僕たちのマリッジ・リング
東京都渋谷区で、同性同士のカップルを「結婚に相当する関係」と認める証明書を発行する条例が可決されたのを皮切りに、各自治体や企業でも賛同の声があがっている。やっと日本も良い方向へと進んでくれるようだ。
しかし、僕らには遅すぎたんだ――
日差しが強い。駐車場のコンクリートは熱せられ、ケヤキの木陰さえも蒸し暑そうに見える。おまけにセミの大合唱もうるさい。春にはしだれ桜、おそらく秋には紅葉が燃え盛るだろうこの周辺の木々も、今は緑色だけにおおわれている。
駐車場のいちばん端にシルバーグレーのセダンを止めた。日曜日だがお盆の時期も過ぎていて、駐車場はがら空きだ。
金森は助手席のドアを開け、運転席の僕に向かって声をかけた。
「じゃ、行ってくるよ、古川」
金森が車の外に出る。ブルーのポロシャツの半袖から出た腕を、八月の太陽が容赦なくジリジリと照りつける。
車内で待つことしかできない僕は、金森に詫びるように言った。
「ああ。いつも悪いな。それに今日は高温注意情報も出てるのに」
金森は長身をかがめ、無骨な手で花束を大事そうにかかえ微笑んだ。
「いいって。…俺にはこれぐらいしか、お前らにできることは無いからな」
「あいつに、よろしくな」
もう何度も同じ台詞を金森に言ってきた。僕もにっこり笑いながら言いたい。だが、毎回笑うことはできない。僕はいつしか笑い方を忘れてしまった。職場では愛想笑いはできるが、決まってその後、顔の上に笑みが貼りついてしまったように顔の筋肉が痛い。それほど僕は、笑うことが苦手になった。
僕は彼の広い背中を見送った。短い横断歩道を渡り、スロープを上るとそこは霊園。
僕の最愛の人が眠る場所だ。
僕は思春期を迎えたころから男性にしか興味がなかった。クラスに好きな男子がいた時は修学旅行の風呂が恥ずかしくて入れなかったり、体育の着替えもいつも冷や汗が出るほど困った。
周囲とは違う。僕は異常だ。まわりの誰にも打ち明けられず、一生恋人なんてできないと思っていた。
大学二年の時、いわゆるハッテン場という所に行ってみた。禁断の場所に足を踏み入れるようなもので、僕には相当の勇気がいった。そんな所で見つける相手など、一生連れ添えるわけがないと思っていたが、そうでもしないと出会いなんて訪れなかっただろう。
一見、普通のクラブのような店に入った。ネットでの情報が無ければ、外観からはわからない。耳障りな大音響のハウス系ミュージック。暗い店内をところどころ照らす照明の中でくゆる紫煙。周囲の品定めをするような視線が怖い。
ふと、カウンターに見知った顔を見つけ、僕は思わずそばに寄った。彼は御崎蒼生、同じ大学で同じテニス部、ひとつ年下の一年生。おとなしそうで目立たないが、よく見ると目鼻立ちも整っていて、短く揃えられた髪型も清潔そうで、背は僕より五センチほど高いだろうか。蒼生は穏やかに微笑みながら「古川先輩も俺と同類だったんですね」と歓迎してくれた。
同じ性的嗜好をもつ先輩と後輩。僕らはすぐに意気投合して、その日のうちに寝た。体の相性も良かったし、それからずっと僕らは付き合ってきた。
僕が翌月に卒業を控えた二月。誰もいない部室に、蒼生に呼び出された。
「古川先輩と校内で会えないなんて寂しいです。だから、思い出をください」
「思い出…?」
まだ部活が始まる時間ではないため、部室は外の日差しを受けて、電気をつけなくても明るい。二月の弱く柔らかい明かりが、あいつの笑みを眩しく見せて――だが、どこか寂しそうだった。
「ここで先輩とキスしたい」
キスなんて僕たちの間では何度もしていて照れるようなものでもないが、ここは部室だ。
「御崎…もし誰か来たらどうするんだ」
「この時間なら、誰も来ませんよ」
そう言って蒼生は僕の体を抱きしめた。あいつがいつも使っているシャンプーとコロンの匂い。僕が大好きなその匂いに酔ってしまったのだろうか。僕も蒼生の背中に手を回した。
「してもいいけど、条件がある」
「何ですか、条件って?」
耳元に、あいつの低く優しい声が響く。抱きしめられた腕の温度とその声で疼きそうになる体を必死にしずめ、僕は冷静に答える。
「僕たちもう付き合ってるんだから、誰もいない所では“先輩”はやめてくれ。…名前、で呼んでほしい」
僕の肩に顎を置いて、髪を優しく梳きながら蒼生は言った。
「隆倖さん、じゃあ俺のことも蒼生って呼んでください」
「わかった、蒼生――」
僕は顔を少し上げ、蒼生の唇を受け入れた。
その時だった。急に部室のドアが開き、同じ部で俺と同級生だった金森が入り口で硬直していた。
「あっ…その…俺、ロッカー…片付けてなくて」
お互い気まずい思いをしながら、金森は自分のロッカーを開け、中の荷物を引き取った。
僕たちが付き合っていたことには驚いたが、金森は同性愛に差別意識はなく、僕と蒼生のことも周囲には黙っていると約束してくれた。
そればかりか金森は僕たちの良き理解者となってくれて、相談にもよくのってくれた。社会人になってからも、それは変わらない。
卒業して、僕はスポーツ用品の会社に、金森は外資系の飲料水の会社に、一年後に蒼生はスポーツジムのインストラクターとして就職した。
就職してからは休日が合わないことも多く、蒼生とも会う回数は減ってしまったが、それでも一ヶ月に一度はどちらかのマンションに泊まりに行っていた。
僕が就職して六年たった時だ。
いつものように食事をして、蒼生の部屋に泊まることになったのだが、あいつは引っ越して別のマンションに住んでいると言う。引っ越し先の2LDKの分譲マンションに連れて行かれ、空っぽの六畳の洋間を見せられた。
「ここが、隆倖さんの部屋です。俺といっしょに住んでください。あ、寝室は南側の部屋にダブルベッドを置いてますから」
そのときの驚きは、今でも忘れない。蒼生はそんな大事なことを僕に相談も無しで…。当然、僕は怒った。いくら蒼生が僕の職場に近い場所を選んでくれたといっても、僕にも年上としての矜持があるじゃないか。いつの間にか、怒りながら泣いていた。泣きながら抱きしめられた。嬉しかったんだ。これからは、蒼生とずっといっしょにいられる。今までのように休日が終われば別々の家に帰るんじゃない。朝、別々の場所に出勤しても同じ家に帰り、同じベッドで眠るんだ。
結局、そのマンションはローンも固定資産税も蒼生と折半で支払うことにした。頭金の分、僕が支払う分をやや多くしてもらった。そうしないといっしょに住まないと、僕が頑なに言い張ったからだ。
同棲を始めてから始めての休日、足りない生活用品を二人で買いに行くことになり、僕が車を出して、その帰りだった。
「もしも俺が、死んでしまったら」
蒼生はそんな縁起でもない話を始めた。
「一ヶ月だけ、泣いてください。その後はいい人見つけて、ずっーと幸せで笑っていてください」
「…そんな約束はできないな」
僕は仏頂面でハンドルを切る。蒼生がいなくなって、笑えるもんか。好きな人なんてできるもんか。
「蒼生はどうなんだよ、もしも僕が死んだら」
蒼生は寂しそうに笑った。
「隆倖さんがいない世界なんて、笑って過ごせるわけないじゃないですか」
「ほら見ろ」
その時はまさか、そんな日が本当に来るとは思ってもいなかったんだ――
「隆倖さん、結婚式挙げましょう」
十二月なかばのある日、いっしょに夕食の準備をしていたら、蒼生がいきなりそんなことを言い出した。
同性同士でも結婚式ができる所がある、と。もちろん、書類上の婚姻関係は無理だが、形として正式な挙式ができるらしい。
そして、指輪もデパートで買って、今は名前を刻印してもらっていると言う。本当はクリスマスまで黙っていて、プレゼントとして指輪を見せるつもりだったが、嬉しくて黙っていられなかったそうだ。
まただ。蒼生はそんな大事なことを、僕に内緒で決めるんだ。
「だって、隆倖さんの驚く顔が見たくて」
いつもこれだ。僕が驚くのを喜ぶ、まるでいたずらっ子だ。
「けど、よく僕の指輪のサイズがわかったな」
刻印をするということは、もうサイズ直しなんてできないだろう。僕は指輪なんて持っていないから、自分のサイズでさえ知らないのに。
「だって二人きりの時は――ベッドの中でもよく、指をつないでいるでしょう。それで指の太さは俺と同じ、16号ぐらいだなと」
そう言って、蒼生は指を絡めてきた。蒼生は「売り場の人は内心、相手の人は太めの女性なんだなと思ったでしょうね」なんてクスクス笑う。
そうか、刻印の名前の“アオイ”を、女性の名だと思ったかもしれないな。
「まったく…サプライズもいいけど、大事なことは僕にも相談してくれ。指輪の代金も、半分は僕が払うからな。そうしないと、受け取れない」
わかりましたよ、となおもクスクス笑う蒼生。新婚旅行の行き先はいっしょに決めましょうね、なんて言ってたのに。
それからは日取りをいつにする、衣装はモーニングとフロックコートのどっちにする、鳩や風船を飛ばしたりするのか、BGMの結婚行進曲はメンデルスゾーンだと盛大すぎて照れくさいからワーグナーの方にするか、などと毎日結婚式の話ばかりをしていた。
ある日――
風呂から上がりバスタオルで髪を拭いていると、蒼生がバスタオルをそっとめくり、キスしてきた。
「どうしたんだ、蒼生?」
また甘えているんだなと、僕は蒼生の頬を撫でた。
「結婚式の予行演習ですよ」
蒼生は、はにかんだ笑みを見せた。
…ということは、バスタオルは花嫁のヴェールに見立てて?
「あのなぁ蒼生、僕はドレスは着ないぞ」
お前が着るか? とバスタオルを蒼生の頭に引っ掛けてやった。
蒼生は「隆倖さんから誓いのキスをもらうなら、それもいいですね」とクスクス笑っている。そのうち、イタズラを思いついたような表情になった。
「どうせなら、俺たちテニス部で出会ったから、お互い頭にスポーツタオルでも掛けましょうか」
そんなバカなことを言って笑いあった。
それで毎日が幸せだった。喧嘩をしたこともあったけど、すぐに仲直りできた。蒼生がいてくれるだけで、日常のどんなことでも楽しかった。
サプライズが大好きで、何でも勝手に決めてしまう蒼生は、勝手に死んでしまったんだ。
クリスマス・イヴ、デパートに行った蒼生と、その後夜にはいっしょに外で食事をする約束だった。
《指輪を受け取りました。七時に駅で待ってます》
それが蒼生からの最後のメールだった。
蒼生は居眠り運転のトラックに轢かれ、意識不明の重体になった。住民票に僕の名前もあったため、事故の連絡を警察からもらい、僕は急いで病院に駆けつけた。
蒼生は集中治療室に運ばれていた。扉自体は透明だがいやに重々しく見えるその向こうは、肉親しか入ることを許されない。いくら同居していても恋人でも、肉親以上にお互いを愛し理解していても、病院側も蒼生のご両親も、僕を“他人”とみなす。
このまま蒼生が目覚めなかったら…そんな不安を抱えながら、僕は扉の向こうで待っていた。組んだ手が震える。僕はこのとき生まれて初めて、神様に祈った。蒼生を元気にしてくれるなら、僕はどうなってもいい。両手両足でもこの目でも、何でもささげる。だから、蒼生をもとの元気な姿に戻してほしい――
どれだけの時間、僕は震えていただろうか。やがて扉が開き、看護士が僕に「どうぞ」とだけ言って入室を促した。奇跡が起きて、部屋の中では意識が戻った蒼生が僕に「心配かけて、ごめんなさい」なんて笑みを向けてくれたら、僕は「バカ野郎、どれだけ心配したと思ってるんだ」って叱ってやる――たった数歩の間に、そんな奇跡を願っていた。
しかし、奇跡なんて起こるはずもなく、ベッドの上には帰らぬ人となった蒼生がいる。二十八年という、短い生涯を閉じた最愛の人が――
僕は、生まれて初めて祈りをささげた神様を恨んだ。後で聞いたが、蒼生をはねたトラックの運転手は重傷だが生きている。蒼生の…僕のいちばん大事な人の命を、居眠り運転という不注意で奪った張本人は生きている。事故でどんな後遺症が残るか知らないし、その後どれほど罪悪感にさいなまれるのか知らないが、それでも生きてるんだ。何の罪も無い蒼生が亡くなったというのに…!
涙で見えない。蒼生はどんな顔で眠っているのだろうか。僕がよく知っている寝顔ではないだろう。
そばに駆け寄って「蒼生、約束の七時はとっくに過ぎてるんだぞ」と、揺さぶり起こしたかった。だが、そばにはご両親とお兄さんがいて、僕は近づくこともできずにいた。
泣きくずれるご両親に、警察官は遠慮がちに遺品を渡していた。その中に、少し潰れた小さな紙製のバッグがあった。白く光沢のある、とても小さなその袋は蒼生の血がこびりついて固まっていた。
結婚指輪だ!
お兄さんが中を確かめた。黒いビロード張りのケースを開けると、二つのプラチナリング。誰が見てもひと目で結婚指輪とわかる。
言うべきか、黙っているべきか。今までどちらの家族にも、自分がゲイで同棲してるなどと話したことは無い。今この状況で、息子が亡くなったショックの上に、その息子がゲイだったと教えるのか。
だが、指輪の刻印は僕たちの関係を物語っている。すぐにわかることだ。僕は悲しみを堪え、箱を開けたお兄さんに勇気を出して打ち明けた。
「…その一つは…僕の物です」
お兄さんは僕を見て驚いた。ご両親も僕を振り返る。
その後は――思い出すのもつらい。蒼生のお母さんは僕につかみかかって泣きながら、何を言ってるのかも聞き取れないぐらい取り乱してしまった。それを押さえる蒼生のお父さんも「出て行ってくれないか」と涙ながらに訴え、僕は追い立てられるように集中治療室を出た。
僕は大事な人も失い、最期の顔を見てあげることもできず、二人をつなぐ証も失った。
翌日、蒼生のお兄さんがマンションに来た。
「蒼生の葬儀には出ないでください。両親はまだ、心の整理がついてませんし…万が一、親戚や周囲の人に知られたら困るので」
そう告げられた。僕は何も言い返せず、黙ってうなずいた。正確には、うなだれたまま顔を上げることができなかった。
通夜と告別式は友人である金森が行ってくれた。金森から場所を教わったので斎場の近くまで行き、そこから蒼生を見送った。蒼生の遺影を持ったお父さんが出てきたが、どんな写真かわからない。涙でぼやけて見えなかったのだ。出棺の時が一番つらかった。あの中に蒼生がいると思うと、飛びついてしまいそうになる体を抑えるのに必死だった。
車を見送ったあと、僕の存在に気づいた金森は僕のそばに来た。僕はただ、泣きじゃくっていた。蒼生の名を声が枯れるまで、喉が裂けるまで叫び続けたかった。叫び続けたせいで声を失っても構わない。これから蒼生と言葉を交わせないなら、声なんていっそいらない。けど、周囲の人に聞かれるわけにはいかない。金森が僕の肩を支え、いっしょに泣いてくれる。あの時、金森の手がどれだけ支えになってくれただろうか。帰り道、どこをどう歩いたのかさえも覚えていないほど、僕は精神的にボロボロになっていた。
蒼生が亡くなって二週間。まだあいつの荷物も整理できず、あいつの食器もスリッパも歯ブラシもそのまま。あいつの部屋に置いているダブルベッドの広さにも慣れない。そんな時、蒼生のご両親が訪ねてきた。
「この部屋は息子の名義でしたが、私たちが相続したので――ここを処分します」
「そんな…! 僕もローンを支払っているし、だいいち住む所が無くなるじゃないですか!」
僕の言い分は聞き入れてもらえなかった。すべては、法定相続人の一存で決められる。
仮に僕が全額支払っていようと、名義が御崎蒼生なら、本人が亡くなっている以上は僕ではなく、蒼生の遺族が相続する。僕は蒼生とは婚姻関係にもなく家族でもなく、ただの同居人なんだ。
そしてご両親は蒼生の持ち物をすべて引き取って行った。
蒼生の最期を看取ることもできず。
二人の契りの証も取り上げられ。
見送ってやることもできず。
思い出の品も何ひとつ残らず。
住む家も奪われた。
同性愛者である僕はこんなにも無力なのかと思い知らされた。婚姻届などただの紙切れ一枚。僕たちの繋がりにそんなものは必要ないと思っていたが、法律は僕たちの前に立ちはだかり、何もかも奪っていった。
四十九日の法要にももちろん出ることは許されない。僕は新しく引っ越した1DKの部屋で、あいつの写真に手を合わせるぐらいしかできない。
月命日の二月二十四日、僕も金森も有給休暇を取って、蒼生の墓参りにいっしょに行った。霊園の場所も、もちろん金森に聞いた。
駐車場に車を止め、花束を持って金森とスロープを上がると、蒼生のご両親がいた。幸い向こうには気づかれなかったが、今会うわけにはいかない。僕は金森に花束を渡し、変わりに供えてくれ、蒼生によろしく、と頼んで走り去り車に戻った。
それからは月命日にいちばん近い日曜日に金森と僕は都合を合わせ、僕が用意した花束を金森が供えるようになった。
僕は怖かった。蒼生のご両親と鉢合わせしてしまうことが。今月は初盆は終わっているから、今日はご両親も誰も来ないんじゃないかと金森は言ってくれたが、それでも僕は怖かった。
金森の代理の墓参りは、蒼生との挙式の予定日――四月を過ぎ、八月の今日まで続いた。
だが…。
コンコン、と窓を叩く音に気づいた。汗だくの金森が戻ってきた。ポロシャツの胸元にも汗がしみている。
「お疲れ。暑かっただろ、何か冷たい物でも飲みに行くか。僕が奢るから」
「助かるよ~。やっぱり車の中は涼しいな」
車を発進させ、僕は金森に「今までありがとう」と礼を言った。
金森は来月から海外転勤になるため、こうして墓参りに来られない。これが最後になる。
「古川、来月からどうするんだ?」
ハンドタオルで汗を拭きながら、金森は僕に尋ねた。
「…あきらめるよ」
「あきらめるって、お前――」
金森の言いたいことはわかる。だが、僕にはどうしようもない。ご両親や親戚の人たちが来なさそうな頃を見計らって、こっそり墓参りすればいいかもしれない。
けれど、初めての日に鉢合わせしそうになってからは、僕は逃げ腰になっていた。
「これからは一人で、遠く離れた所から蒼生を想ってる。…蒼生も、住む家も指輪もすべて失ったけど、蒼生を好きな気持ちは消えないから」
金森はしばらく何も言わなかった。が、
「古川、運転変われ」
「え?」
「いいから、変われッ!」
その強い口調に、僕は訳がわからないまま道路脇に停車させ、金森と交代した。
「どこに行くつもりなんだ?」
と聞いた僕に、車を走らせながら金森は言った。
「お前…このままでいいのかよ?」
いいわけがない。だが、自分の力ではどうにもできない。僕は黙ったまま、窓の外の西日に染まる景色を見つめていた。
「このまま、御崎の墓参りにも行けず、指輪も奪われたままでいいのかよ」
指輪――
蒼生からもらったプレゼント、メール、いっしょに撮した写真。形として残っている蒼生の思い出は、それだけしか無い。せめて、蒼生が選んでくれた名前入りの指輪だけでも欲しい。そのためなら全財産を失ってもいい。気持ちの上ではそうだが、あきらめるしかないんだ。何もできない僕には。
「でも…僕にはどうしようもないんだ! 僕は蒼生の両親に認められない存在なんだから…」
「あきらめんなよっ! 御崎のこと、そんないい加減な想いで好きになったんじゃないんだろっ!」
金森はそう怒鳴って、車を走らせ続けた。
静かな住宅街の二階建ての一軒家、「御崎」の表札がかかっている。着いた所は蒼生の実家だった。門の前で車を止めると、僕にも降りるように言った。僕は助手席に縛られたように動けなかったが、金森が僕を引きずり出すように無理やり降ろした。
金森がインターホンを押す。玄関に出たのは、蒼生のお母さんだった。
告別式にも四十九日にも来ていて、初めての墓参りの日にも会っているから、お母さんは金森を知っている。蒼生の友人で――毎月花を供えてくれていると。
「あの…今日もあいつの墓に行ってきたんですが…実は毎月のあの花束、俺からじゃないんです」
そう言って金森は僕の腕を取り、玄関先まで引っ張った。
蒼生のお母さんからすれば、二度と見たくない顔だろう。案の定、顔色が変わった。
僕は礼をしたまま、顔を上げることができなかった。
「あなた…! 帰ってください! あなたと蒼生の仲を思い出させないで!」
金切り声に気づいた蒼生のお父さんも奥から出てきた。
「母さん、ご近所に聞こえるだろう」
「だって…せっかく忘れようとしていたのにまた…今になって」
やはり僕はご両親の前に出るべきではなかったのだろうか。金森の熱心さはありがたいが、失敗なのではないかと思った。それほど僕は、何もかもから逃げ出そうとしていた。
「本来なら、こいつが…古川が御崎のお墓参りに行くのを、俺が代理で毎月行ってました。あの花はこいつからだったんです。けど、来月から海外転勤で行けなくなるんです。どうか…古川がお墓参りに行くことを許してください」
頭を下げる金森の隣で、僕はずっとうつむいたままだった。
「どうか…お願いします」
勇気を振りしぼって、やっとそれだけ言って顔を上げた。
お父さんは老眼鏡を外し、眉をしかめて言った。
「…母さん、墓参りぐらいならいいだろう」
「お父さん!」
「ただし、…古川くんといったね。蒼生の“友人”として、だ。誰かに聞かれたら、そう言ってくれ。それが条件だ」
胸がズキンと痛んだ。僕は友人としてしか、まわりには認めてもらえない。
それでも僕が墓参りをする許可をもらえたんだ…!
「あ、ありがとうございます! お約束は必ず守ります!」
よかったな、と金森が頭を下げる僕の背中を軽く叩く。僕が顔を上げて金森の方を向くと、“ゆびわ”と口だけを動かして僕に伝えていた。返してもらえるだろうか。息子がゲイであるという証拠の品を、ご両親は捨てずに残しているだろうか。不安にかられながらも、思い切って口にしてみた。
「あの、もう一つお願いがあります」
お父さんは難しい顔をしている。お母さんは「今度は何です?」と、眉をひそめる。
「あの日…蒼生が持っていた指輪は…一つは僕の物です。どうか、返していただけませんでしょうか?」
ご両親は顔を見合わせている。
お願いします、と深く頭を下げる僕の隣で、金森も助け舟を出してくれた。
「俺からもお願いします。お二人にはご理解いただけないでしょうが…二人とも、お互いのことを真剣に想っていたんです。いい加減な気持ちで結婚式なんて挙げようとはしませんよ」
金森はつらそうに話す。息子が亡くなったショックから立ち直れない今、それに加えてこんな話はしづらいはずだ。しかし僕からご両親に話したりすると、神経を逆撫でしてしまう。金森にはすまないと思う。
「異性にだらしない人間や、妥協で付き合うやつらよりも、ずっと立派ですよ。こいつらは本当にお互いを大切にしていました。大学時代から、俺は二人を見てきたんです。だから、二人のことをずっと応援してきました。一時的な感情で、どちらかがたぶらかしたようなものだとしたら、俺は今日まで友達づきあいなんてしません」
ご両親はただ黙って金森の話を聞いている。
「…お二人が大事にされていた御崎蒼生が生涯でただ一人、ご家族以外で愛した人が、この古川隆倖です」
金森の手が、僕の肩に乗った。それは力強く、僕を信頼して力を貸してくれる、そんな強さだった。
「それに――古川が生まれて初めて愛した人が、お二人が大事にされていた御崎蒼生です」
ご両親は難しい顔をして小声で話し合っていたが、お母さんは目頭を押さえて奥に消えた。聞くに耐えられなくてその場を去ったのだろうと思った。
だが、しばらくして再び戻ってきた時には、黒いリングケースを手にしていた。
「…お返しします」
指輪ができたのは去年のクリスマス・イヴ。八ヶ月たち、ようやく僕の手に結婚指輪が戻った。黒いビロードに包まれた小さな小箱が、やけに重い気がした。
「あ…ありがとうございます!」
僕は何度も頭を下げた。涙もそれに合わせて落ちていく。金森もご両親に丁寧にお礼を言うと、よかったなと僕の肩を軽く叩いた。
再び礼を言ってから玄関を出ると、お父さんに呼び止められた。
「…君がもし女性なら、私たちは喜んで結婚を認めていた。差別だと怒っているだろうが…私たちはまだ息子の死も、同性愛者だったことのショックからも立ち直れていなくてね」
いえ、と僕は首を横に振った。墓参りを許してもらい、指輪が手元に返った。それだけでありがたかった。
「まだ私たちは君を認められないが――息子が世話になった。ありがとう」
その言葉がどれほど僕の背中を押してくれただろう。
深くお辞儀をし、僕はその時…蒼生が死んでから、初めて自発的に微笑んだ。
金森にはどれだけ感謝の言葉を並べても足りないぐらいだ。今までの分と今日のお礼、それに送別も兼ねて金森に、少し早い時間だったがイタリア料理店で晩飯を奢った。車だから僕はノンアルコールのカクテルにしたが、金森には奮発して少しいいワインをご馳走した。
「古川、よかったな」
「ありがと。金森がいてくれなかったら、僕はずっとあきらめたままだったよ」
グラスを傾けながら、金森は自分のことのように嬉しそうに笑った。
「なあ、あの指輪、はめてみろよ」
金森の前ではなんとなく照れくさかったが、こいつが一生懸命になって返してくれた指輪だ。見せてやりたい。
ケースの蓋を開けると、プラチナの指輪が二つ並んでいた。両方とも裏側に刻印がある。
『Aoi to Takayuki』
『Takayuki to Aoi』
これが僕の、いや、僕たちの結婚指輪なんだ。
蒼生から隆倖へ、と刻まれた方を左手の薬指にはめる。本当ならこれは正装をした蒼生にはめてもらって、もう一つを僕が蒼生にはめてあげたんだ。
蒼生のバカ、サイズが合ってないよ。
指輪が大きくて、回ってしまうじゃないか。
…違う。蒼生は僕の指の太さを知っていてくれた。あれだけ手をつないだんだから。
蒼生が死んでから、僕は精神的に参ってしまい、食欲が落ちて痩せてしまったんだ。指輪のサイズが変わるほどに――
嬉しい反面、ケースに残された指輪を見ると喪失感がわき起こり、店内だというのに僕は涙が止まらなかった。
パーテーションで区切られた窓際の席だからよかったけど。
金森はそんなみっともない僕に何も言わず、窓の外を眺めていた。
それから一ヶ月。
まだまだ蒸し暑い日が続く。僕は花束を持って霊園に行った。もう何度も来ているけど、初めて足を踏み入れる。ちょうど彼岸の入りで休日ということもあって、人がかなり多い。事務所で桶とひしゃくを借り、蒼生が眠る場所に着いた。蒼生のお墓を初めて見た。よく手入れされてきれいに磨かれている。
花と線香を供え、手を合わせる。
蒼生、これがお前が選んでくれた指輪だよ。お前のお願いなんか聞いてやらない。僕はこれからも蒼生を失った悲しみとともに生きて、いい人なんか見つけない。
蒼生は何でも勝手に決めてきた。だから僕も、勝手に生きていく。
正直、後を追おうと考えたり、トラックの運転手を殺したいとか酷いことは何度も思ったけど、僕は決めたことがある。やりたいことがあるんだ。
「古川さん、西丸デパートからファックスです」
「ありがとう」
オフィスで女子社員から用紙を受け取ったとき、彼女は僕の指輪に気づいたようで、明るい笑顔になった。
「あれ…? 古川さん、結婚してらっしゃったんですか?」
無意識に右手が左の薬指にはまった指輪を回す。最近、どうもこんな癖がついたようだ。
「いや…、婚約者だった人は亡くなったんだけどね」
「えっ?! あ、あのっ、すみません。無神経なこと聞いてしまって…」
さきほどの笑顔から一変して慌てた彼女は、すまなそうに頭を下げた。彼女は何も悪くない。謝るのは僕の方だ。僕は精一杯の笑顔で答えてあげた。
「いいんだよ、気にしないで。僕の方こそ、気を遣わせてしまってごめんね」
こうして気遣われることもあるから、会社では指輪をしないほうがいいだろうか。だけど、蒼生といっしょにいたい。式を挙げることはできなくても、法律上認められなくても、蒼生との大事な絆の証だから。この指輪さえあれば、ほかには何もいらない。だから、これは僕の生涯で一つだけどうしても譲れない、わがままなんだ。
金森はあれから慣れないアメリカでの生活でいろいろと苦労はあるようだが、彼女もできて幸せのようだ。そんな中、今でも僕のことを心配して気遣ってくれている。
僕は、同性婚を実現化させる運動を推進しているNPOに加入した。僕のように悲しい思いをする人がいなくなるように。そして僕の体験を手記にして、多くの人に見てもらおうと思う。
蒼生、もうしばらくこっちで頑張りたいから、待たせるけどごめん。天国で再会するときには僕は年を取って、蒼生は僕が誰だかわからなくって。そのときには逆に、僕が蒼生を驚かせてやる。
そして――僕から指輪をはめてあげよう。
―完―
ご覧いただき、誠にありがとうございます。
普段、皆様がお読みになるBL小説とはかなり違い、重い内容になってしまいましたが。
いきなりバッドエンドですからねー…。
それに、カップルが二人ともゲイという設定は初めて書きました。
同性カップルが抱える問題として、こういうこともあるんじゃないかと思い、作品にしてみました。
実はかなり前にできていて、渋谷区の条例案のニュースを見て“可決されたら公開しよう”と決めていました。
法が認める結婚というのは、大きな意味があります。彼らのようにつらい思いをする人が現実にいなくなるよう、日本の意識も変わってほしいなと思います。
(2015年3月に執筆しましたので、冒頭の条例等で今後は実際と異なる部分が出るかもしれませんので、ご了承ください)
ではまた、次回作でお会いしましょう。