第五章 複雑な心境は、時に本人すら解読不可能
林さんに大学帰りとバイト帰り、お迎えに来てもらう生活がスタートした。なんというか、不思議だ。とはいえ、そのお迎え生活二日目からまたしても撮影日だったりして、最早朝から気が重かったのだけれど。午前に一コマ授業を受けて、お昼を友達と食べたら撮影へ。今日とあと、明々後日の撮影でクランクアップの予定だ。もうそれが終わったらサークルを辞めようか本気で悩もうと思っていたりする。
「…おはようございます。」
新館脇の部室棟の一階の端が、映像制作サークルの部室だ。その隣に小さい更衣室があって、そこが控え室代わり。機材は部室と、新館にある顧問の研究室に一部保管していただいている。昼休みが終わってすぐの部室は、撮影に向けて機材の準備をする裏方スタッフがごちゃごちゃとしていた。その中に、松本くんの姿もある。横顔に条件反射で背筋が冷えたのは、仕方のないことだと、思う。
「おはよー、陽子!」
「先輩、」
無駄にハイテンションな先輩が背後から現れて、バシン!と音を立てて背中を叩かれた。スキンシップが痛いです先輩。
「あ、そうだ。先輩ー。」
機材のチェックに向かおうとする先輩を呼び止める。本当は私も着替えて準備をしなければいけないのだけれど、その前に先輩に言っておかねばならないことがあったのだ。
「この間言ってた、クランクアップの後の飲み会の話なんですけど。欠席でお願いします。」
「…はあ!?なんで!」
「なんでもさっても…。」
突然の私の言葉に驚いている先輩に、苦笑いを返すしかない。別に行きたくなかったわけじゃないし、林さんとも飲み会の予定があるからそこのお迎えはどうしようか、なんて話までしていたくらいなのだ。だけれど途中で気づいてしまった。サークルの飲み会、打ち上げ。私に彼氏がいないことはサークル内で知れ渡っているし、人をからかうのが好きな先輩が集まっているのがうちのサークルだ。限りなく面倒くさいし松本くんが参加していた場合、彼が今後私にどう関わってくるのかわからないけれど、不安要素からは逃げるのが得策かな、と。
「どうか、したの?」
「…撮影入る前に、少し相談してもいいですか。」
「…こっち来なさい。」
何かを察したらしい先輩の目つきが変わる。本当は準備に入らなければ今日の予定が押してしまう感じではあったのだけれど、それでも手を引かれるまま、部室を出た。連れてこられたのは、部室棟のすぐ脇の新館だった。新館の一階にはラウンジスペースがあって、そこの窓際の二人掛け席に促される。
「何があったの?」
「実は、ですね…。」
またこの話をしなければいけないのか、と胃の辺りが重く痛むのを感じながら、おずおずと口を開く。先日の撮影の後、松本くんに腕を掴まれた話。別に私は男性恐怖症で触られて怖かった、とかじゃない。松本くんがこのまままとわりついてきたらどうしようみたいな自意識過剰的なことを考えてるわけでもない。
過去にサークル内で、ファンからのストーカー被害にあった部員がいるのだ。だから恐怖を感じた場合には何らかの手を打つように、というのがうちのサークル内での暗黙のルール。彼がそこまでするのかはわからないし、そもそもファンができたのも初めてでどうしたらいいかわからないし、どこまでが恐怖の対象にすべきかも曖昧なのだ。とはいえ、初対面で腕を掴んでくる馴れ馴れしさは頂けないんじゃなかろうか、と。
不安要素を抱えたままではいたくないから、訥々と先輩にあるがまままを話す。それから、林さんと本間さんに助けられたことも。ここが説明に手間取った。ひとり暮らしのマンションの両隣のお兄さん達と仲良くなって面倒を見てもらってます、みたいな説明をして、それこそ危ないんじゃないかと本気で一瞬先輩に心配されてしまって慌てた。どう説明したらいいのか、ここはしばらく考える必要がありそうだなあ、なんて頭の片隅で考えつつ、昨日から林さんに迎えに来てもらっている、という部分までを先輩に説明する。話しきったタイミングで、それまで難しい顔をしていた先輩は、重いため息を一つ吐いた。
「まじかあ…。」
「まじです。」
「あーそう…松本くんが…うわあ。」
ため息の後、先輩は片手で頭を抱えて、何やら悶々としていた。話したことでどっと疲れた私は、先輩に失礼だとは思いつつも、背もたれにぐったりと寄りかからせていただいた。先輩は一体、何を悩んでいるんだろう。流石に悩み過ぎな気がする。
「…ごめん、陽子。」
「はい?」
「松本くんってさ…結構危ない子、なのよね…。」
「…はい?」
足を組み、その上で軽く手を組んだ先輩は、私と目を合わせることなく遠くを見つめる。その発言内容は私をフリーズさせるには十分すぎる威力を持っていて、思わず口元を引きつらせた笑みを浮かべて、わざとらしく小首をかしげてしまった。
「…あの子、チワワっぽい見た目して、結構粘着質な子なのよね…。」
「粘着質って…。」
「ストーカーまではいかなくても、結構やばいらしいって噂があるのよ。」
「…え。」
見た目だけで言ったらイケメンの部類に入るのだろう、というかかわいい系のチワワ男子といったところの松本くん。どうやら束縛魔で、DV疑惑とかストーカーまがいのことをしたとか、とにかく恋愛面でいい噂は聞かないらしい。見た目が見た目なだけに女子人気は高いのだけれど、誰も手を出そうとはしないのだとか。色恋沙汰にそこまで興味関心のない私は知らなかったけれど、そんな噂が流れるような男の子に目をつけられたって、あの時感じた恐怖感はあながち間違いじゃなかったということか。先輩の話に、冷や汗が背筋を伝う。
「…手っ取り早く、彼氏が居るってことにすればいいんじゃない?」
「へ?なんでですか。」
「まだ陽子は松本くんの何でもないんだから。彼氏が居るってなれば手を出してこないでしょ!」
「…はあ。それで上手くいきます?」
「どうにかする!」
ぐっと親指を立てる先輩に、がくりと肩を落とす。この人に真面目に相談をした私が馬鹿だったんだろうか。なんて思ったのもつかの間、ぎこちない素振りで、手のひらがぽん、と降ってくる。
「大丈夫、その…隣人さん?達も守ってくれるんでしょ?あたしも頑張って守るから。安心なさい!」
「…はい。ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします。」
優しい先輩の笑みは、私を心配するものだった。それでいて、安心させようと必死なのが伝わって来る、そんな柔らかな表情。そんな風に思われて、守られて、ああ、幸せだなあ、と思う。迷惑をかけてしまっている事実は心苦しいけれど、それでも周りの人がいてくれる限りはどうにかなる、気がした。
「さ、戻って撮影するよ!」
「はーい。」
元気よく腕を振り上げる先輩に倣って、勢いをつけて椅子から立ち上がる。部室に戻れば、既にすっかりと準備は整っていて、あとは私の身支度だけという状況だった。あの、すみません、本当に。
「ごめんねー、打合せしてたら長くなっちゃった!」
「すみません、急いで着替えてきますっ。」
にか、と笑う先輩の言葉に、どこに行っていたんだと言わんばかりだった周りの視線が納得したように柔らかくなる。駆け足で控え室に飛び込めば、メイクを手伝ってくれる部員が、急ぐよー!なんて言いながら一緒に入ってきて、ぎゃあぎゃあと騒ぎながら超特急で準備を済ませた。
そこから先輩と話し込んでいた時間分を取り戻すように撮影が進んだ。とはいえ少し余裕を持って先輩が組んで下さっていたスケジュールのおかげで、そこまで切羽詰った状況にはならなかった。それに加えて、既に先輩が撮りたい作品の雰囲気だとかをなんとなく私自身も把握し出していたおかげで、ミステイクもほぼなく順調に進んだ。カットにこだわって何度も撮ったシーンももちろんあったけれど。
「はい、じゃあ今日はここまでねー。」
「お疲れ様でしたー!」
「お疲れ様です。」
夕方。日差しが傾き出した頃、本来の予定よりもワンシーン多く撮って、今日の撮影が終わった。あとは明々後日の撮影が順調に行けば、そこでクランクアップできる。予定通りに行きそうだと先輩と笑い合って、私は控え室へ戻る。着替えて、化粧も直して、巻いていた髪もポニーテールに結び直してしまう。そこまでしてようやく、肩の力が抜けた。
林さんに撮影が終わった旨をメールしつつ控え室を出れば、前回は撮影終了と同時にデータ編集に消えてしまっていた先輩が、機材を片付けている面々と共に残ってくれていた。機材を片付けているメンバーに目線をやれば、案の定松本くんもいた。多分それが理由なんだろう。
「連絡した?」
「はい。多分、すぐに来てくださると思います。…あ、ほら。」
控え室を出てきた私に、すっと近づいてきてくれる先輩。林さんのことを問われたのとほぼ同じタイミングで携帯が鳴って、今行く、とだけ書かれたメールの受信を知らせる。その画面を先輩に見せれば、良かった、と微笑まれた。
「一応心配だし、来てくれるまであたしも一緒にいるわ。」
「すみません…。」
「いいの!原因の一つは、あたしが陽子に被写体依頼したことじゃない。」
「…自覚はあるんですね。」
「…ごめん。」
冗談めかして言う先輩だけれど、実際問題それがきっかけなのだ。むう、と唇を尖らせてじろりと見やれば、ぎくりと先輩の肩が揺れた。その揺れる先輩の肩の向こう側、こちらを伺う松本くんの姿が見えて、ぞくりとする。
「どうした?」
「…いえ。」
ふっと先輩の顔色が変わる。何かを察したらしい先輩に、それでも言葉にするのもはばかられて、言葉を濁した。それと同時に林さんからメールを受信する。この間と同じ場所でいい?と確認を取るメールに、お願いしますとだけ返して、携帯をカバンにしまいこんだ。
「もう着くみたいです。」
「よし、じゃあそこまで送るわ。」
「ケヤキの辺りまでいらして下さるので、別に大丈夫ですよ?」
「いいから、いいから。」
先輩に背中を押されて、前回林さんに迎えに来てもらった辺りに向かう。するともう林さんは到着していて、ケヤキの下に設置されているベンチに腰掛けてぼんやりとしていた。それを見て、思わず先輩を置いて走り寄ってしまった。
「林さん!」
「あ。お疲れ様ー。」
にこ、と笑って小首を傾げて、林さんはこちらに手をひらりと振ってくれる。数メートルを全力疾走して近づくと、転ぶよ、なんて私を落ち着かせながら、林さんは静かに立ち上がった。
「すみません、お待たせしてしまって…。」
「大丈夫、待ってないから。」
「いや、それでも…!」
うわあああ、と頭を軽く抱えて申し訳なさに身悶えていれば、後ろで先輩が笑う声が聞こえた。多分私の様子が珍しかったからだとは思うけれど、笑い事じゃないのだ。振り返ってギロリと睨めば、ごめん、とわざと作った怯えた声で返された。それはそれで腹ただしい。
「…えっと、」
「あ、サークルの先輩です。」
「…あー‥どうも。」
「初めまして。陽子がお世話になってます。」
「先輩、微妙にリアクションおかしい気がします。」
私の背後に控えていた先輩に気づいた林さんの表情が、静かに固まる。これは多分、人見知りを発動しているのだろうなあ、と思いつつ、先輩を紹介すれば、小さな声で先輩に挨拶をして頭を下げる林さん。と、まるで親のようなリアクションをする先輩。思わず真顔に戻ってツッコミを入れてしまった。
「いやいや、おかしくないでしょ。だってあたしの可愛い後輩の彼氏ともなっちゃあねえ。」
「…は!?」
いきなり先輩は何を言い出すのか。林さんは彼氏じゃない、というかこんな私みたいなのが彼女とか失礼すぎるだろう。撮影前の話聞いてました?と、先輩にツッコミを入れようとしたときだった。先輩の肩の向こうでこちらを窺い耳をそばだてているのだろう人影。はっとするのと同時、先輩はしたり顔で片目をパチンと閉じてみせる。口パクで、口裏合わせて、と告げられ、状況把握の追いつかない私の隣、林さんは一瞬目を丸くした後で納得したように少しだけ微笑んだ。
「こちらこそ、お世話になってます。」
「いやーでも話で聞いてたより格好良い!そりゃ陽子もメロメロになるわけだわ。」
「先輩…、」
「わざわざ送り迎えしてくれるとかラブラブ!こんなラブラブな二人に割って入ったらそれこそお邪魔虫よねー。」
若干居たたまれない。若干というか激しく居たたまれない。林さんは薄く苦笑いを浮かべて固まっていた。 とはいえこれで先輩の言っていたような効果が得られるのなら耐えるしかないのかもしれない。そう思って林さんとそっと目を合わせて、苦笑いを深くした瞬間だった。
「すみません、」
こちらをひたすらに窺っていた松本くんが、恐る恐るといった風に近づいてきた。これはもしかしてアレですか、誤解をわざとさせて被害を抑えるとかそういう戦法ですか先輩。ちらりと見やった先輩はニヤリと人の悪い笑みを浮かべていたから、十中八九そうなんだろう。
「お?どうしたのよ松本くん。」
「…付き合ってるって本当?」
目線はしっかりと私を捕らえていた。その視線に、まずい、と思った。先輩の作戦はきっと、成功すれば今後の自分の安泰は確保できるであろうものだ。だけれどここで頷いてしまえば、先輩の作戦を知らない林さんは困惑するだろうし、それ以前にお迎え云々以上の迷惑をかけてしまう。どうしよう、一瞬の間に思考がぐるぐると渦巻き、冷や汗が背筋を伝った瞬間だった。
「…そうだけど。」
ぽん、と背後から私の両肩を抱く、大きな手のひら。それが林さんのもので、松本くんの質問に答えたのが、背後の林さんだと気付くまでに時間はいらなかった。理解には多大なる時間を要したけれど。
「この間ので分かんなかった?」
「っ…!」
刺のある、林さんの冷めた声。触れられた肩から伝わる体温は暖かいのに、振り向かなくても分かる冷たい雰囲気。それに気圧されたのか、何も言わず松本くんは唇を噛んだ。それから誰に対してかは上手く判別できなかったけれど、軽く会釈をしてそのまま走り去っていく。その後ろ姿を三人で見送って、一番最初に張り詰めた空気から脱力したのは、林さんだった。
「今ので、反応…あってた?」
「合ってました合ってました!いやーありがとうございます!」
「……。」
「ん?笹井さん、大丈夫?」
「わっ…大丈夫、です。」
大丈夫だった?と小首を傾げる林さんと、それに拍手しそうな勢いの先輩。それと、状況把握がうまくできていない私。今起こった事態にリアクションも取れずフリーズしている私を心配して、林さんが顔をそっと覗き込んでくる。そのあまりに近い距離に驚いて声を上げて、ようやく私も動き出すことができた。
「…えっと、」
「あれでうまくいったのかな?」
「大丈夫でしょ。多分。ナイス演技でしたもの。」
「…どーも。」
私がフリーズしている間に林さんと先輩の話は一段落付いたらしくて、まだついていけていない私の顔をのぞき込んで、林さんは苦笑いを薄く浮かべた。そして頭をぽんぽん、と優しく撫でて、帰ろうと促してくれる。それにまだフリーズが抜けきっていなくてぼんやりしたままの私は、促されるまま駐車場へと足を進めた。後ろでお疲れ、と声をかけてくれた先輩に辛うじて会釈は返せたけれど、車に乗り込むまでぼんやり感は抜けなかった。
「…大丈夫?」
「…何とか。」
気遣わしげな林さんに、どうにかこうにか笑顔を返して、そこでようやくどっと気が抜けた。恐らくは、ぽん、と乗せられた林さんの手のひらにほっとしたからだろう。
「…あの、」
「なに?」
「すみません、でした…。」
顔を見て、謝れはしたけれど。どうしたの?と小首を傾げる林さんの優しい表情に、思わずうつむいてしまった。迷惑をまた、かけてしまった。先輩の突発的な回避策に、瞬間的に乗ってくださった林さんの状況判断の素早さには感服するしかないのだけれど、なんというか、申し訳なさだとか、諸々の感情が喉の奥に張り付いたみたいだ。うまく、言葉にならない。
「あの一言で、笹井さんが怖い思いをしなくて済むようになるなら、僕はそれでいいよ。」
「!」
「笹井さんが怖い思いをしたり、そういうのが、僕は嫌だから。」
ぽん、と乗せられたままだった手のひらがそっと髪を梳く。その感触が優しくて、思わず涙が浮かびそうになった。
「念のため、まだ暫くは迎えに行くけど。でもこれで、落ち着けばいいね。」
「…はい。ありがとうございます。」
ふわり、と私を安心させるような、林さんの柔らかい笑顔。それにやっと私も笑うことができた。きっと、少しばかり歪な表情ではあったと思うけれど、それでも、どうにか笑えた。私の言葉に、うん、とひとつ頷いて林さんはもう一度だけ私の頭を撫でる。優しい手のひらの、温度。ささくれだっていた心ごと宥めるように触れるその指先に、細く息を吐き出した。強ばっていた肩の力が、ゆっくりと抜けていく。
「…帰ろっか。」
「はい。」
シートベルトを私が締めたのと同時、エンジンがかかる。心地よい振動と共に、ゆっくりと動き出す車体と窓の外の景色。大学から車が離れていくのを眺めながら、私はそっとシートに深々と体を預けた。
隣で運転をする林さんを、ちらりと伺う。微かにかかる音楽に、小さく指先でリズムを取りながらハンドルを切る横顔。迷惑をまた、かけてしまった。そう後悔するけれど、でもこれで事態が沈静化すればお迎えという林さんの負荷を早い段階でなくすことができる。そう思えば、少しだけ気持ちが軽くなった。迷惑をかけ続けることと、一気に大きな迷惑をかけてダラダラと長引かせないこと。どちらがいいかなんて分からないけれど、でもそう思うしか自分を納得させられない気がした。
考え込みながら眺めていれば、ついつい見つめすぎていたようで。どうかした?とこちらに視線だけよこしながら問う柔らかな林さんの声に、急いで首を振った。何でもない。そう言いつつ、前を向く。それならいいんだけど、と恐らく微笑んでいるんだろう林さんの声を聞きながら、悩む。
お迎えという林さんの負荷を早期に減らせるであろうことが心から嬉しいのは、事実。だけれど何故、心の奥底で何かが引っかかるんだろう。横顔を見つめる時間が好きだと思ってしまうのは、何故だろう。貴重な瞬間だから、だろうか。それにしてもざわつく心臓を持て余して、でも溜め息を吐くこともできなくて、一瞬、呼吸が詰まった。
◆
結局、お迎え生活は今後も持続していくことが決まった。無論、毎日ではない。アルバイトで帰りが遅くなる日などに限定してのことだ。林さんの機転の速さに救われ、松本くんの一件はその後、予想以上に早く収束した。
クランクアップ後の飲み会に、林さんと本間さんの行っておいで、の一言に背を押され、参加したところ。先輩がどうやら他の先輩やら部員やらにも言いふらしていたらしく、私に彼氏がいない、というお決まりのネタでいじってくる人が一人もいなかったのがそもそも。というかそれ以前に、考えれば今までそのネタでいじられ続けて、よく耐えていたなあ、と感慨深かったりもするのだけれど。
とにもかくにも、いじられなくなった私のところに、松本くんが自分から寄ってくることもなく。逆に先輩が、どうしたの?なんてわざと焚きつけていて、それに対して松本くんが、自分はただファンなだけだから、と、頑なに近寄って来ようとはしなかった。その姿に、心底ホッとしたのだ。おかげでその日は安心して飲むことができて、迎えに来てくれた林さんに報告すれば、よかったね、と微笑まれた。
「長引かなくて、本当に良かったね。」
「はい。これで安心できます。林さんのおかげですね!」
「そんなことないよ。」
久しぶりにいい具合に酔っ払って、いつもよりも饒舌な私に、林さんは微笑ましいと言わんばかりの表情だった。くすくすと小さく笑う横顔が、とても綺麗だった。
「ねえ、笹井さん。」
「はい。」
「お迎えの必要はなくなったかもしれないけど、これからも僕が迎えに行ける時は、行ってもいい?」
「…へ?」
最初、林さんが何を言っているのかわからなかった。きょとん、と大きく疑問符を浮かべて小首をかしげれば、ああ、と納得したように林さんはひとつ頷く。曰く、夜道は危ないから、と。帰りが本当に遅くなった時だとか、それか帰りに買い物に寄る時だとか。林さんがお仕事じゃないときだけでも、迎えに来て下さる、と。
夜道が危ないのはわかるけれど、それでも、なぜそこまでして下さるんだろう。説明を聞いても、やっぱり納得はしきれなくて、そんな私の様子に、林さんは苦笑いを浮かべた。物分りが悪いと呆れられたのだろうかと思いきや、そんな私のマイナス思考をどこかへ追いやるように、運転席から伸びてきた手が、私の頭を撫でる。ポンポン、と心地よいリズムに、思わず目を細めた。
「言ったでしょ?もっと僕のことも頼ってって。」
「それって、」
「本間さんはバイクしか乗らないし。お迎えには向かないでしょ。」
つまるところ。お迎えという観点で絞れば、頼れるのは林さんだけだから、そういう場面こそ頼れと、そういうことだろうか。都合よく解釈している気がしないでもないけれど、でも、少なからずアルコールの回ってる相手に話してるんだから、林さんだって都合よく解釈されるだろう可能性は把握しているはずだ。これもまた希望的観測だけれど。でも、そんな風に言われたら。頼りたくなってしまう、甘えたくなってしまう。
「…良いんですか?甘えちゃっても。」
「良いから言ってるの。」
ダメ押しで、ね?と微笑まれて。もう何も言えなかった。ありがとうございます、と、アルコール以外の理由で赤くなった頬を隠すように俯きながら伝えるのが精一杯だった。何故だろう、異様に、照れる。
本間さんとはまた違った感覚だけれど、それでも林さんとも打ち解けられて、ある意味では松本くんの騒動は起爆剤になったのだろうか。そんなことを結果論的に考えた。もっとも、林さんと本間さんに迷惑と心配をかけてしまっているから、もっといい起爆剤だったら良かったのに、と歯噛みしたのは言わずもがな、である。