第三章 溶け込む日常
「おはよう、笹井さん。」
「尾形さん!おはようございます。」
カラッと晴れた火曜日の朝六時。火曜日と金曜日はゴミ収集の日。ついでにいうとアルバイトがなくて大学の講義に出席する日。マンション脇のゴミ捨て場にビニール袋に詰まったゴミを置いて、上にネットをきちんとかけたところで背後から呼び止められた。振り返れば、長い髪を揺らしながら尾形さんがゴミ捨てにやってきたところだった。
「朝、早いのね。」
「なんか目が覚めちゃって。」
授業自体は二限目からだから、本当は六時からなんて起き出さなくていい。ゴミ収集車だって、八時に来る。なのに今日は、なぜだか目が覚めてしまって、目が覚めてしまったらそのままでいるのもなんだか気持ちが悪くて、とりあえずとゴミを出しに来てみたのだ。
「尾形さんも早いですね。」
「ん…今日は支社に行かなくちゃいけなくて。」
「忙しいんですね…。」
「まあまあ、ね。」
くすり。唇の端だけで微笑む尾形さんは綺麗だ。クールビューティーというか、あまり表情が大きく変わるタイプではないから、冷たい印象を抱いている人もいるらしいと聞いたことはあるけれど、でもそんなことはない。すごく穏やかに微笑む優しいお姉様だ。ちなみに私、実はさりげなく尾形さんのファンだったりする。
「それじゃあ、ね。」
「あ、はい。行ってらっしゃい!」
「ん、行ってきます。」
重たそうなグレーのトートバックを左肩にかけて、また髪を揺らしながら尾形さんは駅の方へ向かっていく。その背中が凛としていて、格好良かった。身近にああいう大人の女性像、みたいな人がいると、自然と大人の女性の醸し出す雰囲気に憧れてしまう。自分が年齢と比べても子供っぽいだけに。
「あれ、陽子ちゃん今朝は早いな。」
「おはようございます。」
部屋の前まで戻れば、ちょうどゴミを出しに行こうと部屋を出たところの本間さんと遭遇した。とはいえ、出てきたのは林さんの部屋からだったけれど。
「えっと、」
「ああ、善博のやつ、昨日の夜中から出てるんだよ。そんで俺が代わりにゴミ出し。」
「なるほど。」
納得、と言わんばかりにポンと手を打てば、本間さんが喉の奥で小さく笑う。そういえば昨日三人で夜ご飯を食べたあと林さんは、移動が憂鬱だ…、と呟いて早々に帰っていった。あれはそう言う意味だったのか。とはいえ、昨日の夜中からだなんて、ミュージシャンっていうお仕事は凄まじく体力を使いそうだ。タフな人じゃないときっともたないだろう。正直、申し訳ないけれど林さんにタフなイメージはなかったりしてしまうのだけれど。
「今晩どうする?夜二人だな。」
「んー…どうしましょうかねえ。まあとりあえず、何かリクエストあったら連絡ください。一応考えます。」
「了解。」
じゃあ、とひらりとお互い手を振って、私は部屋へ、本間さんはゴミ捨て場へと向かう。靴を脱いで部屋へ上がって、そのままベッドへとダイブした。
「二人、かあ…。」
さて何を作るか。本間さんと林さんとの三人で夕食を共にするようになってから、早一ヶ月弱。その間、ライヴやらコンサートやらレコーディングやらの予定で夜更けでも忙しそうにしていた林さんだったけれど、都内近郊のお仕事が集中していたらしい。だから例え遅くなってもご飯は食べる、と言ってくれて、相変わらず施錠のなされない林さんの家の冷蔵庫に大量のおかずを突っ込んでおいたり、勝手に炊飯器でご飯を炊いておいたりしていた。だから完全に二人分で食事を作るのが、なんだかんだで初めてだったりする。ちょっと寂しい、のは、内緒だ。
「どーしよっかなああああああ。」
最近買い込んだレシピブックをベッドに寝転んでめくる。食事を作ることよりも、下手したらメニューを考えるのが大変だということに気づいてから、レシピブックの存在の偉大さに救われっぱなしだったりする。本当にありがたい存在だ。そんなこんなで、本日の献立!みたいなタイトルのレシピブックが異様に部屋に増えた。ちょっとそれが、今の自分の生活を表していて面白い。
まあ適当に考えよう、とレシピブックを眺めながら、なんとも雑な結論に至る。ちらりと横目で時計を確認すれば、まだまだ大学に向かうには早い時間。久しぶりに早起きをしたことだし、優雅に朝風呂、しかも半身浴、なんてちょっと一人暮らし満喫っぽいことでもやるか、と無意味な行動に走ることにした。まあ実家暮らしの時はお風呂に入るのも家族全員のローテーションだったから半身浴なんて滅多にできなかった。朝風呂だって、朝からシャワーの音がうるさいと言われるからあまりできなかったし。献立が決まらないと思考がデスマーチを始める前にリセットしよう、と、とりあえずお風呂へと向かった。
「あ、」
一時間以上かけた朝風呂から出れば、ベッドに放置したままだった携帯電話が、チカチカとメール受信を知らせていた。送信者は林さん。なんだろう、と急いで開いて、そして笑った。
「…ふふ。」
最近ではちょっとずつ私にも馴染んでくれたらしい林さん。徐々に敬語も取れてきていて、本間さんほどでははいけれど、からかい合ったり、なんてこともできるようになってきた。そこから読み取れた林さんの新たな一面は、少しばかり子供っぽい、というところ。
メールの内容は、僕がいないんだから煮魚はやめてください、という夜ご飯への注文だった。最初に作った煮魚をかなり気に入ってくれたらしい林さんは、次作るときはちゃんと自分がいて作りたてが食べられる時がいいとささやかな我が儘をずっと言っていたのだ。まさかここでも釘を刺されるとは。思わず声を出して笑ってしまった。
大丈夫ですよ、と返信をして、それから身支度を整える。そろそろ家を出ないとまずいだろう。化粧が終わって、さてコーヒーをもう一杯飲んだら出発するか、というタイミングでまたしても携帯電話がなった。メール受信より明らかに長いバイブレーションに慌てて手にすれば、まさかの電話だった。それも林さんから。
「もしもし?」
「あー、えっと、林です。」
「おはようございます。」
「…、おはよう、ございます。」
電話は苦手、なのだろうか。少しだけ話しにくそうにしている林さんの声は、初対面の時を少しばかり思い出させた。
「どうかしましたか?」
「いや、あの…その、」
「?」
割合口が重い人なのは知っているけれど、ここまで歯切れの悪い林さんも珍しい。どうしたのだろう、と首をかしげつつ、コーヒーは諦めて家を出ることにした。電話をしながら歩くことはできても、コーヒーを飲むのは難しい。携帯片手に上着を羽織り、玄関を開閉すれば、慌てたような声が届いた。
「今、忙しかった?」
「大丈夫ですよー。別に忙しいとかじゃないです。」
「…そっか。」
よくよく聴けば、林さんの背後はガヤガヤとしている。多分お仕事中なのだろう。そんなことをぼんやり思いながら、玄関の鍵を締めてマンションを後にする。歩きながら根気よく林さんの二の句を待っていれば、どうやら先ほどのメールが原因の電話らしい。
今日のお仕事は女性シンガーのライヴサポートらしいのだけれど、その同じサポートメンバーのミュージシャンから、彼女にメールか!?なんて、からかわれたらしい。そしてそのままからかわれるままに電話をしてしまった、と。そりゃあ夜ご飯のやり取りをしていたら彼女と誤解されても仕方がないのかもしれない。ある意味必然だよなあ、とくすりと笑えば、電話の向こうで林さんが困惑したような声を上げる。迷惑じゃないの?と。
「迷惑というか…驚きましたけど、でも事情を知らない人から見れば仕方ないんじゃないですか?」
「…それもそっか。」
ふっと肩の荷が降りたように喋る林さんの声。少し元気が出てきたみたいだ。そろそろ駅も目の前で、電話も切らなければいけないタイミング。とはいえどう切り出すか悩んでいれば、そのタイミングは林さんからもたらされた。
「今何してるの?」
「大学行くところですよー。駅なう、です。林さんは?リハですか?」
「そう、リハ。昼過ぎからのステージだから、これから通しね。」
「頑張ってくださいね。」
「うん。あ、笹井さんは、行ってらっしゃい。」
「はい、行ってきます。」
駅員さんのアナウンスが電話の向こうに届いたらしい。行ってらっしゃい。柔らかな声で送られて、電話は切れた。なんだかほっこりした気持ちになって、浮き足立って改札を抜けた。ホームに着くと同時に電車も滑り込んできて、なんだかタイミングもいい。林さんから珍しく電話がかかってきたからかもしれない、なんて、現金な私は電車の中、ドアの脇に立ってひとり静かに笑った。
そんな浮かれたテンションで受けた授業は、いつもより早く終わった気がする。あくまでも、気がする。正確にはきちんと二限から四限まで受けているのだから、早いも遅いもないのだけれど。バイトがある、とダッシュで大学を飛び出した友人たちを見送って、今日はバイトのない私はゆっくりとスーパーへの道を辿る。
昼食のタイミング、カフェテリアで友人とランチを囲みながら、夕飯のメニューが決まらないとボヤけば、全員から驚かれたのは内緒だ。一人暮らしなのに毎日作ってるの!?なんて友人の一人が声を上げたのは、確かに納得。その場では、好きだからねーなんて言って躱したが、恐らく一般的な一人暮らしの大学生は毎晩の夕食を手作りしないんじゃないだろうか。尤も比較対象は私の周りの友人たちに限られるわけだが。
とはいえ。一人暮らしといえど私は通常の一人暮らしの夕食の心配をしているわけではない。一人暮らしなのに作る夕食が一人前じゃないというのは傍から見れば異様だろう。自分でも謎だ。思いつきで作った一食が原因で、まさかその後、ひたすら夕食当番になるなんて思ってもみなかったのだから。でもそれを楽しいと思い出しているあたりもうだめだ。美味しいと食べてくれる人がいると、ついつい作るのも楽しくなってしまう。
「お、陽子ちゃん!」
「あれ?本間さん。どうしたんですか?」
スーパーで買い物カゴを手にした瞬間、聞きなれた声に呼ばれた。顔を上げればそこには本間さんがいて、あれ?と小首をかしげる。まあ夕食は私が作っているとは言えその他は各自にお任せしてるから、スーパーにいても不思議はないのだけれど。というか毎食作るくらいなら一緒に暮らしてしまえ、という話になってしまうし、そこまでしたいわけではない。
「メール、見なかった?」
「メール…?」
言われて慌ててごそごそとポケットを漁って、携帯電話を引っ張り出す。すると確かにメール受信を知らせるランプが点灯していた。受信トレイを開けば、数十分前、恐らく私が大学を出発するかしないかのタイミングで、本間さんからメールが来ていた。
「…今見ました。」
「あー、まあ、とりあえず今日は俺が作るから、な!」
「わっ、本間さん!?」
買い物カゴを奪い、本間さんはサクサクと歩き出す。その後を急いで追った。まるで初めて一緒に夕食を食べた日の買い物の様子を逆転させた形だ。慌てる私を余所に、どうやらメニューの決まっているらしい本間さんは手早く食材をカゴに突っ込んでいく。
「いったい何がどうしたんですか?」
仕方ない。林さんが前に言っていた、本間さんと付き合うならある程度は諦めが必要だ、と。その言葉を思い出してカゴを奪取することをやめた私は、本間さんと並んで歩きながら疑問符を口にする。さっき読んだメールにも、たまには俺が夕飯作るから!という一言しか書かれていなくて、理由も何も状況を把握できていない。そんな、ぽかん、としたままの私に気づいたのか、特売コーナーの焼きそば麺を吟味しつつ本間さんは言葉を選ぶ。そうか、今夜は焼きそばなのか。
「毎回、夕飯は陽子ちゃんにお願いしてるだろ?」
「まあ私がそもそも言い出しましたし。」
「でもさ、毎回甘えっぱなしもなあ、って思ったんだよな。で、今日は善博いないし。じゃあ今日か?って。」
「?」
本間さんの唐突な行動の根底にある思いは分かった、けれど、はて。どうして林さんがいないタイミングじゃないとだめなんだろう。再び浮上した疑問符には、本間さんは苦笑いだ。
「あいつ、割と気を遣う奴なんだよ。だから、な。」
「はあ。」
納得できたような、できないような。少しばかり消化不良ではあったけれど、でもそれ以上口にする気はなかった。少なからず私の夕食作りは喜ばれていたらしい。その事実だけで十分だ。むしろ十分すぎる気がしないでもない。
とはいえ、小首を傾げたままだった私に、困ったように本間さんは頬を掻いた。慌てて傾げていた首を元に戻すけれど、それでも納得しきれたわけではない私の今日中には疑問符がぐるぐると渦巻いている。それを見透かしたように、あー、と吐き出される声。
「…この間の、サインの話してたときの善博、覚えてるか?」
「ああ、はい。すごくこう…苦虫噛み潰した、みたいな顔してましたよね。」
「そうそう。それなんだよな。」
「?」
つまるところ。林さんは普段、本人が好むと好まざるに関わらず人目に晒されていると。まあミュージシャンという職業を鑑みれば当然といえば当然だろうけれど、でも、林さんは自分がサポートするアーティストのファンに、ついででキャーキャー騒がれることが多いらしく、またそれが実は嫌だったりするらしい。でもそれを口にするのは許されないし、かなりの人見知り。気疲れする場面が多々あるらしい。
本間さんはそんな林さんに、最低限以上の気を遣わずに落ち着く場を作ってあげたかったらしい。本人から注釈も入ったが、本間さんのうぬぼれでなければ、本間さんとの関係はまさにそれに当たるらしい。でもそれ以上にそういった関係性が広がればもっといいのではないか。それが本間さんのささやかな願いというかなんというか、林さんを大切な友人と思うがゆえの思いやりだったそうで。
「まあ結局、勝手に陽子ちゃんを巻き込んでるんだけどな。」
この行動は、思考は、結局は自己満足でしかないんだ。わかっている。そう言って、本間さんは自嘲の笑みを浮かべた。瞬間、咄嗟に私は本間さんの手を取った。
「そんなことないです。」
初めて夕食を作るといった時、同じように自己満足と吐き捨てた私をいなした、林さんの瞳がふっと蘇る。あの時の林さんみたいにうまくはいかないかもしれないけれど、でも私は私なりにきちんと本間さんに言葉を紡いだ。
「そんなこと言ったら私の夕食作りだって、自己満足です。」
それでもそれを、同じように林さんはいなしてくれたから。だからきっと、本間さんの今の言葉に林さんは、勝手なことを、とかなんとか言いながらも、なんだかんだ笑ってくれる気がする。エゴだったとしても、それをエゴだって受け入れた上で乗っかってくれる。林さんはきっとそういう人だ。それに本間さんに自嘲の笑みなんて似合わない。
「それに巻き込んでもらえて、私は嬉しいですよ?」
「陽子ちゃん、」
「それと本間さんが私に気を遣っちゃったら、色々意味がないですよ。」
にかり。笑って見せれば、本間さんは、それもそうか、なんて言って笑ってくれた。今度は清々しいような、笑み。それにほっとして、握っていた手を解く。代わりにガードの緩くなった本間さんの手から買い物カゴを奪って歩き出した。
「さあ、さくっと買い物して帰りましょう!」
「ああ、そうだな。」
「本間さんの焼きそば、期待してますね。」
「…プレッシャーだなあ。」
くつりと笑った本間さんは苦笑い。それでも先ほどの淡い影はなりを潜めていたから、私はそれだけでよかった。気遣いでの夕食作りの代行はなんだか嫌だけれど、でも、作りたいと思ってくれて作ってもらえるなら大歓迎だ。私自身作るのは好きだけれど、たまにはやっぱり、休みたいなあなんて思わないこともないから、なんて。うん、違うな。自分以外の手料理を食べるのも好きだから、それも嬉しい。
「…笹井さんと、本間さん?」
「尾形さん!」
マンションへの帰り道。買い込んだ食材の入った袋は持たせてもらえず、諦めて本間さんと並んでのんびりと歩いていた時だった。不意に背後から声が聞こえて振り返る。そこにいたのは少しだけ目を見開いた尾形さんだった。どうやら驚いているらしい。
「お帰りなさい。今お帰りですか?」
「ん…今日は早く終わったから。」
「お疲れ様です。」
「…ありがとう。」
少しはにかんだような尾形さんの笑みはすごく綺麗だった。同性だけれど、少しだけドキッとする。そんな私を現実に引き戻すように、ぽん、と本間さんの大きな手のひらが私の頭に降ってくる。わ、と驚いて見上げれば、本間さんは口元だけで私に笑ってみせた。次の瞬間、尾形さんに視線をやった本間さんは、少しばかり眉間にしわを寄せた。
「千絵ちゃん、少し痩せたか?相変わらず無理してんだろ。」
「…してないつもり、だけど。」
「飯食ってるか?」
「ん…食べてる。」
目の前で交わされる、会話。本間さんの包容力本領発揮、といったところか。本間さんはこのマンション内での人気者だ。それは職業云々が問題ではない。そうではなくて、人柄。私自身もこんなお兄ちゃんがいたら欲しかったなあ、なんて思ってしまっているのだけれど、こう、兄貴分というか。人を甘やかすのが上手い人。同時に、人の弱ってる部分にすぐ気づく繊細な人とも言い換えられる。繊細さを誤魔化すように、無骨な側面ばかりを本間さんは意識して人に見せるようにしているみたいだけれど。その気遣いみたいなものが、より本間さんのもとに人が集まる要因なんじゃないかと思う。
何はさておき、尾形さんを心配する本間さんは、からかい口調だけれど心配の色を瞳に宿していた。それを受ける尾形さんは、どことなく面倒くさそうな表情だけれど、少しだけ嬉しそう。前に尾形さんは本間さんを、あしらうのが面倒な人、と評していた。けれど別に嫌っているわけじゃないのがこうして二人の会話を間近で見ればわかるから、何故だか私は微笑んでしまう。
「ん?陽子ちゃん、どうした?」
「いえ、お二人共、仲いいなあって。」
「…嬉しくない。」
「千絵ちゃんひどい!おじさん泣いちゃう!」
微笑んだ私に気づいたらしい本間さんの目線がこちらを向く。その柔らかい眼差しに、ふふ、と溢れる笑みを隠すことなく思ったことを伝えた。瞬間、少しだけ尾形さんの眉間に寄ったしわと、ぼそりと呟かれた言葉。勿論尾形さんも冗談なのは口元が緩んでいたからわかるのだけれど、それに乗っかってオーバーリアクションをする本間さんが、まるで間に受けたみたいな演技で目元を覆うものだから、思わず尾形さんと顔を見合わせて吹き出した。
「おじさんって、本間さん若いじゃないですか!」
「え、陽子ちゃん…俺、四十代よ?」
「見た目が若いです。」
キリッ、なんて効果音付きで言えば、本間さんはガクリと肩を落とす。それにひとしきり尾形さんと笑ってから、ようやくマンションの中に入る。どれだけマンションの前で三人、漫才みたいなやりとりを繰り広げていたんだろうか。
「…二人は、付き合ってるの?」
「はっ…な!?」
エントランスを抜けたところで、不意に、尾形さんが呟く。それにうまいことリアクションが取れなくて、慌てる本間さんとは対照的に、思わず、え?と小首をかしげてしまった。それ、と尾形さんが指さすのは、本間さんが持っている買い物袋。そうか、一緒に買い物、というところから連想したのだろう。なんだか今朝の林さんからの電話を思い出して、思わずクスリと笑みがこぼれた。
「違いますよ。でも確かに、誤解しそうな光景ではありますよね。」
「…ん。」
「いつもはここに林さんも加わるんですよ。」
「林さんが?」
「はい。」
テンパっている本間さんを置いておいて、のほほん、と状況説明を開始すれば、林さんの名前にどうやら尾形さんは少しばかり驚いているようだった。まあそうだろう。初対面の時の林さんの人見知りっぷりや、それに注釈を入れて回る本間さんを見れば、なんとなくは把握できる。こんなにも早く林さんと割合打ち解けている風な私が、珍しいに違いない。というか珍しいんだろう、実際。だって私達の夕食事情を知った田中さんなんて目を見開いて絶句していた。そのくらいのびっくりレベルな話なんだ。
「…笹井さんは、すごいわね。」
「え?」
「いろんな人と、一瞬で打ち解ける。それってすごい才能よ。」
ふわり、笑って、尾形さんは言った。尾形さんの横で本間さんもにこにこと頷いている。自分に何かしらの才能があるなんて思えないし、第一マンション内で打ち解けられているのは、皆さんのお陰だ。でもそんなことを言える雰囲気ではなくて、私は少し困って眉をハの字にしつつも笑うしかなかった。
「じゃあ、夕飯できたらメールするな。」
「はーい、了解です。待ってますね。」
尾形さんとは部屋の前で別れて、数メートル先の自分たちの部屋の前で今度は本間さんと二人だけで立ち話。今晩は本間さんが焼きそばを作ってくれるということで、私が本間さんのお部屋にお邪魔することになった。部屋片づけなきゃ、と本間さんが呟いていたのは聞かなかったことにする。
本間さんと別れて部屋に戻り、課題のレポートを進めること三十分強。お待たせ、というメールが本間さんから届いて、携帯と鍵だけを持って一○九号室のチャイムを鳴らした。
「ほい、いらっしゃい。」
「お邪魔しますー。」
本間さんのお部屋は、林さんのお部屋と作りが一緒だった。つまり私の部屋と逆。私の部屋は入って左側にお風呂とトイレ、廊下を抜けるとキッチンと部屋が現れるのだけれど、入って右側にお風呂とトイレがある。何というか、慣れた間取りの逆バージョンってすごく不思議だ。
通されたお部屋は、大きなソファーが鎮座していて、思っていた以上に綺麗だった。片づけなきゃ、なんて呟いていたから、もっと乱雑としているのを想像していたのだけれど。きょろり、と室内を見回していたら、盛りつけするから待ってて、と言われた。素直に出された麦茶を頂きながら座って待っていれば、二人分の焼きそばを手に本間さんも横にやって来る。大きなソファーだ。聞けばベッドに早変わりするタイプらしい。ふかふかの、そんな大きなソファーに本間さんと並んで座って、目の前のローテーブルに並んだ焼きそばに手を合わせた。
「いただきます!」
「はい、どーぞ!」
野菜多めの焼きそばは、ソースが均等に絡んでいて美味しかった。必要最低限なら自炊できる、と言っていた本間さんの言葉を疑っていたわけではないけれど、なんだ料理できるんじゃない、みたいな気持ちになったのは内緒だ。美味しいです、と感想を漏らせば、本間さんは照れたように頬を掻いた。もぐもぐと麺を咀嚼しながらそんな本間さんの横顔を眺める。
「なんつーか…完全に善博がいないっていうのも変な感じだよな。」
「ですねえ。」
尤もここ一ヶ月がある意味では奇跡的だったと言っても過言ではないのだけれど。きっとこれから先、何度でもこうやって本間さんと二人きりの食事はあるだろうし、逆に林さんと二人きりという場面があるかもしれない。私がいない、というパターンだって十二分に考えられる。
「…陽子ちゃんは、慣れたか?」
私がようやく半分ほどを食べきったタイミングで、私の二倍弱ほどの量が乗っていたはずの本間さんのお皿は空になっていた。早い。口に入れたばかりのキャベツと麺を咀嚼しようと必死にもぐもぐと口を動かしていると、落ち着け!と、横から苦笑いが聞こえた。一瞬喉に麺が詰まりそうになったけれど、どうにか飲みこむ。
「慣れた、って、何にですか?」
「んー…あれだな。ここでの暮らしとか、諸々。」
ふっと口元を和らげた本間さんの笑みには、少しだけ含みがあった。でもそれについて深堀しようとは思わなかった。多分、笑みに含まれているのは優しい感情だろうという予感があったから。
新しい今の生活に、慣れたかどうか。新しい街と、マンション。大学はキャンパスが変わっただけで、友人も同じく新しいキャンパスに通っている。新しい出会いは沢山あったけれど。出会いといえばマンションでの近所付き合いが楽しかったり、バイト先でのすったもんだも楽しい。毎晩夕食を作るのは大変だけれど、それでもそれも楽しいと思っているし、思えばここ一ヶ月ほどの新しい生活。素晴らしいくらいに充実していることに、今更ながら振り返ってようやく気がついた。
「毎日すごく楽しいですし、たまにこう…一人暮らしならでは、みたいな色んなことに遭遇すると、うわあ!ってなりますけど。でも…慣れた、と、思います。」
「そっか。んなら、安心だな。」
「あ、でもまだ林さん家の鍵には慣れないです。」
「…それは善博に言ってやれ。」
ふざけて言ったはずの言葉に、本間さんはガクリと肩を落とした。冗談です、そう言えば、苦笑いと共に頭をがしがしと撫でられた。少し乱暴なそれは若干痛かったのだけれど、それを言ったら返り討ちに遭う気がした。無言で焼きそばを食べ進めながら耐える。途中顔を上げると、思っていたよりも優しい表情の本間さんがこちらを眺めていた。
割合馴染んでも来たし、慣れても来たけれどまだ少し距離感を時折掴み損ねてしまう。それでも負とカテゴリーされるであろう類いの感情を抱いたことはない。不思議な感覚だ。でももしかしたら、それこそが私がこのマンションに馴染んでいく大きな要因なのかもしれなかった。
「お、善博からだな。…くくっ。」
「…え?あ、…林さんってば、もう。」
不意に本間さんの携帯がメールの受信を告げる。そこに書かれていたのは、次に三人そろっての夕食時は必ず煮魚がいい、というリクエストと、今日のメニューは何なのかの確認だった。文章を確認すると同時に吹き出した本間さんが画面をこちらにちらりとかざす。読むのと同時、何だか力が抜けてしまって私も本間さんよろしく吹き出してしまった。
何というか、今日も穏やかで和やかな一日だ。しみじみと思って、再度笑った。