第五話 アダム創生プロジェクト
船体と往復し、30分という時間のリソースを注ぎ込んでコンテナの下に戻ってきた。
敵が放棄した機材の規格とナナイの使う端末をリンクさせる為に、船体へ一度戻る必要があったからだ。
女性の群れの中に飛び込むのは、ナナイの命の危険が大きすぎる。
救出作戦は捕らえられた本来の護衛、板野みうを中心とする護衛班4名に託すしか無い。
ナナイは敵の放棄したコンテナを、彼女たちを手足と使うため、接続端子等を準備し、コンテナを指揮所として利用することにしたのである。
スマートフォンのような一般的に普及され、メーカーによって異なる端子部分などを含めるとコード類は10本以上になっている。
まとめて懐の中に突っ込んでいるため、ナナイの腹部あたりは不自然なほど服の下が盛り上がっていた。
『コンタクト。正常に接続。データを吸い上げます。完了まで120秒』
「よし、いいぞ。うっ……」
ナナイは自分の首筋に端子を突き入れて、直接このコンテナで使われたデータを吸い上げて脳に叩き込む。
その横で、潜入する護衛班の女性たちは黙々と準備を進めていた。
ナナイが大声が苦手だということがわかり、彼女たちは多くのやり取りを小声、もしくはハンドサインで段取りを進めていく。
データを叩きつけた影響で、頭が熱い。
だが、ナナイは敵の目的を知ることが出来た。これは大きなアドバンテージだ。
数多の数列、素数、巨大数に虚数などを混ぜた暗号が施されていたが、ナナイの脳内に埋め込まれている補助チップにかかれば13秒でプロテクトは突破できた。
「やはり、京介の計画に乗じて、男を誘拐するのが目的のようだ」
周囲の女性が息を飲む。やはり、という思いと同時に、義憤にかられて鼻息を荒くし始めた。
男性を狙った誘拐犯。この言葉そのものが衝撃的な響きである。ナナイが女性の声が苦手だということを知って叫ばなかった彼女たちの自制心を、褒めてあげるべきだろう。
現段階で作戦行動に移っているのは『黒狼』『子羊』『仔山羊』という集団グループ。
ナナイを襲ったのはコードネームといて与えられているフィレという名の少女だった。
恐らく羊の部位から名称を取った名付けであった。
敵の標的は3人。当然、ターゲットは男のみ。
京介の友人である一門と真治も含まれている。
ナナイの事にも興味があったようだが、彼女たちは経歴などを探っていた。だが、シード候補生の試験体771として地球に降り立ったナナイの事など調べようはない。
声のことを知らなければ、最初の犠牲者は自分だったであろう予測が立ち、ナナイは少しだけ身震いする。
作戦は護衛班の排除、そして成り代わり。そのまま堂々と正面から京介の拠点に乗り込み、セキュリティルームを抑えて籠城。
仲間の救援を待って脱出。以降、本国からの指定された場所で支援を待つ。
かなりシンプルにまとめられている手順だ。タイムスケールなどを省いているのは、このデータを吸い上げる人間、もしくはコンテナを奪われた時の事を警戒してのことだろうか。
重要な情報の殆どは秘匿されているかのように、データそのものから痕跡が消されている。
残っている手掛かりの中では、日本以外の外国の名がいくつか記されている事のみであった。
「みゆるちゃん、どう?」
―――大丈夫です、よく聞こえています
「範囲は300メートル四方。タイムラグは1秒ほど。無線機の感度は問題無さそうですね」
―――こちらからの応答はすべてナナイ君の口頭になります。受け答えまでの時間はどうしてもかかってしまうので気をつけてください。
ナナイの隣で椅子にすわり、コンソールを叩くのは東雲みゆるだ。彼女の役割は『声』を拾いナナイに伝えること。
直接ナナイ自身が言葉で通信できれば良いのだが、それだとナナイの頭が爆散してしまう。
所以、東雲みゆるの技能を活かして速記とタイピングによる工程を挟んだのである。
「あの、私も京君のもとに……行きたいです」
準備を進める最中、おずおずとそう言ったのは宇津木こころだ。
すでに耳栓の出力を上げて女性の声はシャットダウンしている。みゆるの手によって文字に変換された文章に、ナナイは答えた。
「君は素人だ。安易に現場に飛び出せば危険だ」
「そんなの分かってます。この日本で男の人を誘拐だなんて……実感だって沸いてません。でも、京君が危ないんですよね? それなら、私は誰に止められても向かいますから」
「……京介は君のことに良く触れていた。俺は京介の為にも君を護らなければならない」
「あ、ありがとう。男の人にそんな事を言われるのは、う、嬉しいけど……」
じっと考え込んで、ナナイは目を瞑った。
京介と直接の知り合いである宇津木こころの扱いは判断に迷う。
対人を想定した格闘や戦闘技術を持っている相手に、ズブの素人が対抗できるはずがない。
ナナイを襲った少女のように攻撃を躊躇わない者と相対すれば、間違いなく命を落とす。
何より、京介は彼女にこだわっていた。宇津木こころに危害が及べば、京介は冷静さを失うだろう。
この場にいればナナイが護ってあげられる。少なくとも彼女を逃がすくらいのことは出来るはずだ。
ただ、京介と顔見知りであることを考えれば宇津木こころが会場に向かい、上手く200人以上の女性たちに交じり交信することが出来るなら。
メッセンジャーとして非常に役に立つのは間違いなかった。
危険と安全、京介との関係、アダムプロジェクト、誘拐犯の人数。数多の情報を秤にかけて、ナナイは首肯した。
「仕方ない。板野みう。宇津木こころを護ってやってくれ」
「そうね。分かったわ……それより、ナナイ君は逃げた方が良いと思う」
こうして即席の救出班はナナイを中心に組まれることになった。
板野みうからは、ナナイが関わることそのものに反対意見も出た。宇津木こころの件には特に何も言うことが無かった彼女も、男性となると話は変わるらしい。
そもそもこのコンテナは敵の物だ、この場所で指揮を執るのは危険が大きいと言われた。心情的にも、女性は男性を守ることを最初に念頭に置く。
ナナイはいち早く、男性を誘拐するという女性から離れるべきと案じているのだ。
「警察にも通報したわ。奥多摩という場所、それに街道から離れた脇道にあるコンテナっていうのもあって、時間がかかるみたいだけど……」
奥多摩という地理的理由で遅くはなるものの、警察と連絡はついていた。ハッキリと、遅れるが急いで向かうと答えを貰っていたのである。
ここで無理する必要はないのだ。
とはいえ、複数人で徒党を組んだ……いや、明確に組織だった連中が3人もの男性を狙って誘拐を企て、実行しているこの状況。
今すぐにでもアクションを起こして敵の計画を遅滞させるべきではあると、板野みうも思っている。
それに男性は女性よりも同性を信頼する傾向が強い。ナナイが一人居るだけで、救出時に彼らの行動をスムーズに指せることが出来るのも確かだった。
様々な観点が短い時間の中で考慮されて、ナナイの参加は決定的なものになると板野みうも引き下がるしかなかった。
「ナナイ君。コンテナの位置は敵の位置に把握されているわ。くれぐれも自分を優先して気を付けて頂戴」
「周辺警戒に人は残しておいたほうが良いと思いますよ」
「コンテナの下部には脱出路を作ってありますけど、やはり男性の方を残して行くのは不安です」
護衛の女性たちの警告が東雲みゆるによって凄まじい速度で文字に変換され、ナナイへと意思が伝わる。
速記によって手渡されたメモは、乱雑に引っ張られた~や/などの線の集合体だが、脳に直接叩き込んだナナイは一瞬で把握できる。
それにしても、東雲みゆるの筆記とタイピングの速度は目を見張る。彼女たち『三人分の言葉』を殆ど時差なく書き取っているのだ。
速記体も非常に綺麗で整頓されて見やすい位置に、すっと掲げてくれる。
人間でなくても分かる。これは常人の持つスキルを遥かに凌駕している、明確な東雲みゆるの才能だった。
「分かってる。俺も最大限の注意を払う」
「一応、気休め程度にこの場に残っていた監視カメラを設置してある。カメラは三台分、補えなかった死角はコンテナの真後ろだけよ。それから―――」
「事前に話し合った内容は完全に記憶している、心配はいらない」
「そうね……」
それでも不安なのは隠せないのだろう。心配そうな顔で板野みうからは躊躇いが見えていた。
手元の端末から時間を見る。15時42分。
護衛班は敵が落としたデリンジャー2丁。スカートの中にナイフ類の暗器。スタンガンと電流警棒。
上半身にはこのコンテナの中に配備されていた防弾チョッキを着込んでいる。
ナナイが船体で作り上げた超小型インカムを装備し、虫を利用した―――一般的に多量に生息している潜入に適したゴキブリの身体に機器を埋め込んだ―――生体ドローンを全員が所持していた。
ナナイの普段使っている雀形のドローンでは建物内部の情報を得ることが出来ないからだ。
雀形のドローンの設計図を改変して、生きたゴキブリに組みこむのに適した機器を作り出してきたのである。
なにより、ゴキブリは世界中どこにでも現れることを確認している生命の一つ。この場で用意することは簡単で手頃だった。
東雲みゆるや、宿平ほのかは何故かこの素晴らしい生物に嫌悪感をあらわにしていたが、護衛班の女性たちは動揺もなくそれらを身に着けてくれたのは幸運だろう。
しかし、このゴキブリという虫は本当に素晴らしいと思う。
生存に適した『生命力』に満ち溢れている。虫とカテゴライズされる中でも、かなり理に叶った生態でナナイの評価は高かった。
もし、このゴキブリが子供を産めるなら、それはそれで嬉しいとさえ思っている。残念ながら体長が40cmを越えなければ構造的に受精は難しいだろう。
いっそ、40cm大のゴキブリを探して、生殖可能か試験してみるのも良いかもしれない。
ナナイは夢が膨らんだ。
もちろん、潜入という観点でも他に追随する虫は中々見当たらない。存在しないとは言わないが、ゴキブリほど適し、数が豊富な存在をすぐに用意するのは難しいだろう。
黒い闇夜に紛れるフォルム・大きさ・飛行可能で見た目以上に素早い運動性。カメラ等の必要な小型機器すら搭載できる多足による利点。習性を利用すれば思いのまま操縦するように操作もできる。
ああ、すべての条件が理想的だ。
なにより、人間には開発されてない一つの兵器を仕込んである。使うかどうかは状況によるが。
ナナイは護衛班に体を向けて、手を上げた。
すぐに全員が集まってきてくれる。素晴らしい反応速度に意思統一。
彼女たちは間違いなくプロフェッショナルだ。
「時間を合わせる。15時50分」
「セット」
「OK」
「問題ないです」
「よし、潜入経路とカメラの位置は覚えているな」
「ええ、数が多いけど、大丈夫だと思うわ」
「周囲に敵が居ないか注意しつつ、まずは目を潰してくれ。カメラの位置の詳細は俺も目視で指示を出す」
「お願いね、ナナイ君」
単独行動となるのは板野みう。敵はセキュリティルームに陣取っているので、奴らの目を奪う必要がある。
セキュリティルームは独立構造だが、建物内部・およびその外周には監視のためのカメラが100台以上設置されている。
ホログラムの立体映像で、ナナイが調査した全てのカメラの位置が表示された。
これをできる限り短時間で破壊、ないしカメラの撤去を行う。
ある程度の死角を手に入れたら、板野みうは単独で建物2階に潜入し、そのまま潜伏を行う。
これは彼女自身が望んだ役割であり、可能であればセキュリティールームの確保を単独で実行するつもりだそうだ。
最も危険な役割だが、成功した時のリターンはどでかい。
同時に、護衛班3人を連れて宇津木こころは京介との接触を狙う。
招待者であることを利用し、堂々と正面から外に居る大勢の女性たちに紛れて、出来れば建物内部への潜入する。
その後、ゴキブリ型ドローンを放って情報収集。
京介の居場所を割り出し、彼へのコンタクトを行う。交信役は宇津木こころ。京介が心を開いてる彼女の言葉なら、現況を説明すれば彼ならすぐに状況の理解に及ぶだろう。
なんせアダムプロジェクトの一端を少し話しただけでナナイの事を爆速理解した京介である。
京介には問題なく状況が把握できるに違いない。その心配はしていなかった。
「時間だ。状況を開始してくれ」
ナナイの宣言とともに、男3人の救出チームは素早くコンテナから外に飛び出していった。
護衛を名乗る者たちに連れられて、京介は安全のためにという名目で周囲を固められて案内されていた。
火渡と井神が、女性たちに試験中に襲われたのだという。
朝からまるで計画通りに事が進まないことに苛ついていた京介は、ここにきて心底に腸が煮えくり返る思いだった。
どこの馬鹿が暴走したのかは知らないが、大切な友人を傷つけられた。その上、せっかく自分が開催したイベントが何一つとして上手く行かないことに腹立たしい思いが募る。
男は簡単なイベントすら成功することも出来ないのか。
女性の力を借りなければ、何も出来ないとでも。
少なからず、この計画だって女性や知り合いの力を借りているのに、それにも関わらずトラブルだらけ。
さらに言えば、京介は宇津木こころの事を未だに引きずっている自覚があった。
自分で選んだ婚約者候補達。京介が選んだのは36名。
彼女たちだって一人一人が人間。そして京介の都合の為に時間を割いて会場に集まってくれた人たちだ。
他の女性のことを想いながら接されては気分だって害するだろう。宇津木こころの事は本当に残念だったが、いつまでも引きずるのは失礼だ。
自分で選んだ候補者たちと真剣に向き合うべきことなのに。だが、何度もそう考えて、宇津木こころを思考から追い出そうと思っても、京介はどうしても忘れることが出来ない。出来なかったのだ。
不甲斐なさも悔しさも、今日一日だけでどれだけ積めば良いのか。
京介の心は平静とは程遠いものであったのだ。
「……おい、一門と真治は無事なのか?」
「今は使用していない部屋を急遽、医療室にしていまして二人にはそちらに移動して怪我を診てもらっています。そこで話しますので……」
「くそ、わかったよ」
そうして一階の東端の部屋につく。
この場所は今回の計画でも使うことがない、余った部屋だった。
セキュリティルームとのやり取りで、電子錠が開く音を認めると、京介は勢いよくドアを開けた。
「一門、真治!」
返事は無かった。部屋の中には3つのベッド。
そして3人の女性が部屋の隅に、目立たないように立っていた。
どこに持っていたのか、ご丁寧に看護服などを着ていることから、京介は彼女たちが医療の心得がある女性なのだろうと思った。
近づいて確認すれば、火渡一門も、井神真治も昏倒して眠っているようであった。
火渡は頭に包帯を巻いていたが、真治には外傷がないのだろう。ただ目を瞑って横たわっている。
素人診察ではあったが、彼らの怪我の程度は酷くなさそうだった。
「命に別状は無さそうだな……」
京介は安堵の息を吐いた。
襲われたと聞いた時は性的暴行を受けたか、パニックになった現場で人の波に押されたなどしたかで大怪我を?と気を揉んだ。
こうして間近で見て、息をしているのを確認すれば、ようやく頭が冷えてくる。
停電があったことは京介も分かっている。
一体、彼らに何があったのか詳細を改めて問いただそうとして、振り向いたときだった。
医療室に変わったこの部屋に、人が居ない。
先ほど、看病をしていたはずの女性たちは何時の間にか京介の視界から消え、案内してくれた女も部屋の中には入ってきていなかった。
不信感を持ちつつ、京介がドアを開けようとノブを回すが、ガチリという硬い金属音が鳴るだけ。
「なんだ? おい!」
何時の間にか電子ロックが施錠されていた。
このドアはセキュリティルームから施錠する操作をすると、ドアに備え付けてある0~9の4桁の暗証番号が、一時的なパスワードを発行して入力を求められる。
番号は2分という短いスパンで繰り返し変化するため、解錠するにはパスワードをセキュリティルームから聞くしか手がない。
「くそ! どうなってる! セキュリティルーム、聞こえるか!」
電子錠のすぐ近く、セキュリティルームと繋がる小さな液晶画面をつけて、通信を繋げ声を荒げる。
「おい!誰も居ないのか!」
ドアを強く叩くと、モニタの電源がついて火渡一門の護衛の一人。板野みうという女が映し出された。
『ああ、駄目ですよ。京介様。ロックされている電子錠のドアを叩いては。警報が響いて集まってる女性が混乱してしまいますよ』
「くそ、そんな事はどうでもいい。板野みう、今すぐこのドアを開けろ」
『お断りします』
「なに……?」
『京介様、ご安心を。暴走する女性達から皆様をお護りする為の一時的な措置です。一門様と真治様に危害を加えた犯人を見つけ出して、すぐに解放致します。安全の確保ができるまで、そこでごゆるりとして下さいませ」
「なんだ?貴様、安全を確保するために、僕達を閉じ込めるというのか?」
『申し訳ありませんが、もっとも男性にとって安全性が高い場所は出入り口が一つだけのこの部屋なのです。セキュリティールームで開閉を制御できるこの場所は隔離に最適ですから。食事や水は後ほど持っていきますので、しばし我慢して下さい、お願い致します」
「……」
板野みうの判断は、護衛として正しすぎた。
実際に一門や真治に危害が及んでいる今、護衛の任務に従事している彼女たちは男性の生命を守ることを最優先にしなくてはならないのだ。
この男の少ない世界、男性へ手をかければ重罪となる。
日本では死罪はまだ制定されてないが、他国では当然のように死刑となる判決がくだされている。
数年後は日本もそうなっておかしくない。
希少な男性を保護する動きは、世界でも共通している話だ。
説明すべきことは終わった、とでも言うかのように、モニターはブツリと音を立てて画面が暗くなる。
京介は一度周囲を見回してから、誰も使っていないベッドの上に腰掛けて、ため息を吐いた。
がっくりとうなだれ、手で頭を覆った。
「ちくしょう……くそぉ!」
ベッドの上に拳を叩きつけ、京介は嘆いた。
「おかしい」
警察官であり京介から選ばれた一人。招待者の水野ななは、この状況には強烈な違和感を抱いていた。
停電中のトラブルなのは明白である。水野なな自身は、京介の居る部屋に呼び出され事件が起きたため、火渡と井神の襲われた現場は見ていない。
男性に被害があった。その現場を保全するという護衛の発言には正当性がある。
だからこそ、警察という身分を持つ水野ななは、安全面やその他もろもろの協力を護衛に申し出たのだが、板野みうにはにべも無く断られた。
これがおかしい。
警備法を完全に記憶している訳ではないが、警察法で定められている事と矛盾するのだ。
個人の思想はともかく、日本では公共の安全と秩序の維持の為に存在するのが警察であり、その役目である事が法律で定められている。
生命や身体の保護、そして犯罪の予防と鎮圧・捜査。
被害者が男性ともなれば、課せられた使命を全うする義務すら生じる。
もちろん、水野なな個人も男性の為となれば誰に言われることもなく張り切るが。
時間がたって冷静さを取り戻しつつある部屋の中は、どこか浮足立っている。
事態が急変し、イベントに冷水をさされ、主役たる霧鏡京介が退室したことで状況の変化に戸惑っているのだろう。
もしかしたら護衛の者たちも、同じ様にショックを受けて正常な判断を下すのが難しい状態なのかもしれない。
そんな中、外に居る警察---ななの友人である伊那野ひかりに動いてもらえば、もしかしたら状況を変えられる可能性に思い至る。
そう考えて水野ななは、外に待機しているはずの同僚に相談しようと電話をかけようとして、圏外の表示。
ちっ、と舌打ち一つ。
建物内部に入り込んだ時はちゃんと電波が入ってきているのを確認していたのに、間の悪い。
婚約者としておめかしして、会場に入ってしまっている。
個人携帯以外に使う通信は、念の為に懐に忍ばせて持ってきた小型のトランシーバーだけだ。
警察手帳の入っている胸の内側のポケットから、水野ななは無線機の電源を入れて呼び出しのボタンを押し込んだ。
ザザっと音がするため、何人かの女性が視線を向けてくる。その内の一人が腕を組んで近くに寄ってくるのを水野ななは気づいていた。
机を挟んで対角線上に移動しつつ、懐に手を忍ばせてごく自然に机に体重を預けるふりをしている女性を警戒する。
視線を投げかけるようなヘマはしない。
しばしのコール音の後、無事に伊那野ひかりへと通話はつながった。
「もしもし?ひかり」
『ああ、なな? どしたの? いまさ~、ちょっと取込み中なんだよね』
「ノイズがひどいわね?何処にいるの?」
『え、地下』
地下?水野ななは思わず復唱してしまった。困惑する彼女に、伊那野ひかりからは構わず声が飛んでくる。
『この前さ~、あんたが後回しにしてた受刑施設のリスト。覚えてる?』
「え?それは……覚えてるけど、今はそれどころじゃなくて」
『いや、それどころなのよ。囚人の数が合わないって言ってたじゃん?」
「そうだけど……」
言われて思い出す。受刑者の人数にズレがあったことに気がついて、刑務施設に収容されたか確認しようと考えていたのだ。
データ入力のミスか、もしくは何らかの手続の漏れがあったのだろうと予想していた。
優先すべき別件があったので、確かに後回しにして資料をデスクの上に放り投げていたと思う。
『あれ、個人的に調べてたの。ほら、手伝うって約束したし? あ、そうそう、話は変わるけどさ、ななってこの建物の事は調べた?』
ハキハキと明るい声がノイズ混じりに聞こえてくる。この部屋の状況を考えれば場違いなくらいに。
周囲の目は会話を隠せないくらいだ。
ただ、あまり視線が集中していないのは、まだ動揺に立ち直れず騒がしいからだろう。困惑から来る人の声によって、水野なな周辺の人物以外からは気にもされていない。
「……この建物。会場に使われている場所は、登記上は廃屋だった。霧鏡京介君のお母様の一人は、野党の党首をしている政治家。おそらく、この建物を利用しているのを隠していたのかもね」
霧鏡京介は健康上の理由で、療養する為に奥多摩へと移り住んだという公開された情報がある。
ただ、実際に彼にあって間近で見れば、深刻な病気を患っているようには見えなかった。
もちろん、精神面での疾病である可能性はあるが。肉体面での不調は少なくとも無いだろうと水野ななは推測している。
「褒められたことではないけど、男性を守る為に取引があったのかも。実態は詳しく調査しないと分からないと思うわよ。 さっきからどうしたのよ、ひかり?」
『聞きたい~?』
「あのね、ひかり。こっちの状況は切迫してるのよ。事件がおきたの。男性が襲われたのよ!貴女の協力が必要だと思ってこっちは―――」
『あはははっ、そんなの知ってるって!』
「は?」
招待者以外は建物の内部に入る許可を得られなかった。
料理試験後、昼食を摂った後は水野ななと伊那野ひかりはその時点で建物の内と外で別れている。
つまり、ひかりは外に居たはずなのである。
にも関わらず、彼女は地下にいると言っていた。この建物の地下、ということなのだろう。
そんな場所に居るのに現場の事件を把握している?
おかしい。
「ひかり。あなた……何を言ってるの?」
『なな。ねぇ、なな。私とはずいぶん長い付き合いだわ。ヒントをあげる。3年前から私に口癖が増えたでしょ~?』
「ちょっと、ふざけてる場合じゃない」
『なな、真面目な話よ。別に黙っててもいいけど、3年間も付き合ったのだから教えてあげようかなって優しさなの。気まぐれみたいなものなのよ』
水野ななは、口調こそ変わらないもののひかりの声質があまりにも冷たくて、息を呑んだ。
何より、伊那野ひかりとは中学時代からの腐れ縁。警察になってから知り合った訳ではない。ぞわぞわと頭の後ろに鳥肌が立つ。
長い付き合いの中で、真剣な話を切り出す時、ななを茶化すような真似を彼女はしない。
「あなた、誰?」
『質問してるのはこっちなんだけどなぁ』
その時、ななは話している相手が興味をなくそうとしている空気を敏感に感じ取った。
何が起きているのかはまったくわからないが、彼女は直感的にこの会話を打ち切ってはならないと、被せるように口早に告げた。
「3年前から増えた口癖ね?そういえば、過去は振り返らない主義、っていうのは増えたわ」
『イエス、やっぱななは鋭いねぇ。その観察眼や判断は天性のものね。良い才能だと思う』
「皮肉なの? つまり、その時から貴女は伊那野ひかりになりすましたってことよね?」
『イッエース!良く出来ました~その通ぉり! ななを騙し通すのには苦労したんだよね~。特殊メイクでごまかせない顔の造りは、色々削ったり足したりね。伊那野ひかりのほくろの位置まで覚えてるんだから、ムカついたわ。何度あんたも殺そうと思ったか』
豹変した態度に水野ななは言葉がすぐに出てこない。そんな彼女に構わず伊那野ひかりは続けている。
『身長を合わせるためにグラッツ制のブランド物のヒールを削ったりもしたわ。20万円もする靴を削らされる身にもなりなさいよね。自宅に招く時に変装の痕跡を発見されるんじゃないかって不安だったもの。ああ、水野ななと過去に何があったのかを聞き出す時が一番苦労した。伊那野ひかりの尋問は、それはもう手間だったのよ~、なかなか口を割らないから、エグいこと沢山しちゃったもの。二度とやりたくないわね~アレは』
「……ひかりは何処に?」
『さぁ?どっかの川底でバラバラになって沈んでるんじゃない?浮かんではこないでしょーけど』
「信じられない」
『あははは、信じなくてもいーよ?だけど絶望的な話よね。ちょっとだけ同情してあげる』
ぐぶっと妙な音が口から漏れ出た。怒りで空気だけが肺から排出された結果だ。
親友が何時の間にか別人と入れ替わっていて、3年以上も気付かなかった等とても信じられない話だが、この女の言葉は水野ななの事を熟知している。
個人としての付き合いが長い人間に、悟られない様に擬態するなど可能なのか?
そんな疑問も持ち上がるが、首を振って唇を噛む。
冷静さを失わないようにと、水野ななは自分のふとももを指で捻って自戒した。
「先ほど、受刑施設についてわざわざ話題に出したわね。あなたが地下に居るという話も不自然。この建物の地下にあるのは刑務所?」
『はっ!そうだよ~、地下にはリストに記載されていない刑務所が存在してるの。官庁ぐるみで隠された社会の闇ってわけ。全員が性犯罪者で死刑が確定している獣どもよ。受刑者数に違いがあるのも当然、抹消された囚人の行き先はこの奥多摩刑務所になっていたんだよね~!ななが優秀なおかげで、私はすごく助かったわ。こんなにも都合の良い状況を用意してくれるなんて、嬉しいよ』
「下手な煽りは結構。目的は?」
『なな。あんたは優秀だよ?それを知っている私が、なんで今此処でわざわざ正体を明かしたと思う?』
「つまり、男性の誘拐」
『即答されると萎えるっての。あ~まぁ、もう隠すことでもないから教えてあげる。もちろん、男の人が三人も集まってるんだから、男性が目的なのは分かるもんね』
「京介君のイベントは偶発的。私が受刑施設のリストにあたろうとしたのも囚人の数が合わないのも、もちろん偶然。地下に隠蔽された施設があることも本来は知らなかった。それは貴女も同様のはずだわ。早まった事をしたわね、突発的な犯罪行為なんて、失敗の手本。逃げきれると思っているほど馬鹿なの?」
『ところが私達の計画は30年以上前から始まってる。安心して頂戴?霧鏡京介も、火渡一門も、井神真治も、全員手厚く保護してあげるし、男性を殺すなんてことも考えてないわ。この誘拐は確実に成功するよ』
「なるほど……一つ言っておくわ。私が絶対に止めて見せるから」
『あはっ、もう終わってるのに?まぁ頑張って。これから私は囚人解放のお仕事が残っているので忙しいの。なな、貴女に出来ることが残っていると良いわね。応援してあげるわよ?』
「ありがとう。ご期待に添えて貴女は私が捕まえる。必ず」
『……一応聞くけど、私達に協力するっていう手もあるよ。日本には居られなくなるけどね』
「頷くとでも?不愉快だわ」
交信は水野ななの方から切ってやった。せめてもの抵抗だ。
伊那野ひかりの目的は、男性を手に入れる事。
いや、正確には 日本の男性 を手に入れることなのだろう。すなわち、誘拐犯。
彼女が全てをさらけ出したのは、結果が分かったからなのだろう。
会話から背後に大きな組織が絡んでいることは透けて見える。伊那野ひかりに成り代わっていたのは、この時の為だったのだ。
大事な親友が入れ替わっていたことにも気付かない、自分の愚鈍さに怒りは湧くが、同時に生まれついてからの負けん気がむくむくと心中で煮えたぎってきた。
警察としても、水野なな個人としても、せめて一発はひかりを殴り飛ばさねば気がすまない。
意識を切り替えてポケットに忍ばせている警察手帳をそっと撫でる。
協力者は必要だし、外部と連絡を取って警察への連絡もしないとならない。
イベントは流れ、騒ぎになってしまうだろうが、日本から男性を失うよりはマシだ。もしもそうなったら、警察の威信は地に落ちるだろうし、ななだって許せない。
口ぶりから単独犯ではないことは明白。セキュリティルームに詰めている警護チームも伊那野ひかりの仲間だと分かる。
リストから消えていた囚人を水野ななは覚えている。いずれも男性に対して性的暴行を働いた重犯罪者75名。流石に一人ひとりの名前までは覚えていないが、一人残らず性犯罪者であることはインパクトが大きい情報だったので良く覚えていた。
すでに捕らえられたと思われる霧鏡京介、火渡一門、井神真治の三人の男を餌にして、囚人を仲間に引き入れるつもりだろう。
リストから消去されている受刑施設。もはや社会に存在しないことになっている囚人たち。
水野なな一人だけでは、きっとどうしようもない事になる。
この部屋に居る招待者は、味方につけておきたい。
そう考えたななが、声を上げよう口を開いた時、肩を掴まれた。
振り返った先には、先程無線を近くに来て聞いていた一人の女性。懐に手を忍ばせ、密かに接近していたあの女。
やはり敵か。警戒してないとみて後ろから仕掛けたのだ。
邪魔はさせない。
確保しようと腕を捻った所で、彼女は声を荒げてななの動きを止めた。
「待って待って! 協力できると思って話をしたいだけ!」
「何者?名乗って」
「京介くんに選ばれた招待者の一人で姫野ふうか! TVQQD東京支部所属、メディア部門の課長!」
「メディア?聞いたこと無い局ね」
「本社は鳥取なの。東京に支社があるっていうだけの地方テレビ局なんです。今のトランシーバーの会話、バッチリ録音してるんですよ! 役に立つと、思いませんか!?」
右肩を抑えられたまま涙目で見上げる姫野ふうかの言葉に、水野ななは目を瞬たかせた。
犯行を自ら暴露した会話が残るのなら、これ以上ない証拠品である。
「あとね、外に友人が居るの。トランシーバーがあるなら、周波数さえ合わせれば外部と連絡も取れるから、痛いことしないで、ね!?」
「良いわ。あなたは味方になってくれるっていうことね?」
「もちろん。せっかく婚約者に選ばれたのに、誘拐を企んでるなんて信じられない。絶対に阻止したいわ」
「そうね、同感だわ。貴女の友人経由で地元警察に連絡を取りたいの。できる?」
「出来ると思う。えっと……ごめんなさい」
言い籠る姫野ふうかに、警察手帳を取り出して、水野ななは自分の名を告げた。
「警察の水野よ。よろしく、姫野さん」
「宜しくです、水野さん。ところで、これってウチが独占して大きな事件を放映できるチャンスだと思うんですけど、それをやったら京介くんに嫌われると思います?」
「あなたね……なるほど、根っからジャーナリストなのね?」
「うへへ、いやぁ、それほどでも」
ネタとしては飛び抜けてぶっちぎりに国民の女性の大半が興味を示すことだろう。
なんせ男性が婚約者を一時的にとはいえ定め、自分から100人も選んで女性を選出するというイベントを開いたのだ。
客観的に見て社会的に弱い立場であり、非公開とはいえ自分からイベント起こす男性など、世界規模で見ても稀だ。
直近では世界的有名人の芸術家、フランスの男性が展示会を開いたくらいだろうか。それだってもう4年も前の話である。
それが3人の男性が集まって行うなどという、凄まじい出来事が起こったのが今日という日だったのだ。
もしかしたら、京介のこの行動が、日本の男性たちに小さな芽を生やしてくれたかも知れなかったのに。
ただ、京介がメディアへ公開するか、それを飲むかは不明だ。
誘拐を成功させないと決意しているのだから、再び同じ様に婚約者として選ばれたい。
もっとも、絶対になさなければならないのは3人の男性の安全の確保だ。
「いざという時は、世間に公表することも考えましょう。それで良いわね?」
「オーケー、ボス」
調子良く笑みを浮かべ、姫野ふうかはグッと親指を立て元気よく答えた。
そんな彼女を見て、水野ななは肩の力がほどよく抜けたのを自覚した。
無線機を手渡し、姫野は周波数を合わせて外に居る友人へと連絡をするのであった。
伊那野ひかりはくつくつと暗い笑みが腹の底から突き上げてくる。
「あ~あ、面白かった。こんな気分は初めてだわ」
やってやった、という思いと拭えない気持ち悪さ。
清々しいようで、とても気持ち悪いヌメリが全身の肌を震わせた。
高揚感に絶望感。皮膚を這うような快感と不快感。相反するような気持ちが同時に襲いかかってきて、感情のコントロールが難しい。
「楽しそうな所だが、そろそろラリってないで戻ってこいよ」
「……ったく、いい気分に水をささないでよ。節操の無い獣は空気も読めないんだから」
この場所は地下だ。声が反響して伊那野ひかりの気分は一気に冷める。
京介の拠点の会場から直下。今はボイラー室となっている場所から垂直に伸びる地下施設。
受刑者たちの食品や衣類などの生活必需品を輸送するために造られたエレベーター前跡地であった。
京介が拠点としている廃屋は、元々そうした物資の搬送口。そして倉庫として利用されていたのである。
この情報も2週間という短い期間で伊那野ひかりが調べ上げたものだ。実際に水野ななに指摘された通り、計画を練る時間は完全に足りて無かった。
そして、ひかりの前に居るオレンジ色の囚人服に身を包んだ女性。小柄だが影のある顔、威圧感のある風体とその身にまとう雰囲気は危険な人物であることを証左するようであった。
体の至る所に傷跡が残っており、顔は半分が焼けただれているスカーフェイス。元は相応に美人だったのだろうが、今は見る影もない。
名前は磯辺ゆうこ。37歳。
24年前、14歳の時に7人の男性を4日間で連続して強姦し、2人の女性の目撃者を殺害している、極悪の性犯罪者である。
当時そのメスガキの挙動は天井知らずで、警察に捕まった時ですら2人の男性を裸にひん剥き、挑発的な言葉を繰り返してマウントポジションを取り襲いかかっているところであった。
未成年4人。成人男性3人が被害にあい、内5人が事件後に社会復帰が難しい状態に追い込まれている上、一人は自殺した。
希少な男性の多くに害を成したとして、330年間の懲役が決まっている。当然、執行猶予など無い。絶対的終身刑である。
警察でも上層部しか知る事のない、奥多摩刑務所は秘匿された受刑施設だ。
絶対的終身刑の判決を下された、社会的に抹消された囚人の為に利用されている監獄なのである。
国家の法律によって死罪が適用されない為、磯部ゆうこは、この場所で23年間幽閉されていた。
既に人間という枠組みから外され、人権そのものも適用されない扱いなのである。
「お友達に断られて残念だったな、親友だったんだろ?」
「うるせぇな。調子に乗るんじゃねぇっての性犯罪者が。……ああ、そうさ。中学1年生からの腐れ縁だよ。水野ななは大切な友人だったんだ」
「くははははっ、あんたも大概、頭がおかしいね。親友を裏切って男か。まぁそうだよな、女だもんなぁ?」
伊那野ひかりはジロリと、磯辺ゆうこを睨んだ。
「へっ、まぁいいさ……感謝はしてるんだぜ。このままアタシもよぉ~……こんなしみったれた監獄で死にたくはなかったからな?」
磯辺ゆうこはそう言いながら、瓶の中身に喉を鳴らす。
アルコール臭を漂わせながら、地面に転がる麻袋に入ったものを蹴飛ばした。
「ふぐウゥゥぅっ!」
「ギャハハハハハ! ふぐっ!だってよ。 おもしれぇなおい!」
「ちょっとは大切に扱ったら~? 今までアンタを看ていた人っしょ?」
「そんな良いもんじゃねぇよ。 だが、分かった。今はアンタがボスだもんな? でもこんな袋に人が入ってるとイタズラしたくなるだろ?」
「あーうざ。頭のネジが飛んでるのはアンタよ。磯辺ゆうこ。それで、囚人全員こっちにつくって事で良いのよね?」
「ああ、どうせ刑務所で一生を終えるくらいならって全員が同意したぜ。実際、こんなチャンスを20年以上待ってたんだ。しかもなんだっけ?」
ああ、そうだ、と磯辺は思い出して楽しそうに笑った。
「アダム創生プロジェクト、だったか?名前はクソダサいけど、世界各国の男よりどりみどりの楽園を作るって発想だけは最高だな」
「ま、30年前以上の三カ国共同の拉致計画だもん。ちょっとダサいのはそのせいよね」
机の上で乱雑な食料をつつき、口に運びながら気の抜けた様子で伊那野ひかりはそう言った。
そう、アダム創生プロジェクト。
華国・深国・北奥国。 この三カ国が33年前に秘密裏の会合を開いて決定された、過去の遺物といってもいい古い計画であった。
1:64の男女比。
人間という種の存続において、致命的なほど開いてしまった性別の差。
だが、この1:64という数字、実態とは程遠い欺瞞である。
世界的に公開されて周知されている男女1:64は、全世界での平均を取ったものなのだ。
先進国に代表される米国は1:16。英帝では1:29。独は1:33。露は1:40。
いずれも各国で発表されている男女比の公式発表はこの値だ。
日本もこの数字に近い。1:59というのが、全国の戸籍管理によってほぼ確定している。世界に公開している数字は1:60だ。
これは政府高官ならば知っている話であった。
翻って最も悲惨な数字になっているのは、南米のある米音国という場所だ。その男女比は驚異の数字。
1:2097
絶望的な数字である。
種族として人間の絶滅が確定している。
すでに国家として破綻しており、米音国は4年前に近隣の小論国に吸収されているのだ。
33年前、深国と北奥国は男性の男女比が、公式では1:90と公表していたが、その内実は1:200を超えていた。
危機感を募らせた両国は、男性の確保に躍起である。
対外的には険悪の仲を演じながら、この未曾有の危機に裏で結託しているのが実情だった。
最初に白羽の矢が立ったのは、当時の公式発表で男女比1:14に抑えられていた華国。
男女比の偏りが女性に集中する中で、男性を多く抱えていたのは当時の華国。 その政策も深い関与を齎し、男という存在を多く手に入れる事に成功していたのだ。
言ってしまえばそれは簡単。単純なごり押しである。
ひたすら子供を産ませ続けた。
食糧問題などは頻発したが、人口爆発に歯止めをかけなかった結果、女性の方が多くとも、男性もまた多く産まれていたのである。
だが、偏りを修正するには至らなかった。
国家としてはすでに人口許容量が限界値にあり、経済破綻に食糧危機、その他諸々の国家として正常に運営できない程の危機が間近に迫ってきていたのだ。
そして、それほどまでに無茶をしても、男性は緩やかに減少していった。
結果、何が起こってしまったのかと言うと華国全土で女性の性的暴行が流行した。
男性のメンタルを破壊し、子を成すという種の根源的な行為を忌避するようになった者が続出してしまったのである。
そして人口の爆発に対応するため、華国は男性の保護・管理の法を整えて女性を追い出した。
男性だけが集まる場所を意図的に作り出したのだ。
これが楽園の始まりである。
この華国の政策は表面上、もっとも男性の保護に成果を上げており、各国で男性管理法が検討されるようになった。
実際に導入に踏み切った場所もあれば、別の方策に転じるかを議論する国も多く、世界的に見て社会情勢は不穏である。
同時に華国の大きな問題を抱えた要因として、管理法に慎重になっている国も多い。
日本もまた、男性管理法に踏み込めないのはこうした前例を危惧してのことである。
「華国としても、男性の確保だけは絶対にしなければならないわ。楽園を途絶えさせる訳にはいかなくなったもの」
「女性をゴミのように扱う法がまかり通っているものね?」
「そうね。必要があれば国家が主導して、女を間引きしてるから」
「お~怖い。アタシらそんな所に連れてかれようっての?ちゃんと安全は保障されるのかい?」
「今回の計画が成功すればね。3人も男性を連れ帰ったとなれば、私たちはヒーローだもの。好き勝手できるようになるわ」
「ふぅん。そうなるといいねぇ。どっちにしろ計画が失敗すれば、アタシらは人間以下か」
「……ええ」
磯辺ゆうこはニヤニヤと顔を歪ませながら、伊那野ひかりを見た。
確かにそうだ。伊那野ひかりはアダム創生プロジェクトのせいで、人間ではないのである。
伊那野ひかりなどという上等な名前は、コードネーム黒狼にとって対外的に必要だから用意され擬態した姿にすぎない。
生まれた時から用意されたのはコードネームだけだ。
27年間、伊那野ひかりを演じ続けてきた。
だが、ひかりは思う。
日本の国籍、日本の法律に従い、文字通り年を取った数だけ日本で暮らしてきた、紛う方なき伊那野ひかり本人だ。 であるのに、なぜ演じていたなどと嘘をつかねばならない? と。
「話を戻すわ。正式な手続きを踏んで、33年前。アダム創生プロジェクトの為に世界各国へ移民として移動したわ。 私たちの親がね」
そう、3カ国合同で産まれたアダム創生プロジェクトは、男性を確保するために世界各国に自国に忠実な子供を作り出し、その国の男性を確保することが至上命題とされた。
親は深国人の女性。つまり、2世なのである。もちろん、親からはアダム創生プロジェクトの為に洗脳染みた狂気的な教育を受け続けた。
疑いようなく、命ある生物への対応ではなかった。 ひかりにとっては苦い記憶である。
「でもね、こんなアホみたいな計画、最初は捨てようかと思ったわ。だって私って幸せよ。国籍は間違いなく日本人だし、友人もいるし、日本で犯罪を犯しても居ない。警察なんていう立場も得ている。順調だったもの」
「そうかい。じゃあ何でこんな事をしでかした?」
天秤にかける前、思考する前に動いていた。
大事だと思っていた親友も、男性を手に入れるチャンスがぶら下がった瞬間に、自分でも驚くくらい自然体で誘拐する計画が組み上がった。
どうしよう、等と迷うこともなかった。アダム創生プロジェクトが絶対の優先事項。
その為に産まれ育った環境。
今では当時のやり方が人権を無視した洗脳だと理解していても、感情と理解、そして与えられた命題とは別物であることがハッキリと分かってしまった決断である。
日本という世界の中で、人間を演じていた伊那野ひかりという狼は、その本質を捻じ曲げるには至らなかった。
「分かっちゃったのよね。私って人間じゃなかった」
アダム創生プロジェクトが成功すれば、ようやく人間になることができる。
親からの指令を受け取る必要もなくなるし、秘密裏に日本のあらゆる情報を抜き取ることもしなくていい。
女性としての幸せを与えられ、楽園の男性から直接子宮に精液を流し込まれ受精する資格を得ることが出来る。
深国では相応の高い立場が与えられ、多くの女性を個人の意思で振り回す事も容易い権力が転がり込んでくるだろう。
ゴミに等しい自分が、人間として英雄になれるのだ。
「はっはっはっは、結局なんだ、アタシら女は男の棒が欲しくて人生が壊れるんだな!くく、わかりやすくていいじゃないか!」
「一緒にしないで。私はケダモノじゃないわ」
「一緒じゃないか。最終的には男だ。そうだろう? マジでアンタはいい性格をしているぜ。アタシの方がまだ人間として壊れてないかもだ、まったくお笑いだよなぁ?」
磯辺ゆうこは一つタバコを吹かし、煙を吐き出すと麻袋に包まれている、看守を再び蹴った。
今度は力を入れず、態勢を変えさせるだけの彼女にしては優しい対応で。
屈みこんで、ゆうこは袋を手で開き、看守として真っ当に勤めていた女性の顔を露わにさせた。
瞼は腫れ上がり、頬の輪郭も崩れ、内出血を示す青い腫れが広がっている。歯も何本か折れているのか、出血もひどかった。
ずた袋の内側は、涙や鼻水、血液やよだれ等で酷い臭気がこもっている。
「ギャハハハっ!くせぇなお前。ちゃんと顔を洗えよ。小便でもしてやろうか?」
「ゆ、ゆふしへ……」
真面に喋れない様子の看守に、磯辺ゆうこは表情を歪ませて笑った。楽しくて仕方がないからだ。
「いやだね。お前、鼻の穴をそんな膨らませてつらそうじゃねぇか。鼻血か?詰め物でもしといてやるよ」
そう言って丸めた火の点いたタバコを、鼻の奥に無理やりねじ込んだ。
「おごおおぉぉぉ! あおぉぉ、あづぅぅぃぃぃぃぃ、やまへぇぇぇ! あづい"おぉぉぉお!」」
「ひゃはははは、何だそりゃ! 必死な顔して笑わせてぇのか!? おい、これお前のタバコだろ。ちゃんと吸えよニコチン中毒者。肺にたっぷり煙を入れねぇと辛いだろ? あ?」
「下品。見るに耐えないわね」
「おい馬鹿言うな、コイツラはな、アタシ達囚人に同じことをしていたんだ。 これでも優しくしてる方だよ、この場所じゃアタシ達は 『人間じゃなかった』 から。 麻酔なしで目玉をくり抜かれた奴だって居るんだぜ」
「あ、そ。まぁ好きにしなさい。そいつの事は」
個人の恨みや辛みなど、見ていたいものではない。少なくとも伊那野ひかりの感性では。
この獣よりはマシなはずだ。たとえ、同じ人間未満の存在だったとしても。少なくとも、磯辺ゆうことは仲良くはなれないだろう。
元看守であった女性は痛みに呻き、拘束された体を逃がそうと必死に藻掻いている。
その首元には、赤く染められた緋色の首輪が装着されていた。これは、わざわざ用意して着けさせたものである。
腰にぶら下げた無線機で、伊那野ひかりは同胞へと呼びかけた。
同じアダム創生プロジェクトに従事する、本国から派遣された子羊に。
「狼から子羊へ」
『子羊のエポールよ。今は板野みうって名前だけどね。連絡を待っていたわ』
「囚人は全員解放したわよ。そっちはどう?ある程度は理解してるけどね」
『順調よ。今は外の人間を誘導中。そろそろ自分たちが馬鹿だったって気付く頃かしら』
「そう……」
それだけ言って伊那野ひかりは、看守を一度だけ見つめた。
イモムシのように転がり、呻きながら身を捩る。磯辺ゆうこに向かって頭を擦り付けて必死に許しを請う。
見覚えがある。既視感。いや、実体験だ。
伊那野ひかりが親に対していしていたこと、それがそのままの構図で再現されている。
「私は、過去は振り返らない主義なの」
看守と目があった。
伊那野ひかりはそれだけを告げ、絶望に目を見開く彼女を置いて踵を返す。
全ては、アダム創生プロジェクトを完遂して人間に戻るために。
―――女性たちは、みんな建物の中に入った後に外に出されて、首輪をつけている。
招待者の友人や知人と思われる、京介のイベント会場に姿を表した女性たちは、何者かの誘導によって首輪をしているようだった。
今も数人が案内されて、首輪を身に着けるために建物の中に入っていってるようだ。
ナナイは周辺のカメラを破壊を指示しながら、ようやく目視できる距離に近づいた護衛班と宇津木こころの報告でその事実を知るに至った。
「あの首輪は一体何のために?」
「わかりません。招待者にも装着を促されているのかも……」
板野みうの声、東雲みゆるの文字にナナイは頷く。
ドローンでの解析を試みるべきだろう。首輪をわざわざ着けさせる。それも数百人という規模で。
手間と時間のリソースを使ってでも、敵はそうするメリットがあると判断しているのだ。何も無いということは考えづらい。
「予想されるのは、発信機などでしょうか。位置情報を把握し、逃走時などで優位にしたりなど……」
護衛の一人が自信なさげに意見を言っている。ナナイは発信機くらいはつけているだろう、と思いつつ、もっと残酷な未来を思い描いていた。
「逃走の時、手っ取り早いのは目撃者を全員消すことっしょ? 爆弾でもついてるんじゃないの? やだやだ、あんなのに巻き込まれてたかと思うと、ぞっとする」
宿平ほのかがぼそぼそと呟いている。その言葉も丁寧に東雲みゆるは拾い上げてナナイに伝えてくれた。
爆弾……ありうる。そうで無いことを祈るが、もしも小型の爆弾がついているのなら、起爆装置一つで200人以上を殺害することになる。
身体部位でも急所の一つ。太い血管と骨髄、脊椎など重要部位が集中している首は、小規模の爆発でも生命活動を破壊し致命傷とするのには十分だろう。
もし、京介たちにも首輪をつけられれば、不味い事になりそうだ。
「板野みう、連中の目を掻い潜って会場に忍び込む手筈だが、どうだ?」
「こちら板野みう。裏手の崖から中庭に入るルートなら、日も暮れてきたし十分できそうよ」
自信のありそうな顔だ。予定通りゴーサインで良いだろう。
「なるほど、ドローンを3機回す。時間は10分後にセット。合図を出す。宇津木こころと護衛班は待機だ。あの首輪はきな臭い。ドローンで解析が終わるまで待った方が良い」
「わかりました」
「はい」
ナナイはふっ、と息を吐きながら、隣で高速で手を動かしている東雲みゆると、なんだか収まりのつかない宿平ほのかへ視線を向けた。
自分がこの場所に居ることがまるで不思議だ、という困惑の表情をしながら、スマートフォンを弄っている。
ほのかはともかく、みゆるはナナイがこの事件に巻き込んでしまって居る。
「……すまないな。巻き込んでしまって」
どちらに発言されたのか、東雲みゆると宿平ほのかは互いに顔を見合わせたが、この場で喋れるのは一人だけだ。
ほのかは黙っているのも気まずくなり、頭を一度ガシガシと掻いた後、唸る様に絞り出した。
「あのさ、別にもう良い。割り切ったもん。東雲さんだって一緒だと思う、っていうかナナイ君が招待したんだから、むしろ事件に巻き込まれてハッピーって感じ? くそっ、何で私が同じ女を援護射撃しなきゃいけないんじゃい!」
―――あの、その、ごめんなさい。
「ちょっと東雲さんが誤らないでよ。 惨めの極みでしょーが。 いや、元々惨めが極まった女ではあるけどさぁっ! って良いよ、もう。ていうかね、この際だから私も手伝うって腹括ってる。それで、あわよくばナナイ君に見初められたいと思ってる」
―――えっと、ナナイ君にそれを伝えてもいいのでしょうか?
「むしろお願いしたいわね。その、東雲さんに頼むのもすっごい間違えてる気はするっていうか、いや絶対嫌だよね? ……でも私は謝らない!」
―――あー、そ、そうですね……えっと、な、ナナイ君。あのですね?
文字を追う。
宿平ほのかは開き直ったように、自分の身の上を話し始めた。自棄になったのかもしれない。
もしくは、これが彼女の中での感情の整理の仕方なのか。
招待者ではないとはいえ、結果的にナナイに付き合わせることになった彼女の愚痴に付き合い、文字を追う事にした。
吐き出す事で感情の整理が出来るなら、それも一つの効率的な手段だ。
「宿平ほのかって人間はね、生まれも育ちも庶民なのよ。こんな謎の組織~とか軍隊が~とか御国が~とかそういうのマジで何の関係も無いし、母親もなんてことない中小企業のサラリーよ。ついでに言えば私は仕事もしてないプータローで22歳。詰んでる女ってわけ。分かる?これってこの国の過半数に当たる負け組なんだわ。 この先は真っ暗よ。精々目指すとしたら、いつ配られるか分からない精子を狙ってお金を積むくらいの人生なわけ。 子供に男の子が出来たらワンチャンあるかなってくらいよね。男児の出生率の数字見てると、宝くじを当てる方がなんぼかマシな賭けじゃない。 あー人生終わってるな~ってなるでしょ? なるんよ。 言ってて惨めすぎるな、これ。どんだけ終わってるんだ私。 でさ、東雲さんはナナイ君に選ばれたのよ。 私は藁にすがる思いでノコノコやってきて事件に巻き込まれただけ。 は~~~~~、とんでもない格差がここで産まれてるのを目の当たりにしてるんだよな、どんな罰ゲーム? マ~~ジ、許せねぇ~~~」
彼女はマシンガンのように言葉の濁流をぶつけてきた。
酷く申し訳なさそうな顔をしつつも、東雲みゆるは文章を淀みなく打ち込んでナナイへと一文字足らず正確に意思を伝えてくれる。
まるで感情すら直に伝わって来そうな情熱的な長文だった。
ナナイはやはり東雲みゆるの技能に感心しつつ、宿平ほのかに顔を向けた。
「うっ、そうやってさぁ、見られると。 ……くっそ、マジでカッコ良すぎる、アンタの顔ヤバスギなんだよ。私、今まで自慢じゃないけど42人の男の人に告白してきたけど、一番ヤバイわ、ナナイ君」
「俺はそんなにやばいのか?」
「うん。現実離れしすぎ。襲いたいくらい。襲わないけどさ……あーもう、その顔は犯罪だって。 君はもう宇宙人って言われた方が納得できるね。 いや、もう、ナナイ君ってマジで宇宙人なんじゃないの?」
「―――なっ! 違う! 俺は人間だ!」
「うわっ、びっくりした! 近づかないでよ、心臓麻痺するかとおもった! でも、好きだ畜生、おらっ! バッチ恋!」
―――ナナイ君?
思わず立ち上がって詰め寄ったが、みゆるの何処か遠い眼をした雰囲気と、入力された文字を見て何とか冷静さを保つ。
宿平ほのか。 なんだこの女は。 鋭すぎないか?
アダムプロジェクトの為に完璧な擬態をしている筈だ。出会って僅か数時間でナナイの正体を看破されるとは信じられない洞察力である。
宇宙人とはこの地球に存在する生命体以外の意志ある存在を定義している言葉だ。一気に全身から冷や汗が噴き出て戸惑ってしまった。
今はまだ、アダムプロジェクトの全貌を明かすには尚早すぎる。
秘密を知られたからには……殺すか?
いや、落ち着け。宇宙人と指摘されて即座に殺害すれば、自分が宇宙人だと認めたような物だ。下手をすれば、東雲みゆるにも嫌疑をかけられるかもしれない。
どうする……などと逡巡している間も、遠のいたナナイが着席する姿を見て、両手を広げて待っていた宿平ほのかは、ちょっとだけがっかりしながらもペラペラと言葉を重ねていた。
「人生で出会った男性、全員に告白しまくってるなんて節操ない女って思った? ごめん、自覚してるよ? でもね、庶民の中でもクソ底辺な無才能女が出来る最大限のチャンスを掴む行動って見かけた男性にとにかくアタックすることしか無いの。例えどんなに他の女性の方が優秀であるって分かっていても、玉砕覚悟でぶつかるしかないのよ。知ってるだろうけど、結婚だって1人の男性につき10人の女性しかできない」
その選ばれる10人は自分を磨きに磨いた超人みたいな女ばかりである。
生まれついて恵まれた才能を最大限に利用し、持ちうる武器を全て使い、熾烈な争いを水面下で繰り広げるのだ。
女の敵は女。
告白した男性に振られた直後に、苛烈に同性から責められた思い出ばかり豊富にもっている宿平ほのかは、それだけは確信できる。
自分よりも溢れる才能。追随すらできない環境。それでも女の幸福は男の人を手に入れること等と周囲は当然のように煽ってくるのだ。
じゃあ何ができるのだ。何も持っていない女の底辺にいる宿平ほのかは、何ができる?
儚い希望と多大な諦観を抱えて、一欠けらのチャンスを逃さない様に目に付いた男へ積極的に動くしか無いではないか。
「一体どれだけ男性と女性に数の差がついてると思ってるの? 日本だけで言えば人口は1億人。世界平均男女比で計算すれば、日本の男性は150万人。あはっ、絶望的な数字でしょ? しかも実態は結婚を拒否する男性や精子を提供しない男の人もいるわけ。少子高齢化は加速中。男性は目減りする一方。女はそんな男性を巡っておしくらまんじゅう状態。 まぁ、そんな社会情勢は私だって大した興味はないわ、声高にそんなことを叫んでも男性を手に入れられる訳でもないからね」
―――宿平さんの考えは、私も理解することができます……
ここで東雲みゆるも会話に加わってきた。彼女が宿平ほのかに共感したのは、最大限のチャンスを掴むには、男性へアプローチし続けるしかない、というところだった。
結婚という現代社会の到達点を目指し、女性はとにかく自分のステータスを高める行為に全力を尽くす。
権力・金銭・暴力・才能・美貌に人脈。
あらゆる自分の能力と権能を高め、いかに男性へ己が有用な存在であるかを誇示する傾向に傾いた。
翻って、東雲みゆるは幼い頃に交通事故にあい、声を失った。
スタートラインから不利な立場となったのだ。
男を手に入れる等、夢幻になったと断言しても良い、圧倒的なハンデを背負うことになって、子供の頃はえんえん愚図って親を困らせてしまった。
実際、東雲みゆるは中学生になる頃には男性の事を諦めていたと思う。
男性との関わり合いは己の人生の中ではありえない物。
『字』という物で意思は伝えられても、わざわざそれを東雲みゆるの為に時間を割いて読んでくれる男性など居ないことを知っていたから。
それでも日常会話や早口、それを数人まとめて処理できるように独学で『言語』に対する訓練を積んだのは、もしかしたらという淡い夢を見続けられたからだ。
東雲みゆるはナナイに招待され、かつてない幸福の渦中にいると自覚している。
二度と訪れないラストチャンスであるということも。だから―――
―――私はナナイ君の為なら、何でもできます。
「そうよね。ほんと羨ましい。ねぇ、ナナイ君。結果は分かってるけど、訊いてもいい? 私もナナイ君と結婚したい。ナナイ君の、女にして?」
「……宿平ほのか」
「……分かってる。分かってるけど、浅ましい女だけど、22歳よ?もうこれが本当にラストで最後のチャンスだもん。節操ないし、努力だってしてないまるで無能。自宅警備員で、他の女性に比べたら不良物件だっていうのも白状する。でも、でも私―――ナナイ君、お願い!私、あなたの為なら何でもする!ペットでもゴミ扱いでも何でも良いから、私の事を拾って欲しい!」
女の幸せ。それは男性を得ること。
本当にそうか?と宿平ほのかはずっと疑っていた一人である。ナナイを含めれば43人目の告白になる。こいつ何を言ってるんだと言われても、言い返せないだろう。
宿平ほのかは常に男性に挑戦してきた。諦念を抱きながらも、どんなに怖くても告白をしてきた。
男の人に拾われなければ、女は負け組だ。そんな強迫観念にずっと追われ続けて生きてきたのだ。だからこそ答えを知りたい。
ホントに男性に見初められれば、自分の人生は全て変わって幸せになれるのだろうか。 どうしようもないクズだからこそ、変わりたい自分が居る事を宿平ほのかは自覚していた。
ナナイが真剣な顔でそんな彼女をじっと見つめると、宿平ほのかはどんどん目尻を潤ませて感極まっていくように顎が上がってしまう。
今にも泣き出しそうな彼女と、東雲みゆるを見比べ、ナナイは真剣な話である空気を感じて黙り込んだ。
そして考える。
アダムプロジェクトを見据えると、彼女の提案は渡りに船だ。ナナイの女となってくれる、という言葉の意味は素直に受け取れば一人の女を入手することができるということ。
彼女は成人しているし、子供を産む機能を兼ね備えている事だろう。
一方で、彼女は謙遜しているがナナイの正体すら暴く観察眼。いわゆる、完全に擬態している人間の男であるのに、宇宙人と看破した勘の良さというものは抜群に抜き出ている。
自宅を警備しているという事は、それなりの有事に備えた訓練も積んでいる事だろう。恐らく、動きからは警備班のようなプロフェッショナルではない、訓練が不足している新人だとは思うが。
野放しにする危険性。アダムプロジェクトの方針。ナナイにとっての最良。
逃す手はないか……いや、逃せば宇宙人だと触れ廻るような暴発も考えれば手の内に入れとくべきだ。
「本当に、俺の為なら二人とも何でもしてくれるのか?」
最後の確認。何故か東雲みゆるまで首を上下に必死に振っていた。
―――はい、約束します
「うん、絶対に!」
「……分かった。俺は……俺の気持ちは」
ふっと息を吐いて肩の力を抜いた。
ナナイは自分の手の中に入れることを決断したのだ。
東雲みゆるは女性とのコミュニケーションに不可欠だ。耳栓を外せば即座に死に繋がりかねない危険がある。
例え、種の繁栄の為に母体にならなくとも、地球上でアダムプロジェクトの計画を遂行するためにはナナイの傍に居てくれなくては困る存在。
そして、何でもするという言葉を信じれば、進んで母体の実験体になってくれるはずだ。
何より、ナナイが宇宙人であることを見破った以上、宿平ほのかを放置するわけには行かない。
殺害・生存・あらゆる状況、未来に予想される選択を含んで今後を考えた時、アダムプロジェクトのベストを考えれば東雲みゆるも、宿平ほのかも確保するのが最も最大の効率を叩き出す。
「東雲みゆる、宿平ほのか。お前たちは俺の女になってくれ」
「う……そ……まじ?」
―――嬉しいです、ナナイ君。本当に……本当に、嬉しい。
二人の女性は、堰を切ったように突然泣いた。 それはもう、わんわんと。
物凄い勢いで号泣し、呻きながら感謝を告げる。 東雲みゆるも顔を掌で覆ってしまい、文字を見る事が出来なくて、ナナイはうろたえた。
なんだ? 何故泣く? 今の言葉に号泣するような要素はあるか?
何か、間違ったか?言葉選びは……簡潔に事実を述べただけのはず。問題ないと思うが、こんなに彼女たちの感情を揺さぶるとは。
おろおろと視線を彷徨わせ、重大なミスを犯したと勘違いしたナナイは二人の女性を前に何も出来ずに固まった。
大声で泣いているだろう宿平ほのかに手を向けようとして、即座に戻す。
東雲みゆるに泣いている原因を問おうと口を開けば、彼女はぶんぶんと左右に首を振って拒絶のボディランゲージを示し、開いた口を噤む。
この状況をどうすれば、と混乱するナナイ。
そこで二人の女性が接近してきて、とある異臭に気付く。
宿平ほのかが前傾姿勢となり、ナナイの胸に飛び込んできた。 椅子に座った状態で硬直していたナナイは彼女の身体を受け止める。
その横に座っていた東雲みゆるも、遠慮がちにナナイの肩へと手を乗せたかと思うと、首を傾けてそっと体重を預けてくる。
女性に抱き着かれるという行為にも驚いたが、その時、ナナイの思考はもっと別の事に意識が割かれていた。
臭気。
先ほどから気になっていたが、鼻の奥にこびりつく妙な匂いが、僅かにナナイのバイタル値を興奮状態にさせている。
その臭気の原因は、隣に頭がナナイの肩に座っている東雲みゆる。
そして胸元で涙を流す宿平ほのかから強く強く、漂ってきているのだ。
考えてみれば、ナナイは地球に来てから初めて、至近距離で女性の近くに居座っている。
恐らくいちばん近くで触れ合ったのは、あのキリングマシーンの少女だが、流石に戦闘中に臭いに気を取られるミスなどナナイはしない。
だが、こうしてオペレーションを女性の近くでしていると、どうしても気になってしまった。
女の体臭……というやつか?
確か、人間の男のコミュニティでは女性の体臭や香水等による匂いについて、嫌悪感を示すような話が頻繁にされていた。
男には強烈で、たしか……メス臭などと揶揄されていたはずだ。
たしかに臭い。
隣同士で座っていると嫌でも漂ってくるほどだ。個人差はあるだろうが、強い香りが鼻を擽る。
だが、ナナイは確かに臭いと感じているが、嫌悪感を示す匂いではなかった。
毒物のように目の奥を刺激したり、鼻から血を流したりなどの危険はないし、むしろ軽い興奮状態を維持してくれるカンフル剤のように思える。
実際、東雲みゆるに視線を向けると彼女の汎ゆる部位が気になった。
泣き腫らした顔を挙げて、この上ない笑顔を向ける顔。ぷっくりとした唇に視線が自然と誘導される。続いて長く伸びた黒い艶のある髪。タイピングや速記で目まぐるしく動いていた指先に手。
ナナイの視線はそこから宿平ほのかの胸元へ。わずかに揺れている脂肪の塊が、腕の動きに合わせて形を変える。
女性の持つ、おっぱいという部位だ。そして大きなお尻に繋がるように、やんわりとした曲線を辿って丸みの帯びた体。
なんだか気まずくなって再び東雲みゆるに目を向ければ、背を向けて自分の席へ戻ったところであった。
丸いお尻がデカイ。
安産型、という奴のはず。彼女の体型はまったくもって蠱惑的で、左右にふりふりと揺られる大きなお尻から、ナナイは何故か目が離せなくなった。
じっとりと身体全体を見てしまう。
東雲みゆるも、宿平ほのかも、どこか脳の奥を刺激する体臭をまき散らしながら視線を釘付けにしてくる。
ふん、と自分の鼻息が大きくなった音にナナイは気付いた。
何をしている。俺は、何を?
そう自問するが、他のことなど、考えられないくらい。かつてないほどナナイは女体に夢中になっていた。
これが……俺達の種から失われた 『女性という存在』
知らず無意識にナナイは唾を飲み込んで喉を鳴らしていた。
「正面には誰もいませんね。普通に紛れれば潜入はできそうだと思います」
「流石に正面のカメラは壊せそうにないかも」
「普通にバレちゃう」
―――あの、ナナイ君、護衛班から報告が来ています。
黙ってみゆるやほのかを見つめ続けていたナナイに気がついたのだろう。
東雲みゆるは若干赤く染め、涙を流した顔を恥ずかしそうに隠しながら、紙に書かれた速記文字を体ごと向けてナナイの目の前に突きつけていた。
一瞬の硬直。時を置かず、ナナイに理性が戻ってくる。
「っ! ああ、分かった。了解だ。ドローンからの報告でも生体反応はない。だが、連中の中にはそれを誤魔化す技術を持っているやつがいる。周辺に警戒しながら、合流してくれ」
―――了解、首輪に関してはまだ調査中。詳細が判明次第、報告します。以上。
了解の声が返ってきて、ナナイは首を振った。
何をやっていた?馬鹿か、俺は!
何をほうけている。今は敵地への作戦中である。命に関わる戦闘行動もありえるのだ。シード候補生でありアダムプロジェクトの試験体としては今の行動は落第に等しい。
懸命に作戦に従事してくれている女性たちに対しても、今この場で京介たちの救出作戦以外のことを考えて呆けていたなど失礼極まりない。
証拠に東雲みゆるは報告が来ると同時にナナイへと報せてくれていた。
突然、動揺を顕わにし落ち着かない様子のナナイを不審げに見つめてくる東雲みゆる、宿平ほのかの視線に晒されてナナイは申し訳無さそうに謝った。
何故か、ナナイは彼女たちの顔を見て謝ることが出来なかった。
「すまん、東雲みゆる。宿平ほのか、大丈夫だ。 少し……その、なんだ。 君たちに見惚れていた、すまない」
「ぁぅ……ぇあ……」
「ちょ、ちょっと、それは反則だって……そんな事言われたら、もう無理だよ」
言葉にならないみゆるの声、そして明瞭に判別できるほのかの声。
東雲みゆるも宿平ほのかも、顔を真っ赤に染めた後に体ごと目をそらして背を向けてしまった。今までマシンガンのように喋り続けていた彼女の声も止まっている。
完全に怒っている、もしくは愕然と呆れたのか。号泣もされた。なんという失態。
だが、これは仕方のないことだ。
作戦行動中に見惚れて報告を受け取っておきながら何も行動できなかった……反応するまで10秒は掛かっていただろう。
あまりに惨めな失敗。
呆れられて見捨てられても、おかしくない。
シード候補生として訓練中であれば、物理的に首が飛んでいてもおかしくなかった。
とんだミスだ。あまりに恥ずかしくて、ナナイは再度、謝った。
「す、すまん……以後、異常なメス臭が気になって無様な真似を晒すような失態はしない。約束する」
そう言ってナナイは気合を入れ直す。
深呼吸して心を落ち着かせるのだ。匂いを気にするな。体臭など、生物であればあらゆる存在が持っているものだ。
気を抜くな、集中しろ。彼女たちの体臭は確かに強烈だが、心地の良いものだった。害はない。むしろ興奮を齎す効果があるだろう。
冷静になれナナイ、この興奮を利用するのだ。僅かな興奮状態は集中力を増大させるのに役に立つ。
過剰に匂いを接種せず、時折吸い込めば軽い興奮状態を維持できる。
ナナイは気持ちを素早く切り替えて、裏手からの潜入を試みる板野みうのサポートへと真顔で集中することにしたのであった。
なお東雲みゆると宿平ほのかは、ナナイに自分の体臭に言及され、真っ青な顔になっていたことを明記しておく。