第四章 守られるヒト
私の趣味は、写真を撮ることだ。相棒は大学入学と同時に始めたバイト代で買った、そこそこのお値段のカメラ。個人では写真しか撮らないけれど、サークルは映像制作の団体に所属していたりする。無論、撮る側・機材担当としてはいった。機材担当、だったはずなのだけれど。
「…え、また?」
「ダメかなあ?陽子にやって欲しいんだよー!」
ここ一年ほど。私の元には被写体の役割しか回ってこない。あっちで音響いじってる男の子は確か被写体志望だったはずだけれど、一度も被写体やってるの見たことないんだけれど。どういうことなの。
「ダメっていうか…他にいないの?」
「いや、いるっちゃいるけど…。」
「じゃあそっちに回してよー…。先輩のサイレントに出るだけでも譲歩したんだから。」
ぴしゃりと言いきれば、私の前で手を合わせていた同学年の部員はすごすごと引き下がっていった。私の手元には今日これから撮影に入る、先輩がメガホンを取るサイレントのミニシネマの台本が握られている。台本といっても台詞はないし、出演者も私しかいないから、ようはプロットなのだけれど。
「…はあ。」
カメラを回したい。自分に焚かれるストロボなんて求めてはいないのだ。何がどうしてこうなった。一度、どうしても人数が足りないと先輩に頼み込まれて被写体をやってからこれだ。被写体の依頼ばかりくるのが嫌で、それまで真面目に出席していたサークルを休むようになった。今日だって本当は来たくなかったのだけれど、お世話になっている先輩の引退作品だからどうしても、と頼み込まれて渋々顔を出しただけだ。本当は、被写体なんてしたくない。
「陽子~…ごめんね。」
「先輩、」
不意に、視界に降ってくる背の高い影。顔を上げれば、私がここにいる原因を作った先輩が、苦笑いを浮かべてこちらを見ていた。思わず眉間にしわが寄る。
「謝るならそもそも呼ばないで欲しかったです!」
「だってさあ、陽子しかいないって思ったんだもん!」
「だもん!じゃないですよ!!」
悪びれない先輩の態度にいらだって、半ば怒鳴ってしまう。むう、と唇を尖らせれば、拗ねたと思ったのか先輩は私の隣に腰を下ろした。ええ、拗ねてますとも。機嫌を取るように髪を撫でる先輩の手のひらは、少しばかりぎこちなかった。丁寧というか、柔らかな仕草なのだけれど。
「ごーめんって!でもあたし、陽子の演技好きなのよ。それじゃあダメ?」
「…私なんかの大根演技のどこがいいのか理解できません。」
「大根って…そんなのただの主観じゃないの。」
「先輩、眼科行って下さい。」
先輩は私に機材の使い方や、画面の切り取り方なんかを、理論も交えて一から教えてくれた恩師みたいな存在だ。でも被写体だけはもう二度とやりたくないごねる私に、何度となく依頼を持ちかけてくるあたりひどい。
演技を習ったことなんて一度もない。だから私の演技はド素人のレベルだ。演技を高校とか中学からやってきている子たちと比べるまでもない。大根役者としかいいようのない私なのに、何故か先輩は私の演技が好きだという。理解できない。恐らく私がすっぽかさずにきちんと顔を出したが故に機嫌がいいのだろう。にこにこと満面の笑みを浮かべている先輩に溜め息を吐いた。
「で、いつになったら撮影にはいるんですか?」
「実はそれで声かけにきたのよ。」
「そうだったんですね、…ってそれなら一番に言いましょうよ!」
のんびりとした調子の先輩に、思わず肩を落とした。こうしてぼんやりしている時間ももったいない。早く始めて欲しい。じろりと先輩を見やれば、
今度こそまずいと思ったのか、全力で手を合わせられた。
「お疲れ!」
「お疲れさまです…。」
授業のない平日の朝からスタートした撮影。終わったのは日が暮れた頃だった。どっと疲れて椅子にぐったりと座り込んだ私に、先輩が声をかける。それに応える私の声の低さから疲労を察したらしい先輩がぎょっとした顔をした。すみません先輩、笹井は限界を超えました。
「大丈夫…?」
「…全く持って大丈夫じゃないです。」
げっそり。そんな言葉が恐らく今の私には当てはまる。今晩こんな状態で夜ご飯作れるのかな、私。そんなことを考えながら、疲労も相まってぼんやりしていると、先輩が見かねたように言った。
「ご飯でも食べにいく?」
「…あー、すみません。夜は、ちょっと。」
「?」
用事があるわけではなくて、ご飯を作らなければならない、なんてどう説明したらいいのか。せめてもう少し早い時間に誘ってもらえたらよかったのだけれど、さすがに今二人に連絡をするには遅すぎる。それにきっと、林さんが楽しみにしているはずなのだ。今日の夕食は、この間約束した煮魚。作らないわけにはいかないじゃないか。
「まあ急だし、仕方ないか。クランクアップの時は打ち上げやるから、予定空けておいてよ?」
「了解です。すみません、先輩。」
「いいよー。じゃあ、気をつけて帰りなさいねー。」
「はあい。」
肩を竦めた先輩が遠ざかっていくのを見送って、重い体を持ち上げる。当たり前だけれど、今日は控え室は私専用だ。のろのろと着替えて、メイクをし直す。撮影中何度も直していたから、すさまじく厚塗りになっている箇所もあったりして気持ち悪い。というか、普段と違うメイクなのが落ち着かなかった。撮影用におろして巻いていた髪はとりあえずハーフアップにだけして身支度を終えると、控え室を後にした。
「あ、笹井さん。今帰りー?」
「…え?ああ、うん。」
パタンとドアが閉まる音に反応したのか、機材を片づけていた男の子が一人、振り返る。すごくいい笑顔で問われたのだけれど、誰だろう。名前を知らない部員、つまりはほぼ関わりのないメンバーなのだけれど、驚きすぎてうまいことリアクションができなかった。というかなんで名前知られているんだ。
「今日はお疲れさま!」
「…お疲れさま。」
「あ、駅までよければ送ろうか?俺、バイクなんだよね。」
「え、や、あの、」
「ちょっと待っててね!今ヘルメット取ってくるから!」
「え、ちょ、待っ…!」
名前のわからない男の子は、勝手に話を進めてどこかに消えていった。あまりの唐突さと、こちらに反論させないと意図するようなスピード感のある会話にしっかり取り残された。ほぼ初対面のはずだ。とりあえず誰だお前。そんな疑問符を浮かべつつ、断るにしてもまずは彼を待たないといけないだろう、と小さく溜め息をもらした。
「笹井さんごめんね!お待たせ!」
はい、と手渡されたヘルメットを、静かに受け取りを拒む。え?と不思議そうな顔をされたけれど、そんな表情を浮かべたいのはこっちだ。向こうはこちらを知っているようだったけれど、私はそうじゃない。多分まともに話したことはないはずだ。だから名前を聞くのも、そこまで失礼ではない。と、信じる。
「あの、…誰?」
瞬間、目の前の男の子は綺麗にフリーズした。とはいえフリーズしたかったのはこちらだ。誰だよ、と。そして何で私を知ってるんだ、と。疑問符は苛立ちに変わる。思わず溜め息を漏らせば、男の子の肩が揺れた。
「怒らせちゃった…?」
「怒ってないよ?ただ理解は追い付いてないけど。」
どうしたものか。困った、と頬を掻けば、目の前の男の子は居心地悪そうにしている。申し訳ないけれど、その仕草は本当は私がしたいやつだ。
「えっとね、俺、笹井さんのファンなんだ。」
「…は?」
「松本、って言います。覚えてくれると嬉しいな。」
にこり。笑った男の子、もとい松本くん?の発言は私の予想のはるか斜め上を行くものだった。フリーズする。チワワっぽい雰囲気の可愛らしい男の子なんだけれど、とりあえず接点はないはずだ。というかこういう一般的に女の子ウケの良さそうな男の子との交流は実は私、皆無だったりする。という訳で、何故彼が私のファンなのかとか、何故名前を知っているのかとか、そもそもの疑問は解決されないまま、むしろ謎が深まってしまった。ごめんね松本くん、せっかく名乗ってくれたのに。
「先輩の去年の夏の作品に出てた笹井さんを見て、それでファンになったんだ。」
「えっと、その…ありがとう?」
「なんで疑問系なの?」
「いや、その…。」
困った。非常に困った。グイグイくる感じの人は苦手だ。松本くんは顔に似合わずグイグイくるタイプらしい。会話のリズムもうまいこと取れないし、早く帰りたいし、送って欲しくなんかないし、というかもう逃げ出したい。どうしたらいいんだろう。
ヘルメットをちらりとこちらに見せてはにかむ松本くんは、まだまだ私を駅まで送る気でいるらしい。どうしようか。正直言って、この数分間で勝手ながら苦手意識を持ちつつある相手と一緒に駅までの距離、ツーショットはメンタル的に厳しいものがある。特に、撮影の後という既に満身創痍気味な今は。半泣きでいると、まるで私を助けるようにマナーモードに設定していた携帯が、着信を知らせるべく低く唸った。
「あ、いいよ。出て?」
「ごめんね。…はい、もしもし。」
目の前の松本くんに気を遣いつつ、そっと後ろを向いて携帯を開く。表示されていたのは本間さんの名前だった。恐らく予定より帰りの時間が遅いのを心配してくれているのだろう。
「陽子ちゃん?今大丈夫か?」
「大丈夫です…。」
「元気ないな。疲れてるんだろ。」
「あはは、…まあ。」
電話越しの本間さんの明るい声にホッとする。背後でまるで聞き耳を立てているかのような松本くんの気配は気になったけれど、それでも有り余るほどの安心感だった。どうやら少なからず私も人見知りの要素があったらしい。この間、尾形さんには人見知りでないことを褒められたのだけれど。
「陽子ちゃん…何かあったのか?」
「えっと、あー…なんて言えばいいのか…。」
不意に本間さんの声のトーンが低くなる。どうやら私の声音から、何かを察したらしい。でも背後にその原因とも言える松本君がいるこの状況で、何があった、という具体的なことを言える訳もなく。言葉を濁していると、ちょっと待ってろな、という優しい声がした。
「今日、大学って言ってたよな?帰りに買い物寄るって言ってたし、とりあえず今さっき善博が迎えに行ったから。」
「え、」
「何かあったならまだ大学だろ?善博には言っておくから。」
じゃあな、と私の反応も待たずにプツリと切れる電話。状況は今二つほど把握しきれていないけれど、とりあえず林さんが来てくれる、という事だけはわかった。少しばかりポカン、としつつ携帯をポケットに突っ込めば、松本くんが声を上げる。
「どうかしたの?」
「いや、別に。何もないよ?」
「そう?あ、じゃあ、はい。送るから!」
いやだから私送ってもらうの了承していないから!そんな心の叫びも虚しく、無理やりヘルメットを被せられそうになる。ちょっと待てこれ、グイグイくるタイプとかそれ以前の問題で危ない気がする。恐怖心が募った。
「っ、送ってもらわなくて大丈夫だから!」
「でも疲れてるでしょ?」
「だからって、流石に初対面の人に送ってもらうのは…っ!」
渾身の力でヘルメットを持って近づいてくる松本くんの手を振りほどく。気づけば松本くんともう二人いたはずの機材を片付けていた男の子は消えていた。ということは林さんが大学に着くまでの間、私このまま一人で攻防を続けなければいけないんだろうか。大分厳しい気がする。
「…俺が怖いの?」
手を振りほどいた瞬間。ぽつりと呟かれた松本くんの声に空気が凍った気がした。ぞわりと背筋に嫌な汗が伝う。が、そんな緊迫しかけた空気を、ポケットの中で騒がしく唸るバイブレーションが破った。ナイスタイミング!携帯を取り出せば、そこに表示されていたのは林さんの名前だった。今度は松本くんに確認は取らずそのまま出る。
「あ、笹井さん?林です。今大学着いて…どこにいるの?」
「新館脇のケヤキの近くの…って、分かります?」
「大丈夫、前にここ来たことあるから。ちょっと待ってて。」
プツン、と切れた電話。どことなく林さんの声は常になく焦っているようだった。もしかしたら本間さんが何か、林さんに言ったのかもしれない。大学にいることも本間さんが伝えたのだろうし、十分に考えられる。さて、目の前の松本くんをどうするか。
「誰から電話?」
「言う必要はないでしょう?」
「あるよ。だって俺は知りたい。」
「…えー…。」
何だそのジャイアニズムは。思わずそれまでの恐怖心は霧散して、真顔でふざけたことを言う松本くんに対して半目になってしまう。これは、なんというか。面倒な人に目をつけられたとかそんな落ちですか。どうしてこうなった!そもそも私、被写体なんてやりたくないからファンだって別に要らないんだけど。私の撮る作品に対して、のファンなら大歓迎だけれど。
「笹井さん!」
「っ、林さん!」
逃げ出したい。本気で後退りをした瞬間だった。聞き覚えのある声が私を呼んだ。と、同時に右腕をぐっと掴まれる。振り返れば走ってきてくれたのだろう、髪を乱した林さんが、私の腕を掴んで心配そうな表情を浮かべていた。前髪が分かれていて珍しく露わになっている額に、うっすらと汗が浮かんでいる姿に、どれだけ心配をかけてしまって、どれだけ林さんが急いで駆けつけてくださったのかがわかるようだった。
「…誰。」
ぽん、とぎこちなく頭を撫でてくれる林さんの手のひら。本間さんの手とは違うけれど、同じように安心するその感覚にそっと息を吐けば、穏やかになりかけた空気を目の前の松本くんが鋭く揺らした。じと、と林さんを睨みつける視線が怖い。思わず背筋に冷たいものがひやりと伝ったけれど、それを察したのか、ごく自然な動作で林さんが私をその背に隠してくれた。林さんの思っていたよりも広い背中以外、何も見えない。
「この子に何の用事?」
「質問してるのは俺なんだけど。」
「それに答える義理はないでしょ。」
ピリピリとした空気を感じる。林さんが松本くんに問う声はひどく冷め切っていた。こんなに冷たい声は聞いたことがない。自分に向けられた声ではないのに、少しだけ胃の辺りが冷えて鈍い痛みを覚えた。恐怖心なのか、緊張なのかなんなのかはうまく自分でも判別がつかない。
「…笹井さん、帰ろう。」
「っえ、あ、…はい。」
「ちょっと!」
「何?」
何も答えない松本くんにしびれを切らしたのか、林さんが私の方へ向き直る。とはいえさりげなく松本くんを視界から追いやってくれている。それに安堵して頷くと、恐らく林さんの視線から解放されたためなんじゃないのか。松本くんが声を上げる。林さんの鋭い視線は人を縫い止めるような力があるから、それから解放されて初めて声を上げた松本くんのリアクションに、対峙していた二人の状況…林さんの背中で守られていた情景をだいたい把握した。
「笹井さんは俺が、」
「駅まで、でしょ?家まで僕が送るから。」
「わっ、」
突然抱き寄せられた肩に、思わず声を上げてしまう。気づけばぎゅ、と強すぎないけれど振りほどけない程度の力で、林さんの腕に肩を抱かれていた。理解した途端、頬に血が集まったのがわかった。恐らく、赤くなっている。
「なっ、」
「元々今日は僕が迎えに来る予定だったの。…もう良い?」
「っ!」
ぐ、と私を抱き寄せる林さんの力が強くなる。と、同時に、松本くんは声にならない声を上げて、どこかへと走り去っていった。揺れるヘルメットの影と共に、消える松本くんの影。恐らくバイク専用の駐車場に向かって行ったんだろう。あの方向には確かそれしかない。ぼんやりとそれを林さんと二人で見送った。
「…あっ、」
「へ?」
松本くんの後ろ姿が完全に視界からフレームアウトした瞬間、林さんが声を上げる。その少しだけ高い声に、ん?と顔を上げれば、耳元まで薄らと赤くなった林さんと目があった。と、気づく。さっきまで私の肩を抱いていた腕が、離れている。
「っ…!」
「あの、その、…ごめん…っ。」
今さっき肩を抱かれた瞬間よりも、今の方が恥ずかしいのはなぜだろう。顔が熱い。さっきよりも確かに顔が赤くなっているのがわかる。でも目の前の林さんも頬を染めて、どうしよう、といった風にテンパっているのが見えて、なんだか瞬間的に和んだ。羞恥心は消えないけれど。
「や、あの…大丈夫です…。」
「…本当?」
「はい。…というよりも、すみませんでした!」
「ん?」
お互いに恥ずかしかったことは脇にこの際避けておいて、何はさておき、私は勢いよく頭を下げた。無論、林さんにだ。林さんはぽかんとした顔をしているけれど。
「迷惑をかけてしまって…。」
「ああ、それこそ大丈夫だよ。」
ぽん、と手を打った林さんは、本当に何でもなさそうに笑う。いいのに、と微笑む姿に、なぜだか泣きたくなった。だって私なんかのために、文字通り駆けつけてくれたのだ。私を安心させるように笑いながら髪を軽く手櫛で整えている林さんに、申し訳なさだけが募っていく。というか本間さんにも心配をかけてしまっただろうし。一体全体、私は何をやっているんだろう。
思わずこぼれたのは、深い溜め息。きゅ、と目を強く瞑る瞬間、視界の端で林さんが手をきつく握り締めるのが見えた気がした。
「笹井さん、帰ろっか。」
「はい。」
俯く私にかけられる声は優しい。恐る恐る目線を上げれば、苦笑いの林さんと目があった。そのまま駐車場まで二人、特に会話もなかったけれど並んで歩く。もっとも、会話がなかったのは私が終始うつむいていたのが原因かもしれない。
駐車場でこれ、と指されたのは白い車だった。免許も持っていないし特に車に興味があるわけではないから具体的な車種なんかはわからないけれど、でも確実に高いんだろう車。マンションの駐車場は少し歩いたところにあるから、駐車場を使わない私は、初めて林さんの車を見た。というか運転する林さんが今ひとつ、想像できない。だからちょっとリアクションが薄かったかも、しれない。
「乗って?」
「はい。あ、お邪魔します…。」
リモコンキーで鍵を開けた林さんに促され、助手席にお邪魔する。後部座席のシートは何やら荷物で埋まっていたから、助手席に座ったのは必然的だ。父以外の男性の運転する車の助手席に座るなんて生まれて初めてで、特に何があるというわけでもないのに、少しだけ緊張した。
「…大丈夫?」
「っ、はい?」
シートベルトを締めた瞬間、声がかかる。少しだけびっくりして声が裏返ったのだけれど、林さんはそこには突っ込まないでいてくれた。けれど、すごく心配そうな真っ直ぐな目が、私をしっかりと見つめていた。
「何があったの?」
「…。」
答えたくない。自分の不甲斐なさをより鮮明にするようで、言葉にするのは正直はばかられた。だけれど迷惑をかけたのに、答えないわけにもいかない。それに恐らく、林さんは話をしない限り車を出す気はないんだろう。シートベルトも締めず、こちらを向く林さんの姿に意を決して、私は小さく息を吸った。
「さっきの彼…松本くん、っていうらしいんですけど。私のファンだとか何とか…。」
「…ファン?」
怪訝な顔を浮かべる林さん。そりゃあそうだ。林さんみたいなお仕事をしている人間でもない、ごくごく一般的な女子大学生に普通ファンなんていない。そのリアクションは正しい。そして自分に火の粉がかかるまでは、正直に言って林さんと同じような反応だった。。だからそのリアクションはよく分かる。溜め息を一つ吐いて、私はそもそもの説明からすることにした。
私が所属している映像制作団体は、割と人気の高いサークルだ。学園祭の時には必ず上映会を行って、かなりの人が詰めかける。定期的、というか夏と冬に部員だけで運営する自主上映会も行ったり。そちらはチケット代とパンフレット販売で成り立っている。去年と一昨年は確か、夏も冬もパンフレットが完売したはずだ。ミニシネマのクオリティを、最低限下げないこと。それくらいしか規定はなくて、何を撮るのも自由なサークル。時々、年齢制限の必要なグロい作品がいたりもする。だいたい自主上映会に出品できるのは上級生だけで、下級生は学園祭に向けて腕を磨き撮影する。今回私が出演するのは、四年生の先輩が夏の上映会に向けて撮っている作品だ。ちなみにあと二日の日程でクランクアップする、予定。
最低限のクオリティのミニシネマを作り上げる。ともすればそれは、求められるのは監督の腕や編集、機材スタッフの力だけではない。無論、演者の演技力だって当然求められる。確か、三代前の先輩で、舞台女優になった方がいたとか。とにかく過去にプロの女優や俳優が出ていたりするサークルなのだ。つまるところ、未来のスターを応援したい、というようなファンがつくことがある。ファンが多い演者はそれだけで撮影する側からも人気で、中々出演の交渉ができないということもある。尤も、そこまで人気の出る子も珍しいけれど。だから演者を一度やってしまうと、好むと好まざるに関わらずファンが生まれる可能性があるのだ。とはいえ、今回の松本くんみたいにサークル内で、というのは滅多にないのだけれど。それに私、本当は機材志望だったし。
「なんか、すごい…ね。」
「嫌になります…。」
はあ、とこぼれた溜め息は思っていた以上に重たかった。でも仕方がないと思うのだ。だって私は、演技をする私、にファンなんてほしくなかった。できうるならずっと機材だけやっていたかった。機材に好きなだけ触っていられるのならば、どんなにハードな裏方の仕事だって楽しい。なのに、今は。
「なんで演技したくないのにやらされて…、しかも挙げ句訳わかんない男の子に絡まれて林さん達にまで迷惑かけて…最悪です。」
本当にごめんなさい。改めて頭を下げれば、間髪を入れずに林さんの手が降ってくる。ぽんぽん、と撫でる、大きな手のひら。まるで無言で、労られているようだった。
「謝らなくていいよ。」
「でも、」
「怖かったね。…泣いていいよ?」
優しい声だった。暖かい声だった。思わず涙腺が緩んでしまうくらいには。ふるりと視界が揺れて、次の瞬間には涙が溢れてきていた。一定の速度で頭をぽんぽんと撫でてくれる林さんの手に安心する。怖かった。理不尽だと思った。なんで、どうして、と。 初めて感じた類の恐怖心にぼろぼろと泣く私を、落ち浮くまで林さんはしばらくそのままにしておいてくれた。
「すみません、」
「落ち着いた?」
「はい。」
「よし、じゃあ買い物行こう。本間さんがお腹減ったって、きっと騒いでるよ。」
「ふふ、そうですね。」
ようやく涙が引っ込んだ私を見て、林さんは優しく笑ってくれた。わざと本間さんのことを冗談めかして言って、元気づけようとしてくれている。そんな林さんの気遣いに気づいて、嬉しくて、自然と私も笑っていた。
ゆっくりと動き出した車は、真っ直ぐにいつも行くマンション近くのスーパーを目指しているらしかった。いつも電車から眺める町並みを、車の窓から眺めるのはなんだか不思議な気分だ。音楽も特にかかっていない静かな車内で、ぼんやりと窓の外を眺めていると、不意に林さんが口を開いた。
「さっき、間に合ってよかった。」
「はい?」
「近くのスタジオで仕事してて、だからあのタイミングで行けたの。本当よかったよ。」
ハンドルを握る林さんに思わず向き直れば、ちらりとこちらに流される視線。ゆるりと微笑む表情に、一瞬、心拍が上がった。
「お仕事終わりだったんですか?」
「そう。で、本間さんに迎えに行けば?ってメールされて。行こうかなって準備してたら、今度は電話で、笹井さんが危ないって言われて。ビックリしたよ。」
気になってたでしょ?と言われ、どきりとする。確かに気になっていた。何がどうして林さんが駆けつけてくれたのか。確かに本間さんは迎えに来てくれると言っていたけれど、それでもマンションからじゃああんなに早くは到着しないし。少しばかり疑問符を抱えていた。それを、くすりと笑いながら林さんはさらっと言い当ててしまう。
「顔に書いてあった。」
「え!」
「嘘、なんとなく。」
驚く私に、ふわ、と笑ってみせる林さんは少し楽しそうだ。いつもどちらかというと本間さんにいじられている林さんは、いじれる相手として私を認識している節がある。だからってこのタイミングでそれを発動してくれなくてもいいのに。なんて思いつつも、気が紛れていることは確かだから、そう思うと林さんって、すごい人だ。
「はい、到着。」
「おお、車だとこんなに早いんですね!」
「まあそこまで遠くないからね。」
思っていた以上早く到着したスーパーの駐車場。おー、と妙な感動に包まれている私を林さんが苦笑して見つめているが、まあ気にしないことにする。二人で連れ立って買い物かごを奪い合いながら、今日の夕食の材料を買い込みに回る。
「林さん、煮魚にするの、どれがいいですか?」
「…前のもいいけど、違うのも食べたいな。」
「ざっくりしてますねえ。」
わかってはいたけれど、なんとも微妙な反応。最近わかってきた。林さんは多分、食事にそこまで興味がない人なのだろう。ただ、興味はないけれど美味しいものが好き、ということも分かっている。なかなかのグルメさんらしいという認識もインプットされている。本間さんから聞いた話で、地方へお仕事で行った時に、どうしようもなく美味しくない惣菜パンにぶつかってめちゃくちゃ怒ったことがあるとか。怒りの長文報告メールが届いたと本間さんが爆笑していた。
「前のは割とさっぱり目の味だったんで…鯖の味噌煮とかどうでしょう。」
「あ、それ美味しそう。食べたい。」
「はーい。」
ざっくりとした意見しか収集できないのは分かり出しているから、最終的には私が決める。というか、これは?と聞くと、それいいね、と乗ってくれるので確認をするだけになってしまうのだ。なんというか、楽といえば楽だけれど、困るといえば困る感じ。それでも少なからず意見をくれるだけいい方なんだろう、きっと。
「他何にしましょうか?鯖の味噌煮と、お味噌汁と…。」
「…おから?」
「採用です。」
「え、本当に?」
買い物かごを片手にスーパー内をふらつきながら、メイン以外にメニューを考える。どうしよう、と小首をかしげていれば、林さんが目の前にあったおからと脇にあったポップを目につぶやく。和食メニュー、それだ。とりあえず、とおからを買い物かごに突っ込んで、さてもうひと品、と考える。横で、ただ読み上げただけなのにそれでいいのか、と林さんがポカンとしていたけれどスルーだ。
「…んー、煮物ダブルってきついですかね。」
「ん?」
「カボチャ煮て、上に鶏肉のあんかけとか美味しいかな、とか。それか小松菜がさっき安かったのでおひたしか…。」
「…カボチャがいい。」
「了解です。」
最初に目的の魚を探していたせいで通り過ぎた野菜売り場に戻り、もうひと品を考える。浮かんだメニューをとりあえずと林さんに告げれば、静かに彼の手がカボチャへと伸びた。煮物ダブルだけどそれはいいのか。まあ私は気にしないけれども。
「あ、きんぴらもいいですねえ。」
「…カボチャ。」
「はいはい。」
遠目に見つけた、ごぼうの脇にあるポップに書いてあったきんぴらの文字を口にしてみたが、林さんの反応は変わらない。気づいたけれど、多分林さん、煮物が好きらしい。前に筑前煮を作った時もすごい勢いで食べていたし、大根と鶏肉をお醤油で味付けて煮た時も美味しいとバクバク食べていた。そして今の煮物大プッシュである。
「お味噌汁、豚汁にしましょうか。久しぶりに具だくさんメニューで。」
「うん。」
昨日の夜ご飯がオムライスとサラダという二品だけだったから、今日はちょっと品目多めにしてみる。お、考えてみたら今日は久しぶりに一汁三菜だ。
「林さんは煮物好きなんですか?」
「ん、何で?」
「いや、煮物のウケがいいなあ、と。」
レジに並びながらさっき思ったことを口にすれば、キョトン、とする林さん。もしかしたら自覚なしだったんだろうか。そう思いながら頭一つ分大きい林さんを見上げれば、林さんは、んーと唸りながら何やら考え込んでいらっしゃる。どうしたんだろう。
「多分、煮物が特別好きってことじゃないと思うけど…。」
「そうなんですか?」
「笹井さんの煮物の味付けが好きなんだと思う。」
「…。」
うん、それだ。ぽん、と手を打って一人で納得している林さん。それと、言葉を失って立ち尽くす私。何の殺し文句ですか、それ。美味しい、は林さんだけじゃなく本間さんも、二人共結構言ってくれる。それでも私の味付けが好きだなんて、ちょっと照れるし、だけれど凄まじく嬉しい。謎の羞恥心に頬が赤くなるのを感じた。今日は一体、何度赤面すればいいのだろうか。
「あれ?何か変なこと、言った?」
「…いえ、そうじゃないです…。」
これで彼に他意がなかったり、気付いていないから逆にタチが悪い気がするのは私だけだろうか。林さん、天然タラシ説が日々濃厚になっていく。頭を抱えつつも必死に赤く染まった頬をごまかして、どうにかお会計を済ませる。因みに夕食の分の食費は、月々の金額を三人で割って出し合っている。とはいえ、かなり私の分の金額は安くしてもらっているのだけれど。調理分、らしい。日々の食費が安く浮いて私はいいのだけれど、二人は少なからず高くついていそうで気が気ではない。
「車だから楽でしょ。」
「そうですね、楽チンです。」
いつもは一人で買い物に行って、三人分の夕食の食材を買い込むのだけれど、今日は車。買い物袋を両手にぶら下げて歩いて帰るわけではない。いつもなら持ち帰るのに苦労したであろうカボチャも、車なら楽々。後部座席に林さんが買い物袋を積み込んでくれて、再度車は出発した。今度から重たい食材を買いたい時はお願いしてしまいたいくらい楽だ。これでは楽する癖がついてしまいそう。
「あ、僕が運ぶよ。」
「え、でも。」
「いいの。」
マンションの駐車場に車がつく。後部座席の林さんの荷物も気になったし、このくらいの距離ならと買い物袋を持とうとしたのだけれど、それはするりと躱される。え、と食い下がろうとしたら、それはそれはいい微笑みで押し通された。
「…すみません。」
「謝らないの。カボチャ食べたかったのは僕だし、それに、重たいよ?」
「そうですけど、でも、」
「い、い、の。」
食い下がろうとすれば、反論する林さんの声が少しだけ強くなる。え、と林さんを見上げる。エントランスを抜けて、目的地である私の部屋まであと数メートル。見上げた林さんの表情は初めて見るものだった。拗ねたような、少しふてくされたような、そんな幼い表情。
「笹井さんは僕を頼らなすぎだよ。」
もう、とつぶやく林さんは、スタスタと歩いて行ってしまう。それにハッとして、急いで彼の背中を追った。追いつつ、カバンから鍵を取り出す。
「あの!」
「何?」
「…頼ってないわけじゃ、ない、ですよ?」
頼っていないわけじゃない。というか私なりに林さんには頼っているし、甘えている。そりゃあ本間さんと比べてしまえば、林さんには頼っていないように見えるかもしれない。けれど、だ。両者への距離感を考えてみて欲しい。本間さんはお兄ちゃんみたいな、というポジションがはっきりしている。一方の林さんと私の関係は、まだまだお互いのポジションを模索中みたいな感じだ。お隣さん、より、ちょっと親密。そのくらいの関係性。
お兄ちゃんポジションの本間さんと比べれば、そりゃあ親密度というか頼りやすさみたいなあれは違うと思う。距離感を私なりに見定めながらの付き合い方で、迷惑にならないかな、とか、鬱陶しくないかな、とか、そういうのを考えながらの現状最大限で頼ったりしているつもりだったりしたのだけれど。
「私なりに、結構頼っているつもりだったんですけど…。」
「…あのね、もうちょっと、頼っていいよ。」
「…はい。」
どことなく照れたように、少し恥ずかしそうに、林さんは後頭部をガリガリと掻きながら、そんなことを言う。それは、もう少し距離感を詰めてもいいということだろうか。そう思おう。コクリとうなづけば、じゃあ、と買い物袋を渡される。
「本間さんには僕から帰ったって言っておくから。」
「はい、お願いします。」
鍵を開け、結構重たい買い物袋を玄関に入れながら林さんと話す。どうやら林さんは再度車に戻って、後部座席に乗っていた荷物を取ってくるらしい。二度手間をかけさせてしまった、とシュンとすれば、いいの、と頭をポンポンされた。林さんは撫でるよりもポンポンするタイプらしい。と、どうでもいいことを認識する。
「あの、…ありがとうございました。本当に。」
「お礼言ってもらうようなことじゃないから、気にしないの。」
ふわり。林さんは微笑んだ。その柔らかな表情に、心底ホッとしている自分がいることに気づく。人見知りな林さんの笑顔は割合貴重なもので、実はそんなに頻繁に見られるものではないらしい。とはいえ、私は結構な頻度でそれを見ることのできる幸せ者だ。林さんの笑顔にはなんとなく癒し効果みたいなものがある。だからきっと、家に着いたことも相まって緊張が解けたのかもしれなかった。
「また出来る前に連絡しますね。」
「うん、お願いします。」
駐車場に戻っていく林さんの背中を少しだけ見送って、家に入る。時間も時間だ。煮魚はそれなりに時間もかかるし、急いで調理に取り掛からなければ。洗面所でまっさきに手を洗って、それから直ぐにキッチンへと向かう。お米を研いで、炊飯器にセットして、買ってきたものを袋から取り出した。いつもより心持ち急ぎめで下ごしらえをし、鍋にかける。大学を出る前は疲れきっていたはずなのに、こうしてエプロンをつけて料理をし始めれば、なぜだか疲れが何処かへと霧散していた。恐らくは気疲れだったんだろう。それから解放されたに違いない。
手間のかかるメニューが多かったから、いつもより二人に連絡をするタイミングも遅くなってしまった。あともうひと煮立ちすれば完璧、というタイミングで二人にメールをすれば、待ち構えていたかのようにインタホーンがピンポーンと鳴って、少し笑えた。
「はーい。」
「よ!」
「こんばんは。」
「いらっしゃいませ。お待たせしまして、すみません。」
「いいよ、いいよ。お邪魔しまーす!」
ドアを開ければ、いつもどおり二人が立っていた。いつもより林さんのテンションが静かに高いことを除いてはいつもどおりだ。否、きっと本間さんはいつもどおりを装ってくれているに違いない。帰りのことを、まだ本間さんには話していないから。何があったかを本間さんにも説明しなければ。そう思うと少しだけ気持ちは沈んだけれど、それは顔には出さないように気をつける。
「今日は和食メニューですよ。」
「煮魚だっけ?善博リクエストの。」
「味噌煮だって。」
「鯖の味噌煮です。ほら、本間さん手伝ってください。」
「任せてくれ!」
「僕も何かする?」
「あ、じゃあ林さんはテーブル拭いてきてください。」
「分かったー。」
三人分のお茶碗を本間さんに預けて、ご飯はお任せする。その隙に鯖の味噌煮、鶏肉のあんかけを添えたカボチャの煮付け、おから炒め、豚汁を盛り付ける。とはいえ、カボチャの煮付けとおから炒めは大皿に盛ってしまうだけなのだけれど。
台拭きを預けて、テーブルを拭いてきてくれた林さんがキッチンに戻ってきてくれたので、ついでに大皿をテーブルまで運んでもらうことにした。本間さんはもうご飯をよそったお茶碗をテーブルに運び終えていて、今度は冷蔵庫から出した麦茶を各自のコップに注いでくれている。まさに勝手知ったる人の家、といったところだ。
「うまそうだな!」
「煮物フィーバーですけどね。」
「いいじゃん、煮物。」
さて、と三人でテーブルを囲む。いただきます、と手を合わせれば、すぐに林さんのお箸が鯖の味噌煮に伸びた。ちょっとリアクションが気になるので、豚汁を飲みながら様子を伺ってみる。
「…美味しい。」
「お、よかったです!」
「カボチャもうまいな。」
「ありがとうございます。」
カボチャの煮付け、というより多分そこに添えてある鶏肉のあんかけが本間さんの好みだったらしい。というか本間さんはお肉が好きみたいだ。ハイカロリーどんと来い!というタイプ。年齢的に胃もたれしないのか時々気になるけれど、そんなことはないらしい。
「本当、笹井さんの煮物の味、いいよね。」
「ああ、それ分かる。なんかこう…優しい味なんだよな。」
「そうそう。」
「優しい、ですか?」
「うん。」
どうにもふわっとした表現だ。それでも気に入ってくれているならそれ以上に嬉しいこともない。ばくばくとすごい勢いで食べていく林さんと本間さんを眺めつつ、私は自分なりのゆっくりしたペースで箸を進めた。ちなみに最近は、食べたいメニューは真っ先に小皿に取り分けるようにしている。そうでなければ、気づいたら大皿が空になっているからだ。今日も気づけば、大皿に盛り付けたふた品が驚くべき速度で消えていた。本間さんなんて、既に豚汁もおかわり済み。毎度思うが本当によく食べるふたりだと思う。
「豚汁明日も残りそう?」
「予想外に本間さんが飲んだのでアレですけど、明日もこれを持ち越しますよ。」
「陽子ちゃーん、俺、明日は餃子が食いたいな。」
「覚えておきます。」
珍しくリクエストがきたから、さて明日のメニューはどうしようかと食べ終わったお皿をシンクに運びながら考える。おからも多少は残っているし、豚汁も明日に持ち越し。餃子を焼くとして、後は何を作ろう。そんなことを思っていると、林さんに肩をたたかれた。
「ん?何です?」
「片づけの前に、本間さんに話してあげて。」
「…はい。」
そうだった。すっかり忘れていた。というか忘れてしまいたかった。だけれど心配をかけたのだ、話さなくてはならないし、そもそも本間さんが林さんに連絡してくれたお陰で事なきを得たのだ。ふう、と一つ息を吐いて林さんに頷いて見せた。
「本間さん、」
「…おう。」
私の表情から何の話題か察してくれたらしい。少しだけ真剣な表情を浮かべる本間さんの脇に腰掛けて、何があったのか、一部始終を話した。その間本間さんは小さく相槌を打つだけで、特に何かを発するわけでもなかった。少しだけ震える私の声を心配して、前に座った林さんがそっと頭に手を乗せてくれる。その温度に安堵して、どうにか全部、林さんがくる前のこと、林さんにも話したこと、全部を二人に吐き出した。
「…そう、か。」
全部を聞いた本間さんは、一言ぽつりと呟いた。それから肩を軽く抱かれて、揺さぶられた。多分、私の頭にまだ林さんの手が乗っていたからだと思う。
「陽子ちゃん大変だったな。大丈夫か?」
「林さんが助けてくれましたし、本間さんの電話にも助けられました。だから大丈夫です!」
「…そっか。」
まだ心配そうな表情を浮かべている本間さんと林さんを安心させたくて、にこりと笑ってみせる。すると二人は、何ともいえない微妙な表情を浮かべた。納得しきれていない、そんな顔。だけれど私はどうしたら良いか分からなかった。厄介なことになったなあ、と強く思う。困った。今後松本くんがどうするのかも分からないし、どう対処すればいいかも分からない。それに二人にこれ以上心配も迷惑もかけないためにはどうしなければならないのか。最後のが一番重要で、一番難しい。
「笹井さん。」
考え込んでいれば、不意に真剣な林さんの声に呼ばれる。顔を上げれば、きゅっと鋭い光を灯した林さんの眼差しに射抜かれた。
「迷惑だなんて考えて遠慮しないでいいんだよ。僕も本間さんも、遠慮される方が嫌だし、余計に心配だから。」
「そうそう!陽子ちゃんさえ迷惑じゃなけりゃ、もっと俺と善博のこと、頼っていいんだからな。」
一人でどうにかしようと思ってたでしょ、と、林さんは痛いところをつく。ぐっと言葉に詰まれば、本間さんの手が、がしがしと頭を乱暴に撫でた。ちょっと痛い。だけれどそれ以上に胸が痛かった。二人ともずるい。どうしたら私が反論できなくなるか知ってるんだ。頼りたくなる、甘えたくなる。けれど、いいんだろうか。逃げ道は塞がれたけれど、それでも躊躇ってしまうのは私の性格上仕方ない。二人の優しさが嬉しくて、けれど距離感を計りかねて身動きが取れなくなりそうだ。
「しばらく僕、送り迎えしようか。」
「え!?」
「だって心配だし。笹井さんがいいって言ってくれたら迎えに行くだけでもしたいよ。」
唐突な林さんの提案に、思わずフリーズしてしまう。送り迎えって!送り迎えって何それ!!しかもまたその、迷惑をかけたくない私の逃げ道を塞ぐような言葉選び。ずるい。うまいこと返す言葉が浮かばなくて、言葉に詰まったままの私だったけれど、驚いたのはどうやら私だけじゃなかったらしい。本間さんなんて口をあんぐり開けて固まっている。
「迷惑…かな?」
「え、や、迷惑なんかじゃないです!けど、」
「ん?」
フリーズした私に、不安なったらしい。どことなくしょんぼりした林さんの問いかけが聞こえて、慌てて否定した。思わず大きな声になって隣の本間さんの肩が跳ねる。一方の林さんは驚くこともなく、ただ濁された私の語尾の続きを待っている。こてん、と傾げられた首が可愛らしくて、こんな状況じゃなかったらドキドキしていただろうに、と妙に冷静な思考の一部が脳裏で呟いた。
「けど、でも、あの…お仕事、は…?」
「しばらくは今日と同じスタジオ作業と休み。だから全然僕に迷惑はかからないよ。」
「っ…。」
完全に逃げ道を塞がれた。どうしよう、と戸惑う。別に林さんに迎えに来てもらうことが嫌なわけじゃない、断じて。むしろそんな風に言ってもらえるなんて嬉しいし、どんどん林さんとの距離が縮まっているようで幸せすら感じる。だけれど、それでもやはり、迷惑じゃないと言われてもどうしたって迷惑をかけることが明白で、というか迷惑以外の何物でもないのがわかりきっていて、どうしよう。
「嫌じゃないなら、落ち着くまでの間でいいから…迎えに行かせてくれないかな。」
笹井さんが心配なの。そっと伸びてきた林さんの手が、遠慮がちに私の指先を掴んだ。簡単に振りほどけるような力加減が、逆に強く私の心を絡めとっていく。
「…迷惑じゃ、ないのなら。お願いします。」
「うん。」
ぽつり、と返答をつぶやけば、林さんはふわりと笑った。良かった、と笑う表情を直視できなくて、そっと視線を逸らす。ああ、結局迷惑をかけてしまった。自己嫌悪が襲い来るけれど、それでも二人の前で落ち込んだ姿は見せたくないからそれをどうにか飲み下そうとする。するとそんな私に気づいたのか、労わるように私の背を、本間さんの手が撫ぜた。
「陽子ちゃんも考えるところはあると思うけどな?俺も、せめて落ち着くまでは善博が迎えに行ってくれた方が安心する。」
「…。」
「何かあってからじゃ、遅いだろ?守れるんなら守りたいし、守れなかったとき後悔するのが分かりきってるから、な。」
ぽんぽん、と背を、あやすように叩かれる。守りたい。二人のその一言が、そっと胸を満たした。こんなふうに大切に思われているなんて、なんて私は幸せなんだろう。迷惑をかけてしまうのは事実でしかないけれど、それでもその事実からくる重みを拒否して、更に二人に心労をかけるなんて、そんなのできない。迷惑をかけるからと遠慮し続け意固地にになっても、それこそ二人に更に迷惑をかけかねないんじゃなかろうか。それだったら、受け入れてしまったほうがいい。早く事態が収束するのを、待ったほうがいい。
「お二人共…ありがとう、ございます。」
ぺこりと頭を下げれば、二人は顔を見合わせ、それからどういたしまして、と笑ってくれた。その包み込むような暖かい表情に、ほっとする。
まだ特に、何かされたわけではない。ただ無理やりバイクに乗せられそうになったくらい、だ。だけれどあの松本くんの、人の話も聞かずに手を掴んできたこととか、正直に言ってしまえば林さんが来たからこそ未遂で済んだとも言えるかもしれない。何が起こるかはわからない。それならば少なからず用心するに越したことはない。
大学三年生、早くも降りかかってきた受難の日々に、溜め息がこぼれた。