湖の女神
若葉の芽吹く季節である。
深く静かな森の奥。木々のアーチが織り成す暖かな木漏れ日を抜けた先に、大きく美しい湖があった。
辺りを様々な木々が囲み、すぐ脇に立つ大木の根元には小さな石造りの墓がひとつ立っている。
その周りで多くの動物達が枝葉の作り出した日陰に身を寄せ合い、安らかな寝息をたてていた。
そして、その動物達と混ざるように、一人の若者が腰を下ろしている。
年の頃は20を過ぎたくらいだろうか。
まだ朝露の乾かないうちにぶらりと姿を見せ、特に何をするわけでもなく、起伏にとんだ木の幹に背中を預け、手に持った鞄を膝上に置き、ただただ湖畔を眺め続けていた。
それはどれほど続いたのだろうか。
太陽が青年の上を通り、向こうの山へとその身体を近づけた頃、ふと、若者は手元の懐中時計に目を落とすと立ち上がった。
一歩、二歩、三歩。ゆっくりと草を踏む音だけが響く。
若者は湖の淵まで歩を進めると、片膝を地に着けた。そして、持ってきた鞄からおもむろに指輪を取り出すと、まるで手のひらから滑らすように、湖へと落とした。
指輪はゆっくり水底へと沈みゆき、やがて見えなくなる。そして僅かな間の後、茜色だった水面が金色の光を上げ、一人の美しい女神が湖から現れた。
女神は一度、あぁ、と若者の顔を懐かしそうに微笑むと、彼へ問いかけた。
「アナタが落としたのは、金の指輪ですか? それとも銀の指輪ですか?」
しかし、若者は何も答えずに、女神の顔を見たまま微笑かえすばかり。膝立ちのまま、目の端にうっすらと涙をためていた。
女神は若者と同じようにかがみこむと、その白く美しい指で彼の目じりを拭う。
「どうして涙を見せるのですか?」
若者は、そんな彼女の青い瞳を見つめると、目を伏せ、物憂げに何か考えるそぶりを見せた。
「どうしたのですか」
黙り込んだ彼の顔をのぞこうと、女神は顔を寄せる。同時に若者は顔を上げ、まつげが触れる距離で二人はお互いの顔を見合った。
「……失礼します」
若者はそう言うと、形のいい彼女の額へと自分の唇を軽く当てた。それは、かする程度の軽い口付けだった。
突然のことに女神は狼狽し、頬を朱に染めたまま言葉にならない声を上げた。
そんな彼女に、若者は「知り合いに似ていたもので、つい」とだけ。
「ぉ、お、おまちなさい」
立ち上がり、去ろうとする若者を女神は呼び止める。
「アナタは昨年の花束の時だってそう。質問に答えず帰ってしまったではないですか。今度はこんなことまでして……アナタの物なのでしょう? また、置いて帰るのですか?」
頬を上気させたまま、理解できないといったふうの女神に、若者は困り顔を向ける。
「置いて帰るんじゃない、アナタに差し上げるんですよ」
いいや、それは違うか。そう若者はひとりごちると、女神の静止に一度も振り向かず、
「ま、また、来てくれますか!?」
精一杯の震える声に優しく手を振るだけで、その場を去っていった。
いつの間にか、辺りは薄紫色に染まっていた。
若者は、家に帰ると暖炉に火をともした。冬が去り春を迎えたとはいえ、夜はまだ冷える。そして、椅子に腰掛けると溜息をひとつ。
「アナタが落としたのは、か……」
夕暮れ時に聞いた女神の言葉を呟いた。
「落としたのは、僕ではないのだけど」
……天井から下がるランプは部屋の中心を淡く照らし出し、卓上にある一枚の写真立てにも影を作る。
若者は写真立てを手に取ると、ゆっくりと背もたれに身体を任せた。
「皮肉にも、貴女は彼女に似てるんですよ。……生き写し。別人だと分かってはいるんですが」
これは浮気になるのかな。自分の口元に触れ、あの出来事を思い出す。そして、写真の中で笑顔を見せる生涯で最も愛した彼女へと、まるで語りかけるかのように、彼の口は言葉をつむいだ。
「また、会いに行くよ。お前の死んだ若葉の芽吹く頃に、お前が沈む、あの湖へ……」
若者は、ほんの少しだけ自虐的な笑みを浮かべ、
「……別に、湖のあの人が好きなわけじゃないんだけどな」
手に持った写真たてを、静かに机へと置いた。
おわり。
今書いているものがうまく動かせなくて、ムシャクシャしたので気分転換に書いてみました。
でも、ジャンルは異世界もので良かったのだろうか……。