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迷路ってどこですか?  作者: 袋小路 めいろ
22/29

心が温かいのと、足が冷たいのは、同時に存在する

 袋小路 めいろです。寒いこと、寒いこと。お尻に接する冷たい物が、無ければ良いのに、と思わずにはいられません。あのヒヤッと感は、夏場にあれば重宝するんですけどね。なんとかならないものか。

 皆さん、年末になると、部屋の掃除から、餅つき、えろ本の整理、色々あると思います。一年を振り返るのではなく、そういうことをしながら、考えてしまうことがありますよね。あの半端な考えを集めた、読み物が欲しいな、なんて思います。楽しめそうでしょう。


 それでは、思ったことを綴ります。


「視野が狭い」なんて、言われたことはあるでしょうか。この言葉、よく考えてから使わなければ、恥をかくだけなんですよね。ちょっとだけ、考えてみましょう。

 まず、人は、二人、必要になります。言う側と言われる側ですね。

 それで、会話をします。話の項目はなんでもいいですが、片方が「視野が狭い」と言ったとします。ここでストップして、ちょっと考えてみましょう。


「視野が狭い」ということは、「井の中の蛙」のような意味合いと、一方向からしか物を見ていない人に対する軽蔑的な意味合いがあります。「井の中の蛙」は、狭い世界でしか生きていない、見識が狭いときに言われますね。


 いやはや、数回のやり取りで、話し相手の世界が狭いのだと断定できてしまうのですから、なかなかの対人把握能力ですよね。それでいて、コミニュケーション能力が低いとか言われたなら、対人把握能力をコミニュケーションに上手く活用できていないではないか、というツッコミをしてしまいたいくらいです。言ってきた相手の人間性も、問えるかもしれませんね。

 人が作り出す世界観という物は、千差万別であり、濃度、密度、重要点などなど、全く異なります。それに対して「視野が狭い」と言うということは、世界観という物を、相手と自分で比べた、もしくは、尊敬している他人と相手を比べたからでしょう。

 尊敬している他人と比べた場合は、虎の威を借る狐状態なのですが、言われた側の興味次第では、変な風にはならないと思います。興味が無くても、ふーん、と聞き流すことはできますからね。

 問題は、自分と相手を比べた場合です。千差万別である世界観を比べている時点で、浅はかであるとしか言えません。毎日会い、毎日会話をする人であっても、明確な相手の世界観を、頭の中に作れる人は少ないでしょう。作れたとしても、比べる物ですか、という問いに対して、比べる、と言えるだけの理由が必要です。

 人間であれば、明らかにおかしい状態などはあり得ますけどね。信仰宗教、霊的商法、儲け話に美人局、自分の世界観への盲信、間違いを認めない歪なプライド。人のそういう所は、本当に面白いのですが、そういう状態の人に対して言うかどうかは、個人の自由でしょう。優しいモード解放ということなら良いと思いますが、相手に踏み込む行動ですからね。とばっちりが来ることも、想定した状態でなければいけないでしょう。

 ですが、上っ面だけで考えれば、本来はどうでもいい話です。相手が、どのような世界観であろうと、関係ありません。わざわざ、指摘する必要は無いのです。「視野が狭い」という言葉に対して「余計な世話だ」と返しても良いでしょう。良い人は居ますが、良い人なりの指摘の仕方があるものです。


 続いて、一方向からしか物を見ていない人に対する軽蔑的な意味、を含んでいる場合を考えてみましょうか。軽蔑的な意味合いがあるのですから「お主より我の方が、見ている範囲が広いのだ。この野郎」ということになります。

 それで、苛立ちを覚える人が居るのだろうと思いますが、苛立つのを、少し待っていただきたい。何故かといえば、誰が、二人とも同じ方向を見ていると決めたのか、に対して疑問を持って欲しいからです。

 極端な話ですが、二人が背中合わせになって立ち、指を相手に向けていると思い込みながら、「視野が狭い」と言い合っている場合があるからです。新手のアイドルの振り付けみたいで面白いのですが、よくよく考えるとおかしな状態です。

 別の方向を見ている人に対して、「視野が狭い」と言っているからですよね。言葉という道具を、上手く使っているとは思えません。

 お互いに、見えていない所を指摘し合うなら、豪快な討論にもなるでしょう。範囲が広過ぎるからです。大抵、「この人は、あっちの方向を向いているな。どうぞ、お好きなように」と思った方が良いですね。


 では、「誰が決めたのか」ですが、それは言った側でしょう。言った側の主観です。

 わざわざ、その主観に従う必要はありません。あなたは、あなたの主観を大切にする方が良いですし、その主観の取捨選択は、あなたの時間の中に発生する無給の仕事です。

 このような考え方は「視野が狭い」と言った側が、不親切である場合には、使った方が良いことです。他人を把握する、ということは、そんなに簡単なことではありませんからね。「視野が狭い」という言葉を、使いたいだけの場合もあります。

 知識量だけに心酔している人が、使う場合が多い気もしますね。それらの使い方がオリジナリティであり、頭の回転の良さだと思うのですが、使い方が一つに固定されて、他の使い方を切っている人も居ますから、本当に面倒くさい話です。

 ですから、自分を振り回す必要なんて、全く無いと思います。似たようなことを、既に書いていますが、とある視点が、あなたの人生に必要かは、あなた自身が決めることですからね。


 ただ、不親切ではない人も居ます。良い人が居るのです。そういう方に指摘された場合は、前後の文章を良く読みましょう。それで、把握できると思います。

 こっちの方を見てみたらどうだろうか、と明確に、そして、的確に返してくれている物ですからね。良い人ですから、調べなければならないにしろ、指摘した相手の一手間くらいは、省いてくれている物でもあります。気遣いというかなんというか、指摘したことへの感情的な物なのかは、わかりませんけどね。それに、元々、「視野が狭い」なんていう言葉を、使わない場合も多いです。頭が良い人であれば、特に使わない。

 それは、何故か。相手の見ている方向が、自分と同じであるかどうかを把握し、相手が見ている範囲と自分の見ている範囲の差を理解して、相手の興味が出そうな項目をピックアップできるからです。項目をピックアップできているのだから、余計な一言など言いません。人間関係ほど、ランダムであり、再構築が難しい物はありませんからね。


 相手が見えていない部分を、どうやって、楽しそうだとか、面白いだとかを感じられるように伝えるか、それが一番重要なことです。そういう指摘が、しっかりとできる人でなければ「視野が狭い」という言葉を使うことができないでしょう。寧ろ、使えないと言った方が正しいかもしれませんが。

 使い方次第では、自分の能力を、他人に把握されることにもなります。よくよく考えると、面白いかもしれませんね。


 では、次にいきます。


 1+2=3


 という式があります。

 これに文字を当てはめて、


 被害者+加害者=最終的な事の顛末


 という式を作ってみました。

 一番上の式は、X、Y、Zでも良いのですが、それはそれにしておいて欲しいです。

 これが、僕が考えている、何か起こった時の簡単な図です。勿論、+や=も、変換することは可能です。見やすくする為に、変換無しにしています。それに、個人的な、ただの主観です。

 そして、前置きです。


 では、奄美の中学生が自殺したニュースを覚えていますか。担任の先生が、不適切指導となって、とりあえずこれで良いか、の形にした事柄です。

 事柄的には、いじめでした。

 いじめられた子が、担任の先生に、いじめた子達の名前を伝えて、担任の先生が指導をした。その名前の中に、いじめをしていない子の名前が含まれていたが、いじめられた子のことを信用して、名前に上がった子達の指導にあたった。すると、いじめをしていない子は、その指導後に自殺したという物です。


 ざっくりとした説明になりましたが、大筋は、このような感じです。

 濡れ衣ではないか、と思われますが、そうとは言い切れません。何か、事柄があったようでした。

 それは、方言でのやり取りです。意味がわかっていなければ、大人でもわからないですよね。つまり、どちらかが、何もわかっていなければ、勘違いするでしょう。

 となれば、いじめられた子が、いじめをしていない子の名前をあげてもおかしくはない。担任の先生は、いじめられた子を信用して指導にあたる。いじめをしていない子は、何がなんだかわからない。

 こんな状態なのでしょう。誰も、悪いとは言えないです。達、と書いているので、一番悪いのは、他のいじめっ子なんですよね。

 でも、いじめをしていない子が自殺したので、三角関係になっているのです。誰も悪いとは言えないなら、大人の責任になるという形で、担任の先生が処罰された、それで、一段落ついているのでしょう。


 世間的には、担任の先生が悪いで終わっていますが、個人的には、被害者の間違いや、勘違いからくる新たな被害者を作る構造に対して、何とかできないのか、と考えてしまいます。ただでさえ苦しんでいるのに、新しい苦しみを自分で作っているわけですからね。自責の念が無いならば、この限りではないでしょうけど。


 ただ、被害者至上主義みたいな風が、罷り通っているのは、この被害を大きくするのではないか、と考えてしまいます。ここで、上記の式を出してみましょう。


 被害者+加害者=最終的な事の顛末


 これが、加害者は絶対に悪いんだから何も言うな、となると、


 被害者+=最終的な事の顛末


 となりますよね。それで、+の部分。ここは、双方に話を聞く所であり、場合によっては、被害者が不利になり、加害者に与える罰が少なくなったりします。被害者至上主義みたいな人にとっては邪魔な物だし、世間を覆う風潮みたいな物にも邪魔です。だから、話を聞かなくなったりします。すると、


 被害者=最終的な事の顛末


 となります。数字の式に置き換えると、1=3となりますね。凄い計算の仕方ですよね。考え方も凄いなぁ、ある意味で天才だと思いますし、それでいて天災だとも思います。好きなだけ、濡れ衣を作り出せそうですよね。

 まぁ、+や=に関わる人達が、しっかりと仕事をされている内は大丈夫だろう、とは思いますけどね。

 ですが、世間を覆う風潮となると、面倒な話になります。そこら辺で話すことは、悪いことではありませんからね。取り締まりなんて、できません。

 考えて欲しいことは、被害者=最終的な事の顛末、で物事を捉えてしまうのは阿保のすることだと、自覚することです。式に書けばわかるんですから、試したら如何でしょうかね。

 感情論だけでは、精神論をあげてくる人と、何ら変わりない、という事も付け加えたいと思います。



 それでは、閉じたいと思います。

 ご拝読いただき、ありがとうございました。













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