貴方へ贈る
「──久しぶり」
薄暗い部屋でパジャマ姿の男はそういいながら、冷蔵庫から取り出したばかりのビールを机の上に二本おいた。
「もう一年か……時間の流れって早いんだな」
一本あける。
かしゅっ、という小気味よい音が部屋の中で寂しく反響した。
「そっか、もうそんなになるんだねー……」
男は対面の彼女へと視線を持っていく。
「ねぇ、覚えてる? 私たちが出会った日のこととかさ?」
「……今でも覚えてる。忘れた時なんて一度もない」
ビールをまた流し込む。ものの数秒で半分以上を飲んだ男は、神妙な面もちで彼女をみた。
「あの時のオレはまだ子どもだったよな。何回も何回もお前に振られてるのに、諦めずに猛アタックしてさ」
「そうそう。それで私が諦めて付き合い始めたんだよね」
「お前が諦めて、オレとお試しでつきあってくれるって言ってくれたときは、跳ねて喜んだよなオレ」
「あったなーそんなコト。ふふっ、『好きです』の言葉も出てなかったもんね〜」
男は昔の自分を思い返したのか、自嘲気味に鼻で笑った。
「嬉しかった……本当に……」
半分残ったビールを一気に流し込むと、空になったビール缶を手で握り潰す。
アルミの潰れる音が、力強く反響した。
「付き合いたての頃、どうしていいか分からずにさ。デートに誘ったはいいけど空回りしまくってさ」
「うんうん、遊園地に行った時とか酷かったよね? 忘れ物はするし緊張し過ぎてガチガチに身体が固まってたもん。楽しんでるの私だけなのかな〜とか思ったりしたんだよ?」
「……動物園に行った時とかも酷かったよな俺。格好いいとこ見せようとして動物の紹介してたら、飼育員さんに間違いを訂正されるし、ヤギに餌をやろうとして袋ごと食われたりさ」
「はははっ! あったねそんな事! 懐かしいなぁ〜」
──今じゃ懐かしい思い出だ。
言葉に出さず、男は胸の中でそっと呟いた。
「他にも色々あったよな。子どもは何人産むかとか、男か女かとか、取らぬ狸の皮算用にも程があるのにそんな未来ばっか夢見てさ」
「そうだよ。結局襲ってくれなかったしなぁ〜。いつでも準備万端なのにさ〜。ヘタレ彼氏を持つと大変だねホント」
「でも……そんな毎日が楽しかった」
「ふふっ、私もだよ」
大きく息を吸う。
乱れる気持ちの整理をする為、自分の気持ちをさらけ出す為、その準備をする。
「俺さ。ずっと言おうと思ってたんだよ。ちょうど一年前、お前と喧嘩したあの日の事。お前が買ってきたショートケーキ勝手に食っちまってさ」
「そうそう、レア物だったのにさー!」
──かしゅっ。
二本目のビールが開けられた音は、虚しく消えていく。
「期間限定個数限定のレア物なんて知らなくてさ。お前に物凄く怒られてさ。ムキになって俺も言い返したりもしたし心にも無いことも沢山吐いたよな」
「『名前書いてない方が悪い』とか言われたっけ。今思い返しても子どもだよね〜。でも……私も許せば良かったよ。私も子どもだったなぁ」
「ぁぁ……」
男はまた、ビールを流し込む。酒の力を借りなければこんな事も言えないのかという、自己嫌悪と共に一気に流し込む。
「もう、さっきからいっぱい飲んでるけど大丈夫? お酒強くないでしょ?」
半分ほど飲んで、またテーブルへと置く。
そんな何気ない仕草でも、動かす腕が重く感じた。
「……今更許してくれなんて言わない。悪かったのは俺で、あの時にこそ大人になるべきだったんだ。あの時に俺が素直に謝っていれば、お前が出ていく事も無かった……!」
──それでも。
抑えられなくなった感情が溢れ、涙という形で頬を伝う。
「もー、酔うと泣いちゃう所はまだ治ってないんだね? だから飲み過ぎちゃいけないって言ったのに」
「……苦手だったビールもさ。今じゃこんな様だ。飲まないと……毎日が後悔で潰れそうなんだ」
まだ中に残っているビール缶が、男の握力に負けて潰れた音が鳴った。潰れた箇所から若干ビールが漏れ、テーブルを濡らす。
「こんな酒に頼らないと謝れないような、まともに向かい合う事も出来ないような弱い俺だけどさ。俺はただ、お前に謝りたかったんだよ。お前と笑いたかった。ただただ、幸せの日々を暮らしたかった……」
頬を伝った涙は漏れ出したビールと混ざる。それを拭くこともなく、ただ、ただ、拳を硬く作る。
そんな無意味なできない自分に嫌気がさした。自分を殴ることが出来ない自分が
そして、怒り、悲しみ。その二つの感情が入り混じり、ぐちゃぐちゃになった顔で対面の彼女へと頭を下げた。
「本当に……本当に……ごめん……っ……」
「もう怒ってないよ。だからね。もう泣かないで。もう、私はもういいからさ」
細かな嗚咽が、一人部屋の中で反響した。
どれだけ後悔しても、どれだけ謝罪したとしても、許されることはない。
視界が涙で霞む。
彼女の姿はいつ見ても変わらない。自分だけが成長して、先に大人になって──写真立ての中で笑顔を咲かせる彼女の姿は鮮明に捉える事が出来た。
「俺が大人だったら、あのときお前は交通事故になんか合わなかった……!」
「ううん」
「俺のせいなんだよ! 俺がっ! 子どもだったからッ! お前が死ぬことになったんだよッ!!!!」
声を荒げると同時に、男は缶を思い切り握り潰した。その時、手からは血が流れ出る。
それから少しして落ち着いたのか、男は無理矢理にでも深呼吸をした。乱れた呼吸は収まらないが、気持ちは幾らかマシになったような気がした。
しかし、水をせき止める止水板が外された時のように、後悔は流れ止まることはない。
ふと、視線下に向けた。酒と血と後悔が入り混じる水たまり。わずかな光で反射し映る男の顔は、なんとも情けない顔であった。
男は袖でごしごしと目元を拭う。
「はは……こんな姿見たら、お前はきっと怒るんだろうな。酒を飲みすぎだとか、泣くなんてまだまだ子どもだとかさ」
力なく笑う。しかし次に顔を上げた時には、涙でグシャグシャにしながらも口角を上げ、ボロボロの笑みを作ってみせる。
「また二人で出掛けたかった」
「……うん」
「ずっと一緒に居たかった」
「うん」
「ずっとお前と話したかった」
「うん」
「なんて……もう全部遅い。それは分かってる。でも言わせて欲しいんだ。あの時に言えなかった言葉をさ」
「……うん」
ビールのせいか顔を真っ赤にして、男は彼女と真っ直ぐ向き合う。
暫しの沈黙の後、はにかんだ笑顔で、男は告げた。
「好きです。ずっとずっと、これから一生、あなたの事が好きです。こんな情けない男だけど、こんな頼りない男だけど、俺と付き合って下さい」
この時、この一瞬の時だけ、大切な存在を感じることが出来たような気がした。
脳裏に焼き付いた過去の情景。夕焼けが差し込む教室内で、彼女に告白をした思い出の場所。
そこで、男とその彼女の二人が向かい合って立っている。
「もう、最初からそう言ってくれたらよかったのにさ」
彼女は笑った。
その笑顔は、もう手が届くことのない宝物。
この一年間、何度も願った。手に入らなくてもいい、また見ることが出来たらいいのだと。
これは幻想だ。それは分かっていた。
それでも男の心は満たされた。
許されたような気がした。心の中に残っていたわだかまりが消えたような気がした。
これからも十字架を背負って生きていかなければならない。それは変わらない。
それでも――それでも。
「……?」
頬に伝わる濡れた感覚で男は目を覚ます。
それによって、今さっき見た光景が夢であったのだと現実に引き戻されることになる。
「はは……やっぱり俺は、ダメだな」
袖で濡れた頬を拭いて、潰れた二つの缶を捨てる為に立ち上がる。掌の痛みが、これは現実なのだと男に告げた。
「……答えは聞きたかったな」
何気なくこぼした言葉。夢の中で笑う彼女を思い浮かべて、男は笑った。
ふわっ、と、まるで抱きしめられた時のように、ふと彼女の匂いが鼻をくすぐったような気がした。
──もちろんだよ
最後に耳元で、いつもの彼女の声が優しくこだました気がした。