叫び
九月二十九日、肉の日のことだ。
俺は人を殺した。
殺害された…まぁ俺が刺したんだが…のは小島栄太という男。スーパーで値引きシールを貼り続けて十年、他人は誰も寄ってこないし、本人も誰かに寄ろうとしない寂しい男だ。それでも妻はいたのだが、昨年の夏に、昔からの親友と温泉旅行に行くと、やたらと大きな荷物をかかえて出かけて行ったっきり帰ってこなかった。きっと面白みのない夫婦生活に嫌気がさし、第二の人生を送ろうと決心したに違いない。もし俺が女で、あの男と結婚していたら、一週間ももたなかったと思う。俺は女に敢闘賞をあげたいくらいだ。
賞といえば、敢闘賞ではないが、女は料理コンクールで最優秀賞を受賞していた。女の作る料理は絶品だった。と、言っても俺は残念ながら食べたことはないのだが、作るのを見てたり、手伝ったりしたことなら何度もある。俺も一度で良いからあの料理を食べてみたかった。あの栄太でさえも、女の絶品手料理食べている時はとても幸せそうだった。女の料理は栄太を人間らしくしたが、もう一つだけ栄太を人間らしくするものがあった。それはタンポポだった。女と出会ったのも、タンポポがきっかけだった。ある日、公園でタンポポを踏みつけて遊んでいた坊主たちを見かけた栄太は急に怒りだし、坊主たちを凄まじい形相で説教し始めた。そのあと泥まみれになったタンポポを摘み取って家に持ち帰ると、綺麗に洗ってから花瓶に生けてあげていた。そんなタンポポを必死に守ろうとしていた栄太の姿を見ていた女が一目惚れしたのだ。
事件当日の朝、私は珍しく目覚まし時計が吠える前に目が覚めたので、顔を洗ってから朝ごはんを作りにキッチンへ向かった。ボールに卵を割りいれ、金色に輝く宝石のような黄身を、優しく箸でつついて全体になじませるようにかき混ぜた。熱したフライパンにバターをひいて一気にそれを流し込み、まん丸い美しいオムレツを二つパパッと作り上げた。次に、冷蔵庫から野菜を取り出し、買ってから五年ほどたつ私ご愛用の包丁でキュウリやピーマンを切ってサラダを作った。トーストを焼きながら、最後に真っ赤に日焼けしたトマトを添えて、私好みの朝食を作った。
そこへ小島栄太が起きてきた。栄太は私を見るなり腰を抜かした。
「なんでお前がいるんだっ!」
「あら、いいじゃない。それよりお帰りの一言もないわけ?」
実は私は昨夜夫が眠ったあと、こっそりこの家に帰ってきたのだ。半年ぶりのことだった。
「心配してたんだぞ。やっと帰ってきてくれたのか…?」
「いや、ちょっとこの家が恋しくなって戻ってきただけ。今日の夜には帰るわ。ご飯作ったらから食べましょう。」
二人は四人テーブルの右端と左端に座って、無言でオムレツを食べた。ただ栄太の顔は幸せそうだった。
「ああ、おいしかった。じゃ、あとよろしく。」
「はい?」
「作ってあげたんだから、片付けくらいしてよね。」
栄太は綺麗にお皿を洗った。
俺は三人兄弟の長男だ。下に弟が二人いる。親とは幼い時に離ればなれになってしまったが、俺たちはあの人が大好きだ。時には厳しく叩かれ、時には熱い炎を浴びせられたが、俺たちに対する愛情は本物だった。そんな親からは「人には優しくしろ。」といつも言い聞かせられてきた。それが家族の約束だった。そんな厳しくも幸せな生活をしていた五年前のある日突然、俺たちは親と離ればなれになり、女のもとで暮らすこととなった。それ以来、親とは一度も会っておらず、俺は弟二人と女とともに暮らしている。しかし今日、栄太が朝食の後片付けをしていた頃から、次男の姿がどこにも見当たらなくなっていた。
「ちょっとやめてよ!」
蜜柑色の空が暗闇に食べられている頃、女の声が響き渡った。今日は肉の日ということで栄太が貼ったかもしれない値引きシールをつけた豚肉を、女が買ってきていた。その豚肉を切っていた俺は、女が急に叫ぶものだから心臓が止まりそうになった。叫んだ女の横には栄太がいた。栄太の目がいつもと違った。栄太の右手は肉を切っている女の手をつかみ、もう片方の左手は包丁を握っていた。
"…あれ俺の弟だ。"
栄太は女に俺の弟を振り上げてこう言った。
「おれを見捨てるなよ…。」
それと同時に栄太は左手を振り下ろした。
真っ暗だった。
薄い皮を破った奥で俺は、生温かくどろどろした液体や、柔らかくぶよぶよしたゼリー状のもの、俺でも刃がたたなそうなとても硬いものなどに囲まれていた。それらに囲まれたこの感覚は、炎を浴びせられた時とも、野菜を切った時とも、豚肉や鶏肉を切った時とも違うもので、俺は金縛りにあったかのように硬直し、ただただ引き抜かれるのを待つことしかできなかった。初めは俺のまわりで生温かい液体が動きまわっていたが次第にその動きはなくなった。何かにぶつかるような衝撃がしてから、数分後、生々しい音とともに俺はゆっくりと引き抜かれた。周囲が明るくなり目を開けると、そこには栄太が右の脇腹から血を流して倒れている姿があった。左手には俺の弟がまだ握られていたが、どうやら栄太はもう死んでいるらしい。
九月二十九日、肉の日のことだ。
俺は人を殺した。
死んだ栄太の体はすぐに変化していった。表面は青白くなり、生き物特有の柔らかさがなくなって、物となっていく姿がみてとれた。死んだ人を見たことがあるわけではなかったが、それでも栄太が死んだことは理解できた。女は一度もまばたきをせず栄太を見ていたが、女の脳みそは、それが栄太の死体だと処理できていないようだった。時間は流れていき、やがて女の顔色に生気が戻った。女は栄太の体を大きなゴミ袋に入れて玄関へ引きずっていった。そして台所へ戻ると、俺から栄太の肉やら血やらを全て洗い落とし、俺たちを調理台の端にある包丁立てにしまった。俺は力が全く入らず、包丁立てに身をゆだねた。時間が経てば経つほど、頭の整理ができるのと同時に、恐怖に駆られた。俺は栄太を刺したということよりも、家族の約束を破ったことが許せなかった。とても悲しかった。 暗闇は蜜柑色の空をすっかり食べ尽くし、満足そうに月を光らせていた。俺についていた水滴が、調理台の上に流れおちた。
人を殺してしまった。私はわざと殺したんじゃない。でも、栄太の死体という現実が目の前に転がっている。今日ずっと一緒にいた人間が今ではピクリとも動かない。いま、私はなんの音も感じられなかった。世界が真っ暗だった。私は周りの時の流れについていけなかった。しかし突然、家へ帰る子供たちの声が外から聞こえて、やっと追いつくことができた。これで人生が終わるなんて嫌だった。私は、家にある一番大きいビニール袋を持ってきて、ゴム手袋をしてから栄太を中へ押し込んだ。人間はこんなに重いのかと思った。時間が一秒また一秒とすぎていくたびに、人を殺した実感がわいてきて、今度は私が恐怖に殺されそうになった。
玄関に一旦ビニール袋を置き、血だらけの包丁を洗うためにキッチンへ戻った。五年前に買って以来、ずっと大切にしてきた包丁で人を刺してしまった悲しみも計り知れなかった。半年ぶりにこの家に帰ってきたのも、昨年の夏に出ていった時に置いてきてしまったこの包丁を取り戻すためだった。凶器にしてしまったこの包丁を捨てようと何度も考えたが、やはりできなかった。全てを洗い流し、包丁立てに包丁をしまい、私は栄太を捨てに向かった。もうあたりは暗かった。私は車で十五分くらい走ったところにある、丘のようなところに栄太を埋めた。車の中で私は窓の外を見ていた。窓からのぞかせているあの月は、まるで今朝栄太と食べた、まん丸いオムレツのようだった。そのオムレツは遠慮がちに、私が乗ってる車を照らした。私にはとても暖かく感じられた。涙がほおをつたった。私はそのまま栄太の家には帰らず、毛布のような温もりに包まれた車の中で眠った。
誰もいない家はとても静かだった。すやすや寝ている冷蔵庫の寝息しか聞こえなかった。
調理台に流れおちた水滴もとっくに乾いた頃、栄太の葬式が行われた。あの出来事の三日後の朝、散歩をしていたおじさんと柴犬が、辺りより少し湿っぽくなっている地面から少し顔を出している、血のついたビニール袋を見つけた。女は、ビニール袋の中から栄太が発見された翌日に出頭した。女の罪は死体遺棄罪として起訴された。女の心はボロボロだった。それでも女はどうしても葬式に出たいとお願いし、スーツを着た警察と葬式に来た。
俺は今、たった一人でキッチンにいる。四十年ほどだ。俺はもはやアリやクモの通り道になっていた。女はそろそろ出所しているはずなのだが、いくら待っても来やしない。俺は錆びてきた。人間でいうならば、禿げてきた時と同じ感じの悲しみを俺は味わっていると思ってくれればいいだろう。ただ人間は禿げていても一人ぼっちではないが、俺は錆びてるうえに一人ぼっちだ。いや、一人ぼっちだから錆びたのだ。俺は叫んだ。誰でも良いから俺を使ってくれと、俺は叫んだ。口がないから人間に届くはずもないが、俺は叫んだ。俺は死にたくなかった。俺たち包丁の寿命は人間が決める。俺たちは使われなくなったその瞬間に死ぬ。だから俺はもう死んでいる。生きているけど死んでるのだ。死んでもなお、叫び続けられる俺は幸せなのか、不幸せなのか、それすらわからない。
女が来ない。それは当たり前のことだった。女はもうこの世にはいないのだから。
女は栄太の葬式の日に死んだ。式中に死んだのだ。人間風に言えば女は自殺したのだが、俺風に言えば女は殺された。いや、俺が女を殺した。女は葬式に来ると、まず栄太に会いに行った。そして手に持っていた、栄太の好きだったタンポポを栄太の横にそっと添えた。その後、女はスーツの男に「トイレに行きたい。」と言い承諾を得てから、トイレには行かずキッチンに向かった。そして俺に話しかけてきた。
「あなたを凶器にしてしまって本当にごめんなさい。でも私はあなたと料理を作ることができて、とても楽しかった。」
俺は"また料理しよう!"と叫び続けた。しかし、女に聞こえるはずもなかった。俺は泣くこともできなかったが、女も泣いてなかった。女はむしろ、どこかすっきりしたような顔をしていた。散々悩んだ夕飯の献立を何にしようか思いついた時の、そういう顔に似ていた。女は俺を手に取り、言った。
「いままでありが…」
急に辺りが真っ暗になり、液体の流れている音しか聞こえなくなった。その音もだんだん小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。生温かい感覚といい、急に訪れるすごい衝撃といい、これらは全て、ついこの間経験したものと同じだった。俺はこれがどういう状況なのか想像できた。だからこそ、ずっとこのままでいたかった。この暗闇のままで良かった。想像を現実にしたくなかった。俺のまわりから生温かさが消えていくのと同時に俺は暗闇から引っこ抜かれた。警察の人が抜いたのだ。そして俺の予想していた通りの風景がそこにはあった。俺はまた人を殺した。
警察は俺を適当に放り捨て、女を担ぎ、キッチンの外へと運んでいった。女はもう死んでいた。
俺は証拠品として警察に回収されるわけでもなく、誰かが来て俺を引き取ってくれるわけでもなく、ただただ調理台の下の隙間に落ちている。弟はとっくに警察に回収されてしまった。最近は俺のまわりに巣をはるクモまでいる。包丁として、クモに巣をはられるなんて親に見せる顔がないほど恥であるが、今の寂しい俺にとっては、そのクモが大事な存在となっていた。それだけ俺は一人ぼっちだった。近ごろの若者だったらとっくに自殺しているだろう。俺だってそうしたかったが、それすらできない。家族の約束をやぶり、俺に優しくしてくれた女やその元夫を殺して、その罰がくだったのだろうか。死んでいるのに死にきれない。生きたいのに生きられない。俺はあとどのくらいで全身錆だらけになって、ボロボロに崩れ落ちて、安らかに眠れるのだろうか。
女のつくるオムレツのような美しい月に照らされながら、俺は今日も死んでいる。




