アップルパイの匂いは春風に乗って
-§-
――薄暗がりの中で、煌々とした赤の色が燃えています。まるで地の底で煮え滾る溶岩の様に、熱と光を十分以上に蓄え込んで、光として吐き出す輝きの赤です。
それを写真のフレームみたいに内側だけ四角く切り取って、外側から包み込むのは無骨な黒のこれまた四角形。四角形の上下左右には、直角に折り込む形で更に四角形がそれぞれくっ付いています。それら全部を裏に回り込み、束ねてもう一つ四角形で閉じると、合計六面合わせて大雑把には長方形の檻が形作られます。
黒鋼色の檻は轟々と唸り声を上げながら、その中で赤の光を燃やし続けています。そして、四角形の中で外側に向けて赤色を晒しているのは、ただ一面だけ。漏れ出た光が薄暗がりを裂き、照らし出します。
……その先に、一人の男性が、じっと座っていました。
老人です。髪の毛も、顔の下半分を覆う髭も、彼が歩んできた長い年月を物語る様に、すっかり色褪せて真っ白。皺の寄った顔は厳めしく、垂れ下がった目尻と口元の皮膚も、多少その印象を和らげる事は出来ても、どちらかといえば強面な風貌を完全に打ち消せてはいません。
そんな彼は、もうかれこれ二十分以上、体重を預けると軋んでしまう古ぼけた椅子に体重を預け、皺と髭に覆われた相貌を黒鋼色の檻から発せられる赤の光に照らされながら、じっと待ち続けているのです。
引き結んだ口からは、これまで独り言の一欠片すらも零れ落ちず。しっかりと見開かれた二つの瞼の中には、固い意志の宿った鳶色の瞳が収まっていて、そこから生まれる視線は一直線に黒鋼色の檻へと向けられています。
いえ、正確には、檻の中で燃え盛っている赤色……その更に奥にあるものを、彼はじっくりと見張っているのです。
そうして、更に数分が経ちました。相変わらず老人は黙りこくったまま、身動ぎ一つしていません。彼を包み込む薄暗がりの奥からも、物音一つ立ちません。黒鋼色の檻が立てるそれだけが、老人の耳へ入る唯一の音でした。
老人はただ待ち、赤の光を見つめ続け……突如として表情をほんの少しだけ変えました。と言っても、片方の眉をたった数ミリ、ぴくりと持ち上げた程度です。
しかし、彼の瞳にはそれまで無かった、ハッキリとした期待と、それと同じくらいの不安が映し出されました。
彼の見つめる先、赤の光が消えています。
「――どうかな」
老人は初めて口を開きます。しわがれた、低い声。その声色にも、同じく期待と不安が込められています。
彼は視線をやや下げ、黒鋼色の檻の自分を向いている面、その下側に表示されていた数字を確認しました。そして一度頷きを得ると、腰を浮かせて節くれ立った右腕をゆっくりと、黒鋼色の檻へと伸ばして行きます。
老人の手が黒鋼色の檻に触れる寸前、彼は「おっと」と思い出した様に呟き、傍らのテーブルの上に置いてあった布の包みを手に取ります。花柄の刺繍が施されたそれは、老人の手に対しては少しだけ小さなサイズのミトンでした。
「どうも、気が逸っていかん」
老人は苦笑し、ミトンを右手に嵌めると、再び手を伸ばします。彼の手が向かう先は黒鋼色の檻に一ヵ所突き出た突起部分、扉を開く為の持ち手です。老人は持ち手を掴むと「頼むぞ」と一言零してから、ゆっくりと扉を引き開けます。
途端に、甘い香りが立ち込めました。濃厚で、ふんわりとした、バターと果実の焼ける香りです。老人は少しだけ表情を綻ばせ、しかし直ぐに引き締めると「まだ油断はならん」と目を細め、黒鋼色の檻――オーブントースターの中にある天板を掴みました。
「さて……」
老人は力を籠め、慎重に天板を引き出して行きます。金属が擦れる音が微かに鳴り、天板が徐々に表へ出てくるのと同時、甘い香りはますます強くなります。やがて、天板が完全に外に出た時……その上に載っていたのは、こんがりと狐色に焼き上がった大きな丸いアップルパイでした。
「出来たぞ……!!」
今度こそ老人は、心から嬉しそうな声を上げました。強面が笑みに緩まり、濃い髭の下に歯が覗きます。彼は胸が高鳴るのを感じつつ、一層慎重な手つきで天板をテーブルの上に置くと、出来上がったアップルパイを皿に移す作業を開始します。
ここでひっくり返してしまえば、苦労は水の泡。老人は丁寧に金属のへらでアップルパイの底を天板から剥がすと、アップルパイより一回り大きな、白くて丸い皿の上に乗っけようと試みます。
「……よし、よし」
……上手く行きました。老人は安堵の溜息を吐きます。
今度は、切り分けです。老人はナイフを取り出し、アップルパイに添え、そこで手を止めます。彼の口から唸り声が漏れました。何切れに分けるべきか、考えていなかったのです。
彼は数秒だけ悩み、結局四つ切りにすることにしました。力を籠めると、ナイフがパイ生地を断つ、ざくり、という心地好い音が響きます。彼はそのまま刃を引き、几帳面にも正確に四等分しました。
さあ、後は食べるだけです。老人はコーヒーカップとフォークを並べ、予め用意していたコーヒーの入ったポットも傍に寄せ、椅子を引こうとして……。
「……いや、うむ」
一つの思い付きを得ました。老人が視線を巡らせて見るのは、薄暗い室内です。長年住み慣れた我が家の風景、別に不満がある訳ではないのですが、その時の彼はどうせならばもう少し解放感が欲しいと考えたのです。
「電灯も切れているしな……そうだ、今日は折角晴れているんだし……」
老人は頷くと、アップルパイをそこに置いたまま部屋の奥へと引っ込みます。かと思えば数十秒後、彼は両脇に折り畳み式の小さなテーブルと、少し古ぼけた三脚椅子を抱えて戻ってきました。
彼はそのまま玄関へ向かうと、両手が塞がっているので肩を使ってドアを押し開けます。眩い陽光が老人を包みました。
彼は目を細め、何度か瞬きをします。それまで薄暗い中で作業をしていた所為でした。滲んだ涙で瞳を潤ませつつ、彼はえっちらおっちらと机と椅子を抱えて外へ出て行きます。
老人の視界に飛び込んできたのは、春の暖かな日差しに照らされた、見慣れた自宅の庭の風景です。今からもう数十年も前、ここに越して来てから何度も何度も目にした当たり前の光景。老人の家は小高い丘の上を切り開いて建てられたので、木々の緑が一面に溢れています。
「良い日和だ」
彼は空を見上げ、満足そうに言いました。遥か天まで透き通る様な青い空に、綿菓子にも似た羊雲が浮いています。黄金色の太陽が燦々と輝き、風は南から柔らかに吹いて木の葉にざわめきを作り出します。
老人は適当な場所を見繕い、テーブルと椅子を設置しました。そうして家の中からアップルパイと、食器と、ポットを順番に運び出し、食事の用意を整えて席に着きます。その時三脚椅子が大きな音を立てて軋んだので老人はひやりとしましたが、どうにか体重を支える役目は果たしてくれていることを確認し、胸を撫で下ろします。
アップルパイはまだホカホカと湯気を立てています。フォークとナイフで切り分ければ、断面にはたっぷり詰まった林檎の金色が覗きます。老人はごくりと喉を鳴らし、恐る恐るとフォークに突き刺した一片を口に入れ……。
「……これだ」
何度も何度も、頷きました。
パイの欠片が髭に付くのも構わず、彼は夢中でもう一口。すると香ばしいバターの香りと、芳醇な林檎の酸味が口いっぱいに広がります。噛み締めれば、歯がパイの繊維を割っていくなんとも言えない素晴らしい触感。じわりと染み出す林檎の果汁と砂糖によって倍増した甘味が、カスタードの濃厚な風味と絡まり、
「美味い」
期待通り。彼の記憶にあるそれと寸分違わぬ、完璧な出来栄えでした。老人は懐かしむ様に目を伏せ、パイをもう一口、また一口と食していきます。そしてその度にある想い出を想起し、共に味わっていくのです。
「ああ……」
それから瞬く間にパイは一切れ無くなってしまいました。老人は残りのアップルパイを満足げに、しかしどこか名残惜し気に見つめ、溜息を吐きます。彼の作ったアップルパイは完璧な出来でした。故に、目的を達成して満たされた心はこの上なく暖かいのですが……、
「だが、食べきれるかな」
それが不安でした。寄る年波には勝てないとは言ったもので、老人も当然ながら年々食が細くなる一方です。この素晴らしいアップルパイだって、出来ることなら全て食べ尽くしたいと思っても、恐らくあと一切れが限界でしょう。
「残りは、明日に回しても良いが……」
冷たくなったアップルパイも、それはそれで良いものです。しかし、彼にとってのアップルパイは出来立ての暖かい物でした。アップルパイが冷めてしまえば、自分の中の想い出も冷めてしまう様な気がして、老人は残念を感じます。
「感傷だな」
老人はコーヒーを注ぎ、一口啜りました。黒々とした液体に封じられた香ばしく深い苦みが、熱を伴って舌の上に残ったアップルパイの味を洗い流していきます。飲み込めば、また新鮮な味わいでアップルパイを食べられることでしょう。
「詰め込めば……いや、だが……」
老人は肩を竦め、ふと思いました。そして、どうせ周囲には誰も居ないので……溜息と共に、叶わないであろう願望を口に出しました。
「……誰か、私と一緒にこれを食べてくれる者は居ないだろうか」
-§-
その坂道は、生い茂る草木に包み込まれる様に存在していた。
都市部からはやや離れ、民家や商店なども疎らとなった郊外に位置する一帯。そこから更に先へ先へと進んで行った所に、小高い丘を形作る地形がある。その麓、殆ど人の手が入っていない自然のままの緑が支配する中を、一筋貫く様に伸びる一本道があるのだ。
それは高く伸びた木々により緑のトンネルの如く両脇と上部を閉ざされ、丘の上へと続いていく坂道だ。天頂から燦々と降り注ぐ陽光は遮られ、微かに零れる木漏れ日がアスファルト舗装の上にぽつぽつとした陽だまりを作っている。
……その上を、二人連れの女性が丘の上へ向かって歩いている。
「おい……どこまで行くつもりなんだ……」
黒山塔子は肩を落とし、全身から放つ倦怠感をそっくりそのまま言葉に乗せる形で吐き出した。
黒のレディーススーツの上下に身を包んだ長身の女性である。とは言っても、現在上着の方は脱いで左手に掛けているので、上は白のワイシャツ姿になっていた。
今年で丁度二十歳を迎えた彼女は、花も恥じらう大学二回生。春の陽気と先程から――不本意ながら――続けている行軍めいた歩行運動によって、まだ若々しく水気を保った頬は薄く上気し、第二ボタンまでを開けた胸元から覗く白い首筋には汗の筋が伝っている。
塔子はその装いの中で唯一浮いた印象を放つ運動用の青色スニーカーでアスファルトを蹴り、一応は身体を前へ前へと進めてはいくのだが、表情に関してはお世辞にも前向きとは言えないものである。
「この先に何があるってんだよ……もう三十分も歩いてるんだぞ……」
前方へ向けて投げかけた言葉に込められたニュアンスは、言語化すれば「もう帰りたい」に他ならない。息は荒く、明らかに普段から運動慣れしていないのが良く分かる様子であった。
一方、彼女の先を歩く小柄な赤ジャケットコートの姿は、塔子の様子もお構いなしに前進を続けていく。歩幅は大きく、コートの裾を翻し、意気揚々という形容詞そのもののペースだ。塔子は徐々に遠ざかっていく背中を睨み、乱れた息をなんとか整えると、息を吸い込み声を張り上げる。
「――おいっ! いい加減どこに行くつもりなのか答えろ、海晴っ!!」
そこでようやく、海晴と呼ばれた赤ジャケ姿の少女は気が付いたのか、肩を震わせて急停止。その反動で思い切りつんのめって転び掛けるが「うわっとっと!!」とたたらを踏んでどうにか姿勢を立て直すと、ステップの勢いを利用した振り向きを行い、
「いや、先輩! なんかこっちから、良い匂いがするんですよ……!」
期待に輝く瞳を笑みに細め、満面の笑みを浮かべた。それを聞いた塔子は、答えの内容にかっくりと顎を落とし、なんとも言えない表情を浮かべた。
「良い匂い、って……。お、お前……そんな適当な理由で、私をここまで……」
愕然とする塔子に、しかし海晴は当然とばかりに「はい」と言ったきりで悪びれる風もない。というより、実際に自分の行動を「悪いこと」などとは一ミリたりとも考えていないのだろう。それなりに彼女と長い付き合いを重ねて来た塔子はその気付きを改めて認識し、盛大に溜息を吐いた。
「……ああ、そうだな。お前はそういう奴だったよ……」
思い返せば、出会った当初から何時だって彼女はそうであったのだ。ならば今更この程度で文句を垂れるのは筋違いも良い所だろう。
「……いや、文句を言う権利自体はあって良い筈だろ!?」
「ど、どうしたんですか先輩……? 唐突な一人ノリ突っ込みは危険ですよ、変な人だと思われます」
「お前に言われたくないし、そもそも誰の所為だと思っていやがる……」
「えっ、私の所為ですか!?」
塔子は思わず「そうだよ馬鹿」と言いそうになって堪えた。海晴を慮ったというよりは、自分自身の言動に痛々しさを感じてしまった為である。
塔子は頭痛を堪えるように額を抑え、首を振ると、足を止めてこちらを心配そうに眺めているお気楽系女子の姿を見た。
赤雲海晴。お気に入りだと言う赤のジャケットコートを自らのトレードマークとし、明るい茶髪をポニーテールに纏めた彼女は、先程から口にしている「先輩」という言葉が示す通り、学年及び年齢的な意味で塔子の一個下の後輩の立場にある。
「あのぅ、先輩? 大丈夫ですか?」
塔子と視線を合わせた海晴は、眉尻を下げた表情のままでそう言った。一応は彼女なりに、塔子を気遣う思いはあるのだろう。塔子は片手を振って「大丈夫だ」とだけ返すと、肩に下げていたバッグからスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、喉を数回鳴らして嚥下した。
「――ふぅ、……お前も水分補給はちゃんとしとけよ。熱中症になるぞ」
ふと、汗をかいてるのが自分だけでない事実に思い当たった塔子が声を掛けると、海晴も自前の水筒を取り出してがぶ飲みを始めた。
そのあまりの飲みっぷりに、海晴が腹を壊さないかと塔子は一瞬不安になるが、彼女が体調を崩している所など今まで一度も見たことがないのを思い出して首を振った。
「風邪引いてるところすら見たことないしなぁ……」
呟き、塔子は海晴と出会ったときのことを思い出す。
海晴と塔子の付き合いは数年前、二人の高校時代にまで遡る。季節は春、入学式から数日経ったある日のことだ。当時高校二年生に進級した塔子が入っていた部活動へ、新入生の海晴が入部届を抱えてやってきたのが最初の出会いであった。
それ以来、なにかと世話の焼ける海晴の面倒を見ている内、塔子は彼女に妙に懐かれた。
「活発」或いは「奔放」という形容詞の擬人化そのものである海晴と、基本的にお人好しな上に面倒見の良い塔子は、後者がやや振り回される形ではあるものの、概ね「ウマの合う」間柄であったのだ。
やがて、それほど期間を開けない内に二人の間で私的な交流が始まった。そして塔子が大学へ進学した後も、それを追いかける形で海晴も同じ大学へとやって来た。そこから今に至るまで、先輩後輩としての関係が崩れないまま、半ば腐れ縁的に交流が続いているのだった。
「んぐ、んぐ、んぐ……っはぁ!! よぅし!!」
と、水分補給を終えた海晴が威勢の良い掛け声を上げ、身体を勢いよく半回転させた。尻尾めいた後ろ髪が緩く弧を描き、彼女は再び進行方向へと向き直ると、呆れ顔の塔子を尻目にそのまま歩き始める。
どうやら、この少女は目的地をあくまでも目指すつもりらしい。
塔子は肩を竦め、諦観交じりに「ったく、この食欲魔人め」とぼやき、足を速めた。そうして、浮き浮きとした感情を隠そうともしない手の掛かる後輩に追いつき、並び立つ。おや、と顔を向けて来た海晴に対し、塔子は苦笑しつつ、
「何、驚いた顔してるんだよ。気になるんだろ? 匂いってのが」
ここまで来てしまった以上はしょうがない。塔子は遅まきながらも、海晴の好奇心に付き合う心算を定めた。それに少なくとも、海晴は匂いとやらの正体を確かめるまでは帰ろうとしないだろう。
こういう奴なのだ、と塔子は海晴を理解していたし、彼女一人を置き去りにして帰るわけにもいかない。慣れたことだと塔子はようやく腹を括った。
ちなみに、事の発端としては今から大体一時間ほど前。彼女たちは本日、休みが丁度重なったので、どこかへ遊びにでも行こうかと小旅行を計画したのだ。
そうして電車を乗り継いで降り立った地に於いて、とりあえずは辺りを散策しようかと連れ立ってぶらついていた所、突然海晴が「おおっ!」と一声叫んで走り出した。
塔子は慌ててその後を追いかけ、見知らぬ土地を進んで行き、やがていつの間にかここに辿り着いたという次第である。
「ったく、突然鼻をひくつかせたと思ったら、いきなり走り出すんだからな……。犬かよ、お前」
「あ、ひっどい!! 幾ら先輩とは言え失礼ですよ!! ――私の嗅覚は、犬っころなんかに負けません!!」
「反論するのはそっちかい」
塔子の皮肉に、どこかズレた答えを返す海晴。相変わらずの奴だと、塔子は笑う。そうして肩上で短く切り揃えた黒髪を掻き上げ、塔子は周囲を見回す。この道の入口から随分と先に入り込んでしまったが、左右と頭上を固める木々の重なりは益々濃く、深くなっていく……。
「……しかし、ここ何処なんだろうな?」
見上げた景色は、まるで緑色のトンネルだ。微かに漏れる光が、その先にある青空を思い出させてくれるのが慰めか。降りた駅からは随分と離れてしまったし、下手をすれば戻れなくなるかもしれないという不安は付き纏うが。
「一応、一本道だから……なんかあっても入口までは戻れるか……」
ふむ、と頷いた塔子に、晴海はけろりと楽天的な笑みを浮かべる。
「あれ、先輩。もしかして怖がってます? 大丈夫ですよ、この歳で迷子になる訳ないじゃないですか」
「ああ、私一人ならな。お前がくっ付いてると、その内未開のジャングルにでも辿り着きそうだから不安なんだよ……」
しみじみと言う塔子に、海晴は「風評被害だ!」と喚いた。しかし事実として、今まで塔子はこの猪突猛進を体現する後輩に付き合う度に不本意な「冒険」を繰り広げる羽目になっている。それも一度や二度の話ではない。
「この前なんか、渋谷で買い物してたら、いつの間にか奥多摩の山奥に居たんだぞ……。お前は何だ? 人を迷わせて貪り食う妖怪変化の類なのか? あ?」
「妖怪にしては可愛すぎると思いますねぇ」
「自分で言うか!! この!! この!!」
塔子は海晴を背中から抱えると容赦なく振り回した。お互いに頭二つ分程度の身長さがあるので、女性の力でもこの程度は可能である。
塔子の顔は笑ってこそいるが、口元がやや引き攣っている辺りは憂さ晴らしの意味もあるのだろう。他方、身体を揺さぶられる海晴は目を回して悲鳴を上げるが、むしろ楽しそうだ。彼女は根っからの楽天家であり、暢気が染み付いている性質であった。
そのまましばらく二人は戯れるが、やがて塔子の方が根負けした。彼女は海晴を放り出すとぜいぜいと息を吐き、真っ赤になった顔から大汗を流しながらへたり込む。これもおおむね普段のパターンだ。
「……ち、調子に、乗り過ぎた……」
「運動不足ですよ、先輩」
「うるさい……この野郎……」
「こんなにキュートな女の子を捕まえて“野郎”とは酷い侮辱ですね」
不本意だと言わんばかりに口を尖らせた海晴に、塔子は手をヒラヒラと振って降参の意を示した。この能天気ガールに言葉と実力行使で対抗した所で効果は薄い。
ただ少し癪に障るのが、海晴は確かに――大分童顔気味とはいえ――可愛らしいという評価がぴったり当てはまる容姿であることか。
自分もまぁ、不細工ではない。塔子はそう自己評価しつつ、くりくりとした大きな目に筋の通った小ぶりな鼻と良く動く薄紅色の唇、美点の方が目立つ海晴の顔を眺める度に「どうにも敵わん」と思えてならないのだ。
それに、こいつ、割とモテるからな……。
塔子は過去に海晴をナンパした男たちの顔を思い浮かべ、苦笑する。小柄で愛嬌があり、誰に対しても人懐っこく明るい海晴は、基本的に男受けが良い。故に手の早い連中がこぞって唾を付けようと群がってきたこともあるのだが、
「……結局、こいつの行動力と不規則言動に着いて行けなくなって、最終的には泡食って逃げ出す羽目になるんだよなぁ」
「へ? 先輩、なにか言いました?」
「ああ、何でもない……」
過去に、塔子の後輩でもある男子学生の一人が海晴に粉を掛け、どうにかデートまで漕ぎ着けたは良いのだが……翌日成果を聞いてみた所、疲れ切った顔で「インディ・ジョーンズか川口浩にでもなった気分ですよ」と呟いたのがやけに印象に残っていた。
そして、そうまでしても海晴は彼とのそれをデートだとは最後まで思っていなかったというのが、なんとも救いようのないオチである。
大体、男の方が「そういう雰囲気」を作ろうとしても、海晴はすぐに興味を他に移してしまうし、彼女の体格と無防備な言動を軽んじた不届き者の類が、仮に無理矢理手籠めにしようとしたところで……、
「運動神経と戦闘力は、どこぞのアクション俳優の役柄並みだってんだから……」
電車の中で尻を触られた海晴が突然「ぎぇぇぇぇ」と怪鳥音に似た悲鳴を迸らせた直後、彼女に蹴り飛ばされた痴漢野郎が垂直に吹き飛び、天井に全身を叩きつけられて気絶したのを見た時には大層驚いたものだ。
他にも、よそ見運転で突っ込んできたトラックに轢かれそうになったのを、傍の電柱を蹴り付け三角飛びで回避したり。近所でも有名なチンピラ紛いが酔って暴れているのを、絡まれている老人を救う為に飛び込み見事な飛び膝蹴りの一撃で地に沈めたりと、その手の逸話には事欠かない。
「……いや、お前本当に人間か?」
「えええええ急に酷い暴言ッ!?」
訝しんだ塔子がついそんなことを言うと、海晴は大分ショックを受けたようで、ただでさえ大きな目をさらにまん丸に見開いて叫んだ。
「な、なんでいきなりそんなこと言うんですかぁ!!」
「あ、いや、すまん。ただちょっと、お前という存在そのものに、色々と疑念が湧いて来て……」
「存在そのものッ!? やだぁ、まさか先輩が私を否定するなんてッ!!」
大袈裟に頭を抱えて仰け反って見せる海晴へ「すまんすまん」と詫びつつ、しかしどうにも塔子は、未だに海晴のポテンシャルを把握し切れていないのだな、と思う。考えてみれば四年間の付き合いの中で、彼女のひととなりは大分掴めて来た気がするのだが、実のところ未だに知らない面も多いのだ。
例えば家族構成だとか、生い立ちだとか、彼女自身のクリティカルな部分にはあまり詳しくない。これまでにも折を見ては、それとなく訊ねたりしてみたのだが、その度にはぐらかされてしまうのだ。
一度「もしや本当に妖怪の類か」と塔子は海晴の家を訪ねてみたが、流石にボロボロの廃屋がある訳ではなく、彼女が一人暮らしをするアパートの一室に招かれただけであった。
余談だが、出て来た茶菓子は高級デパートの地下で販売されているそれなりにお高い代物で、海晴が「ちょっとお礼で貰って」と曖昧に笑ったときの表情が今でも塔子は気になっている。
「……やっぱり、お前はよくわからん奴だな」
そう言った塔子に対し、海晴は立ち直ると口元をにやり、と歪めた。
「そうですか? 私の方では、先輩のこと、よーく解ってますけどね」
「……なんか悪い予感がするが、一応聞こう。例えば?」
すると、海晴は指を折り数えながら、どことなく楽し気に
「そうですねぇ。例えば、男に興味ないって態度取ってる割には、恋愛相談の旗掲げてる易者さんをガン見してたり」
「ぐっ!?」
「犬とか猫とか動物見るとすぐ寄ってくくらい大好きだけど、毎回妙に嫌われるんでその度滅茶苦茶落ち込んだり。自宅には大量の積みゲーがあって、その内容大半はゾンビや変な怪物撃ち殺す類の洋ゲーばかりだったり」
「ぐぐっ!!」
「パスタよりラーメン派でフォーク使うのが下手だから、自宅で冷凍のスパゲッティ食べる時は思いっきり箸使って啜り食いするとか。普段からスーツばかり着てるのは拘りってより服にお金掛けるのが面倒で、成人式に使った奴中心に着回してるからだからとか。自宅では逆に常にジャージで過ごしてて寝巻もジャージだけど、下着は妙に可愛らしいクマとかウサギとかプリントされた奴が多くて、あとはそうですねぇ――」
「あああああもう良い黙れ口を閉じろ分かった」
これ以上続けさせると、自分のプライバシーが――それもなるべく隠しておきたい方の――際限なく暴露されかねない。塔子は慌てて海晴の口を塞ぎ、周囲に人影がないことを確認して安堵の息を吐いた。
「……いや、つぅかなんでそんな詳しいんだ!? 私の私事に!?」
「だって先輩、分かりやすいので……。それに、そういうオーラが出てますもん、全身から。こう、薄暗い、感じの……?」
年頃の女性に対してはあまりに痛恨な一撃を喰らい、塔子は衝撃に打ちのめされた。一方、羽交い締めにされていた海晴は、拘束の緩んだ塔子の腕から身を屈めて抜け出す。
「まぁまぁ、そう気を落とさないで下さい。人それぞれ個性はあって良いと思いますし、そんな先輩のこと、私は個人的に大好きですよ?」
「……嬉しくねぇやい。畜生、さっきの仕返しか……」
「やだなぁ、そんなつもりじゃないですって」
海晴は笑い、「さぁ、そろそろ行きましょう」と再び坂道を上り出した。そうして相変わらず元気いっぱいにパタパタと足音を立てて小走りに進み、鼻をひくつかせ、なんとも嬉しそうな表情を浮かべると、
「うーん、段々と近くなってますねぇ」
「……私にはなんにも感じないんだがなぁ」
なんとか動揺から立ち直った塔子は、試しに自分も周囲の匂いを嗅いでみるが、鼻腔を満たすのは春らしい草木の若々しい匂いだけだ。
こいつ、本当に犬か何かじゃないのか、と塔子は思わず海晴の尻を見やる。無論、ふさふさの尻尾がそこに揺れているわけはないのだが。
「やれやれ」
頭の中に生じた奇妙な考えを振るい落とし、塔子もまた歩き出す。このアグレッシブな後輩に付き合うのは体力と気力が要るな、と改めて思い、そこでふと浮かんだ考えを口に出す。
「……なんで毎度毎度、私はこいつに付き合ってんだろうか」
数秒程考えては見たものの、理由は塔子自身にもよく分からなかった。海晴のことは――多少エキセントリックだが――嫌いではないし、時間を共にするのも苦痛という訳ではない。なんだかんだと素直に好意を向けてくる姿は、彼女の先輩としては「可愛い奴だ」と素直に思う。
大学ではそれなりに「気を遣う」人間関係が増えて来た一方で、態度も思考も高校時代から終始一貫して裏表のない海晴は気楽な存在だし、そんな彼女の変わらなさに感謝の様な気持ちもないではない。
しかし、それを考慮しても、ここまで自分を振り回す少女の奇行の数々に付き合うのは何故か。面倒見の良さだけでは段々済まなくなって来たその理由付けを、しいて挙げるならば、
「こいつに付き合うとどういう訳か、高確率で“妙な経験”をするんだよなぁ」
それがどういった類なのかは毎回変わるが、往々にして「日常生活ではまず経験しないようなこと」ばかりが起こるのだ。それも、海晴自身の変人性や好奇心から引き寄せられる様な類の物だけではない、なんというかどうにも理屈での説明が付き難い「不思議なこと」が大半である。
実際の所、自分はそれを心待ちにしている節があるのかもしれない。代わり映えのない日常を彩る経験を。塔子はそう考え、直後に「いやいや」と首を振って苦笑した。流石にそれはあんまりにも浮世離れしている。
「大体それじゃ、こいつが未来から来た猫型ロボットで、私が運動も勉強もダメな冴えない眼鏡君みたいじゃないか。そりゃあ、あんまりだろう」
或いは、数年前に流行ったライトノベルだかなんだかの設定めいている。だが、心の根本的な部分で自分はあくまでも常人であり、海晴もそうであると考えている塔子は、それらフィクションとの同一視を好まなかった。
どうでもいい、取り敢えず「一緒に居て楽しいから」で良いだろう。塔子は結局、そう結論付けた。その方がなんとなく無軌道な青春を謳歌する若者らしくもある。どうせ数年後には就職云々で苦しむことになるのだから、それまでのモラトリアムを満喫しよう。
二人はその後、暫く黙々として坂道を上り続けた。木々に覆われ、周囲は影になっているのでどちらかといえば涼しい。しかし歩いている内にどうしても運動の熱が籠って汗が吹き出すので、塔子はハンカチで汗を拭いながら足を動かしていく。
他方、海晴は大汗をかき、額に前髪を張り付かせていても気にする様子はない。まるで遠足中の小学生だな、と塔子は益体もない考えを抱いた。少なくとも、純粋さというステータスに関してはなんら劣るものはなさそうだが、とも。
……やがて、遂に二人の前の視界が開ける。坂を上り切ったのだ。
「これは……すぐそこ、ですねぇ……」
そこで塔子は興奮を抑えきれなくなったのか、大きく鼻息を吸い込むと、一気に駆け出した。慌てて塔子も後を追えば、見えて来たのは木々がぽっかりと切り開かれて出来た空間と、
「……家、か? こんな所に?」
随分と年季が入った洋風の一戸建てがそこに存在していた。全体的に茶色味を帯びた、シックな出で立ちの家である。築何年だろうか、少なくとも一年やそこらではあるまい。屋根や壁には老朽化の証として罅や染みが出来ていて、一見すると既に主を失った無人の廃屋にすら見えた。
塔子が眺めている内、不意に海晴の発した喜びの声が聞こえてきた。塔子がそちらを向けば、海晴が駆けていく先には一戸建ての玄関があり、そしてそこに一人の老人が庭先に出したテーブルと椅子に腰かけている。住民が居たのだ。
「……って、おい! こら、ちょっと待て!!」
その事実を認めた途端、塔子の脳裏には「不法侵入」という四文字が鮮やかに閃いた。
海晴に流されるままやって来てしまったが、住民が居るならばここは私有地の可能性が高い。そして、その人物にとって「突然現れた二人組の女性」はどのように映るだろうか?
色々と世知辛く、物騒な昨今である。場合によっては警察を呼ばれかねないし、そこまでいかずとも「不審者」のレッテルを貼り付けられるのは余りにも気まずい。塔子は、遠慮という言葉を母親の胎内に置き忘れた後輩が老人に向かってずんずん近付いて行くのを見て金切り声を上げた。
「なぁにやっとるか貴様ァ――ッ!!」
血相を変えた塔子の叫びに海晴はぎょっとして振り向き、そこで先輩と慕う女性の表情を見て顔を引き攣らせた。
「ヒェッ、せ、先輩……顔がなんか凄いことになってますよ……!」
「誰の所為だと思ってんだ!!」
確かに今は鏡を覗かない方が良いだろう。そんな益体もない考えを頭の隅に追いやりつつ、塔子は海晴へと近づいて肩を引っ掴むと、無理矢理その場に押し留めた。そうしてから、不思議そうな表情でこちらを窺う家の住民と思しき老人に愛想笑いを返しつつ、
「す、すみません……!! その、ちょっと道に迷っただけで、怪しい者ではないです……!! す、すぐに出て行きますんで……!!」
塔子が必死になって自らの潔白を取り繕おうと努力している傍ら、海晴の興味はまったく別のものへと向いていた。彼女の視線が向かうのはただ一点、老人の前に置かれたテーブルの上に鎮座する、こんがり狐色のドーム型。彼女は遠目にその正体を看破し、満面の笑みを浮かべた。
「アップルパイですね!! 成程、あの匂いはそれでしたか……」
海晴の言葉に老人は表情を変えた。不可解から納得へと。そして、おもむろに口を開く。
「……匂いを辿ってきたのかね?」
「は、もがもが」
「すみません、今すぐ出て行きます!! お邪魔しました!!」
即座に肯定を返そうとした海晴を、塔子は必死に黙らせようとする。そうして、運動の余熱から生まれるものとはまた別種の汗を流しつつ、抵抗して暴れる海晴を引き摺りながら、その場を離れようとするのだが……。
「待ちなさい」
「ひぇっ……」
老人に呼び止められてしまい、それも叶わなくなる。もはや絶望のまま立ち尽くす塔子が呆然と見る先、老人はのそのそと家の中に入っていってしまう。
「あ、ああ……つ、通報されるのか……」
碌でもない想像が頭の中を駆け抜け、塔子は顔面蒼白となった。
これまでの人生、曲がりなりにも前科が付きかねないような行いとは無縁に生きて来たつもりであった。酒も煙草もやらず、ギャンブルにも手を出さず、それだけで品行方正を自称するつもりこそないが、なるべく真っ当な生き方を貫いて来たと信じていた。
それがまさか、こんな所でケチが付くとは……。
「先輩、幾ら何でも悲観的過ぎますよ……」
「お前も道連れだぞ……つぅか、そもそもお前が原因だし……」
「うわ、地獄の底から響いてくるみたいな声」
海晴は「大袈裟だなぁ」と苦笑いをするが、塔子は気が気ではない。今もあの家の中で、老人が110番をプッシュしているのではないかと考えるだけで膝が笑いだす。
いっそ、今の内に逃げ出すか。浮かんだその考えが一筋の光明に思え、塔子は踵を返してその場を後にしようとするが……それより前に老人の家の扉が開いた。小さく悲鳴を上げ身構えた塔子に対し、海晴は「おや」と呟き、
「先輩、ほらあれ」
と指し示す。恐る恐る塔子が視線を向けると、老人は両脇に二つの物体を抱えていた。二人の闖入者が見守る中、老人はそれを地面に下ろすと広げ始める。老人が用意した物は、二人分のパイプ椅子であった。
「……君たち、腹は減っているかね?」
「……へ?」
老人が発した問い掛けの内容に、塔子は疑問符を浮かべる。すると老人は苦笑し「腹は減っているか、と聞いたんだ」と繰り返した。
「はい! お腹ぺこぺこです!!」
咄嗟に海晴はそう返すと、塔子から離れて老人の元へ走って行く。そうして迷うことなく老人が新たに用意したパイプ椅子に腰かけると、塔子へ振り返って満面の笑みを見せた。
「先輩! この人、私たちにも分けてくれるみたいですよ! アップルパイ!」
「……えっ?」
まさかそんな、と驚く塔子に、老人は頷いて見せた。その上海晴が急かすので、半ば疑いつつも塔子も彼らの元へ赴くと、空いているパイプ椅子に腰を下ろす。それを確認した老人は、残り三切れ残っているアップルパイから一切れずつを別々の皿に乗せると、それぞれ海晴と塔子へ差し出した。
「え、いや、あの……構わないん、ですか?」
陽光を受けて黄金色に輝くアップルパイと、老人の顔を交互に見つめ返して塔子は訊ねる。すると老人は「構わないさ」と微笑み、
「実は、作り過ぎてしまったんだよ。自分で食べるつもりで張り切ったは良いんだが、どうにも自分の胃袋の限界までは考えが及んでいなくてね。それで、どうしたものかと悩んでいた所に、丁度君たちがやって来た」
老人は言いながら、残った一切れを自分の皿に移した。そしてパイプ椅子と一緒に持ってきたのか、新たに用意された二つのカップにもコーヒーを注ぎ、塔子と海晴の下へ置く。
「渡りに船というやつだ。それに、一人で食べるのも少し寂しいと思っていたしね。もし、迷惑でなければ、この寂しい老人の茶会に付き合って欲しいのだが……どうだろうか?」
「いえいえ迷惑だなんてそんな!! 付き合います付き合いますとも!!」
間髪入れずに海晴は答えると、もう待ちきれないという様に目を輝かせて皿に添えられていたフォークを握った。そして、流石の塔子も、ここまで状況が進んでから逃げ出す程空気が読めない訳でもなく。
「では……その、頂きます」
「頂きます!!」
塔子は端の方を遠慮がちに数センチほど、海晴は大きく半分程を一気に、それぞれアップルパイをフォークで切り取ると口に運んだ。そして、パイ生地に包まれた林檎を噛み締め、
「……っ! これは」
「美味しい!!」
揃って声を上げた。二人の様子を見て、老人は満足げに頷くと彼もアップルパイを一口。
「……どうかね?」
「これ、凄く美味しいですよ! お店で売ってるのと変わらない……いや、それよりずっと!」
海晴は感激しており、塔子も何度も頷いて同意を示した。それを受けて老人は嬉しそうな表情を浮かべた。
「満足して頂けたなら、何よりだ」
「これ、本当にお爺さんが作ったんですか? 凄いですよ、お菓子職人になれます!」
海晴が興奮気味に言ったその評価を、塔子も決して大袈裟だとは思わなかった。
バターの風味が豊かなパイ生地の表面はサクサクとして歯触りが心地よく、内側で林檎とカスタードに触れる面はしっとりとしながらもべた付かずに歯切れが良い。甘く煮詰められた林檎は酸味が程よく、カスタードの濃厚な甘みに包まれて尚しっかりと自己の存在を主張し、相互に味を引き立て合っている。
「私も、こんなに美味しいのは食べたことない……」
呟き、塔子は先程より大きく切って口に入れた。すると益々林檎の芳醇な香りが口いっぱいに広がり、思わず彼女の口元が綻ぶ。
「どうやら、私の手前味噌ではなかったらしい。お若いお嬢さん方にも好評が得られたならば、きちんと再現が出来ているという証拠だ。……やれやれ、安心した」
「再現って……?」
老人が呟いた言葉を聞き、海晴は首を傾げた。老人は「ああ」と頷き、
「このアップルパイのレシピは、元々私の妻の物だったんだよ」
「奥さんがいらっしゃったのですか?」
「ああ……もう、大分前に先立たれたがね」
その答えに、塔子は自分の発言が迂闊であったと顔色を変えるが、老人は「気にしなくていい」と柔らかく微笑んだ。
「心の整理はとっくに済ませたし、彼女は最後まで安らかだった。家族や友人に看取られた幸せな最期だったと信じている。それを、何時までも哀しみで引き摺っていては、彼女も迷惑がるだろうからね」
とは言え、こんな偏屈男に生涯の大半を付き合わせてしまったことだけは、すまなかったかな。
自嘲気味に零した老人に、塔子は何と言って良いのか分からずに押し黙る。一方で海晴はあくまでも気楽そうに、アップルパイを突きながら言う。
「こんな美味しいもの作れる人に悪い人は居ませんって。それに、お爺さんがこれを作れるってことは、お爺さんが味を覚えられるくらい何度も、奥さんはアップルパイを作ってくれたってことでしょう?」
その言葉に、老人は驚いたように目を見開いた。
「そう、思うかね」
「ええ、例えばご飯の支度は日常としても、お菓子作りって結構手間が掛かりますし。大切じゃない相手にわざわざそんなことはできませんよ。それに、このアップルパイ凄く丁寧に作られてますから」
海晴は微笑んだ。
「奥さんがそうしていたのを、お爺さんが再現出来たのなら……お互いにちゃんと想いが通じてた証拠です。アップルパイに込められた奥さんの想いを、お爺さんも受け取っていたんですよ。……まぁ、私は実際にお爺さんたちの生活を見た訳じゃないですけど」
きっと、幸せだったんじゃないですかね。その言葉と共に海晴はアップルパイをもう一切れ食べ、幸せそうに口元を緩めた。老人はそれから数秒程沈黙していたが、ふ、と息を吐くと、
「……随分と失敗を重ねたが、ね」
「でも、成功するまで諦めなかったんでしょう?」
「ああ、その通りだ」
「なら、それが全てだと思いますよー。そのお陰で私たちもこうしてご相伴に与れている訳ですし……ね? 先輩?」
そこで海晴は塔子に視線を送った。突然水を向けられた塔子は戸惑いつつ、なんとか頷きを返した。どうにも普段は能天気な海晴がこういうことを言いだすと、呆気に取られてしまう。そんな様子を見た老人は、コーヒーを一口啜った。
「すまないね、湿っぽくなってしまって」
「あ、いえ……その、なんというか、……こいつの言う通りだと思います、私も」
「ふふ、有難うよ」
もう少し気の利いた台詞は言えないのか。塔子は内心で自らを恥じるが、他の二人は気にした風もない。やがて、老人は自らの過去を思い出していく様な顔つきで、ぽつぽつと語り出した。
「……そうだな。彼女が私の傍に居てくれた日々は、身に余る幸福だったと思うよ。だから、私も自分の人生に後悔はない。ただ一つ、彼女が作ってくれたアップルパイをもう一度食べたいという望みを除いては、ね」
だが、と彼は前置きして続ける。
「こうして、自分でも満足の行く出来の物が作れて、君たち二人にもお墨付きを貰った以上はそれも叶った。これで、本当の意味で悔いが消えたよ……」
老人の表情は晴れやかだった。それは、彼が内心で秘かに抱いていた不安もアップルパイの完成と共に晴れたという証明なのだろう。塔子はふと、彼の視線の先を追い、そこに澄んだ青空が広がっているのを見た。
彼はその先に何を見ているのだろうか。塔子は考え、直ぐにそれを「無粋」として打ち消した。今、彼が抱いている想いはきっと、自分や海晴が立ち入って良い類の物ではないだろうと、そう思った。
……それから、三人は他愛のない会話を交わしながら、奇妙な偶然によって実現した茶会を楽しんだ。春風は緩やかに流れ、木々のざわめきの中で陽光は照らし、アップルパイとコーヒーの香りが満ちては消えていく。
数十分も経つ頃には、アップルパイはその残滓を残して尽くが全員の胃に収まり、コーヒーもポットに残った分は僅かとなった。この辺でお開きにするのが良いだろう、と老人は立ち上がると、二人の来客へ礼を述べた。
「とても楽しかったよ。生い先の短い老人に、素敵な想い出ができた。有難うよ。このことは一生忘れないだろう」
「いえ、こちらこそ。むしろ急に押しかけてしまったのに、こんな美味しいアップルパイを頂いてしまって、逆に申し訳ないというか……」
「なんでそこで変に遠慮しちゃうんですか。そんなことじゃあ、せっかくのアップルパイが可哀想ですよ。素直に感謝するだけでいいのに」
「お前はもう少し遠慮しろ……!」
塔子は海晴の頭を鷲掴みにし、共に頭を下げさせる。しかし海晴は懲りた様子もなく塔子の手を払って頭を上げると、老人へ向けて朗らかに微笑んだ。
「お爺さんも、そんな寂しいこと言わないで下さいよ、何ならまた今日と同じように、皆でアップルパイを食べましょう! 一度きりなんてもったいないです!」
「お前は、また……。食欲優先かよ……」
そうは言いつつ、塔子も内心では海晴の言葉に同意していた。確かに楽しい時間であったのは事実なのだ。可能なら今後も定期的にこの家を訪ねて、老人の寂しさを紛らわせてあげたいという気持ちも、嘘ではなかった。
そして、その思いは老人も同じだったらしく、二人へ向けて頷くと、
「……そうだな、是非ともそうしたいものだ。なら、もしもまた訪ねて来てくれた時には、アップルパイのレシピを教えてあげよう。私なんぞと一緒に墓場の下まで持って行くには、あまりに勿体ないからね」
「わぁ! それは是非!!」
海晴は大喜びであった。そうして、二人は老人と別れた。帰路を辿る二人を、老人はその姿が見えなくなるまで笑顔と共に見送っていた。
-§-
「――先輩、今日あのお爺さんの所へまた行きませんか?」
あのお茶会から数週間後、不意に海晴がそう言った。あの日と同じく、良く晴れた日のことだった。
「そうだな、それも良いか」
幸い、明日も休みである。ならば多少帰りが遅くなってしまっても構わないだろうと、塔子は承諾した。そうして二人で老人への土産を買い込み、またあの長い緑のトンネルを汗をかきつつ上って行き。
「……え」
そこに広がっていた光景に、呆然とした。
あの家が、取り壊されている。
「なんで」
塔子の視線の先、複数の重機が唸りを上げて老人の家にアームを突き刺している。それは力強く、そして容赦なく古ぼけた一軒家を引き裂き、突き崩していく。がらがらと粉塵を巻き上げて崩れていく家の姿に、塔子は腹の奥から湧き上がってくる苦くて黒い感情を覚えた。
「なんでだよ……っ! どうしてあの人の家を壊してるんだよ!?」
それが言葉として迸り出たのと同時、服の裾が引かれるのを感じて塔子は黙る。見れば、傍ら、海晴がスーツを指先で摘まんでいた。
「先輩」
海晴は小さく呟いた。普段の快活な様子とは懸け離れた、静かで落ち着いた表情である。彼女は塔子の手を引くと歩き出す。塔子はそれに抗う気も起きず、ふらふらと従って歩く。
二人が足を向けた先、取り壊されて行く家を眺める白いシャツの中年の男性が立っている。彼は近付いてくる二人連れに気が付き、不審げな目を向けた。
「……君たちは?」
「この家に住んでいたお爺さんの知り合いです、……何があったんですか?」
男性の問い掛けに対し、何も言えないでいる塔子に代わって海晴が端的に応えた。すると男性は「ああ」と納得した様な表情を浮かべる。
「そうか、親父の知り合いなのか。……いや、驚いたな。あの偏屈親父に、まさかこんな若い友人の方が居たとは」
「……親父? つまり、貴方は」
「失礼、申し遅れましたが私は彼の息子です。今日は立ち合いで、ここに」
彼はふと、今も着々と取り壊されていく家に視線を向けると、どこか寂し気な様子でぽつりと言った。
「親父が、亡くなったんでね。いい加減にこいつをどうにかしないとな、と」
「亡くなった!?」
告げられた事実に、塔子は思わず声を上げた。まさか、という想いが胸を満たし、足元が覚束なくなる。
「あんなに、元気そうだったのに」
まだ別れてから殆ど時間は経っていないのだ。あまりにも唐突過ぎる永遠の別れという事実に、塔子は言葉を失った。横の海晴も驚きを隠せなかったらしく、目を見開いていた。
「……何故?」
やがて、なんとか塔子が絞り出した問いに、老人の息子は空を仰いで口を開く。
「心臓の病でね。急に体調を崩して、入院して……そこからぽっくり、って感じですよ。突然病院に呼びつけられた時はそりゃもう驚きましたが、まぁ、死に目には会えましたから」
「そう、ですか」
聞けば、男性は老人とは別居状態だったという。仲が悪かったというよりは、男性の結婚を機にお互いに交流を持つ機会が減っていき、やがて自然と疎遠になっていったのだとか。
「老人ホームとかも勧めたんですが、当人が「絶対にこの家を離れない」と言うんで……。まぁ、問診に来てくれるお医者さんも居ましたし、何かあれば呼べとは言っておいたんで」
そしてある日、男性は久しぶりに老人からの電話を受けた。そこで突然家に呼びつけられたので、仕事の合間を縫って父親を訪ねたのだ。子供と妻を連れ、四人揃って夕食を共にしたという。
「相変わらず元気そうでしたよ、その時はね。だけど、私らが帰宅した後に病院から電話が入って……」
救急車へ通報したのは老人自身だったらしい。駆け付けた男性の姿を老人は認め、そこで一言二言会話を交わした後に、そのまま息を引き取ったのだと……。
「遺書とか、その他諸々の手続きは済んでたので助かりましたよ。自分の死期を悟ってたんですかねぇ。妙に聡い所のある親父でしたし……。まぁ、苦しまずに逝けたのは良かったと思っていますよ」
しみじみと語る男性の顔、そこに深い哀しみがある様には見えない。薄情だな、と一瞬塔子は考えたが、それを他人が軽々しく評価してはいけないと自らを戒める。故人に対する想いは人それぞれなのだから。
ともかく、会うつもりの相手がそんな状況になってしまった以上、長居は無用だ。塔子と海晴は手短にお悔やみの言葉を告げると、老人に渡すはずだった土産を彼の息子へ手渡した。
「ああ、これはどうも、ご丁寧に……ああ、そうだ!」
と、そこで彼は何かを思い出した様に手を叩くと、ポケットの中から何かを取り出した。それは茶封筒であり、中には綺麗に折り畳まれたメモが入っている。
「そういや、親父が「もし私を訪ねてくる二人の若い女性が居たら、これを渡せ」と遺言を遺してたのを思い出しましたよ。多分、貴方たちのことだと思います」
塔子が受け取り、見れば……それは硬い筆跡で事細かに記された、アップルパイのレシピであった。その文字列を追い、塔子は目頭が熱くなるのを感じる。
「……はい、確かにこれは、私たち宛ての物です」
「そうですか、そりゃあ良かった」
男性はほっと、安堵の表情を浮かべた。そして、言う。
「なんせ一年も前に言われたことなんで、すっかり忘れかけてましたからね。いやぁ、手渡せて良かった。肩の荷が下りましたよ」
-§-
それから、どうやって麓まで下りたのか、塔子は覚えていなかった。海晴が手を引き、なんとかここまで歩いて来たらしい事はぼんやり理解しているが。
「……一回忌が済んだので、家を取り壊したらしいですね」
海晴がぽつりとそう言った。塔子は頷き、そこでようやく引き結ばれていた口をなんとか開いて、言う。
「……なぁ、私たちがあの人に会ったのって」
「時系列的には合いませんねぇ」
海晴の口調は軽いが、眉根を寄せ、首を傾げた疑問の様子だ。塔子は眩暈にも似た感覚を覚え、俯いた。
「記憶違いとかじゃ、ないよな? ましてや、幻覚の類でも、ない」
「ええ、あのアップルパイの味は今でも覚えてますしね」
塔子は頷く。あの素晴らしいアップルパイも、良く晴れた青空も、老人の笑顔も、全ては鮮明な記憶として焼き付いている。何より、あの場には自分だけでもなく海晴が居たのだ。二人揃って経験した事が、間違いであったはずはない。
ならば、この不可思議な現実は、一体どういうことなのだ?
春の陽気の中、うすら寒い物を感じて塔子は身震いした。自分の世界観が揺らぐような、感覚。
ややあって、塔子は深呼吸をし、気持ちを多少落ち着けると呟く。
「……後味が悪いな」
まるで、あの楽しかったお茶会の想い出に、得体の知れない影が覆い被さったようだ。いっそ、全てが幻だったと思いたいくらいだが、手の中にある封筒とそこに収められたアップルパイのレシピの感触は紛れもない本物だ。
感情を持て余す塔子の顔を、しかし海晴はきょとんとした顔で覗き込むと、
「そうですかね? 美味しかったじゃないですか、あのアップルパイ」
「……え」
思わず言葉を詰めた塔子に、海晴はあっけらかんと言う。
「私は、それで良いと思いますよ。あのお爺さんはアップルパイを完成させて、奥さんの想いを受け止めて、私たちと一緒に楽しくお茶会をした。それが私たちの知る全てです」
なら、と彼女は微笑んだ。不安や恐れとは無縁の朗らかな表情で、
「なら、素直に喜んでおきましょうよ。それにお爺さんは少なくとも、約束の片方はちゃんと守ってくれたんですし、ね?」
そう言って海晴は、塔子の手に握られた封筒を指さした。塔子はそれを広げ、改めて記されたアップルパイのレシピを眺める。注意事項に関しての注釈が几帳面に刻まれた、丁寧なレシピを。
そしてその末尾、レシピの筆跡よりは少しばかり柔らかく記されたメッセージを、塔子は読み上げる。
「何時か、君たちの大切な相手の為にこのレシピが活用される日が来ますように……、か……」
言葉にすれば、それが彼の本心だと思えるような気がした。
塔子はメモから視線を外し、自分たちが辿ってきた坂道を振り返る。その先から今だに響いてくる重機の音を聞き、取り壊されていく家の情景を思い浮かべ、
「……想い出は、そのまま想い出、か」
目を伏せて呟けば、納得が胸に落ちた。ならば海晴の言う通り、それで良いのかもしれない。
「帰ろうか」
塔子はもう、不安を顔に浮かべてはいなかった。それを見た海晴は「はい」と微笑み、そこで思いついた様に表情を輝かせると、ある提案を口にした。
「なら途中で林檎と、パイ生地と、卵と……色々、買って行きましょう。今日はいい天気ですしね」
「……そうだな」
なら、自分はコーヒー豆でも買おうか。塔子はそう思い、これから始まる時間に思いを馳せ、口元に笑みを浮かべた。
ああ、そうだ。今日はよく晴れた良い日なのだ。
なら、あの素晴らしいアップルパイを食べるにも最適だろう。
「ちゃんと作れれば、だがな」
「おやおや、海晴ちゃんを甘く見てますね?」
「さぁな、少なくともあのアップルパイよりは甘くなきゃいいが」
二人はそんな会話を交わしながら、青空の下、帰路を辿っていく。
アップルパイは何切れに切り分けるべきなのか、それだけを少しばかり悩みながら。
<了>
文章練習も兼ねた短編でした、お読み下さり有難う御座います。
20180706:誤字修正しました
20200624:文章に変更を加えました
20220508:文章を微妙に修正しました




