第七章 委ねた感情
「へー、赤レンガ倉庫にライブハウスなんてあるんですねえ。」
「あんまりライブとかは行かない?」
「音楽は好きですけど、そこまでは…。」
林さんの車で大学まで迎えにきて貰うのもだいぶ慣れてきた。友達も、彼氏ではないし家族でもないけれど、家族みたいな付き合いをしているご近所さん、という認識で林さんを見ているから大きなトラブルもない。ようやっと平和になったように思う。そんなお迎えの車の中で、夜ご飯の買い物に向かいながら、何となく私の趣味の話になった。
「えーっと…横浜と鎌倉が好きなの?」
「んー、まあ。あと最近は都内の寺社仏閣、とか…。」
「…渋い、ね。」
「よく言われます…。」
私の趣味はカメラを持って歩き回ること。お気に入りの場所だったら何時間居ても飽きないし、そもそも同じ写真は二度として撮れない。だから面白い。実家暮らしの頃は県内だし、被写体に困らないし場所としても好きだからと、赤レンガ倉庫や鎌倉にばかり足を伸ばしていた。ただ最近は、都内の神社なんかに友達にパワースポットとして連れて行かれる度に、写真に撮りたくなって。そうしていつの間にか自分でひたすらに回るようになっていた。
「でも結構行ってたのに、ライブハウスを知らなかったのは自分にちょっとショックです。」
「僕も結構行ってる箱なんだよ。」
「うわー…行ってみたい…。」
赤レンガ倉庫は大学に入ってから何度も行っていた。みなとみらい辺りからぐるーっと歩き回るのが好きだったのだ。けれど、特に中に入ってお買い物をする、ということもなかったから、ライブハウスがあるなんて知らなかった。横浜、特に赤レンガ倉庫なんてライブで行くくらいだなあ、なんて林さんが呟かなかったら、きっと知らないままだったんだろう。
赤レンガ倉庫自体素敵な場所だから、きっとライブハウスも素敵な場所なんだろう。そう思いながら行ってみたい、と呟けば、今度おいで、と誘われた。思わず隣の林さんを見やる。
「ん?」
「…良いんですか?」
「何が?」
「演奏、聴きに行って。」
「もちろん。まだ予定がないけど、次そこでサポートじゃなくやるとき、招待するね。」
「っ…ありがとうございます!楽しみにしてますね。」
ハンドルを切りながら、林さんは緩く笑う。それが、なんだか無性に嬉しくて、声が少し裏返ってしまった。幸い、林さんには気づかれていなかったようだけれど。
「あ、今度どっかオススメのパワースポット?っていうんだよね、連れてって貰いたいな。」
「いいですよー!どういうとこがいいですか?」
「んー…あ、笹井さんが一番落ち着くところとか、お気に入りの場所がいいかな。」
「じゃあ、オススメセレクトしておきますね!」
縁結びとか、厄除けとか。そういう意味で聞いたつもりだったのだけれど。まさかの爆弾投下に、正体不明の恥ずかしさが私を襲う。助手席で静かに悶えつつ、それでもどうにか笑顔で、言葉を返した。
と、いうのが先日の話。
「っあー…。」
現在私は、数日前林さんとの話題に上った赤レンガ倉庫に一人で来ている。窓ガラスで覆われているテラス席に一人陣取って、少し遅いランチとしてガレットに舌鼓を打っているのだけれど、不意にその林さんとの会話を思い出してしまった。蘇る気恥ずかしさに頭を抱える。
本間さんは思考回路の大部分が愉快犯的要素でできていて、笑い上戸で、でも兄貴分みたいな人だから、まだ少なからず行動に身構えることができる。というか、からかってくるにしても気恥ずかしさを感じるたぐいではないから、反撃ができる。問題は林さんなのだ。別に、嫌なわけじゃない。でも時々、ドキッとしてしまうようなことをさらっと言うから心臓に悪い。
私の男性に対しての免疫が余りにもないからだろうか、とも考えたのだけれど、大学は共学だし、高校までもそうだった。男友達がいないわけでもない。むしろ男友達とは仲が良くて、成人式のあとの中学の同窓会で飲んだくれた男友達をひたすらに怒りながら介抱していたくらいだ。だから別に、男性に慣れていない、訳ではないと思うのだけれど。
「…天然タラシ、かあ…。」
卵とハムの乗ったガレットは、生地そのものの塩分が絶妙ですごく美味しい。卵の黄身が半熟でそれが絡み合うのが絶品としか言いようがない。それに喜々としてナイフを入れながらも、脳内をぐるぐると渦巻くのは、先日の本間さんの発言。天然タラシって確か、私もだいぶ前、ほぼ初対面に等しい頃に林さんに対して抱いた気がする印象だ。
なんというか、林さんは割と少し恥ずかしくなってしまうような褒め言葉もサラッと言ってしまうから。そして他意がないから、こちらが恥ずかしがっていても理由がわからない、らしい。つまりはそれだけ思ったままを言ってくれているということで、それが恥ずかしさに拍車をかける。うん、これは天然タラシだ。自覚なしに爆弾を投下されるからこちらとしてはその破壊力がたまったものではないし、例えば本間さんみたいに愉快犯的なノリで言ってくるのであればこちらとしても反撃のしようがあるのだけれど、そうでないから逆に困ってしまう。あれかな、私が少しひねくれているのだろうか。褒め言葉をすっと受け取れるような、そんな人間になれたら問題はないのだろうか。それはそれで問題か。
「お姉さん、一人?」
「…はい?」
不意に、すっとテーブルに影が落ちる。声をかけられて顔を上げれば、見知らぬ男の人が一人、こちらを見てにこりと笑っていた。人好きのする、朗らかな表情。
「何しに来たの?買い物かな。」
「えっと、」
「あー、突然ごめんね。もし暇なら、このあと俺と一緒に、どうかな?」
「…。」
まさかのナンパだった。びっくりだ。ガレットを食べる手が止まる。別に私、特別綺麗でも可愛くもないのに、目の前の男の人は目が悪いんだろうか。それとも、余程女の子不足だったんだろうか。どちらにしても、なんかアレだ。試しにテラス席を見回してみたら、どうやら一人で座ってる女子は私しかいなかった。というか見事にカップルばっかりだった。どんまい、独り身の自分よ。
「ごめんなさい、ちょっと…。」
「えー?残念。彼氏と待ち合わせ?」
「あはは。」
笑ってごまかす作戦。ナンパは余計なことを言うよりも笑ってごまかすのが一番有効だと経験上思っている。案の定、男の人は残念だなーなんて言いながら、ふらりとどこかへ消えていった。さようなら。
「…っはー。」
何なんだ、一体。前に一度サークルの先輩から、ナンパも立派な出会いの一つだ、とは言われた。言われたけれども、見ず知らずの人とナンパきっかけで仲良くなるって結構ハードルが高い気がするのだ。そもそも知らない人と話すのが気疲れするから無理。多分この考え方が色恋沙汰から私を遠ざけてるんだろうけれども、別に恋をしたいって思うこともないからいい。
ともかく今は、林さんのことだ。不意に胸の内を乱されるから、それにどうにかして冷静に対処できるようになりたいのだけれどどうしたらいいのか。考えても考えても、わからないままだ。
考えてもわからないし、さっきのナンパのせいで思考が分断されてしまったから、これ以上はきっと考え続けても堂々巡りな気がしてきた。今はもう考え続けるのはやめよう。そう思考に区切りをつけて、ガレットを食べきってしまう。トレーを返却して、カメラ片手にテラスを出発する。とりあえずは海辺からのアングルで赤レンガ倉庫を撮ろう。それから、周りの公園になってる辺りを撮って、時間が許せば山下公園の方まで歩いてみようか。
決めてしまえばあっという間で、軽い足取りで海辺に向かう。海辺に着いたら着いたで、赤レンガ倉庫越しに見える観覧車だとか、海に浮かぶ船だったりとか、撮ろうと思っていたもの以外にも目を奪われた。赤レンガ倉庫は、撮っていて飽きない。季節ごとに装飾がされていたりもするし、装飾がないそのままでそもそも外観が美しいし。扉一つ、窓一つとっても、アングルを変えて写せば全く違う画が撮れる。それが楽しくて、楽しくて。
夢中でシャッターを切り続けて、時折データを確認しては、その場でパソコンで確認するまでもないだろうものは消していく。そんなことをしていたら、思っていた以上に時間が過ぎていたらしい。はっと我に返れば、陽が少し落ちてきていた。夢中になるといつもそうだ。時間があっという間に過ぎていってしまう。山下公園まで歩こうと思っていたのだ、折角だから今なら多分、大丈夫。今日の夜ご飯のことを考える。
今日は林さんはお仕事だ。私は名前を知らなかったけれど、女性シンガーにサポートでライブをするのだと言っていた。つまり、夜ご飯はいらないと。いつもならそれで本間さんと二人きりになるのだけれど、今日は初めて尾形さんも一緒に、ということになっている。初めて一緒に食べるのに林さんがいないのは少し残念だったけれど、忙しい人だから仕方ない。一緒に食べようといったときには準備も一緒に、と話していたけれど、今日は私一人で作ることになっている。つまりあまり遅くには帰れない。けれど、昨日の内にもう買い物は済ませてあるし、尾形さんの仕事終わりに間に合えばいいだろう。結論づけて、赤レンガ倉庫を後にすることを決めた。大好きな場所にいると、そこで満足して動けなくなってしまう。というか、いつまでも居られてしまうから。いい加減にして、たまには他の場所にも足を伸ばしたい。
もう一枚だけ、と、歩道から二棟両方が写るようにカメラを構える。夕日になる、少し前。淡いオレンジがかった光と、青い空のコントラストが綺麗だった。光が緩く建物に影を落としていて、美しい。とはいえ私の技術ではこの美しさの数割も写せていないんだろう。分かり切ったことに少しへこたれて、でも、だからこそ美しいと感じるのかもしれない、なんて気取ってみて。いざ山下公園までお散歩と洒落込もうと、踵を返した。
瞬間、前を通りかかる、見覚えのある車。
どこでライブ、とは聞いていないし、見間違いかもしれなかった。けれど、しっかりと、見てしまった。
運転席でハンドルを握り楽しそうに微笑む林さんと、助手席に座る知らない女性。確か今日は、女性シンガーのサポートと言っていたから、その人かもしれない。分からない。ただ、目にしたその一瞬に、心臓が軋んだ。
別に助手席が私専用だなんて思ったことはないし、そもそも私は林さんの彼女でもなんでもない。それにそうだ、私は林さんをそういう目で見ているわけではなかったはずだ。だから、この感情そのものが、間違っている。だけど、だけれど。
「…帰、ろ。」
思わず声がこぼれた。自分でも情けなくなるくらい、力のない声。そうして足は、向かおうと思っていた山下公園とは反対側の、馬車道駅へ進む。今はもうきっと、レンズを通してみてもシャッターを切る気になんてなれないと直感的に悟っていた。
駅までの道のりも、割合趣のある建物が多いのだけれど、それらを見る気にはならなかった。とぼとぼと俯きがちに駅に向かい、エレベーターで地下に降りる。そこから更にエスカレーターでホーム階に着き、足は自然に、無意識に家に帰る電車に乗り込んでいた。みなとみらい線の渋谷方面に乗り込んで、乗換駅までしばしぼんやりとする。途中駅で降りて、乗り換えて、奇跡的に座れたからとまたぼんやり。抜け殻みたいになりながら、窓の外を流れていく風景を眺めていた。実際には、その視覚情報の一部だって私の脳には伝達されていなかったと思うけれど。
尾形さんと話し込む林さんを見たときにも感じた、胸の痛み。入り込めないと感じる空気感。ずくり、ずくり、と、胸の内の柔らかい部分をじわじわと、けれど確実に突き刺されていくような、鳩尾の冷えていくような痛みに泣きたくなった。見たくなかったと強く思ってしまうくらいには、ダメージを食らっている。
林さんは最初聞いていたとおり、人見知りの激しい人だ。仕事に支障はでないのか余計なお世話とは分かりつつも真剣に悩みたくなるレベル。本間さんは出会った当初それについて真面目に心配していたらしい。だから割に短期間で打ち解けた私は珍しいんだとか。田中さんや店の常連さんたちが言っていた。それに、あんなに、笑いかけてくれるから。なにもなくたって暇だ、なんて突然メールを寄越したりだとか私に馴染んだ雰囲気を作ってくれるから。だから少し、思い上がりだけれど、特別とまでは言わないにしろ、少なからず近づけたのかな、なんて、思っていたのだ。バカバカしいことこの上ない。
あり得るわけがない。私は、林さんの人見知りという壁を越えられたに過ぎないただの隣人。それ以上でもそれ以外でもないし、私だってそれ以上の感情を林さんに持っているわけではない。なのに何で、切ないんだろう。苦しいんだろう。分かりきっていた事実を改めて目の前に提示されただけなのに、何故、辛いんだろう。自分で自分の感情が分からない、理解の範疇を越えている。
ぼんやりとしていればいつの間にか最寄り駅にたどり着いていて、ゆるゆると頭を降って思考を振り払った。とにかく今は、家に帰ろう。それで夜ご飯を作ろう。今日は尾形さんも来る日だ。炊き込みご飯が食べたいと言っていた尾形さんの為にも、まずはお米を研いで、それから、それから。考えながら歩く家までの道は、ひたすらに長く感じた。どうにかたどり着いて、玄関を開け、上着を脱いで鞄とカメラを肩から下ろしたところで、足から力が抜ける。力なくへたり込む私は、きっと滑稽だ。そのまましばらく思考がまとまらずぼんやりとしていたら、あっという間に一時間ほど時間が過ぎていた。
「…あー…。」
動かなければ。そう思って、気合を入れて立ち上がる。瞬間、放っていた鞄の中でバイブレーションで私を呼ぶ携帯の存在に気が付いた。急いで取り出して、それがメール受信によるものだということ、そして、送信者が今の今まで考えていた林さんからだということに、たっぷり三秒ほどフリーズした。
「…ふふ。」
件名は「この間の」、本文は「赤レンガの箱、こんな感じ。」、添付ファイルが一件。私が行ってみたい、と言っていた赤レンガ倉庫のライブハウスの中なんだろう。客席後方からステージを映したであろう写真。ステージの上ではスタッフさんだろうか。恐らく機材のセッティングやら何やらをやっているのだろう姿が写っている。それから、大きなグランドピアノ。それを、林さんが弾くんだろうか。
写真で見て、やっぱり思う。実際に行ってみたい、その欲求と、お仕事がんばってくださいね、という文章を打ち込んでメールを送信した。送信ボタンを押すころには、すっかり私の中のもやもやした感情はどこかに霧散していた。さっきまであんなにも傷ついて、落ち込んで、ぼんやりとしていたくせに。私も大概現金だ。林さんからのメールひとつで、簡単に機嫌が左右される。もう一度メールに添付されていた画像を見る。そこに映るピアノで演奏する林さんを想像する。それだけで少し、胸が熱くなるから不思議だ。
ぼんやりしていた時間分、予定より少し準備が後ろ倒しになってしまった。けれどもとより、予定よりも早く帰宅していたら、特に焦る必要もない。のんびりとご飯の下ごしらえをして、空いた時間でカメラをパソコンにつなぎ、データの確認をしてみる。そんなことをしていたら、あっという間に時間は過ぎていた。
「陽子ちゃんこんばんはー。」
「…お邪魔します。」
「いらっしゃいませ!本間さん、早速ですがテーブル拭いてきてください。」
「おう。」
勝手知ったる、というか。やってきて自然に台所に足を向けた本間さんに、ふきんを預ける。どことなくおずおずと部屋にやってきた尾形さんとの対比がすさまじい。ぽかんとしている尾形さんに、いつもこんな感じですよ、と告げれば、そうなの?と小首を傾げられた。目上の女性にあれだけれど、かわいい。
「尾形さんも手伝っていただいていいですか?」
「ん…もちろん。」
たぶん貴重品が入ってるんだろうポーチを置いて、尾形さんはシャツの袖を軽く腕まくりしながら答えてくれる。ふわりとした笑みがやっぱり可愛らしくて、素敵だなあ、と一瞬見惚れた。
「じゃあ、ご飯よそってください。はい、本間さんこれ運んでくださーい。」
「はーい。」
「了解ー。」
なんとなく。初めて本間さんと林さんとでご飯を食べた時から、ご飯を食卓に運ぶのは皆で、というのが通例になっている。今日初めて一緒にご飯を食べる尾形さんだけれど、ごく自然にそれになじんでくれるから嬉しい。
炊き込みご飯と、手羽先と大根とこんにゃくの鰹節をベースにした煮物、あげ茄子、特売シールにつられて買ってしまっていたミートボールは白菜と一緒に出汁ベースのクリームスープに突っ込んでおいた。とりあえず、和食。尾形さんに何が食べたいか聞いてリクエストを受けた炊き込みごはんをベースにメニューを考えたのだけれど、まあまあな出来だと思う。出汁ベースのクリームスープは最近買ったレシピブックに、和食にもぴったり!のあおり文句と一緒に載っていたから乗せられてみることにしたものだ。
「和食でも、やっぱり煮魚はないのな。」
「だって林さんのお願いですもん。」
「ん?」
「林さんが、自分がいない時に煮魚はやめてくれって。」
お茶を持っていけば、先に座ってもらっていた本間さんが含み笑いをこちらに寄越す。確かに和食って言われて煮物、煮魚!っていう思考回路に陥ったけれども。それ以外できちんと考えたんだからいいじゃないか。そう思って返せば、話を知らない尾形さんが疑問符を浮かべていた。急いで説明すれば、尾形さんは驚いたように目を丸くして、それから噴き出した。
「ふふっ…どれだけ林さんは笹井さんのご飯気に入ってるのよ…。」
くつくつと笑う尾形さんの姿は珍しい。けれど聞けば、林さんが我儘、というか、お願いをするほど気に入るって中々ないんだとか。それを知っている本間さんも最初は驚いていたらしい。全くそういう風には見えなかったけれど。ご飯が冷めてしまうから、と三人でいただきますを言って、箸をとる。そうしながらも話し出す本間さんの言葉に私はフリーズした。
「善博のやつ、一回、無理して飯食いに帰ってきたこともあったんだぞ?」
「え、」
「嘘。」
「まじ。移動時間やばいのに、でもこれ逃すとあと一週間陽子ちゃんのご飯食べられないことになるから!って。」
「…知らなかった…。」
「だろうなあ。恥ずかしいから言うな!って口止めされてたし。」
「全力で今その約束を破ってるのね…。」
びっくり。多分本間さんが言ってる日は分かった。確かに、この後移動だから、といそいそと帰って行った日があった。あれだ。初めて本間さんと二人でご飯になった時の、前の日。まさか無理してまでなんて。無理はしてほしくない、だって縛っておきたいわけじゃないのだ。きちんとご飯を食べてくれたらなあ、って、そのくらいの気持ちなのに。それが林さんが無理をしなければいけないくらい重荷になっていたのだとしたら、いろいろと本末転倒だ。
「笹井さん、たぶんそれ、勘違い。」
「え?」
静かに頭を抱えて唸りだした私を見かねたのか、尾形さんが笑って肩を叩いてくれる。ちなみに尾形さんは本間さんの話を聞きながら炊き込みを食べて、おいしい、とつぶやいてくれていたから安心した。というか既にお椀の中のご飯が半分以下になっている。そのスピードに少しびっくりした。
「林さんは無理して食べに来てた、んじゃなくて、無理してでも食べたかったんだと思う。」
「そうそう。だから恥ずかしいって俺に口止めしたんだろ。」
「ん。私も少し、その気持ちわかる気がするもの。すごく美味しい。」
尾形さんの言葉に、本間さんも強く頷く。なんだかそれが嬉しくて、恥ずかしくて、私は咄嗟に顔を覆った。多分今、耳まで赤い気がする。褒め殺しは苦手だ。なのに何で私の周りの人はこんなにも私が恥ずかしくなるくらい優しい言葉をかけてくれるんだろう。
「照れんな照れんなって!」
「仕方ない仕方ない。だって事実だもの。」
そう言いつつ、尾形さんはぱくぱくと煮物を平らげていく。はっとして、急いで煮物と茄子を自分の皿に少しずつ取り分けた。くいっぱぐれてしまう。
「でもやっぱり恥ずかしいですよ…。」
「諦めろ陽子ちゃん。あいつは天然タラシなんだから。」
「…です、ねえ…。」
遠い目をして、炊き込みを食べる。人生で初めて作ったのだけれど、思ってたより出来はいい。安心してスープにも口をつける。確かに出汁がきいてるからクリームスープだけれど和食になじんでいた。それに安心してようやくひと心地ついた気がした。胸をなでおろしつつ、箸を進める。その脇で本間さんが、千絵ちゃん俺の分まで食べるなよ!なんて言いながら、だいぶ減った煮物、というか煮物の中の手羽先をかっ込んでいた。本当に肉好きなんだな。
尾形さんが実は大食いで、しかも早食いだということが判明した夜。二人が帰ってからの私の携帯に、林さんから、明日はお迎え行けるから、なんてメールが入っていて、その送信者名だけで少し照れてしまった。
ご飯を気に入ってくれてるのは分かっていたけれど。でもまさか、本間さんの話ほどだなんて、思ってもみなかった。嬉しい反面恥ずかしい。とにもかくにも、明日お迎えに来てくださる、ということは、明日は夜ご飯はたぶん食べられる、ということだ。多分本間さんにも話しちゃった、なんていっていじられるであろう林さんを、ひと足早く車の中でいじってみるのもいいかもしれない。
特別だなんては思っていない。私が林さんの特別だなんておこがましいし、林さんだけを特別に思っているということも恐らくはない。でも、それでも確かに、助手席の女性を見た時の衝撃は今やどこかに行っていた。だってどんな相手かも知らないし、知りたいとは思わない、とは、言い切れはしないけれど、でも。不確かなことにショックを受けているよりも、林さんが私のご飯をすごく気に入ってくれている、という事実の嬉しさのほうが大きかった。こんなに簡単に誰かのことで一喜一憂するなんて思ってもみなかったけれど、でも、会えると思うだけで高鳴る気持ちが、確かに私の中に芽生えていた。