第二話 『強襲』
ヨウは元々痛みには強い方だった。何度もコケたが自転車の補助輪はすぐ外して乗りこなし、スポーツで生傷を何度も作ってはかさぶたにしてきた。
骨折経験もあるし、人並みに怪我はしてきたつもりで、割と痛みにも耐えれる自信はあった。
だが、この痛みはそれのどこにも当てはまらない。否、これは痛みと言うより、圧倒的脅威を持った『熱』だった。
「はっ、ああああああああぁぁ!?」
口から空気が漏れ出て、遅れて状況への困惑と熱への恐怖を口から叫ぶ。
真横、ヨウの息がかかるすぐ傍に、店長がいるのだ。
その現実離れした状況にじわりと目頭が熱くなり、視界が滲む。
例えば、バスケットボールで突き指をしたり、走ってる最中にコケたりして怪我をした場合。ズキズキとした痛みが襲うわけであって、痛み自体には耐えられるであろう。
しかしこれは訳が違う。痛みと熱が同時に襲ってくるのである。当然、どちらかに耐えようとすればどちらかが襲ってくるわけであって、結果どちらにも耐えることは出来ない。
首筋から流れた血液を見て、ヨウは全身の産毛が逆立つのを感じた。
「うぅ……あ……は、は、離れろ!!」
「ふぐっ!」
今だ尚首筋を噛み続ける店長を、恐怖によってか手加減なしの膝蹴りで突き飛ばす。
それによって歯の威力は緩み、ヨウは左手で店長を押して強引に二人の間に距離を作った。
一気に噛まれ、肉ごと持ってかれたと思われていたのは実際は違ったらしく、首筋には二つの穴が付いてあり、そこから鮮やかな赤い血が流れている。
穴のサイズは直径一センチにも満たないが、ヨウの視線からはそれを察知することできず、分からない穴の大きさに恐怖を覚える。
有り得ないほどの量という訳では無い。せいぜい鼻血が流れた時と同じ勢い程度の流血だ。ただ、彼女に噛まれ、血を吸われた瞬間の量は別の話。
流れ出る血液のドクトクという音が、何故か耳元と脳内に鳴り響いて吐き気を催してくる。
鮮やかな血液は重力の流れに従い服に染み渡り、悪趣味なコントラストを生み出していた。
意味がわからないし、こんな奇っ怪な行動見たこともない。だが、血を吸うという発言や、こんなにわかりやすくも大層に二つの穴を作ることが出来るなんて、ヨウの記憶上ではあれしか思いつかなかった。
「……ふふ、本物の『吸血鬼』は初めてかしら? でも安心して。殺したりはしないわ。それじゃあもったいないもの」
生暖かく、耳元を強引に揺らす声。
店長の表情は恍惚としており、どこからともなく生えた牙と、紅い強膜と黄色の瞳孔が妖しく光る。
現実離れしたその見た目に、ヨウは一種の不快感を覚えた。
「ハロウィンのコスプレ……ってわけにもいかないですよねそれは」
「あら? これを見てまだそんな言葉が言えるなんて、手加減しすぎたかしら?」
――こんな傷を付けて手加減していると言うのか。
もちろん、ふざけて言っているだけだ。確かにこれがコスプレでドッキリなんかだったらどれだけいいかとは切に願っているが。
ヨウは今痛みに必死に耐えている。背中とこめかみに流れる嫌な脂汗を無視して、少しずつ、少しずつ店長と距離を離しているのを悟られないようにしているのだ。
腐っても運動部。全力ダッシュで家へと戻るか、交番にまで走ればいい。
相手は女性だし、お世辞にも運動が得意そうには見えない。
信じられない光景かもしれないが、警官だって馬鹿ではないだろう。ここは家と比べては近くないが、交番まで走るしかない。
あの見た目や、この傷跡を見れば、少なくとも遊びには見られないはずだ。
「あっはは……手加減してるって。それに殺さないって……そんなの信じられるわけないで……しょ!」
「きゃっ!?」
持っていたレジ袋の中身(カップ麺から小物系のお菓子まで様々)を店長の顔付近にぶちまけ、怯んだ隙に脚に力を込めてヨウは全力でダッシュ。
火事場の馬鹿力と言うのか、蹴り出した勢いは強くスムーズに距離を離した。
交番までの距離はあるが、追いつかれる心配はないだろう。ハロウィンによる子供騙しだと最初は信じてもらえないかもしれないが、それでも何度も言えば話くらいは聞いてくれるはずだ。
家に戻るのも一つの手だが、生憎家にはヨウ以外誰もいない。一人暮らしなのだから仕方ないが。
細道の曲がり角を使い、若干時間は遅くなるが店長の視界を切るように走る。
こうすればそう簡単には見つかるまい。
この近辺の道は何年も歩いてきた。どこがどの道に繋がっているのか。どこをどう通ればショートカット出来るかも熟知している。
これで完全に撒くことが出来るだろう。
そう思った矢先だった。
「あらあら。女性に乱暴するのは、良くないわよ。ヨウ君」
「え」
掠れる声。曲がり角を使い、追いかけてくる音も聞こえなかった。そのはずなのに、彼女は目の前にいたのだ。
追いつかれた覚えもないし、もし別の方向から来たというのなら、その足の速さはヨウを軽く上回っていることになる。
音も立てず、ヨウが来る機会をずっと待っていたのだとしたら。
人外の域――それを痛感し、ヨウは恐れから尻もちをつく。
膝から下に力が入らないくせに、誰に見せるわけでもなく震えだけは人並み以上だ。
脂汗は冷や汗に変わり、痛みと共にヨウの不快感を更に掻き立てる。
焦りから目の焦点は合わなくなり、後退りするように手のひらで地面を這っては、荒く息を吐いた。
「安心して、ヨウ君。あとちょっと血を吸わせて貰えたら楽に気絶させれるわ。その後がどうなるかは……言わない方がいいかしらね」
冷笑。艶めかしく口元に付いた血を舐め、店長はこちらへと近づく。
身長は低く、ゆっくりと歩いているその姿は、普段はなんとも思わないはずなのに、今は圧倒的な圧迫感と巨影を見せつけられる。
「ハァッ……ハァッ……来ないで……ください」
靴音が、閑静な街に響く。ここは路地の中でも特に人気のない場所だ。助けを求めても、すぐに人は駆けつけることが出来ないし、あるいは気づかれない。
もしもこれすらも店長の狙い通りだったのなら。
乾いた喉に生唾が流れるが、以前喉は乾いたままだ。息遣いは荒くなり、表情が強ばる。
「命乞いなんて……似合わないわよ。男の子なんだからね」
後退りを繰り返し、アスファルトの地面に指先が擦れ、そこから血が流れ出すがヨウはお構い無しに後退する。
それでも、店長の歩には適わない。
「死んじゃったら美味しくないもの。血を吸うのは、なるべく少しじゃないとね……あら」
瞬間、滑るように、あるいは流れるように、ヨウの後ろから突風が巻き起こる。
否、突風と呼ばれたそれは質量を伴った物体に空気が追いつかないために巻き起こったものであり、刹那の後、物体は依然としてはヨウの真上を通ってその勢いが店長の元まで届く。
真正面からの突然の殺意。
しかし、店長はこれを読んでいたかのようで、殺意に濡れた瞳が到底目では追えない速度を誇った攻撃を捉える。
店長はそのまま常人とは思えないほどの体幹とスピードで身を翻し、攻撃を受け流した。
そのまま物体は店長を通り過ぎるも、アスファルトの地面と平行に己の足を伸ばして急ブレーキをかける。
アスファルトは簡単にひしゃげ、細かくなったそれが白煙の如く空に散る。
そして、攻撃を避けられてしまった襲撃者は、ゆっくりと店長の方へ振り返る。
「こんばんは、店長さん。さっきぶりですね」
そう言うのは、一つの三つ編みを前に垂らした美しい金髪の女性だ。
ヨウはその女性に見覚えがある。
「……さっきの……お客さん?」
「ええ、そうよ。災難だったわね、君。でも安心して。もう大丈夫だから」
こちらの方に顔を向け、その美しい容姿をさらに美しく笑顔で彩る。が、ヨウからすればどれも混乱を招く要因でしかない。
一体何故店長が吸血鬼と言ってヨウを襲ったのか。
いきなり現れたこの女性は誰なのか。どんな人物なのか。
そして、さっきの突風は彼女が巻き起こしたものなのだろう。
それを考えれば彼女も人外の域であり、簡単に信用はできなかった。
「……まぁ、信用ないのも無理ないわね。でも、ちゃんと後で事情は説明するわ。まずは、店長さん。私があなたの相手になるわ」
「ふふ、それは面白い申し出ね。 でもまさか私が、あなた如きにやられると思ってるのかし……ら!?」
店長は女性への敵意をむき出し、戦闘態勢をとる。だが、店長は意識をすぐに女性から別の何かへと切り替え、顔を上げる。
店長も、当然ヨウも意識していなかった方向――空から、男が店長を攻撃してきた。
砲撃のそれと遜色無い重量加速度を伴った攻撃は、迷わず一直線に店長の体の芯へと到達する。
直後、鈍い音がこの場にいる者全員の鼓膜に響いた。
「あら、ごめんなさい。間違えました。『私が』じゃなくて『私たちが』ですね」
暗い昏い夜。平穏な日々の蚊帳の外で、戦いは始まった。




