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ポケット小物語

雨が薫れば

作者: 渡 遊歩

私は待っている。あなたが来るのを。

約束なんてしない。でも、それでもあなたは来てくれる。

だって今日は雨だから。

雨が降り出すときには匂いがする。何とも言い難い、ムッとする、鼻の奥に押し付けられるようなその匂いは、他の何にも例えようも無く、私はいつも、それを雨の匂いと呼んでいた。

 今日も、雨の匂いがする。帰り道、空には鈍色がどろりと広がっていた。最後の授業も終わり、後は帰るだけとなった今、時間的には太陽はまだ明るさを保っているはずなのに、空はとても薄暗い。

鳥の声も聞こえず、猫の姿も見当たらない。きっと彼らも、これから雨が降ることを知っていたに違いない。天気予報なんて彼らは見ていないはずなのに、どうして彼らは天気が分かるのだろう? 私は誰もいない電線や塀を見上げた。

 すると、視界に、半透明の一筋が刹那走る。手の平を水平に持ってきてみると、手のひらに、冷たい感覚が一瞬感じられた。……ああ、やはり降り出した。私は手に持っていた傘を開いた。開いた傘の生地に、パラパラと雨粒が当たる音がする。

 私の横を、自転車が横切っていく。片手で傘を差し、もう片方の手で自転車のハンドルを握って走っていく。傘差し運転だ。私も自転車に乗ってくればよかったと一瞬思ったが、私のことだ、そんなことをすれば、溝にでも落ちてお終いだろう。

 こんな日、私は歩かずにバスに乗る。普段なら自転車通いな私だが、雨の日にはそうではなくなる。歩いても通えるのだが、バスに乗れば、濡れずに、かつ楽に通えるからだ。

 少し歩くと、バスの停留所が見えてくる。雨脚が、だんだんと強くなってきた。私は逃げ込むように待合室に入ると、表に向けて傘を何度か開閉して雨粒を落とし、室内の硬い木製の椅子に腰を下ろすと、フウッと一息ついた。

 バスの停留所には、小さな待合室があった。中は壁を背もたれにした横一列の椅子があるだけの簡素な作り。でも、待っている人は屋根の付いた室内のおかげで、濡れずにバスを待つことができる。

道路のアスファルトは濡れたことで、その黒い色をより濃くしている。外はどこも濡れてしまっている様子なのに、私がいるこの小さな空間だけは、取り残されたかのように乾いたままで、それが不思議と、私に特別感を抱かせる。

 私は鞄から本を取り出して開き、読み始めた。雨はついにザァザァと降り出し、雨音は鳴りやみそうにない。雨音はうるさいけれど、その音が逆に、他の音はすべて包み隠してしまう。そして不思議と、雨音は煩わしさを感じず、私はページに書かれた文字の行を目でなぞることに集中できた。

 停留所の中には私一人。しばらくしても、新しい人はだれも来ない。今日の天気が午後から崩れることは朝のテレビの中でも言われていた。だからほとんどの人は、傘を持っていたんだろう。そしてしっかり準備していたから、バスは乗らなくてもいいのだろう。

 私は天気予報を見忘れたわけじゃない。私の隣においてある傘がその証拠だ。なら、どうして傘があるのにバスに乗ろうとしているのかと言えば、傘を差していても濡れてしまうことが理由の一つ。そしてもう一つはーー。

 バサリ、バサリ

 ついた水滴を落とすために傘を開閉する音が聞こえた。私は一瞬だけ目線を上げ、その人物が誰かを確認すると、隠すように視線を素早く元の紙面上に戻した。

 やっぱり来たーー私の胸が少しだけ高鳴る。彼は私とは反対の隅に座ると、鞄の中から私と同じように文庫本を広げた。

 本に目線を落としているため、彼は視野の端にわずかに映り込むだけだ。でも、意識のほとんどはその彼に向いてしまっている。だから、さっきから開いた本のページは一ページも進んでいない。でも構いはしなかった。

ああ、彼に気付かれてしまわないかな。気付かれてしまったらどうしようか。一ページだけめくってみたけれど、前ページの内容は少しも頭に残っていない。

 ……ああ、私のこの気持ち。もどかしいような、ムズムズするようなこの想いは、もしかしてそういうことなんだろうか。いや、きっとそうなんだろう。私は、彼に小さく恋している……薄々分かってはいたけれど、自分のそういう気持ちを認めようとすると無性に恥ずかしい。

 彼をこっそりと盗み見る。彼は私の視線を、悶えを知らずに本へ静かに目を落としている。あまり見続けていると彼に気付かれてしまう気がして、私は視線をこっそりと戻す。でも、すぐにもう一度彼を見つめたくなってきてしまう。見たいという欲求と、気づかれたくないという怖さのジレンマが私に足を何度も組み換えさせる。

 ……私は彼のことはほとんど知らない。同じ学校の生徒であること。きっと、本が好きなんだろうということ。そして、雨の日にはバスに乗るということ。これが、彼について私が知るすべて。

名前も知らない。話したこともないから声音も知らない。何度も彼とはこのバス停で同席してはいるけれど、そのことを知っているのは、私の方だけかもしれない。ただバスが来るまでの間、空間を共有しているだけの薄くて細いつながり。そんなよくある、他人といって相違ない関係が、私と彼なのだ。

なのに、私は彼とのその関係が少し特別に思ってしまっている。話すこともない、見つめ合うこともない。ただ雨の降る空の下、小さな屋根の下で一緒に雨宿りをするだけなのだけれど、なんだろう、そうしていることが、私には心地よかった。

もうすぐ私の乗るつもりのバスが来る。私はぱたりと本を閉じる。不思議だ、どうしてこういうときって時間はとても速いんだろう。続いてほしい時間ほど、速く流れて行ってしまう時間はとても意地悪だ。

彼は私と同じバスにはいつも乗らない。誰かを待っているのか、私が乗るバスには一緒に乗って来ない。だから、私が乗るバスが来たときは、彼とのお別れの合図でもある。寂しさを感じたけれど、仕方のないことだ。私は鞄を開くと、本を中へしまおうとした。

――でも、しまう寸前で、本は鞄に入るのを止めた。私の手が止まったからだ。

「ねえ、その本」

 彼に、声をかけられたから。

 私は、突然油の切れたロボットみたいになって彼の方を向いた。彼は、私をまっすぐ見てきていた。初めて合わせた彼の眼に、私は顔に熱が一気に集まるのを感じた。

「僕の読んでいるやつと同じだね」

 そう言って彼は呼んでいる本の表紙を見せてくる。確かに、私も今読んでいる本だった。私は恥ずかしい部分を見られてしまったかのようで、とても恥ずかしくなった。

「これ、面白いよね」

 彼の言葉に返事をしなくては。初めてできた明確な彼とのつながり。心のどこかで臨んでいた状況。黙っていてはだめ。早く、返事をしないと。早く、速く……!

 喜び、焦り。まじりあって、私を急く。詰まってしまった声が喉にどんどん溜まっていく。そして、ようやく口から出た私の声は、

「……うん」

 かぼそくて小さな声だった。

 どうして、うまく返事できなかった! 私は余計に顔を熱くし、自分へ叱責した。恥ずかしさと情けなさで、彼の前から逃げ出したかった。

 彼を見ると、もう本の世界に戻ってしまっていた。会話は途切れている。雨音の隙間に沈黙が染みわたる。時間が経つほどに、会話の再開は難しくなっていく気がする。

 口を開く。声は出ない。少し出た。彼には聞こえないくらいに小さなうなり声だった。頭の中でセリフを作る。うまく言える気がしなかった。私は独り悶々とし、でもなけなしの勇気を振り絞って、彼に「あの」と声をかけようとした。そう、「あの」だけ。後の会話はなんとでもきっとなる。だから、「あの」だけ。

 私の渾身の「あの」が口から押し出されようとしたその瞬間、停留所の入り口で、傘の開閉する音がした。

 ほかの人が来たらしい。私はハッとして口を閉ざすと、隅で体を小さくした。誰が来たんだろう、そう思って目を向けてみると、女子生徒が一人、傘の紐を留めていた。

 すると、彼女は留めながら「おまたせ」と言った。私は彼女のことを知らない。つまり私に向けられたものではない。そう思い立つと私の眼は、自然と彼の方を向いた。

 彼は、親しげに顔をほころばせると、「そんなに待っていないよ」と言った。彼女は迷わず彼の隣の席に腰を下ろした。彼らの距離は近く、とても親密だった。二人がどのような関係なのか、誰が見たとしても一目瞭然だった。

 人が一人増えただけで、この狭い待合所の中の世界はガラリと変わってしまったように私には思えた。何なのだろう、静かで穏やかで、私も世界に溶け込んでいたのに、今は、この世界から透明な壁で隔たれ、はじき出されそうになっている気がした。

 二人が楽しそうに会話する横で、私は気配を消していた。彼らもこちらを気にすることはない。私はまた鞄から本を取り出して開いた。本を開いていれば、私は独りではない気がしたから。

 やがて、エンジン音が雨音をかき消して現れた。バスが到着したみたいだ。私が席から立とうとしたと同時に、彼らも席を立つ。それを見て、どうしてか私は、席に再び腰を下ろした。

 女の子の方が先に乗り込んでいく。彼が彼女に続いてバスに乗り込む。すると突然、彼は私の方に振り向いた。彼と目が合う。このバスに君は乗らないのか? そう語っているかのように思えた。

 彼の瞳に、私は困ったような笑みを返した。うまく伝わるかは分からないけれど、友達を待っているんだ、そんな思いを込めて。待っている友達なんていないけれど、そんな嘘を込めて。

 彼は私が乗って来ないことを知ると、もう振り返ることなく、バスに乗り込んでいった。彼が中に入るとすぐに、バスの扉はプシュウ、ガチャガチャとうるさく閉まった。そして、エンジンをひときわ大きくふかしてと発進していった。

 エンジン音が消えると、辺りが異様に静かに感じられた。ぽつんと、私はどこからも取り残されたようだった。

 私はため息を一つ吐いた。今日は、彼について新しいことがたくさん知れた。私の読んでいる本と同じ本を読んでいること、どんな声がしているのかということ。話し方。そして、付き合っているのかどうかということ。

 私は、つまり失恋をしたということなのだろうか。いや、確かに残念な気持ちはあるけれど、でも予想していたよりも、自分が冷静でいることに少し驚く。

 少しの間、何かをすることもなく座っていた。天井の模様をぼんやりと眺める。彼らの座っていた場所は、彼らという存在は無くなったことで、ぽっかりと穴が開いているかのように空虚さがあった。

 ああそうか。私は不意に気が付いた。私が、どうしてこんな気持ちになっているのか分かった。私は、確かに恋をしていた。でも、彼だけに恋をしていたわけじゃないんだ。彼がいる、この小さな世界に恋をしていたんだ。そう気づくと、私が自分の胸の内がスゥっと軽くなるのを感じた。

 ふと、雨の音が止んでいること気づく。外を覗いてみると、さっきまでの雨はどこに行ってしまったのか、雫は一つも空から落ちてきていなくなっていた。これなら歩いて帰ることもできそうだ。

 外に出ると、私の上の空はまだ暗い色をしているけれど、遠くにうっすらと虹がかかっているのが見えた。暗いけれど明るい空模様。私には、不思議と親近感を覚える空だ。家に帰るまでは、再び降り出すことはないだろう。

 私が出たことで、誰もいなくなった待合所に振り返る。また、雨の日にここに来よう。きっと彼も来るはずなんだから。私はまた次の雨の日が少し楽しみになった。


今回はここまで。

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