門さんと、井神真治さんの両名を襲った実行犯でしょう』

「こちらの考察とも合致する。間違いないだろう」


 ―――セキュリティールーム付近、人影が見られず。目視で確認。扉は閉まっており、ルーム内の状況は不明。場所はナナイ君が使っていた部屋のすぐ外、内開きの収納の中で潜伏中。

「安全が確認できるまで動かないでくれ。ゴキブリを使ってセキュリティールームを調べる」

 ―――了解。


 やり取りが活発になってくる中、水野なながナナイに話しかけてきた。


『ナナイ君、あなたは脱出したほうが良いと思うわ。そのコンテナは誘拐犯が用意したものよ、遠からず気付かれるし危ないでしょう?』

「だが、まともな通信に使える施設は周辺にはこれしかない、ある程度の自衛は出来るし脱出路も確保してある。心配するな」

『そう……分かった。あなたを信じます。それより、一つ提案があるの。こちらは先ほど話した通り、メディアを通じて世論を動かす力があるわ。ナナイ君は逃げ切って、この状況をそのまま伝えてくれるだけで良い。そうすれば、連中は袋のネズミになるわ』

「誘拐犯を企んだ『黒狼』『子羊』『仔山羊』の連中の計画を盗み見たが、今日の深夜には脱出のタイムスケジュールが組まれている。時間は足りるか?」


 水野ななからの返答は詰まった。時刻はすでに19時27分を廻っている。


「ったく、何が狼子羊仔山羊よ、童話かっちゅーの」


 宿平ほのかがぼやくが、ナナイにその声は届かなかった。


『……外にいる宇津木さんや宿平さんに、山火事を起こしてもらうというのはどうでしょうか』


 短い逡巡の後、水野ななからは物騒な言葉が飛び出した。背後でほのかの息を飲む姿が動いたが……上手い手だとナナイは思った。

訊けばメディアのテレビ局に伝手があるらしく、ヘリコプターを用意できる準備があるらしい。

山火事が起こるとなればごく自然にメディアのヘリコプターを呼び寄せられる。敵も山火事を起こすなどとは予想はしていないはずだし、消防活動となれば当然警察も出動する。

混乱を起こす事、京介の計画を知らない世間一般の人達を巻き込んで連中の退路を塞ぐことを目的にしているのだろう。

リスクはメリットでもある現場が混乱することと、3人の男性の安全を確保してからでないと、救出すべき男性が逃げられなくなる可能性がある事だ。


 時間を見ながら逡巡していると、1930時を刻んだと同時、東雲みゆるが文字を起こす。


―――セキュリティールームにゴキブリが侵入しました。

 ナナイは端末を弄ってカメラを操作し、モニターへと映した。


「誰も居ないだと……」

「これ、セキュリティールームから向こうの電子ロックされた鍵を開けられるんじゃない?」

―――ナナイ君、どうしますか?


 宿平ほのかの弾むような声に、冷静に文字で問いかけてくる東雲みゆる。


「……板野みう、聞こえるか?」

『聞こえます。巡回している護衛に成り替わった女が一名、こちらに近づいてきてます』

「分かった、そのまま黙って聞いてくれ。巡回している女を排除するか、やりすごした後にセキュリティールームへの侵入を試してくれ。現在、セキュリティールーム内に人影はない」


 セキュリティールームはこの計画の根幹を担う場所だ。そこに人を詰めていないとはどういうことだ?

ナナイの困惑を他所に、通信が立て続けに続く。

―――宇津木こころです。京介君の場所が分かったかもしれません、東館の奥の部屋。招待者の女性の誘導が始まってるみたいです。

―――こちら護衛班。 一部、誘拐犯と思われる女性達に誘導されて地下に続くボイラー室へと案内されているみたいです。ドローンからの映像を送れると思います、確認を。


 送られてくる映像を確認する。

確かに言われた通り、6名ほどの人間で首輪を装着させられた女性達が誘導されているようだ。

建物内部に侵入したゴキブリは4匹。1匹はセキュリティールームに、1匹は水野ななとの接触に。

もう1匹は宇津木こころが京介の捜索の為に動かしている。そんな宇津木こころのゴキブリから部屋の前に陣取っている護衛班が3人映し出されていた。


「京介のもとに護衛班が集まっているのか?セキュリティールーム前を放棄して。いや、巡回者が一人いたか。これで10人……カメラに写っていない実行犯は4人か」


 ナナイは時間を見た。1934。

移送を実行するつもりなのかもしれない。ナナイは会場近辺くらいしかまともに地理を調査していないが、深夜にランデブーポイントを合わせるなら、そろそろ移動を始める時間帯でもおかしくない。

車両か、ヘリか、それとも川を下るのか。まさか堂々と電車を使うなんて事もありえるかもしれない。

何を使うにしても移動用の乗り物を用意されては追いつく手段がこちらには無かった。

霧鏡京介、火渡一門、井神真治が移送されるとアクションを起こす必要があるだろう。


 ナナイは板野みうがセキュリティールームの扉に取りついたのを見て、思考を切り替えた。

―――入口は鍵が閉まっているようです。

「1階にある電子ロックと構造は変わらない。 板野みう、俺に映像をくれ。 7秒でパスを破る。 突入次第セキュリティールームから1階の電子錠を解除するんだ」


 言うが早いか、板野みうがドローンから送られてくる映像の中でセキュリティールームに取りついた所で、宇津木こころの操作しているゴキブリから声が拾われた。

3人の男性の居場所が、割れたのである。


『京介様、長い事閉じ込めてしまい申し訳ありません』

『……それで、犯人は見つかったのか?』

『いえ、実をいうと最初から探して居ません。だって、犯人は分かり切ってますから』

『なに?』

『実はですね、私たちは貴方たちの護衛なんかでは無くて、攫いに来たんですよ』


 ―――板野みうさんがセキュリティールームを突破しました。


 火渡、井神ともにまだ意識は戻っていないようだった。京介が立って、変装している板野みうと相対している。

その映像を見た瞬間、ナナイの脳内でノイズが走る。

首から接続した端子、コンテナ外を円形に、巡回するようにして哨戒させていた。 そのリンクしていたスズメ型ドローンの数は6。反応が途絶えたのはその内の1機である。

最終信号を送った場所はコンテナ外、北北西―――70メートル地点。


 実際に彼女たちは忍び寄っていた。

黒狼であるこの計画の首謀者・伊那野ひかり。それをフォローする子羊のエポールと仔山羊たち。




『子羊から黒狼。スズメがいきなり前に飛び出て来たから殺しちゃった』

「仔山羊ちゃんは奇襲前に何をしているの?」

『でもこれ、電子部品が中身だよ。フィレから報告があったドローンじゃないの?』

「……バレたのね。 良いわ、仕掛けましょ」



 ドローンの破壊によって、生体反応のセンサーが捕らえなくても襲撃者の到来を予期することができたナナイは立ち上がった。


「え、なに!? どうしたの!?」

「だまって。映像やセンサーに反応は?」


 コンテナ外の映像から目を離して居なかった宿平ほのかは、そっと首を振った。小さく、嘘でしょ、と口内で呟いている。

ナナイは目まぐるしく切り替わる映像、救出に向かった皆の声から目を離して立ち上がった。

ドローンにはAIが搭載されている。ナナイの種族が作り上げた高精度の人工AIである。意図的に破壊されない限り、故障は独自の診断で回復する仕様だ。

つまり、リンクが途絶えたという事は、完全に破壊されたと考えて良い。


 立ち上がったナナイは、音を立てずにコンテナの外に繋がる入口へと滑る様に移動した。

手を挙げ、一本だけ指を示し、急に持ち場を離れて動揺している宿平ほのかを黙らせる。


「……」


 肩から首を出して、周辺を覗き見る。

もう陽が落ちているせいで、周囲は暗い。木々も自然に風に吹かれている様に騒めいているが……音の数が多い。

耳をすませば幾つかのラップ音が森に響いているのが聞き取れた。大地に落ちた木々を、体重をかけて踏みしめる音。

3~4つ。もう、間違いない。敵が周囲に居る。


 奇襲だろう。

東雲みゆるも、宿平ほのかも素人だ。対して連中はプロ。撤退するほかない。

ナナイは即座に腕に装着している端末を弄った。


 このコンテナが狙われることは最初から想定内。それでもギリギリまで粘ったのは、ここしかまともに指揮所として機能する場所が無かったからだ。

残念だが、それもここまで。後は個々の対応と、ドローンを中心にした通信網で救出作戦を続行。もしくは諦めて撤退するしかないだろう。

指揮所を放棄することを各ドローンを経由して通達。

東雲みゆるも文字に撤退する旨の文章を各通信機へと投げつける。

少なくとも救出作戦に参加した全員は、これで何が指揮所であるコンテナに起こったのか分かったはずだ。


 後一歩だった。時間だけが敵だった。悔しさに歯噛みしつつ、ナナイは予め決めていたハンドサインで2人の女性に撤退を指示した。

コンテナ奥、簡素なテーブルの近くの床は刳り貫いている。

そこから地下に穴を掘っていた。 物理的な退路が姿を現す。

東雲みゆるが即座に立ち上がり、宿平ほのかが鉄板を持ち上げて脱出路を作りだした。

ナナイはそれを見て、コンテナの照明を落とす為に発電機に近寄った。その瞬間だった。


『―――アダム創生プロジェクト』


 京介と話す板野みうから飛び出した言葉。ナナイはその単語に完全に気を取られ足を止めた。



『……アダム、プロジェクト?』

『あははは、まぁそんな反応になるよね。そう、君たちは楽園に選ばれた男性なの。私たちと一緒に来てもらうわ』

『なるほどな、最初から仕組まれていて、僕達は利用されたって訳か』

『そうね。あははっ、ほんっとう、最高のイベントだったわ』

『ナナイめ……』


 京介の顔が歪む。

どこで『アダムプロジェクト』の事を知ったのかは知らないが、敵がナナイと京介の関係性に罅を割る一手を繰り出した事だけは確かだ。

敵ながら侮れない。情報収集の精確さ。得た情報を重要な局面でしっかりと活かす一手。

ゴキブリから送られる映像はそこで乱れた。上下左右に揺れて、ブラーが掛かっている。飛翔し、京介の肩のあたりまで飛んでいったようだ。


 ―――京くん。


 驚愕に目を見開く京介に、偽物の板野みうは口角を少しだけ歪ませて笑った。

京介の肩に止まった虫。見開いた彼の反応に、ゴキブリに接触されて生理的嫌悪が走ったのだと勘違いしたのである。


『可哀そうに。ごめんね、京介君。ゴキブリが襲ってくるのは、予想してなかったわ。 怖くないわよ~、お姉さんが取ってあげますからね』


 腕が伸び、ゴキブリはあっさりと捕らえられたのか、そこで映像も音声も途切れた。

モニターの左端に時刻を示す数字が一つ繰り上がる。


1939。


「ちょっと、何をしてるの! 敵が来てるんでしょ! ああっ、もうっ聞こえないんだった!」


 耳栓の出力を上げて声をシャットアウトしていたナナイは宿平ほのかの痺れを切らした声に気付かなかった。

手近にあった飲み水用のボドルを投げられ、ナナイの背中に当たってボトリと落ちる。

同時に、コンテナの外部から凄まじい金属音が鳴り響いた。


「撤退だ! 先に行け、東雲みゆる、宿平ほのか!」


 叫ぶのと殆ど同時。

ガンッ、と近くに鉛や鉄のような重い物質が投げ入れらた。

手りゅう弾、もしくは閃光弾か。ナナイは視界を守る様に腕を翳し、身を低くして衝撃に備えた。

僅かな音と共に大量の煙幕がコンテナの中を一瞬で白く染め上げる。

音が反響して分り辛いが、コンテナ上部から激しい金属の摩擦音が鳴り響いているのにナナイは気付いていた。

貫通して火花を上げていることから、鉄板を除去してそのまま襲い掛かってくる手筈だろう。


 身体を伏せたままドローンを操作し、東雲みゆると宿平ほのかの撤退路を目視で確認。

地面を掘っていたのが功を奏した。連中は南西側に人手を割いていない。

文字でゴーサインを送り、ナナイは囮としてコンテナ内に降って来たボディースーツに身を包んだ女へと伏せた態勢から一気に近づいた。


「あはっ、また会ったねっ」


 鉄板を切り落とした電子鋸だろう。振り下ろしを軸をずらして身体ごと避ける。甲高い鉄を引きちぎる音が響く中、ナナイは獲物を持つ腕を殴り飛ばした。

ギイイインと妙な音を立てる。

高速で回転する鋼鉄の振動刃。殺害という観点に置いて破壊的な威力を発揮する獲物を、躊躇いなく振うこのフィレという女。

人間だが、その並外れた膂力は骨ではなく人工的な何かでサイバネティクスされているようだ。

最初の交戦時、間違いなくナナイは彼女の骨を折ったというのに戦線復帰が速いと思えばそういう絡繰りか。


生体反応をスキャンできないのは、人間と認識し感知すべき血流や体温にそもそもの異常があったからだろう。


 『アラート!警告!』


フィレを追って追撃しようと大きく振りかぶった所に、ドローンの声と共に甲高い音、肩に衝撃が一つ。 恐らくライフル系の速射弾。ナナイの目の前で鉛玉が火花を散らしていた。

身体に制動が戻るまで2秒間。フィレの拳が迫る。

首だけ逸らし、なんとか避ける。危ない。機械腕であるフィレの打撃は鉄の塊をその身に受けるに等しい。

激しい打突音を鳴らし、転がりながら間合いを取った。


 森の奥に身を潜めているのはスナイパーか。人間の兵器を向けられるのは2度目だが、音速を越える衝撃はやはりキツイ。まともに受ければ致命傷に成り得る。


 フィレに右手首を掴まれ、即座に自分の腕を内側に捻り拘束を解く。左手から繰り出された手刀には、これも左膝を跳ねあげて触れさせない。

援護の銃撃音が鳴り響き、ナナイの額付近を掠める。暗視スコープか何かを装備しているのだろう、暗闇の中でも狙撃手の狙いは正確で、厄介な援護射撃だった。


狙撃手の一撃に気を逸らされたところで、フィレの蹴りが襲い掛かる。

正面から防ぐ。金属音が鳴り響いて、その重い衝撃に眉根を寄せた。

狭い所では不利だ。


ここで初めて、ナナイの額に汗が浮かび上がる。


「うそ、倒れないとか強すぎ、あーもう好き」

「フィレ、集中」


 射線から隠れようとコンテナの奥、遮蔽物のある鉄板の壁に身を寄せた所だった。敵が上部に開けた穴から新手の侵入。

背後から機械音を鳴らしながら突進してくるのを、腕を掴んで拘束する。コイツも機械兵か。

凄まじい膂力で身体ごと押し付けるように態勢を崩そうとして、ナナイは新手の女と目があった。

この女の顔。吸い出したデータの中に残っていた。

確かコードネームはフレンシェ。フィレと同じく仔山羊のメンバー。同等の戦闘力を持つと仮定してナナイは押し付けてくる少女の腕に力を込めた。


「うわ、馬鹿力! 動かないっ!ってか壊す気?!」

「あは、あははっ、ナナイ君、私に構ってよぉ!」

「くっ!」


 コンテナの狭い室内で、挟まれた形になったナナイは2体目のキリングマシーン・フレンシェの腕を一本破壊すると同時、もう一方の腕で肩を掴まれた。

本来のコンテナ出入り口方面へ身体を向け、フィレの攻撃に備えた所で、ドローンが表示しているセンサーがスナイパーの生体反応を探知・追跡していた。


「テーザー!」

  

 ナナイの声に即座に反応。スナイパーの弾丸が発射されるのと同時、ドローンからも捕捉した相手に向かって電磁投射された高圧電流を帯びた針が射出される。

コンテナの外で火花。バチンと音がしてスナイパーの生体反応が慌てて西方向に移動しているのが視界の端で見て取れた。

フィレの側頭部を狙う回し蹴りを前に出る事で威力を殺し、そのまま肩を掴んでいるフレンシェごとナナイはタックルする要領で3人縺れるようにしてコンテナの外に飛び出した。


 そして、ナナイの頭が体幹中心の左方向に吹っ飛んだ。一瞬遅れて身体が泳ぎ、更に遅れて鈍器で潰されたような音が脳の奥。そして耳朶に響く。


コンテナのすぐ外に、黒狼である伊那野ひかりが息を潜めてずっと隠れていたのだ。まるで気付かなかった。

何をされた。攻撃だ。頭部にクリーンヒットした。打撃によるダメージは殆ど無いが、態勢を崩して敵に身体を完全に掴まれてしまった。

フィレが腰に抱き着くようにして、フレンシェが上半身を抑えるように肩に力が加わっている。

痛恨。

片方、耳栓が今の衝撃で吹っ飛んでしまった。

飛び出した所を狙い違わず、鋼鉄の塊で振りぬかれたのだ。超至近距離。ナナイの目の前でフィレの口がゆっくりと開く。―――まずい!音波兵器が来る!


「あぶっぁ、ぶふっ!」

「ぐ―――うぅぅっっ!」


 フィレの口を咄嗟に空いている右手で塞ぐ。顔を潰すように全力で締め付けるが音の振動を防ぐには至らない。

間近で漏れ出る破壊の音波が、ナナイの痛覚を吹き飛ぶほど脳を揺さぶり、前後左右が一瞬で分からなくなった。

耳栓を回収したいが、この闇夜。4人の敵に囲まれた状況ではその余裕はない。ナナイはなりふり構っていられなくなった。

大地に転がる様にもつれて動きが停止した一瞬。

揺れる視界と痛みを完全に無視して、身体全体に全身全霊の力を込め、背後にいるフレンシェへ左肘打ちを側頭部に叩き込む。

フレンシェは全身を震わせ脱力し、腕が離れたところでフィレの腰を掴んでいる両腕を掴む。

また彼女の口が開く。


―――貴様は黙っていろ!


相打ち覚悟でナナイは全力でその顔に頭をフィレの顔面、その口元へと捻じ込んだ。恐ろしい速度で叩き込まれたパチキによって、フィレも流石に腕を離してしまった。

陥没した顔を歪ませながら、嬉しそうに笑みを象る。


「ぐぅぇえ」

「―――ぐぅぁ……くぅうぅ」


 至近距離での呻き声一つが死神の鎌。痛みによって吐き出されるナナイの苦悶。

繰り出される音の波動によって身体内部すら破壊されたのか。開いた口から吐血が止まらない。

揺れる視界。刻一刻と深刻なダメージが蓄積する中、ナナイは顔から夥しい出血を残しながら、拘束が緩んだ瞬間を見逃さずに一目散に逃げだした。


東雲みゆると宿平ほのか、この二人がどうなったのか配慮する余裕も無かった。

右へ、左へ。深い森林地帯へと。

樹木に身体をぶつけながら、弾丸の様に森の中を駆け抜けたのである。

 

 

 闇夜の森の中を物凄い速度と轟音を立てながら走り去り、僅かな一瞬の停滞を見逃さずに逃亡を果たしたナナイを見送って、フィレは残念そうに肩を落とした。


「うぅ……いったた……あぅ~、行っちゃった。 えへぁ、でも情熱的なキスできたからいっか~」


 そんな事を恍惚な表情で、視点を彷徨せながら言ったフィレの頭がエポールによって叩かれた。


「ラリってんじゃねぇっての!なぁにがキスよっ。頭突きよ、頭突き! 男性に頭突きされたのよ。 ちょっと羨ましいのがムカつく。 死ぬ気で捕まえてなさいよ! ったく。 後もうちょっとだったのにっ」

「それを言うなら黒狼がちゃんと詰めてきてたら三人がかりで抑えられたもん」


 そう言って顔の片側が歪に歪んでいる血だらけのフィレが、恨めしそうに黒狼へと視線を送る。

コンテナ外で息を潜め、奇襲は成功したが、伊那野ひかりは顔を抑えて蹲っていた。抑えてる鼻からは多量の出血があった。


「何してんの、黒狼。男を見て盛ったとか言わないでよ? 確かに超格好良くて男なのにクソ強いし、筋肉とか凄かった。 マジで神が作った芸術品のような美貌を持つ男の人だったけどさっ」

「違うわよ……ドローンから狙撃されたの。 側面から食らって鼻っぱしらに当たった上に高圧電流、全身が痺れててちょっと動けそうにない。 気絶しなかったのを褒めて欲しいくらいね」

「はぁ? あの争いの中でスナイパー役の私に気付いてけん制するだけじゃなくて、黒狼に反撃までしてたの? えっぐ。 実弾じゃなくて良かったわねぇ」

「わーお。あのスズメの奴か~。テーザーまで備えてるなんて、どこの兵器なんだろ? 暗闇の中だと避けるの無理だよね~。 いたそ~~~かわいそ~~」



 フィレがからかうように笑っているが、お前の顔面も大参事である。修理したばかりなのに、またパーツを治さなければならないのか。

腕一本で数千万円が吹っ飛ぶのに……などと思い憂鬱になりつつ、エポールは倒れたまま動かなくなったフレンシェの身体を、足で転がした。

白目を剥いており、呼吸も止まっていた。

頭部が完全に凹んでいるのが見るだけで分かる。どれだけ強烈なエルボーを噛まされたのだろうか。


「あ、頭蓋陥没して即死してるわ。生き残ってたお友達が死んじゃったわね、フィレ」

「死んじゃったんだ? 男の人に頭を殴られて殺されるなんて幸せ者だなぁ、良かったねぇ、フレンシェ」

「あ、たった一人の生き残りの同胞相手にそういう感想? ぶっ壊れてるなぁ」

「それより、発信機は着けられた?」

「最低限の仕事はして死んだみたい。死体は爆破でもしておきましょ。それよりナナイ君、何時でも追えるわよ」


 エポールは肩を竦めて、異常者どもから距離をとるようにコンテナの中に向かった。エポール自身も人権の無いゴミである事は棚に上げて置く。

ナナイに取り付けられた発信機は今のところちゃんと動作をしているようだ。

彼も負傷をしていたように見える。追えば捕らえる事が出来る可能性は高いだろう。


 しかし彼はどこの国で育てられた兵士なのだろうか。普通に考えれば日本の秘密兵器か。

男に訓練を積むなんて非常識な事をしているものだ。

男の兵士……昔は珍しくはなかったらしいが、良い響きだった。


 個人の感想はともかく、自慢じゃないが黒狼も子羊も仔山羊も、生半可な特殊部隊と比べて優に戦闘能力は勝っているはずである。

たった一人でお荷物を抱えて相手にすれば、少なくともエポールが対処すれば今の奇襲を捌けないまま仔山羊相手に縊り殺されて終わりだろう。

ナナイはまさに、完璧な強さと美貌を持つパーフェクトソルジャーだ。


 キリングマシーンであるフィレがメス顔を晒すのも理解できる。

まぁ、詳しい話は捕獲してから本人に直接、聞き出せば良い。

エポールは男性のナナイに尋問する妄想をして、少しだけ顔がニヤついてしまった。



 コンテナ内には人の居た痕跡が残っている。機材には見慣れぬ端子が取り付けられていて、恐らくいくつかのデータは引っこ抜かれた事を確信できた。

アダム創生プロジェクトの全貌はバレて居ないだろうが、深国・華国が中心になった作戦というのは知られてしまっただろう。


何時の間にか黒狼が後ろに立って、同じようにコンテナに残された痕跡を調べ始めている。

床に鉄板を刳り貫き、地下道を築き上げているのに気付いた様だ。ナナイという少年に協力していた女性の逃走経路はこれか。

男を囮にするとは狡猾な。全力で釣られている。まぁ、男の捕獲が最優先なので、女に逃げられたところでどうでも良いのだが。


 黒狼が一度、コンテナの下を見てきたのか。戻ってきた時に着いた土を払いながら口を開いた。


「逃げた奴等は素人ね。足跡すら消してないわ」

「追う?」


 伊那野ひかりは首を振る。素人を追うのは時間の無駄だ。まして女。放って置いて良い。


「当初の予定通り、22時を限度にナナイ君を追いましょう。エポール、ここは爆破しておいて。フレンシェの死体もついでにお願いね」


 7分後。指揮所として利用していたコンテナはC4爆薬にて跡形もなく吹き飛んだ。


 

---...



 霧鏡京介は宇津木こころの声が聞こえた瞬間から、彼女がこの会場に来ていることを察していた。

そして、その事実が分かった途端に鬱屈した気分が払しょくされているのを実感し、気力が沸々と盛り上がって来る事を自覚する。

彼女は、京介を忘れて居なかった。

ただその一点だけで、先ほどまでの陰鬱な気分が霧散しているのだから、思わず笑いが零れてしまう。


 護衛の板野みうは見慣れない通信機を片手に誰かと会話していた。


「はぁぁ~、ナナイ君に逃げられた? 黒狼に仔山羊まで連れて何やってんの? は? こっちは順調よ。女どもの隔離も進んでる。囚人たちも協力的だわ」


何やら予想外の出来事が起きたようで、先ほどまで上機嫌にペラペラと身の上話をしていたのが嘘のように、顔が険しくなっている。

ふん、ざまあみろ。何もかもうまく行くなんて、実力差のあるプレイヤー相手に先手でチェスを指す時くらいなものだ。

しかし、ナナイはどういう立ち位置なのだろうか。

こうして聞こえてくる断片的な情報では、ナナイも彼女たちから逃走を図っているように聞こえる。アダムプロジェクトと言う物に関わっているのなら味方のはずだ。

実際、京介は彼女たちを誘導するためにナナイをスパイとして送り込んだのかと思っていた。

前触れもなく突然、監視していた事を告げて現れたかと思えば、前日に姿を消したのだ。彼は京介の中では完全に黒である。


 ナナイは彼女たちを裏切った?

その辺の内実は良く分からないが、もしも会えたら問いただして真実を全て語ってもらおうじゃないか。


 京介が周囲に目を配りながら状況を整理していると、彼の視線の先はドアの電子錠に向けられた。

偶然にも、そのタイミングを見計らったように、電子ロックの解錠を示す灯りが赤から青に変色する。

業者を手配したのも、ドアに全て最先端の電子ロックセキュリティを取り付けたのも、この廃屋に住んでいた京介である。この部屋のロックが解錠されたのはすぐに分かった。


「……」


 京介は逡巡した。今、電子ロックが解錠されていることは誰も気づいていないだろう。

何もかもを見捨てて走れば、京介だけなら逃げれるかもしれない。


 ちらりとベッドに横たわる火渡と井神を見る。友人を見捨てて逃げる?男を拉致すると公言する女から恐れるように?

主導権を握って人の命を振りかざし、上から目線で物を言うこんな奴に従って居ろというのか?

そんなもの……


「ふん、僕の趣味じゃないな」


 不愉快極まりない。


「……? どうしたの、京介君」

「別に。 ただ、どうやらお前の計画も順調ではないようだと思ってな」

「うふ、大丈夫だよ。トラブルってほど深刻な事はないからね。京介君に危害を加えるつもりもないから、安心していいのよ~」

「そうか? せっかく抑えたセキュリティールームに誰かが潜り込んでいるようだぞ。 それも計算通りってやつか?」


 笑顔を崩し、目を見開く目の前の女。視線だけが扉の電子錠にだけ向かっている。

やっと笑顔が消えたな。気持ち悪かった。

京介は真顔になった彼女を見て、逆に暗い笑みを浮かべた。


「計画っていうのは難しいよな。 どんなに配慮しても、不測の事態っていうのは起きるものなんだな」

「なにそれ?もしかして自分の失敗を自嘲しているのかな?」

「さぁな……あんたの愚かさは僕の言葉を皮肉にできるかどうか、見てみようじゃないか」

「あは、生意気。可愛らしいわね」

「とっととトラブルに対処したらどうだ? それとも予定通り、僕達をどこかに連れて行くのか? いいぞ、従ってやる。間近でお前の失敗を見て、笑ってやるよ」


 ほら、と京介は両手を広げて挑発した。

エポールの一人、板野みうに変装した女は流石に不快さを示したのか、眉根を顰めて僅かに舌打ちをした。

ややあって、彼女は腰のホルスターからハンドガンを向けた。

その照準は、未だ意識を回復しない友人たちに向けられたものだ。


「子羊から黒狼。 ナナイ君を捕まえるのに必要な時間は?」

『―――予定の22時に間に合えば上出来ね。森の中での移動が速すぎる、包囲してるのに追いつけないわ。 人員が回せるなら欲しい』

「……なるほど」


 舌打ち一つ。今度はハッキリと聞こえた。


「ああ、どうする。別にゆっくりと考えてていいぞ」

「調子に乗らないで、イニシアティブはこちらにあるのよ」

「はっ!」

 思わず鼻で嗤う。お前こそ調子に乗るな。 

京介はそう思いつつ決意を固める。 必ずこの女たちの手からは生きて逃げ出して見せると。

何かの合図を彼女は送ったようだ。通信機でこちらが聞き取れない言葉で話しかけると、数秒で女が何人も室内へと入り込んできた。


「京介君、あなたはこっちよ」


 腕を掴まれ、脇腹にハンドガンを突きつけられる。その状態のまま、足を突かれて、京介は仕方なしに前へと歩き出した。

友人たちはベッドをそのままストレッチャーのように変形して、眠ったままの状態で移動をさせるようだった。

扉を開けさせられ、数時間ぶりに部屋の外に出る。

もう陽は沈んでいて、暗い中庭の景色が飛び込んできた。

そのまま押し出されて、京介はエントランス方面に歩き出す。


「何処へ連れて行くつもりだ?」


 答えを期待せずに聞いたが、意外なことに返事はちゃんと返って来た。


「地下。このセキュリティールームで解錠されたなら、そこが一番安全だからね」

「地下……だと?」

「この建物はかつて、刑務所施設の一部だったのよ。地下に牢獄があって、物資の運搬などに使われていたの」

「刑務所……?」

「知らなくても無理ないわ。この国の一部の偉い人達以外には、秘匿された情報だったはずだから」


 黙り込んで考えに没頭する京介の横顔を見て、ハンドガンをぐいっと突き上げる。

彼はハッとしたように振り返った。


「逃げれると良いわね、京介君」


 その余裕を見せるニヤケた笑みは、意趣返しなのだろう。京介はその表情に何かの感情を覚えるよりも先に、振り返った視線の中に一人の女性を見つけていた。

数人の女性と共に、集団に紛れるようにして移動していた少女と、視線が絡み合う。


 ―――こころ

 ―――京くん


「京介君、何を見ているの?」


 今度こそ、その言葉に子羊へと顔を見合わせる。肩越しに少しだけ京介が見ていた場所を視線で追って、女は底冷えのする声色で聞いてきた。

宇津木こころを巻き込む訳には行かない。咄嗟に京介は手を顔に当てて推理するような口ぶりで彼女へと指摘した。


「刑務所か、なるほどな。僕が招いた女たちも、一緒に牢獄に放り込もうって腹積もりだったんだな?」

「……ええ、そうよ。ところで京介君にアドバイスをしてあげると、誤魔化そうとか嘘をつこうとしている時にわざとらしく顔を触る癖があるから気を付けた方が良いわよ」

「ふん、見え透いたハッタリだな。僕にそんな癖はない」

「あはは、ばれた? 馬鹿じゃないのは良いわね~、惚れ直しちゃいそうだよ、京・介・君♬」

「死ね」


 そうして板野みうに連行され、地下へと送られた京介を見送り、子羊は通信機にそっと手を当てた。

男性の移送を無事に終了した彼女は、京介の道中の変化を敏感に感じ取れていたのである。

ずっと隣に居たのだ。筋肉の動きまで観察できる距離で。彼が女性達を誘導している姿を見て、何かを誤魔化していたのは確かだ。


「子羊よ。B班が誘導した招待者の集団の中に、霧鏡京介の人質になりそうな女が居るかも知れないわ。 念のため隔離して収容しておくように囚人たちに言っておいて」


 さて、後はセキュリティールームに潜り込んだネズミの始末だ。

時計を見れば2050。

ナナイを22時までに確保できれば、深夜には脱出できる予定だが……黒狼の手腕に期待するしかないだろう。


  





 京介が連行され始めた頃、水野ななはゴキブリから通信で電子ロックが解除された事を聞いていた。

水野ななはすぐにドアの近くに居た女性に視線を送り、彼女がドアノブを回すと確かにまったく動かなかったドアが開いていた。

霧鏡京介によって集められた女性35名は、警察の水野ななを中心に事件に立ち向かう事を約束してくれている。


「話していた通り、二手に別れるわ。男性の救出の為に外部へと連絡を取る班。人質となっている女性達を助ける為、刑務所に潜り込む班でね」

「分かったわ、頑張る」

「こんな事になるなんて、まるでフィクションみたいだわ」

「水野さん、一旦お別れですね」


 既に振り分けは終わっている。口々にヒロインになることを目指し気合を入れている女性達に紛れ、姫野ふうかがそっと耳打ちした。

姫野ふうかの役割は外部と繋ぐこと。山を燃やし騒ぎを起こす。そしてこの会場がアダム創生プロジェクト等と言う危険な組織に狙われ、男性がこの国から拉致されようとしていることを世間へ知らしめるのだ。

そうなればまず、警察は動く。犯人がどんなに手管を尽くして手段を講じ、どれだけ上層部を懐柔して居ようと、報道が始まれば警察は動かざるを得ない。

まして男性を拉致する、などというのは国際問題だ。


「山火事に拘らなくても良いわ。とにかく大きな騒ぎを起こして、奥多摩に注目を集めてちょうだい」

「分かってます。伝手を使って有る事無い事、全部ぶちまけてやりますよ」

「頼もしいわ。よろしくね」

「そっちこそ、よろしくですよ! お互いに生き残って京介君のお嫁さんになれるといいですね!」

「そうね……」

「今度飲みにいきましょうよ。せっかくお友達……というか、お仲間ですかね? になったんですから。ね」

「ええ、その時を楽しみにしてるわ」


 そうして姫野ふうかは数十人が部屋から飛び出そうと待機している列へと向かっていく。

水野ななは笑顔を引き締めて、室内に残る招待者の女性達へと手を挙げた。


「私たちは敵の目を盗みながら、地下に潜入するわ」




『4時方向。生体反応あり。特徴から黒狼と呼ばれる個体を認識』


 割れるような頭の痛みがナナイに走る。

耳の奥に石を詰め込まれて、ハンマーで叩き割られてるような、酷い痛みだ。


『距離700、その後ろから2名増員を確認。敵ライフルの射程範囲に入りました。危険領域です。後退してください』 


「はぁっ……はぁっ……しつこい」


 既にドローンの生き残りは3機のみ。敵に取り付けられた発信機は破壊したが、敵の数が増えたこともあり、ナナイは包囲から抜け出すことが出来なかった。

敵の狙いは完全に、ナナイに絞られているようだ。


 逃げ切れない理由の一つに、囲まれている範囲の一部に切り立った崖の存在がある。

奥多摩湖に流れる支流の一部、川が流れており、凄まじい峡谷になっていた。

ナナイの運動性能を考慮しても、AIから弾き出された計算では骨折などの重大な損傷を負う可能性が80%。死亡リスクは46%以上にもなる。 まして、視覚と聴覚にダメージが蓄積して怪我をしている。

ヤケクソになって飛び込むには危険すぎた。

この奥多摩湖に繋がる川の存在のせいで、逃走範囲が限られてしまって居る。


 時折打ち放たれる狙撃手からのスナイパーライフルの銃撃は、山の中であり機能しているとは言い難い。

だが、そうであっても長距離から狙撃され、行動を制限されるのは煩わしいものだった。

直撃しても単発ならきっと問題ない。痛みや衝撃にはもともと種族的な耐性がある。ナナイは激しい訓練の末、シード候補生として選出された凄まじい耐久力を誇っているのだ。

鉛玉による体の損害は人間と比べて最小で済む計算であった。

しかし、集中して人間の兵器である銃撃を受け続ければ、流石にナナイであっても死亡は避けられない。


 即席のヒューマントラップを仕掛けても、罠の存在には注意しているのだろう。解除も速いので、敵の包囲作戦行動の遅滞にくらいにしか役に立っていない。

その際にドローンの破壊も平行しているようで、ナナイの『目』は時間を経るごとに目減りしていく有様だ。

野生動物の動きを利用し、物音などを駆使して陽動に使ってみたが、一度引っかかってからは早い段階で看破されるようになってしまった。



 ナナイは自分のバイタルを確認する。怪我の影響で、動き回るのは限界だった。

 ダメージはともかく、出血はなんとかしなければならない。



懐に手を当て、船体から持ってきていた経口保存修復液の容器をそっと撫でる。

飲んでから数時間後に回復が始まるこの薬。保険として持ってきていたが、命綱になるだろう。


「逃げ切れない……捕まるな、これは」


 肩で息をし、全身から汗を流しながらナナイは覚悟を決めた。

容器の蓋を開けて、修復液を一気に胃の中に流し込む。

舌からはその液体の成分によって痺れを齎し、液体を流し込んだ胃は灼熱感を伴って背中を中心にじわりと違和感が広がっていく。神経すら強引に直接つなぎ合わせるこの回復薬を、ナナイは酷く嫌っていた。出来れば飲みたくはなかった。

ややあって、ナナイは蹲った態勢から容器を投げ捨てると、周囲に生えている樹を見上げたかと思えば、それを一気に駆け上がる。

跳躍し、丈夫な枝を一つ掴むと、力を入れて樹木をへし折った。

それを適当な方角へとぶん投げる。空気を切り裂き、木々の隙間を通って、山の中を轟音が走った。

どうせすぐに囮だと分かってしまうだろうが、少しでも時間を稼ぎたい。

そのまま跳躍し、樹の上で何度か方向を変えると、ぬかるみのある地面へと向かって身体ごと突っ込んでいく。


「っ……!」


 無茶をしている自覚はあるが、耳栓を失った以上は敵に捕まった瞬間に試験体226と同じ運命を辿る事になる。

身体の修復までに時間もかかる。何とかして 『女の声』 の対策を講じないとナナイはアダムプロジェクトの使命を完遂できないのだ。

ぬかるみの中に身を隠しながら、ナナイは必死に浮動性に富むヘドロ化した泥を集め、近くの岩を砕く。

岩と泥を混ぜ合わせ、可能な限り早く堆積岩の詰め物を作っていった。

ドローンを一機、呼び寄せるとナナイの掌にスズメが乗って。


「排熱しろ」

『了解。出力を挙げます、ご注意ください』

 

 スズメの尻の辺りから、凄まじい熱が放出された。掌で集めた含水率の高いヘドロが高速で乾いていく。

熱がナナイの掌を焼き、周囲に焦げた人間の肉の匂いがたちまち広がった。


粘性を保ちつつ、固形できる形状にして、ナナイは耳栓が入っていない左側の耳を握りしめた。

耳の一部を力任せに引きちぎり 『耳穴』 を露出させると、作ったばかりの泥と岩の堆積岩を一気に詰め込んだ。 

分っていたが滅茶苦茶に痛い。身体の痛みに慣れているとは言っても、気分は良くない。

そのまま無心で泥を詰め込み続け、ナナイはドローンに再度指示する。今度は、耳元に近づけ……いや、もはや接触していた。


「っ排熱しろ!」

『了解』


「―――っぐっ……ぐうぅぅ、く、くそ……」

 

 熱波はナナイの左半分の顔を焼きながら、耳の奥にまで詰め込んだ泥を高速で乾燥させた。

しかし焼かれたお陰で、皮膚と泥岩は癒着し、完全にナナイの左耳は塞がれたのだ。これなら音波が脳を直接破壊することを何とか防げるはずだ。

すでに周囲に蔓延する肉の焼けた匂いは、敵にも気付かれているだろう。

すなわち、位置情報は相手の手に渡っている。


ナナイは左腕に装着しているデバイスを起動した。


『敵・接近を確認。 危険な距離です。逃走してください』


 警告を無視し、ナナイは耳栓の設計図と、船体の位置情報を含めたデータの塊を呼び出す。


―――東雲みゆるは招待者だ。個人携帯は最初に拿捕された時に招待者として潜り込むために利用されていた。つまり、失っている。

連絡は不可能……いや、まて、宿平ほのか。彼女は人間が主に使用する個人端末・スマートフォンを持っていたはずだ。


「くそ、規格を合わしておくべきだった。 俺のデバイスからスマートフォンにはデータを送信できない。 直接端子で繋ぎ合わせないと……」


 パキ、というラップ音が響いた。

ナナイは泥沼の中に体半分を沈めながら、それが人間の体重によって踏み折られた枝の音だと判ると、息を潜めた。

どうせ見つかるだろうが、殺されない事を信じて、捕まる前に次の手は打っておきたい。

地下空間が人間の作った牢獄だということは、水野ななのお陰で判っている。その見取り図やセキュリティ、脆弱性が何処なのか。

考察するにしてもデータが必須だ。

何より、この耳に詰め込んだ物はあくまで緊急時の対策にすぎない。耳や火傷はそのうち修復液の効果で回復するだろうが、それでは回復した瞬間に女の声で脳と内臓を破壊されて死ぬだけだ。

耳栓だけは船体で設計図を引っ張って来るしかないのである。


 逃走できた東雲みゆると、宿平ほのかに何とかして伝えるしか方法は無いのだ。


その時、ナナイは敵の接近を知る為に見開いていた目を、更に剥くことになった。

身体を沈ませている泥の中から顔を出す、板型の機械の断片が視界に入ったのである。


「スマートフォン……そうか、俺が音波攻撃を最初に受けた時……!」


 女の声が破壊をもたらす音だと知った、あの時。 手放していた。そしてどこかに放り投げていた。

まったくの偶然で、奇跡としか思えないが、そのスマートフォンは地獄の中に差し伸べられた一縷の望みであった。


ラップ音がまた響く。 ドローンから示された生体反応は4つ。 フィレやフレンシェの存在を考えれば、10人近くに包囲されているだろう。

時間が無い。 ナナイはスマートフォンを手に取って、ひび割れている液晶画面の側面についた電源ボタンを押した。


 光った。起動している。

バッテリーは7%。よく生きていてくれた。人間の作った機械を時代遅れと考えていた自分を改めよう。


ナナイはポケットから作成していた、端末を繋ぐコードを一本引き抜いた。

これはコンテナで機器に接続するために船体で作って来たものである。備えはしておくものだ。


首筋の穴に端子を捻じ込み、光を出さないために泥の中のスマートフォンと繋げ、掌で覆い隠す。


 ―――接続。


 ナナイは脳の中だけで端末とコンタクトをした事を確認すると、処理をナナイの脳に埋め込んだチップに任せて、やや力任せに0と1の情報の処理を超高速で演算していく。

ナナイのデバイスからのデータを、宿平ほのかの個人端末へと送る処理を始めて2分後。


 スマートフォンを持っていた手を、ナナイは踏まれた。


「黒狼……」


「こちら黒狼。 対象をようやく捕まえたわ。 23時37分……あぁ、手古摺った!」

 

 何かを言っている。反応を返す暇もなく、黒狼の手に握られた拳銃から、超至近距離で撃ち出された3発の弾丸が一気に発射されていく。

ナナイの硬い皮膚すら貫き、その弾丸は胸、腹、そして首。


いずれも人体の大動脈が通る急所に打ち込まれ、たちまち麻酔は浸透してナナイは昏倒することになった。

 

 

 

 

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