第十五話 『憎悪の覚醒』
声に乗るのは、恐怖と困惑。
脳内に警鐘が鳴り響き、大量の汗がどっと全身に吹き出て逃げることを命令する。
しかし、脳内の伝令を受けた筋肉が動くことは無い。
恐怖は人の行動を制限する。鉛のような足に、たまらずヨウは膝から崩れ落ちて倒れ込んだ。
「あっ、あぁぁ……」
そこでようやく、全身の石化が解放されたようで、慌ててヨウは後ずさりをする。
脳内を死というシンプルな一文字が駆け回り、漆黒の恐怖に視界が埋め尽くされる。
「んー、いい表情。それにいい眺め」
一歩、二歩、ゆっくりと歩を進める青年に、手足の力を使って懸命に下がるヨウだが、廊下の横幅などたかが知れている。数歩下がったところで、壁に背を打ち逃げ場を無くしてしまった。
指先が壁に当たり、横に逃げるという選択肢も考えつかなくなったヨウはその場で奥歯を軋ませて震える。
「はァ……ハッ……はァ……ソウマを、どこにやった……」
「へぇ、こんな時にお友達の心配? 優しいんだねぇ」
震えた声で、瞳を潤ませながらヨウは問う。
しかし、その視線は青年の目を向いていなかった。眼前に迫る死の気配を、直視することは出来なかったのだ。
それでも、ソウマの安否を知りたかった。
大切な親友が生きていると信じて。そのためにここまで来たのだから。
「うるせぇよ……ソウマを返せよ!」
「健気だねぇ」
歯を鳴らし、腕を震わせ小動物と成り下がったヨウを、青年は愛おしむように見つめる。
が、対するヨウはその視線に未だ合わせることは出来ない。
直視すれば吸い込まれそうなブラックホールの瞳。今は瞳は黄色くなっているが、それでも根幹は変わらずの深淵だ。
そんな瞳のままに、青年がふとヨウに語りかける。
「君のお友達なら、ここだよ」
呼びかけ、青年とヨウの間に黒い影が姿を現した。
楕円形の影の大きさはヨウより少し小さいくらい。まるで人間一人分入りそうな大きさ――
「ソ、ソウ……マ?」
言葉の意味を咀嚼し、理解し、ヨウは恐る恐る呟く。
その呟きに反応した青年が、万遍の笑みを浮かべた。
「ほら、お話してみなよ」
指が鳴らされ、その瞬間に影が泥のようにその場へ崩れ落ちる。
泥は当然のように重力の流れに従い、全てが青年の影の中に沈み込めば、そこに居たのは見慣れた顔だった。
「ソウマ……ソウマ!」
「……ヨー、君?」
「良かった……生きてて……」
声に反応したソウマが、ゆっくりとその瞼を上げた。
支える影を失くしたソウマが膝から崩れ落ち、反射的に片腕を出して己の重心を支える。
肩で息をし、目の前にいるヨウに安堵したソウマと同じで、ヨウ自身も安堵の息を漏らしていた。
まだ生きていた。
それが分かったヨウは、嗚咽を漏らして涙を流す。
しかし、絶望は終わらない。そも、ソウマの生死は、青年の手によって左右されているわけで、
「ヨウ君! 危な――」
視界に映らない、しかし右から聞こえた女性の声。
その声の主が誰のものか、ヨウは瞬間的に理解した。
そしてそれは、青年も同じだった。むしろ、それを待っていた。
青年による復讐劇は、ここから始まる。
「はい、おしまい」
青年がもう一度、指を鳴らす。
刹那、ソウマの全身を纏うように影が収縮していき、そのまま影はソウマを飲み込みにかかる。
目覚め直後、自身の異変に気づいたソウマが目を見開き、
「ヨー君、たすぇ――」
だが、口すらも封じられ、助けを乞うことすらも叶わず、
「はい、ばぁん」
合掌した青年に合わせ、ヨウの目の前で、影の隙間から粘着質の液体が大量に噴き出した。
べっとりとしたそれがヨウと青年の体に大量にかかり、震えながらヨウは自身に付着したそれを触った。
――赤く、温かな、命の結晶。
それは紛れもなく、ソウマの血だった。
「お、お、お、おおおおああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
絶叫をあげた。
目の前の景色全てが、回る。
絶望的な嘔吐感が食道の中で暴れだし、鼓膜には羽虫が侵入したかのような雑音が響く。視界が点滅し、鉄臭さが鼻腔を刺激する。
手足が、彼の血によって濡れる。
――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
五感を貪られ、脳内すらも溺れる。
全てが、目の前に起こる全てが、ヨウの精神を粉々にしていった。
ばら撒かれる血の海に浸かり、文字通り喉が潰れるほど絶叫し続ける。
溢れ出してはならない生命の源が、影の中から未だ尚溢れ続けていた。影の中からは骨が砕ける音までも鳴り響き、より強く、ヨウの耳を殺しにかかる。
影の中にいた人物は一人しかいない。
致死量を超える量の血液と、血の海に漏れ落ちる臓腑が、何よりの死を表していた。
「――――ッ!!」
青年とヨウの右で、セイヤとベティは立ち止まる。
本来なら不意打ちをかけるべきなのだろうか。この場で青年を殺せる行動をとるべきなのだろうか。
だが、あまりに凄惨な目の前の光景に、二人は堪らず足を止めてしまった。
「あーあ、早く来すぎだよぉ。せっかく念願のお友達と会えてたのに。今際の言葉を言う暇も与えないなんてねぇ」
顔にかかった血を舐め、セイヤとベティの方を向きながら青年は愉しそうに狂う。
その青年の行動を虚ろに見ながら、ヨウの思考がゆっくりと殺意に蝕まれていった。
――やっと、理解した。
吸血鬼の中にも、店長のような吸血鬼がいるのではないだろうか。
まだ、救われてもいい吸血鬼がいてもいいのではないかと、そう信じていた。
だが、それはまやかしに過ぎなかった。
吸血鬼は根源悪。人の命の価値を弄び、踏みにじり、喰らい尽くす人類の敵なのだ。
店長のような吸血鬼もいるのだろう。
だが、それでも。
――この男を生かしてはおけない。
鋼のような決意を固めたヨウの瞳に、小さな殺意の灯火が宿る。
これまでの全ての言動よりも、純粋で真っ直ぐな思い。後ろ向きな、深い暗闇のような腹の底から生まれた、純粋な殺意。
それが言葉となって、導火線となって、ヨウを動かす動力源となる。
「ブッ殺す」
「――ぁ」
刹那、強い衝撃があって、青年の顔面が物理的に歪んだ。
否、歪んだという表現は適切ではない。
歪んだというのは青年自身が行うことで成立する。この場合では、歪まされたという方が適当だ。
そして、歪まされたのならば当然、歪ませた元凶がいる。
視界の先、突き出ていたのは血に濡れた拳。そしてその拳の延長線上にあったのは、こちらへありったけの殺意を孕んだ瞳を宿した、少年だった。
「くっ、おおぉぉぉぉぉ!?」
殴りの勢いのままに青年が吹き飛ぶ。
青年と激突した机や椅子が面白いように簡単に砕き割れ、青年の動きに沿って教室内に散乱していく。
轟音が教室内を支配し、青年はその中を転がった。
「――――」
広がる余波はセイヤとベティにまで襲いかかり、その光景に二人は絶句する。
ヨウの攻撃が、青年を吹き飛ばしていたのだ。
そして、涙を流すヨウの腕。そこには赤いオーラが纏われている。
それが一体何か、この場にいる全員が理解していた。
「あっはぁ。本当なんだね、聞いてた通り」
理解していたからこそ、絶句する二人を他所に、笑みを浮かべながら青年は立ち上がった。
軋み、砕け、別方向へ折れ曲がった手足を強引に回して元に戻し、血と唾液が混じったそれを吐き捨てる。
そうして自身の怪我を全て治し、青年は笑いながら、
「こんばんは。初めまして、天然の血気術師君!」
新たな血気術師の誕生を、そう言って祝福した。




