一服の恋
一服の恋
薄暗い店内に足を踏み入れ、一層心身の緊張感が増した。
先輩と、憧れの女性とお酒を飲むのは、初めてだ。
「随分お洒落なお店ね」
「えっと、行きつけで」
「そうなんだ」
背伸びしたうえ、わかりやすい嘘までついてしまった自分を恥じた。だが、今更後には引けず、意を決してカウンター席に座った。
「上井君は何を飲むの?」
席に座るなり、先輩が僕に質問する。
「えっと、そうですね」
僕は少し考える素振りを見せた。
僕は、お酒に詳しくない。ましてや、こういった簡易照明とシックでモダンな雰囲気のバーでお酒を飲むこと自体、初めてだ。
「先輩のオススメってなんですか?」
「ううん、色々あるけど、それは最後に飲むのがいいかもしれないかな」
僕よりお酒を嗜んでいるのだろうか、どのタイミングで何を飲むのかも考えていることに驚き、それを悟られないように努めた。
「じゃあ、僕は一旦お手洗いに行ってきますね」
「ええ、行ってらっしゃい」
先輩の言葉を聞き終えてから、僕は店内の奥のお手洗いに向かった。
幾分か、頭のなかで念密にシミュレーションし、外に出た。
席に戻ると、僕に席に既にグラスが置かれていた。 「先輩、これは?」
「ううん、上井君、なかなか戻ってこなかったから、私の今の気分で上井君に合いそうなカクテルを頼んでおいたの」
「そうなんですか。わざわざありがとうございます」
僕はそう言って着席し、グラスを手に取り、それを一口飲んだ。
「これ、ジンジャーエールの味がしますね」
「あら、気づいた? それはシャンディ・ガフといって、ビールとジンジャーエールを合わせたカクテルよ」
先輩はそう言いながら、スラックスのポケットから煙草を取り出し、一本手に取ると、口に咥えずに火を点けた。そして、やはりそれを咥えることをせず、ただそれを眺めていた。
煙草に火を眺める先輩の横顔に見とれながら、なんとか話の話題を作り出そうとした。
「吸わないんですか?」
先輩は少し困ったような表情をしながら、火の点いた煙草を灰皿にそっと置いた。
「ううん、吸わないよ」
「え? じゃあどうして煙草に火を点けたんですか?」
僕に質問に対して、先輩はやはり困った表情をしている。
「ううん、なんとなく、かな」
先輩はそう言いながら、灰皿の上でゆっくりと燃えていく煙草を眺める。
その横顔から、ほんの少しばかり、寂しさのようなものを垣間見た気がした。
なんとなく気まずくなり、僕はカウンターに置かれたシャンディ・ガフを手に取り、一気に飲み干した。
お酒が苦手ではあったが、これは飲みやすく、それが僕の心にほんの少し、余裕をもたらしてくれた。
それでも、お酒の力を借りたというのに、これ以上話を広げることができない。
「そうですか」
それしか言えず、僕は空のグラスのなかの世界を眺めた。
「次は、何になさいますか?」
突然のマスターの言葉で我に返り、先ほどお手洗いに行った際に調べたカクテルの名称を思い出そうと懸命になった。だが、緊張感と焦りから、そのほとんどを忘れてしまっていることに気づき、狼狽した。
「えっと、テキーラサンライズで」
唯一憶えていたカクテルの名称を伝えると、マスターは微かに首をかしげたが、すぐに口元を緩ませた。
「かしこまりました」
マスターはそう言うと、注文されたもの作り始めた。
やがて、僕の目の前にオレンジ色と赤色の二層が重なっているような、鮮やかなカクテルが置かれた。
「お待たせいたしました。テキーラサンライズでございます」
マスターの言葉にこくりと頷き、僕はそれを手に取り、一口飲んだ。
「そのカクテル、美味しいよね」
「――え? ああ、そうですね」
僕はびっくりして思わず持っていたグラスを落としそうになった。
「そのカクテルは名前の通り、日の出を意味するカクテルよ」
先輩は僕の飲んでいるカクテルについて、簡単に説明してくれた。
「先輩、お酒に詳しいんですね」
僕は先輩の知識に素直に感服した。
「ううん、昔、ちょっと、ね」
先輩は何か含んだように言った。
「それにしても、日の出ですか。僕はどちらかというと日没かな、って思いました」
僕が率直な感想を言うと、先輩は目を丸くした。
「ふふ、あなた”も”やっぱりそう思うのね」
先輩はそう言い、灰皿の煙草を手に取り、それを咥え、吸った。
ゆっくりと吐き出された煙がテキーラサンライズのグラスに重なり、梅雨から夏の終わりにかけての夕暮れを連想させた。
日中は綺麗に晴れているのに、日没に近づくにつれ、空を雲が覆っていき、星を見えなくしてしまうような、そんな夕暮れを連想させた。
「やっぱり吸うんですね」
「ええ、気が変わったの」
先輩は灰を落とし、煙草を置いた。
「私、今日から煙草を吸い始めるかも」
「え? でも、吸っていたんじゃないんですか?
煙草の箱を持っているから」
先輩の言葉に疑問を感じたが、その疑問はすぐに解決した。
「この煙草、貰い物なの」
そう言うと、先輩はすっと立ち上がった。
「え? どうしたんですか?」
僕はびっくりし、立ち上がりながら尋ねた。先輩は僕の質問に答えず、そのまま出口のほうに歩いていく。
「ちょ、ちょっと先輩! どこに行くんですか?」
「上井君、私、もう帰らないとだから――」
先輩は出口を少し開けながら言った。
「――ごめんね」
先輩はそう言って、店を出て行った。
残された僕は席に座り、先輩が先ほどまで咥えていた一本の煙草を見つめた。
煙草の火は、消えかけていた。
額に手を当て、一体何がいけなかったのか、僕が何か失礼なことを言ってしまったのか、それとも用事があったのか、様々な思考を巡らせていた。
「お客様、お待たせいたしました」
低く渋い声とともに、僕の目の前に一つのグラスが置かれた
「え? いや、頼んでないですよ」
僕がそう言うと、マスターは少し考える素振りを見せ、そして、少し微笑んだ。
「お連れ様からお客様に、です」
「先輩から?」
驚きつつ、目の前に置かれたカクテルを見つめた。
とても綺麗で澄んだ青色をしており、店内の簡易照明がそれを更に縁取っている。伝えたい言葉を言う前に先輩が帰ってしまったこともあり、その青色に吸い込まれてしまいたくなる感情が芽生えた。
「マスター、このカクテルは、なんですか?」
「こちらは、ブルームーン、というカクテルでございます」
マスターはその微笑みを崩さずに答えた。
僕はじっとブルームーンを見つめ、手に取って、それを一口飲んだ。
僕はカクテルはおろか、お酒もわからない二十歳であるが、このカクテルの味だけは、なぜだか痛いほどわかった。
おそらく、
いや、きっと、
僕は先輩に、断られたのだ。
**
あとがき
私にはある友人がいる。
その友人はお酒がとても好きで、一時期毎週のように飲んでいた。
友人が、ある日私にこう言った。
「酒で話そう」
単純に、お酒を飲んでわいわい話そう、という意味だったのかもしれないがが、その言葉をきっかけに、この作品は生まれた。
自分の思っていること、気持ちを伝えるうえで言葉や文字は前提だが、人間はときにそれらを使うことをせず、あまりにも回りくどいやり方で気持ちを伝えることがある。そして、それは言葉に発するよりも、文字に起こすよりも心に深く届くときがある。
さて、本文の舞台であるバーを想像してほしい。
そこでは、私とあなたが座っている。
私はあなたにあるカクテルをご馳走する。
マスターは言う。
「お待たせいたしました。XYZでございます」
これにて、あとがきを終えることとする。
ミ冬 ミキ