Snow
「うわ……すげ」
真っ白に染められたその景色を眺め、やってしまった、と言わんばかりの面持ちで彼は言葉をつい漏す。一歩足を踏み出すと、ぎゅっと音を立てて懐かしい感触が伝わってきて、それと同時に私は羽織っていたダウンコートのポケットに温もりを求めた。
この日、街はどうしようもないくらいの白銀を纏い、久しぶりの寒さに包まれ、気象管理局は『大雪』と判断してそれを街に告げた。
そして、それは五年振りに降った雪だった。
この街の天気は一人の少女の感情によって左右される。しかし雪が降るのは本当に稀で、それこそ少女の感情の区別ができない。この雪を降らせた当の本人ですら「わからない」と放り出してしまうくらいなのだから。
「また呼び出されちゃいますかね」
不安そうな顔ひとつせず、むしろどこか楽しげに彼は私を見る。
「さあね。私に引き継がれたのは大雪の後だったけど……君、最悪無職になっちゃうんじゃない?」
「そうなればいいですね」
そう答えた気象管理士は、足下の雪を掬うと、それを握って空に向かって放り投げた。その空は未だに灰と白で覆い尽くされている。
五年前の、あの日の空はいったいどんな色だったか。
眺める私は静かに記憶をめぐらせた。
* * *
気象管理局員になったきっかけは別に大したものではなかった。特にやりたいことなんてなかったから、仕方なく安定してそうなこの仕事を選んだだけで、情熱だとかやりがいだとかそんなものは微塵も持ち合わせてなんか居なかった。
それなのに、新入局員が受けなければならないたった数回の検査とアンケートで適性を判断され、たった八歳の女の子がひとつ頷いてしまえば、それだけで私みたいな半端者でもこの街の天気の管理を任されてしまうのだ。
――とても馬鹿げている。
そう言ってしまいたかったが、半端な私はそんな言葉さえも紡ぐことが出来ずに、ただ無気力に受け入れることしか出来なかった。
「……というわけで、今日からよろしく頼むぞ。津田」
「はぁ、わかりました……」
上司からの言葉に気の抜けような返事を返して、私は自分の左手にしがみつく一人の少女に視線を落とした。
――天気少女。
気分で天気を変えてしまう少女。
左手にかかったその責任は、十九歳の自分にはまだ重すぎるように感じた。
*
ここ数日の間降雪が続いていた影響で、街の景色は白に包み込まれていた。それは今も僅かながらに続いていて、雪は、はらはらと視界をちらつかせながら地面に同化していく。
私の隣では短い歩幅で進む少女がこちらの手を握りしめていた。彼女の服装はやや薄着で、コートなどは羽織っておらず申し訳程度に私のマフラーを首に巻いている。
「寒くない?」と私は少女に問う。
「平気」と少女は答えた。
それからしばらく歩いていると、少女は立ち止まって私の手を離した。
「どうしたの」
そう問いかけると、その子は近くに見える公園を指さした。
「ねぇヒナコ。あそこ行きたい」
彼女の要望に、仕方なく私達はそこへと向かった。
そして公園に着くと、少女は雪を手で救ってそれを私に見せてみた。
「雪だよ」
「そうだね雪だね」
私がしゃがんで少女の頭に着いた雪をはらうと、彼女は「ひひっ」とはにかんでみせた。それから、その子は雪玉を沢山作ったり、雪の積もった箇所に飛び込んでみせたり、ただ踏みつけてみたりと、一頻り遊んでいた。
「おー、自分が降らせた雪ではしゃいでる」
近くでその光景を眺めていると自然に口元が緩んだ。
「ねえ、あなた名前は?」
「そら」
「そらはどうして前の管理士さん嫌になっちゃったの」
「……わかんない。けどちょっとだけ怖くなってきた」
怖くなってきた、か。
この間まで気象管理士を任されていた人はとても真面目で優秀な局員だったらしい。街の人が晴れを望めば天気を晴れに、雨を望めば雨を降らせる。
徹底して、天気少女を『使いこなせていた』人だったのだという。
「そろそろ帰ろうか」
そう告げると少女は雪に足を取られながら私の元へ駆け寄った。
「ヒナコの家」
「そうだよ」
彼女の手を再び握り公園を後にした私達は、私の暮らすアパートへ向かった。
空はもう青を取り戻していた。
*
天気少女との生活は、特に大変でも無く苦労も無かった。彼女の生活費は全て局からの経費で賄える。
寝床を用意してあげて、ご飯を一緒に食べて、たまに一緒に出掛けて、それを繰り返していただけだった。遊園地に連れて行ってから数日は快晴が続き、プリンが好きだというので買い与えてみるとこれまた空は青を目立たせた。
私が気象管理士となって一年間は、晴れの日がとても多くたまに曇りが見える程度で、雨は合計してもほんの十数日分程しか降らなかった。
流石に異常ではないかと感じたが、そらの笑顔は増えていき、まあいいか、と私自身もそう思ってしまっていた。
――しかし、
「……良いわけがないだろ」
街の人達はそれを許してはくれなかった。
気象管理士になって三年が経とうとしていたある日、私は管理局に呼び出された。理由は分かっていた。この三年間、雨の日があまりに少なすぎることが原因だろう。一年目よりは降水量も増えてはいるものの、このままでは水不足が起きてしまうと懸念視されたのだ。
当然だろう、無理もない。でも、
「それじゃあ、どうしろって言うんですか。わざとそらを悲しませるようにしろとでも?」
「ああ、その通りだ。これまでだってそうしてきた。前の管理士だって仕事だと割り切る振りをしながら辛い思いをしてきたんだ。お前も、そしてこれからの奴らも、そうしていくしかないんだよ」
だから頼む。そう上司に頭を下げられ、私は喉から絞り出すように、「はい」とだけ答えてその場を後にした。
建物から出て、つい天を仰いだ。空の太陽が眩しかった。
これから自分の手で、この景色を壊してしまわなければいけないのかと思うと胸が傷んだ。
「やっぱり、馬鹿げてる……」
それからというもの、私はそらを無視してみたり、冷たく接してみたり、一人で部屋に放置してみたり。何度か暴力を振るったりもしたのかもしれない。
もうよく覚えてもいないし、思い出したくもない。
ただ、それまで続いていた晴日は大幅に減少し、雨の日は徐々に増えていった。
でもやっぱり、そんな生活がいつまでも続く筈がなく、気象管理士になって四年目のある日。
私はついに、管理局を辞めた。
* * *
津田さんと別れた後、僕は自宅へと向かった。
一応、この天候について少女の状態を確認しなければいけないし、そしてそのまま彼女を管理局へ連れて行ってみるのもいいかもしれないと思った。
アパートの自分の部屋の前に着き、鍵を開けてドアノブを捻る。
「ただいま」
そう言って部屋の中に入ってみたが、少女の姿はなかった。
またどこかに出掛けたのだろうか。「こんな時に……」とひとつ溜め息をついてそれからコートのポケットからタバコとライターを取り出そうとすると、同時にズボンのポケットの中でケータイが鳴った。
ケータイを取り出して誰からの着信か確認してみる。
「原田さんか……」
画面に表示された上司の名前に、きっとこの大雪についてのことだろうと予想を立ててから、僕は電話に出たが「はい、二科です」とこちらが言い切る前に電話越しの原田さんが言った。
『さっき、そらが一人で局まで来た』
「……は?」
『このまま二科を管理士にしてくれ、って一言頼み込んできたんだよ。よく分からねえけど、雪が降ろうがなんだろうがそう言われちゃこっちも気象管理士を変える訳にもいかないからな。まあそれだけだ、じゃあな』
「待ってください原田さん……」
僕の呼びかけも虚しく、電話の奥ではツーツーと高い電子音が鳴るのみだった。
「……なんなんだよ」
通話の切れたケータイを片手に部屋に立ち尽くしていると、背後でドアがガチャっと音を立てた。
「ただいま」
ドアが開き、天気少女は長い髪の毛から雫を垂らしていた。
「どういうつもりなんだ」僕は問いかける。
「ハラダから聞いたんだね。どういうつもりもそのままの意味だよ」彼女は無表情にそう答えた。
「そのままの意味って……」
少女は靴を脱いで羽織っていたコートをハンガーにかけると、それから濡れた髪そのままにいつもの様に毛布を身体にまきつけた。
「今のわたしには、きっとニカが必要なの」
少女は俺を見上げて、笑う。
「最近、ヒナコと遊んでるんでしょ? それと同じだよ」
彼女はそう口にしてみせたけれど、すぐにどこか悩むような表情を浮かべてから再び口を開いた。
「ん……やっぱり同じじゃないかも。でも、わたしにはニカが必要なんだよ」
「わけがわからない」
どうしようもなくその言葉だけを落として、僕はとうとう沈黙を選んだ。
次で終わります