第八章 触れた肩先から
本間さんの誕生日が近いらしい。バイト中、不意に田中さんから持ちかけられたお願いで判明した。曰く、ケーキは焼けるか、と。焼けるなら焼いて欲しいと。そんな話をされたのは、じめじめとした梅雨がようやく過ぎて今度は茹だるような、湿度の高いまとわりつくような熱気に包まれる夏が巡ってきた七月上旬。大分慣れたバイト先で、いつも通り仕事をこなしている真っ只中だった。
「焼けますけど…?」
「誕生日会やるんだよ、今度。」
「は?」
唐突なお願いと、最初誰の誕生日会なのか分からずぽかんとしていると、同じくバイト仲間のユキちゃんが田中さんの脇腹をつついてくれた。色々と唐突ですよ、と。助かったユキちゃんありがとう。ユキちゃんと交代のシフトで、私があと十分すれば上がる、というタイミング。急な田中さんからの言葉に、色々と思考がついていかない。
「再来週、本間の誕生日でな。それで、うちを貸し切ってマンションの出られる奴らでパーティーすんだよ。」
「へー。」
「あ、去年もやってましたね!」
「そうなの?」
「そうだよ。」
「へえ。」
普段は遅刻ギリギリなのに今日は珍しく早く来たユキちゃんが、ああ、と声を上げた。どうやら毎年本間さんの誕生日はみんなでお祝いしているらしい。さすがマンションの人気者。すごいなあ、と本間さんの人徳に感心していると、田中さんはフッと笑った。
「まあ、言いだしっぺは善博なんだがな。どうせなら皆で祝おう、って、あいつ照れ屋だし。」
「あー…なんとなく把握しました。」
なんだかんだといいコンビな本間さんと林さん。二人共お互いに直接はあまり言わないみたいだけれど、それでもすごく大切に思い合っているのは見ていて分かる。だからこそ林さんはお誕生日会を企画しだしたんだろう。確かに本間さんのお誕生日会なら、きっとたくさんの人が何も言わずとも集まるだろうし。なるほど、と納得してうなづいていれば、タイミングがいいんだか何だか、カランとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませー…って、林さん!」
「笹井さんお疲れ様。もうすぐ上がりでしょ?」
「はい。…って、あ。」
やあ、とでも言わんばかり、片手を軽く上げて入ってきたのは今まさに話題になっていた林さんだった。あまりのタイミングに驚きつつも、言われて壁に掛けてある時計に目をやれば五時ジャストを針は示していた。
「ではお先に失礼します。…林さん少し待っててくださいすみません!」
「うん、ゆっくりで良いよ。」
「お疲れ様です。」
「お疲れー。」
お迎えにわざわざ来てもらっているのに、あまり待たせるわけにはいかないとバックヤードに引っ込んでダッシュで着替える。後ろで一本に括っていた髪も、少し高めの位置に結び直してシュシュをつけた。化粧を軽く直すのもまで含めて十分もかからなかった。割と早い方、の、はず。バタバタと慌ただしくはあるけれど客席に出れば、林さんはのんびりとカップを傾けていた。
「ゆっくりで良いよって言ったのに。」
「だって…。」
「うん、ありがとう。」
林さんの言葉に少しだけ唇を尖らせると、ふわ、と微笑んで頭を撫でられた。ぽんぽんと触れる手のひらが優しい。そのまま林さんの隣の席を勧められるまま腰掛ければ、すぐさま私の好きなキャラメルラテが出てきた。多分これは、私が着替えに引っ込んでいる間に何かしら話されていたのだろう。いただきます、と呟いて一口飲む。程よい甘さがそれまでの数時間、立ち仕事をしていた体の疲れを一気に癒していくような感覚があった。糖分の偉大さは素晴らしい。
「笹井さん、ケーキも作れるんだね。」
「引っ越してくる前は料理するよりお菓子作る方が多かったんですよ。」
「今年の誕生日会は安泰だな。ケーキは笹井ちゃん任せた!」
「はーい。任されました。」
キャラメルラテ片手に、去年の誕生日会の様子を林さんと田中さんから教わる。どうやら林さんがまったりしていたのは、田中さんに計画の相談に来たかららしかった。今年はこんな感じで、なんて話を聞きつつ、ケーキは何を焼けばいいのかだとか、バレないように搬入するにはどうするだとか、そういった作戦会議を進める。ちなみに去年まではケーキは市販のものだったらしい。尾形さん筆頭にお菓子作りのできる方が中々マンションにいらっしゃらないのだとか。私の中で尾形さんは料理は勿論、お菓子作りも得意そう、なんて予想を立てていた。なのに実際は、お菓子作りだけは壊滅的らしい。まさかの事実に驚きが隠せない。
「毎年パーティーしてるんですか?」
「んー…何だかんだ続いてるかな?」
「本間の誕生日だけはおかげでマンション中の奴が覚えた。」
「それすごいですね。」
「ね。すごいよね。」
「その立役者お前だろ。」
「僕だったの?」
「お前以外にいないだろうよ…。」
なんというか、本間さんの人徳と本間さんと林さんの仲の良さを再認識する話だ。ちなみに去年はマンションの若手勢で出席できたのは会場提供班である田中さんと、幹事というか言い出しっぺの林さんだけで、尾形たちをはじめとする欠席する若手勢からは直接おめでとうが言えない代わりにプレゼントが贈られたのだとか。何でも本間さん、プレゼントはお互いに気を使うから、とできれば用意しないで欲しいらしい。代わりにおめでとうと直接言ってもらえたらそれで十分なのだとか。勿論もらえたら嬉しいんだけどな?なんて笑う本間さんに、そう言うなら、と、パーティーをする分プレゼントはなし、になったのだそうだ。
マンション全体で近所付き合いが居住条件になっているからか、それとも元々皆さんの性格的なものなのか。マンション内で本間さんのお誕生日にプレゼント贈るのが当たり前になったらそこから派生して全員が全員、お誕生日プレゼントを贈り合う風習があっという間にできあがりそうだ。だからこそ本間さんはそんな風に言ったのだろう、と林さんに言われて納得する。確かに。だから個人的にみんなにはこっそりと田中さんや林さんは本間さんへプレゼントを渡しているらしい。
「だから基本は、パーティーに出席したり、準備したりがプレゼント代わりになるんだ。」
「なるほど。分かりました!」
じゃあ飛びっきり美味しいケーキ焼かないとですね。そう言えば、林さんが一瞬目を丸くしたあとで、そうしてあげて、と微笑む。そうしたら本間さんも喜ぶから、と。でも微笑んだあと、逸らされた眼差しが少しだけ淋しげな色を浮かべているように見えた。それに小首を傾げるけれど、追求しないで欲しいらしい。何でもない、と微笑み直されてしまう。それが、少し歯がゆかった。
何も、できないんだなあ。そんな思いを少し冷めたキャラメルラテとともに飲み込む。飲み込んで、田中さんに向き直って、そこからまたパーティーの準備についての話し合いを進めた。気づけば時計の針は六時を指していて、ユキちゃんに指摘されるまで、私も林さんも全く時間を気にしていなかった。
「急いで帰らないとだね。」
「そうですねー…。夜ご飯遅くなっちゃいますね。」
まずい、と急いで林さんと二人で店を出る。お会計は林さんがしてくれた。全力で払おうとしたのだけれど、それは難なく阻止された。曰く、僕が残らせたんだから、と。それは違う!と主張すれば、じゃあ、僕が奢りたいからじゃダメ?と言われた。その言い方はずるい。しかも困ったように微笑まれてしまったら堪らない。お財布を仕舞うしかなかった。
「ごめんね。」
「なんで謝るんですか?」
「んー…だって遅くなったら、大変でしょ?」
「そこは変わらないですよ?それより、お二人のお腹空いちゃうなーってそっちが心配です。」
「そっちなんだ。」
帰り道。不意に林さんがすまなそうに謝るから、何事かと思った。聞けば予想の斜め上をいく内容だったから否定すれば、何故か何かが林さんの中でツボに入ったらしい。楽しそうに笑っていた。
マンションまでの、そう長くはない距離。二人で夕暮れの中を並んで歩く。さらりと林さんが車道側を歩いてくれて、そんな些細なことに気づいては少しだけ、心拍が上がるのに気がついた。不思議だ。車で迎えに来てもらった帰りの、二人きりの空間の居心地の良さに気づいたときにも思ったけれど。本間さんと林さん。二人に対する認識が、上手くは言えないけれど決定的にどこか違うことを自覚せざるを得ない。本間さんは、お兄ちゃんのような。じゃあ、林さんは?お兄ちゃんではない。でも、ただのお隣さん、でもない。ならば何だというのだろう。分からない。
ぼんやりと中身のない話をしたりしながら歩く帰路はあっという間だった。林さんは人見知りの殻さえ破れば結構お喋り好きな人だったらしく、話題が尽きることはない。内容なんてあってないようなくだらないものだけれど、それでも、どうしてかそんな会話の一瞬一瞬を大事に思っている自分がいることに自分で驚いてしまう。
「笹井さんっ!」
「うわっ!?」
のんびりと歩いていたのだけれど。のんびりしすぎたらしい。マンションまであと数メートル、というところで不意にガクリと転びかける。咄嗟に目を瞑ってしまったのだけれど、それを力強い腕が助けてくれた。私が驚きに声を上げるより先に、危ない、と声を上げてくれた、林さんの腕。
「え、あ!」
「…大丈夫?」
「大丈夫、です…!」
恥ずかしいったらない。数日前からマンション近辺は下水道の配管工事が日中行われている。夕方だから工事の人は既に撤収していて、諸々撤去されてはいるのだけれど、まだ少し道路の凹凸は残っている。どうやら私はその段差の大きな部分に足を取られたらしかった。そして林さんは私がそれに足を取られる直前に、その段差に気づいてくれたらしい。
「足くじかなかった?平気?」
「林さんが助けてくださったから大丈夫です!…それよりすみません…恥ずかしい…。」
みっともない、と恥ずかしさに頭を抱えていると、ぽん、と頭に載せられる手のひら。それに顔をゆるゆると上げれば、林さんが微笑んでくれる。
「怪我がないならそれでいいよ。帰ろう?」
「…はい。」
なんとなく、林さんの頬が赤くなっている気がしたけれど、多分気のせいだろう。というか、赤くなる要素が今存在しないからわからない。とりあえずみっともないところを助けてもらったありがたさと恥ずかしさで頭が痛かった。人目がなかったら一頻り唸って身悶えていただろう。林さんが諌めてくれたから、流石に自重するけれど。
「…笹井さんってさ、」
「はい?」
「時々爆弾発言するよね。」
「え?」
マンションのエントランスに到着したとき、不意に林さんが呟く。その言葉の意味が掴めなくて小首をかしげれば、無自覚なの?と、苦笑いがよこされた。無自覚、とは。爆弾発言なんて、いつしたんだろうか。
「私、いつそんな発言しました?」
「さっき、とか。」
「さっき?」
「うん、さっき。」
さっき、と言うんだから、帰り道の会話のどこかだ。何が爆弾だったんだろう。こめかみに指を当てつつ真剣に考えてみるのだけれど、何一つ浮かばない。第一どんな類の爆弾かも分からないんだから、考えたって無駄だったのかもしれない。答えがあまりにもわからないことに諦めて、お手上げです、と林さんに言えば、そっか、と笑われてしまった。その表情に、ふと思う。爆弾発言というのなら、林さんだってそうだ。
「私からすれば、林さんの爆弾発言の多さに心臓がもちそうにないんですが。」
「え?」
「この間、本間さんも言ってたじゃないですか。無自覚天然タラシ、って。」
「え、あれ、僕のことなの?」
「そうですよ?」
「…どこから突っ込めばいい?」
「むしろ突っ込んだら負けです。」
先日の本間さんの言葉を引用すれば、林さんは目を丸くして固まってしまった。完全にフリーズしている。それに小さく笑った。私の言葉に本気で悩んでるんだろう。え?と目をパチパチ瞬かせながら頭をひねっている林さんの姿が可愛らしい。目上の男性にあまり言っていい言葉ではないのは分かっているけれど、可愛い。
「林さん、私、家入っちゃいますよ?」
「え、あ!…うん。後で行くね。」
「はい。お待ちしてますね。」
「じゃあ。」
もだもだと悩んでいる林さんの姿をしばらく見つめていたいとは思ったけれど、いかんせん、ご飯の支度の時間が必要だ。仕方ないと林さんに声をかければ、バッと身を起こして、林さんは疑問符から意識をこちら側に向けてくれたらしい。ふわ、と柔らかい笑みで見送ってくれる。その笑顔の暖かさにほんわかとした気持ちになりつつ、お互いに手を振り合って部屋に入った。
その日の夜ご飯では、林さんが本間さんに、なぜ自分が無自覚天然タラシと評されるのか分からない、納得がいかないと問いつめて、大騒ぎになった。無論私にも問われたけれど、そこは満面の笑顔で逃れた。黙秘します、そう言った瞬間の林さんの泣きそうに困った表情に少しだけ胸は痛んだけれど、横でお腹を抱えて笑う本間さんに感化されて、思わず笑ってしまった。途端に、笹井さんまで僕のこといじるの!?なんて林さんが拗ねてしまって、機嫌をとるのが地味に大変だった。その間笑い続けていた本間さんだったけれど、拗ねた林さんに脇腹をパンチされて痛がる。陽子ちゃん助けて!なんて救いを求める声はスルーしてみて。完全にただのじゃれ合いになった光景に、思わずほっこりとしてしまった。
*
「さて、ケーキですが。」
「おう。」
「こんな感じで大丈夫です?」
「笹井さんすごいね。」
「笹井ちゃん天才か!?」
「どやあ。」
「まさかの笹井さんのドヤ顔…。」
お誕生日パーティーの前日。今まで作った中で一番大きなケーキをお店に運び込んだ。自宅冷蔵庫の横幅限界のサイズだったので、長時間保管は辛い、ということで作って早々に持ってきた。今日本間さんは一日お出かけの予定だ。どうやらお仕事関係の方達から一日早い誕生日祝いだ、とか。というわけで夜ご飯もいらない、と数日前に聞いていたのだが、それを聞いた瞬間から林さんとケーキ作成計画の練り直しが行われた。
当初はパーティー前日にお店で焼いてそのまま保管、だったのだけれど、どうしたって慣れている自宅で作るほうが手際的な問題では楽だ。作って、すぐに保冷剤を詰め込みまくったケーキ箱を林さんの車で搬入、という形に計画は変更になった。
ちなみに、作る過程では尾形さんにも手伝ってもらった。こんな感じ、とレシピ本でケーキを選ぶところとデコレーションを決めるところは共同作業。そこからスポンジを焼いて、スポンジに苺を挟みホイップを塗る、までは私の担当として、そこにホイップを絞り苺やフルーツをデコレーションしていくところは尾形さんメインで。そんなこんなで出来上がったケーキは、手前味噌だけれど結構な出来栄えだと思うのだ。完成した瞬間に尾形さんとガッツポーズからのハイタッチをするくらいには二人して達成感があった。
「チョコレートプレートは尾形さんと書いたんですよ。」
「お、可愛い!」
「尾形さんが…ケーキ…。」
「どうかしました?」
「いや、うん…。」
「尾形ちゃんがケーキ、っていうのが結構衝撃あんだよ。」
「ほう…さいですか。」
チョコレートプレートの、ハッピーバースデー本間さん、の文字は尾形さんが。回りにハートやらお花やらを書き込んだのは私。とことん二人で共作してみたのだ。それを笑顔で説明すれば、林さんの顔が固まっていた。どうしたのだろう、と問えば、田中さんが答えてくれる。多分、尾形さんもケーキを作りながら話していた昔のこと、を思い出しているんだろう。
最初のパーティーの年、尾形さんは試しにケーキを焼いてみようとしたらしい。が、結果、かなり悲惨なものが出来上がったらしい。どう悲惨だったのか、とか、そういう細かい部分は聞けなかったけれど。でも話しながら尾形さんがすごく遠い目をして、乾いた笑みを浮かべていたところを見ると、私が林さんや田中さんから、尾形さんはお菓子類を作るのが苦手、と言われて想像していた以上なのだろう、と推測した。そしておそらく、その推測は当たっている。完成したケーキを見て尾形さんは、私でも手伝えた…!なんて、感動していたのだ。それを聞いて、ちょっとどうしようかと思ったのは内緒だ。
「ほかのお料理とかの手配は大丈夫そうですか?」
「おう。万全だ。」
「あとは明日を待つだけ、だね。」
「ですねえ。明日が楽しみですね!」
今日の午後と明日一日は、臨時休業。その貴重な時間をいかに有効に使うかが重要だ。ケーキを店の業務用冷蔵庫にきちんと仕舞ってから、店内の飾りつけにかかる。ここ数日、バイト仲間たちで休憩時間を使って作っていた輪飾りやら、紙製の花やらを店内に飾っていく。飾りつけは私やユキちゃんをはじめとする女性陣。林さんや田中さんをはじめとする男性陣はテーブルの位置を変えてくれている。毎年、本間さんのお誕生日だけは店内従業員総出で準備するらしい。まあ、従業員の半数がマンションの住人だからこそできるのだろうけれど。
「笹井さん、そっちはどう?」
「後これ飾るだけですよー。ちょっとお待ちください!」
「うん。」
靴を脱いで椅子に上り、最後の一本の輪飾りを飾っていると背後から声をかけられる。それに返事をしつつ目一杯腕を伸ばす。声をかけられたタイミングで、チラと林さんの方に目を向ければ、私の作業が終われば準備が完了するみたいだった。それなら最後の一踏ん張り、と腕を伸ばすのだけれど、最後の一カ所だけどうしても微妙に腕が届かない。椅子をもっと寄せておけばよかった、と後悔するのだけれど、ほんの後一、二センチ。ぐ、とさらに体ごと伸ばそうとしたら、ちょっと待って!と鋭い声が私を押し止める。
「え?」
「危ないでしょ。ほら、支えてるから。」
「あ、はい。」
こら、と優しく窘められて、頷くしかできない。椅子を片手で押さえながら、伸び上がる私の体を林さんに支えてもらう。触れる腕に少しドキリとしたけれど、お陰で怪我をすることもなく無事に輪飾りの設置を終えられた。
「なんかすみません…。」
「謝らないでいいよ。僕が、笹井さんが怪我するのが嫌なだけだし。」
ぽん、と頭に振ってくる林さんの手のひら。それと同時に言われた言葉は、私の動きを止めるのに十分すぎるほどの威力を持っていた。一気に頬が熱くなる感覚がした。でもそれを林さんに見られるのは恥ずかしくて、ありがとうございます、と蚊の泣くような声でどうにか返して、椅子を持ち上げた。
「これ、片づけてきちゃいますね。」
「うん。」
椅子を借りてきた場所に戻して、そのまま逃げるようにバックヤードに一瞬駆け込む。流石にここには林さんも入ってこない。ドアを閉めると同時に、そこにずるずるとへたり込んだ。片手で顔を覆って、一つ、息を吐く。別に林さんは特別な思いを持って言った訳じゃない。天然タラシの称号を持つ人だ、どんな爆弾発言をしたっておかしくない。
静かにしばし身悶えてから、よろよろと立ち上がる。顔の火照りはひいたけれど、何故かどっと疲れた。今度は一つため息をつく。なかなか平常心でいられない自分が馬鹿馬鹿しい。パン、と頬を叩いて気持ちを切り替える。今からこんなんじゃいけない。今夜は林さんと近くの居酒屋に飲みに行く約束をしているのだ。本間さんもいないし、日中は特大ケーキを焼いたりしているから、たまには楽しようよ、なんて、林さんが誘ってくれた。ついさっきまでは飲み過ぎないようにしなくちゃ、なんて思っていたけれど、今度は、平常心を心がけなきゃ、なんて別の心配が首をもたげる。
「じゃあ、明日は四時からスタートだから、スタッフは全員三時には集合するように!」
「はーい。」
バックヤードからよろよろと店に戻り、最後全員で確認をする。それから明日の流れを確認しあって、田中さんの発声で解散した。料理は設営に関わっていない、明日参加する各家庭から一品ずつ集まることになっている。それプラス、大家さんが手配してくださっているケータリング。会場従業員である私たちは他の参加者の皆さんより早く集まって、料理をスムーズに出せるように当日準備がある。そういった全般の役割確認も終わって、また明日、と言い合いながら店を出る。気づけば既に、五時半を回っていた。
「どこ行こうか?行きたいお店とかある?」
「んー…特に思いつかないですねえ。林さんは?」
「僕?んー…そうだなあ、」
ケーキ搬入のために林さんに出してもらった車をマンションの駐車場に止めて、二人で何となく駅の方向へ歩き出す。どこで食べる、何を食べる、という部分において二人して完全にノープランだった。とりあえず、と、飲食店が軒を連ねる駅前に向かっている次第なのだが、どうにも店は決まらず、歩きながらではあるけれど二人で首を傾げてしまった。
「あ、じゃあ、あそこで良い?」
「はい。」
何軒かの居酒屋の看板を眺めた後、林さんが指さしたのは個室の居酒屋だった。周りの騒がしさを気にしなくて良いから気楽だし、と頷いて店の扉をくぐる。運のいいことに、というか時間が早いからすぐに席に通され、お通しの枝豆がテーブルにドンと置かれた。
「笹井さん何飲む?」
「どうしましょうかねえ…。」
メニューを横向きにおいて、二人でそれを広げる。カクテルのページを、見て良いよ、と広げてくれる林さんに甘えてざっと目を通す。久しぶりに飲むような気もするし、一番好きなファジーネーブルを頼むことに決めて、林さんにメニューを譲ろうとしたら、僕はビールー、とゆるく返される。決まってたのか、と待たせてしまったことに少しだけしょんぼりとしつつベルを押した。
「生ビールとファジーネーブルお願いします。」
「かしこまりましたー!」
アルコールの注文だけすませて、今度は表紙からページをめくっていく。何食べます?なんて言いながら、ペラペラめくっていけば、割にあっさりと意見はまとまった。出汁巻き卵と、お刺身盛り合わせ、湯葉さし、焼き鳥盛り合わせ、軟骨の唐揚げ。アルコールを運んできてくれた店員さんについでに注文して、お互いにグラスを掲げた。
「じゃあ…乾杯。」
「はい!」
何に対してって訳でもないけど、とはにかんで言う林さんに私も笑いながら、カチリとグラスを合わせた。そういえば最近、引っ越してくる前に比べてあまりアルコールを飲んでいなかったなあ、なんて不意に気づく。多分、家で林さんと本間さんとご飯を食べる生活が馴染んでいるからだろう。まあ、月に何度かは外で食べているけれど。
「…ふう、」
「っあー…。」
グラスの中身をぐっと飲み込んで、二人ほぼ同時に息を吐く。思わずそのタイミングの良さに顔を見合わせて笑った。
「林さんはお酒強いんですか?」
「んー…あんまり。でも好きなんだよね。笹井さんは?」
「私も似た感じですかね。お酒よりも酒の席、が好きかもしれないです。」
「それ分かる気がする。」
ゆるり、とした空気。考えてみたら、一緒に夜ご飯を食べるようになってから早数ヶ月。本間さんとツーショットはあっても、林さんとツーショットの夜は初めてだ。ここ最近はライヴのお仕事が少なく、レコーディングが多いらしいから割に夜家にいるらしいけれど、やはり週の半分一緒に食べれたら良い方だし。これがライヴの多い時期になったらもっと一緒に食べる機会は減るんだろう。そんな感じだから、ツーショットは改めて思い返せば、レアとしか言いようがない。ついでに言うと、マンションの誰かとお酒を飲むのは初めてだったりする。バイト仲間は別だけれど。
「湯葉さし美味しいね。」
「ですねえ。なかなか家じゃできないですし。」
居酒屋ならでは、のメニューに舌鼓をうちながら喋っていれば、自然とアルコールも進む。気づけば私にしては結構な量を飲んでいて、でも弾む会話が楽しくて、段々と正常な判断能力がとろけて消えていくのを感じていた。
「僕がいない時とか、マンションの誰かと飲みに行ったことってあるの?」
「ないですよー?林さんが初めてです。」
だから不思議な感じ。そう、続けたのに、林さんの耳には入っていないようだった。何故だか頬を赤らめて口元を片手で覆っている。どうして?疑問符を浮かべて私は、そっと林さんの顔を覗き込む。
「どうか、しました?」
そっと肩に触れれば、ぴくん!と林さんの体が跳ねる。え、と驚きに固まれば、ごめんね、と慌てたように返される。そしてそのまま林さんは、はあ、と大きく息を吐いてビールを一口飲み干した。
「ごめん、大丈夫だよ。何でもない。」
「本当ですか?」
「うん。本当。」
だから気にしないで。ぽんぽん、と髪に触れる林さんの手が優しい。思わずそれに目を細めれば、ふわ、と林さんが笑った。
「笹井さん、頭撫でられるの好き?」
「んー…好きというか。なんだか、落ち着きます。」
「そっか。」
すると、今までぽんぽん、といった感じだったのに、ゆるゆると髪を撫でられる。どこまでも優しい手つきに、ふわふわとした心地よさが広がった。
「ふふ、」
「ん?」
「林さんの手って、魔法使いの手、ですよねえ。」
ふふ、と笑いながら言えば、林さんは目を丸くしていた。だって、ふっとそう思ったのだ。優しくて、あたたかで、触れられると幸せな気持ちになる。まるで幸せの魔法をかけてくれる、魔法使いの手だ。そんな、酔いの回ったせいで大分メルヘンチックに染まった思考で感じたままを言葉にすれば、林さんは吹き出して笑った。
「僕が魔法使い?」
「だって、そう思うんですもん。」
「…そっか。」
ゆるく頭頂部を撫でるだけだった指先が、するりと髪を梳く。それが心地よくて、いつの間にか近くにあった林さんの肩に無意識のうちに頭をあずけていた。
「笹井さん!?」
「はい…?」
「えっと、…酔ってる?」
「んー…はい、割と…。」
実は、結構眠たい。でも折角林さんと一緒なのだし。もっとお喋りをしたいし、ああもう、楽しすぎてお酒がいつもより進んでしまった自分を呪いたい。頑張って起き上がろうとすれば、不意にぎゅ、と肩に腕が回される。
「林さん…?」
「うん、…ちょっとだけ、こうさせて。」
「…はい。」
緩く肩を抱かれた状況が、嫌ではなくて。むしろ何故か、嬉しいとか、幸せ、とか、そういう感情が湧き上がってきて、私はそれを享受する。林さんの肩に頭をあずけて、肩を抱かれて、そのまま私は緩く瞼を伏せた。すると、とくん、とくん、と微かに林さんの心音が触れ合った場所から聴こえてくるような気がした。少しだけ早い、心音。もしかしたら私のそれも、聴こえているのかもしれない。しばしそのままの体制でいて、数分後林さんが、帰ろっか、と呟くまで、どちらも何も言うでもなく、ただ、寄り添っていた。
帰り道では、いつもどおりの林さんと私の戻っていた。一瞬、今までにないくらい縮まった距離は、それまでと同じくらいに戻った。それが訳もなく寂しくて、少し混乱する。お会計は、端数は出させてもらえなかったけれどどうにか割り勘にしてもらって、二人で明かりの消え始めた駅前通りをゆっくりとマンションに向かって歩く。
「明日、楽しみですねえ。」
「うん。…本間さん、今年も喜んでくれるといいけど。」
「きっと、喜んでくださいますよ!」
ね、と笑えば、そうだね、と林さんも笑い返す。そんな風にして、あっという間にマンションまでたどり着く。見れば、電気がついていないところを見るとまだ本間さんは帰っていていないらしい。
「明日、二日酔いじゃないといいんだけど…。」
「確かに。」
本間さんは、本人曰くお酒に強いらしい。けれど尋常じゃない量を飲むらしい。そして大概、翌日は二日酔いで午前中は唸っている。思わず林さんと顔を見合わせて、一つ、溜め息を吐いた。
「じゃあ、また、明日。」
「はい!おやすみなさい。」
「うん。おやすみ。」
ひらり、とお互いに手を振って、それぞれの部屋の扉を開ける。けれど中々林さんは部屋に入る素振りを見せない。思わず小首をかしげて様子を伺えば、入らないの?と問われた。それはこちらの疑問符だったりするのだけれど。
「林さんこそ。入らないんですか?」
「ん?笹井さん見送ったら入ろうかなって。」
「…ふふ、」
見送ると言っても、部屋に入るだけなのに。それを至極真面目に言われて思わず笑みが溢れた。あたたかい、くすぐったい気持ちが胸に広がる。
「じゃあ、おやすみなさい。また明日!」
「うん、おやすみ。」
今度こそ私は部屋に入る。私の部屋の扉が閉じきった数秒後、やがてゆっくりと林さんの部屋の扉が閉じる音がした。それを聴いてから扉に鍵をかけて、ベッドにまっすぐ向かった。
眠い。久々にふわふわとしたいい気分になるまで飲んだアルコールのせいで、お風呂に入る気力が奪われている。仕方ない、化粧だけ落として朝ゆっくりシャワーを浴びることにしようと切り替えて、ノロノロと動き出す。クレンジングオイルの染み込んだコットンで化粧を落として、部屋着に着替える。ベッド脇の目覚まし時計を少し早めにセットして、携帯を充電器にセットしたところで意識が途絶えた。
翌朝の私は覚えていなかったけれど、その夜私は、すごく幸せな夢を見た。心地よい体温に、抱き締められている夢を。