第二章 知らない貴方を知りたい
引っ越しから二週間、しっかりとマンションに馴染んだ私は今日も今日とて、アルバイトに精を出していた。最初の出勤から今日で四回目。駅前だからか、マンションの方の来店率は結構なもので、働いた時間なんて微々たるモノなのに、他の住民の方々への挨拶が一気に済んでしまっていた。マンションの方が来店されると、田中さんは必ず私に声をかけて下さる。だからそこで最初の挨拶は済むし、逆にもう顔見知りだった方からは、ここで働いてたのね、みたいな微笑ましいと言わんばかりのリアクションを返される。マンションに馴染まない、訳がなかった。
「陽子ちゃん!」
「本間さん、いらっしゃいませ!」
多分馴染んだ要因には、アルバイトと田中さん、それ以外に本間さんの存在を忘れてはならないだろう。私がアルバイトを始めたと知った本間さんは何かにつけていらして下さる。田中さん曰く、元から常連だったのが更にひどくなったとのこと。どうやらかなり気にかけていただいているようで、嬉しい反面、何と表現すべきか分からない、微妙な、複雑な気持ちになる。
「お前、暇なのか?」
「暇って言うよりも仕事が落ち着いてるんだよ。」
他のテーブルからカウンター内に戻ると、ふっと二人の会話が耳に入った。そういえば、本間さんは何をしている人なのだろう。全然知らないことに気がついた。本間さんだけじゃない、結構いろんな人の基本情報と呼べそうな部分を、私は知らないままだ。それ以外の下らない部分はかなり知りだしているというのに。
「本間さんはお仕事、何をなさってるんですか?」
そう言えば、といった風に会話に乱入する。ただいま店内はがらがら、常連さんが本間さん以外に二組。注文はすべてお伺い済みで、お品物もお出しした後。つまり一瞬訪れた、手の空いた時間といったところ。
「あれ?言ってなかったっけ。」
「知らないです。」
あれ?と本間さんが首を傾げるのも道理だ。私だって自分で今更な事実に驚いているのだから。だから、視界の端で田中さんがぽかんとしているのもある意味許容範囲。手近な台拭きでカウンター内の作業台を拭きながら本間さんの返答を待つ。平日の日中に、ラフな格好でかなり自由に活動してるところから予想するに、多分会社務めじゃないんじゃないだろうか。というかサラリーマンな本間さんが想像できないだけなんだけれど。
「…笑わないよな?」
「え?はい。」
はあ、と大きめのため息を一つ。そんなに言い渋るような職業なんだろうか、とこ首をかしげる。そんな私の視線にガリガリと後頭部を掻いて、やっと本間さんは意を決したように重い口を開いた。
「小説家。」
「はあ。」
「え、何そのリアクション!」
本間さんが小説家。私の中でなんとなく小説家、のイメージが、こう…もっとインドア系の人、という感じだったから、その固定概念から鑑みれば本間さんはイメージにそぐわない。けれど言われてみれば、ああ、と納得できてしまって。自分の中の固定概念と納得できる感覚とがうまいこと同居してくれなくて、微妙なリアクションになってしまった。本間さんは薄い私のリアクションに、がくりと肩を落としている。
「何ていうか…意外だった反面、ああ、って納得できてしまって。」
「納得できた?」
「はい。んー…なんて言えばいいんだろう…。」
うまく言葉にはならないのだけれど。本間さんがパソコンに向かって、真剣な眼差しで言葉を紡いでいく姿が、安易に想像できたのだ。指先がキーボードを打鍵して、眉間にしわを寄せながら言葉を選ぶ本間さんの画面。パッと見、言い方は悪いけれどある意味で不良中年、みたいな若々しい見た目の本間さんはもしかしたらマスコミとかそういう関連の業界人なんじゃないかというイメージがあったりして。当たりではないけれど外れというのもはばかられる業種だったことに、納得したのかもしれない。
形になりきらない感情を言葉にするのはひどく骨が折れる。感覚の域を出ない思いを、たどたどしくも伝えれば、本間さんはそれまでの私の微妙なリアクションに合点が言った、というふうに頷いてくれた。それだけでもホッとする。
「そっか、俺業界人に見えてたんだな。」
「いやあ…サラリーマンぽくないなあ、って思って。安直だったんですけどね。」
私の持っていたイメージに、本間さんはクク、と喉の奥で笑う。それにあはは、と乾いた笑いを返すしかない私。田中さんはそんな私たちのやり取りを興味深そうに見守っていた。いつの間にか彼の手元には恐らく自分用であろうコーヒーが握られていたのだけれど。
「笹井ちゃん、すげえ本間に懐いてるな。」
「そうですか?」
驚いた、といったふうな田中さんに、きょとん、とこ首をかしげて見せる。懐いている。まあそれは否定できない。だって仕方がない、最初に認識した相手を親鳥と勘違いする、みたいな。このマンションで一番最初、大家さんとミドリさん以外で話し、話せたのが本間さんだったから。そしてお隣さんだから。そんな色々な要因が絡み合って、結果、私の中での本間さんの認識は、年の離れたお兄ちゃんがいたらこんな感じかもしれない、という微妙な親近感を含んだものとなっている。多分これが原因。
「羨ましいだろ。」
「何だろうなあ、この犯罪っぽさは。」
「何で手を出す前提なんだよ。」
わーきゃー!とやり合う二人は、見ていて面白い。傍目からみずとも下らない話題で、大人げなく騒ぐ。そんな二人のやりとりが楽しくて好きだ。ただ、収拾はつかなくなるけれど。ああ今日もか、そんな風に思いながら、返ってきたコーヒーカップに礼を言って洗い始める。
カタン、とドアが開く軽やかな音がした。ギャーギャーとやり合う二人はそのまま継続中。私はいらっしゃいませ、と声を上げながら目線を扉へと移した。そしてしばしフリーズ。手元で流れる蛇口からの水の音だけが、ジャアジャアと嫌に響いた。
「…林さん!」
「笹井さん、」
びっくりした、と呟く私に、林さんは何故ここに?と疑問符を投げかける。答えようと口を開こうとすると、いつの間に和解したのか、さっきまで騒いでいた二人が会話に割り込んできた。
「なになに、仲いいの、そこも?」
「おう、善博帰ってきたんだな。」
ほぼ同時。そんな二人に、林さんはあからさまに嫌そうな顔をした。初めて見る、表情。
「笹井さんは隣なんだから、ある程度仲良くて当然でしょ。」
「へー?でもお前、人見知りじゃねえか。」
「…否定はしないけどね。」
はあ、と溜め息を吐きつつも本間さんの隣に腰を下ろした林さん。とりあえず、と前にお冷を出せば、ありがとうと微笑まれた。ていうか、仲良いって!仲良いって!!まだそこまで話したことがあるわけじゃないけれど、そんな風に言われるとすごく嬉しい。
「今回はどこまで行ってたんだ?」
「ん?近いよ。神奈川だったから。あ、注文いいですか?」
「はい、どうぞ。」
本間さんと田中さん相手に、砕けた口調で話す林さん。私とはまだ敬語だから、なんだか新鮮に感じる。注文をメニューも見ずにする辺り、多分常連さんなんだろうと思った。というか、あのマンションの住民は大多数がこの店の常連だ。というか注文を聞く前からドリンクメニューを作り出している田中さんがすごいと思った。何で把握してるんだろう。
「ほい、いつもの。」
「ああ、どうも。…あと、クロックムッシュを。」
「かしこまりました。」
注文を私が聞いている傍ら、田中さんは林さんがいつも注文するらしいエスプレッソを作り終えていた。早いよと、突っ込みを口には出さず入れておく。クロックムッシュは私が作ることにして、パタパタと動き出せば、背後で男三人、何か語り出していたみたいだった。数分後、できたばかりのクロックムッシュを林さんの前に置けば、話を中断させてまでお礼を言われた。慣れない、こそばゆい感覚が広がる。
「林さんは何のお仕事をされてるんですか?」
すぐに食器を洗いに戻ろうかと思っていたのだけれど、どうせ暇だから会話に混じってしまえ、と田中さんに押し切られ、結局私も雑談に混ざることにした。田中さんのおごりということで淹れて貰ったキャラメルラテに舌鼓を打ちながら、さっき浮かんだ疑問符をそのまま林さんにぶつけてみる。
神奈川までお仕事で行っていた、というけれど、林さんはその割に軽装だ。カジュアルそのもの。黒い無地のパーカーに、白いニット系のカットソー、ジーンズとエンジニアブーツ。本間さんもそうだけれど、何のお仕事をしているのか全く予想できない。挨拶に伺ったときだって平日だったし、この間お部屋に勝手に入ってしまった時も平日。きょとん、と小首を傾げれば、林さんは、ああ、と答えてくれた。
「ミュージシャン、って言えば格好いいのかな。」
「ミュージシャン?」
「そう。キーボード弾いてるんです。」
もぐもぐとクロックムッシュを咀嚼する林さんは、ハムスターみたいで可愛かった。キーボード、か。アーティストって言い方じゃない感じからして、バンドとかじゃなくって、こう、歌手のバックバンドとかで弾いてるような、そんなイメージでいいんだろうか。
「最近は、トリーズのライヴサポートをしてて。」
「えっ…トリーズって、あのトリーズですか!?」
ぽそっと呟かれたのは、今をときめく男性ユニットの名前だった。特別ファンというわけではないけれど名前くらいなら知ってるし、何枚かCDも持っている。林さんの言葉から連想したお仕事の内容は当たっていたけれど、まさかの事実に開いた口が塞がらなかった。なんか、すごい人たちが両隣に住んでたみたいですね…。
「何、陽子ちゃんトリーズ好きなの?」
「好きって言うか、知ってますよ。だって有名ですもん。流行じゃないですか。」
「確かにな。」
わー、と驚きつつ、キャラメルラテを一口。そういえばトリーズ大ファンな私の友人が今日神奈川のコンサートホールに行くと言っていたような気がする。それか。なるほど、と一人勝手に納得していれば、林さんの動きが止まっていることに気づいた。
「どうかしました?」
「いや、サイン!とかって騒がれなかったのが久し振りで。」
聞けば林さん、自分自身のファンに加えて、サポートしているアーティストのサインを頼まれることがかなり多いらしい。直接頼めよ、と辟易していたそうで。
「だから、拍子抜けしたのとホッとして。」
「そうだったんですね。」
忙しい人には忙しい人の、業界人ならではの苦悩があるらしい。ほう、と頷く傍ら、キャラメルラテを静かに飲み干して立ち上がる。
「さて、」
「え、笹井ちゃん戻る感じ?」
「いや、いい加減働きますよ。今日早番なんで。」
今日は夕方までのシフト。遅番の人に迷惑をかけないように、できるところまでは終わらせなければ。
そう思って立ち上がれば、何故か田中さんに呼び止められる。若干呆れ混じりに返せば、本間さんと林さんが吹き出していた。二人に頑張れ、と応援された私は、残り四十分弱、洗い物に専念することにした。
「…あ、五時。」
洗い物が終わったのと同じタイミングで、上がる時間がやってきた。遅番のスタッフと挨拶をして帰ろうと、バックヤードに向かいかけたところで、本間さんに呼び止められた。というか本間さん、今日は何時間ここにいたんだろう。
「上がり?」
「はい、そうですよ。」
「お、じゃあ、待ってるから一緒に帰ろうな。」
「はーい!」
本間さんだけじゃなく、どうやら林さんも待っていてくれるらしい。エスプレッソの入ったカップを傾けながら、林さんもこちらにひらりと手を振ってくれた。元気よく二人に返事をして、ダッシュでバックヤードに向かった。
ロッカーで制服から私服に着替え、アルバイト用に低めの位置にしておいたポニーテールを解く。待たせているから時間はかけられないけれど、ボサボサの髪で店を出るのだけは嫌だった。ロッカーの扉部分に引っ掛けた鏡で確認しながら、ざっくりとサイドを編み込んで毛先を流す。バッグに突っ込んでおいたお気に入りのシュシュで結んでちゃちゃっと完成。化粧崩れも軽く直して、ロッカーに鍵をかけてバックヤードを出た。出る直前に扉の脇の姿見で再度身だしなみをチェックするのも忘れない。
「すみません、お待たせしました!」
「待ってないから気にすんな。って、あれ?」
背後から声をかけた私に、カウンターのスツールを器用にくるりと回って私に向き直った本間さんは口をポカンとさせている。林さんは、どうしたの?と本間さんを伺いつつこちらを見て、ああ、と呟く。
「髪型変えたんですね。」
「えっと…変ですかね?」
フリーズ中の本間さんを放置する林さんに、不安になって問いかける。変だっただろうか。すると林さんは、くすりと唇の端で笑ってそれを否定してくれる。
「全然。」
「陽子ちゃん器用なのな。」
「へ?」
「いやほら、全然時間かかってないのに、髪型変わってるからびっくりして。」
「これ、簡単ですよ?」
編みこみなんて本当に簡単だ。慣れてしまえばさくっと出来てしまう。でもそこはやはり、男性と女性の違いなのだろうか。ヘアアレンジするのが私は趣味だけれど、男性からしたら、ヘアアレンジなんてやり方もどのくらい時間がかかるかも分からないだろうし。そうしたら驚くのも道理なのかもしれない。勝手に納得する。
「へー…そういうの好きなの?」
「はい。割合好きです。」
「へえ。」
「他の髪型もできるの?」
「はい。」
林さんが質問してくれた!なんというか徐々に林さんと距離が縮まってるような気がして嬉しいぞ。なんというか、本間さんには完全に懐ききった私だけれど、まだまだ林さんとは親しくなりきれていない。さっき仲良いって言って貰えはしたけれど。だから林さんと話すとちょっとテンションが上がる事に気づいた。あれだ、攻略中、みたいな。
「バイトの時はアレですけど、それ以外の時は結構いろんな髪型してるんですよ。」
「すごいですね。」
俺には無理だ…、なんてしみじみ呟く林さんに、思わずクスリと笑いが溢れる。女子でも割と、毎日ヘアアレンジはきつい、っていう子がいるのだ。それを男性がサラっとやってたら世の中の女性陣は泣いてしまう。私はほとんど趣味だからヘアアレンジも苦じゃないだけの話。
「うし、じゃあ、帰るか!」
「はいはい。」
「はーい。」
本間さんの一声で、三人連れ立って店を出る。きちんとカウンターの中に、お先に失礼します、お疲れ様です、と声をかけるのは忘れない。店を出て、カバンを肩にかけてから、グッと体を伸ばせば、バキリ、と嫌な音がした。
「…凄い音だな。」
「あはは。」
「お疲れ様。」
呆れたような声の本間さんと、苦笑いで労ってくれる林さん。えへ、と照れ笑いでごまかして、マンションまでの道筋を辿る。その間、下らない冗談を本間さんが言い続けて、それに対して私が笑って、林さんが冷静にツッコミを入れる、という図式が成り立っていた。時々本間さんが冗談を言うだけじゃなく林さんをいじって、それに林さんがしどろもどろになっていたけれど。どうやら林さんはいじられキャラらしい、と私の脳内メモにインプットされた。
「…あ!」
「ん?どうかしたか?」
「え、あ、いやあ…。」
うっかり。マンション目前でどうしようもないことを思い出してしまった。そういえば今朝起きた時に冷蔵庫を開けたら、ほとんど食材が入っていなかったのだ。これは帰りに買い物に行かなければと思っていたのを、つい忘れていた。
「夜ご飯の買い物忘れてたの思い出しちゃって。お二人は先に帰っててください。」
せっかく待っていてもらったのに、ごめんなさい。そう謝ってぺこりと頭を下げれば、本間さんがそんなことかと笑う。
「じゃあ、スーパー寄ってから帰ればいいだろ。」
「へ?」
「な、善博?」
「あー…はいはい。荷物持ち、しますよ。」
ノリノリな本間さんに目線をやられ、仕方ないなあ、というように後頭部をガリガリと掻く林さん。でも荷物持ちを言い出した林さんは、嫌々ってわけでもなさそうな顔をしていた。けれどそれを飲むわけにはいかない。
「悪いですよ。」
「いいからいいから!ほら、行くぞー!」
「えええええ。」
「本間さんのノリは諦めた方が楽だよ。」
グッと拳を宙に振りかざした本間さんに引きずられるようにして、マンションからスーパーへ方向転換。ズルズル引きずられてなお、いいから!と否定する私に、林さんが諦観したような顔をこちらに向けた。…きっとこれまでも本間さんに振り回され続けてきたのだろうと容易に想像できた。というか想像せざるを得ない重みが、言葉に込められていた。過去に何があったんだこの二人。
そんなこんなでスーパーマーケットに到着した私たちは、何故か買い物かごを持って下さっている林さんを筆頭に私の夜ご飯の買い出しなう、だったりする。変な組み合わせというか、不思議な集団に周りからは見られていることだろう。だって私だって不思議なトリオに思える。何を買うの?なんてのほほんと聞いてくる本間さんに、何を買いましょうかねえ、なんてのんびりと返す。けれど内心では、本間さんに無理矢理買い物かごを持たされた林さんが気になって仕方がなかった。だって明らかにどんどん不機嫌になっていくのが、背中から伝わってくる。ちらり、と気にしながら今晩のメニューを考えていて、ふっと疑問符が浮かんだ。
「お二人は普段、自炊されてるんですか?」
「たまにはな。まあ、できなきゃ困るから最低限だけど。」
「…ノーコメントで。」
得意ではないという本間さんに納得。そりゃあ、一週間の内大半のお昼ご飯を、私のアルバイト先に食べにくるのだ。できれば自炊はサボりたいんだろう。さて、もう一つの回答はすごく聞き捨てならなかった。ノーコメント。確かに今日とか少しずつお話ししていて、本間さんほどではないにしろ少しは林さんがどんな人なのかって言うのが、徐々に見えてきた。少なくとも自炊のイメージはない。
「…ちゃんと、食べてます?」
二人共、と問いかければ、あからさまなまでに二人の肩がギクリと揺れる。おいこら。多分イメージ的に、本間さんは自炊が面倒だけど食べることは食べるだろう。カップ麺くらいは面倒な日でもお腹が減ったら食べてそうだ。一方の林さんは、食べることも面倒くさがるんじゃないか、という凄まじい危惧。
「今日、お二人の夜のご予定は?」
「特には。」
「ないな。」
不安が生まれれば、それをどうにか解決しないことには気が済まないのが私の性格だ。ということで。二人の夜の予定を聞けば、特に何もないというし。それだったらもう、私が今日の夜ご飯を作ってしまえばいいんじゃないだろうか。単純で安直だけれど。でも、二人の食生活が不安だし、どうにかしたいと思ってしまったのだ。どうしようもない。
「…夜ご飯、煮魚でもいいですか?」
「………え?」
二人の食生活が乱れているのなら、作ってしまえばいいじゃない。そう自分の中で結論付けて、もう反論なんて聞くものか、と決定事項のごとく問いかければ、二人は目を見開いて驚いていた。たっぷり間を取ってから疑問符を口にしたのは本間さんで、林さんに至っては絶句している。
「お二人の食生活が心配になりました。ということで、作ります。」
「…マジで!?」
「マジです。」
だって本間さんだって、最低限できるとはいえ、ここしばらくお昼はひたすら私のバイト先で食べていた、ということは少なからずお昼ご飯のメニューはサンドウィッチだとか、軽食系だったことは確定だ。思い返せば、ミドリさんの手料理をいただいた時だって、久しぶりにまともなご飯、とぽろりと呟いていなかっただろうか。
「何か食べたいメニューあったら、今なら対応しないこともないです。」
ぽかん、としたまま二人を置いて、サクサクと買い物再開。カゴを持ってくれている林さんがぼんやりとしているから、その手から無理矢理カゴを奪い取り必要な食材を三人分突っ込んでいく。煮魚と、後はなににしようか。どうせなら一人前だと作るのをはばかれるようなメニューが良い。そう思って、お味噌汁もメニューに追加。後は、うん、何を作ろうか。ぼんやり考えつつも煮魚を食べたいから和食メニュー縛りの脳内。その思考から私を現実へ引き上げたのは、体温の高い林さんの手のひらだった。
「カゴ、持ちます。」
「え、ああ、いいですよ。林さんは何が食べたいですか?」
「…本当に、良いんですか?」
気まずそうに問う林さん。手は買い物カゴから離れてくれない。退いてはくれないようだ。そう判断し、諦めながらカゴから手を離す。カゴを私と逆側の手に持ち替えた林さんの顔を伺えば、どうやら私の夕食を作る、という提案を嫌がっている様子は見えなかった。多分本気で戸惑っているんだろう。まあ無理もない。提案した側の私ですらちょっと驚いている。こんなに行動力あっただろうか、自分。でも食生活ってとても大切なものだと思うのだ。あたしなんかより圧倒的に一人暮らし歴の長いはずの二人がそこをぞんざいにしていると聞いて、不安にならないわけがない。
「私、どうやら自分で思ってた以上にお節介だったみたいです。」
「え?」
「ただ私が作りたいだけなんですよ。」
心配だとかなんだとか言ってるけど、結局は自分が作りたいだけ。二人のためなんて言って、実際は自分のためにほかならない。二人の迷惑も顧みず、完全なる自己満足の世界だ。心配は心配。だけどそれ以上に、多分自分のためだけに作る食事に嫌気が差してたり、まだ慣れない一人の生活が寂しいから誰かと一緒にご飯を食べたかったり。あとは、二人ともっと近づきたかったり。ほぼ下心で出来上がった衝動を、心配だから、なんていうオブラートに包み込んでいるだけ。これは完全なるエゴと、傍から見たら迷惑極まりない自分勝手な行動だ。
にこり、笑ってそう伝えれば、林さんは困ったように口を噤んだ。一瞬目を伏せて、でも次の瞬間には、見たこともないくらい強い目線で射抜かれた。眠たそうな印象が、瞬間的に霧散する。それはきっと、自嘲した私を咎めているように感じられた。
「エゴじゃないよ。」
否、エゴかもしれないけれど。ぽつり、呟きながら、林さんは目もとをふっと緩めた。途端、いつも通りの少しだけ眠たそうな、柔らかな目元に戻る。
「僕はそのお節介にありがたくお世話になりたいですよ。」
「…、本当に?」
「本当に。」
にこり。笑った表情は、いつぞやか玄関の前で見送られた時と同じものだった。それに私も笑って返す。
「味の保証はしませんけどね。」
「うん、期待してるね。」
精一杯の笑顔も、林さんの余裕たっぷりなリアクションで無に帰す。少しだけ面白くない。煮魚の他のメニューがなかなか決まらなくて、もういいやとピーマンとひき肉を買ってみる。ピーマンの肉詰めなんてどうだろう。多分一人の食事じゃあ絶対に作らないメニューだ。
「あ、いた!」
不意に背後から呼びかける声。振り返れば一人フリーズした状態で放置されていた本間さんが、少しばかり不機嫌そうに唇を尖らせていた。気づけば、話しながら結構私と林さんは移動していたみたいで。入り組んだスーパーの売り場の中、本間さんは私たちを探すためにしばし奔走していたらしい。
「ごめんなさい、置いて行っちゃって。」
「本当だよ、ひどいよなー。」
「本間さんは置いていかれるくらいでむしろちょうどいいでしょ。」
「善博ー!」
ぎゃあぎゃあとやり合う二人は、少しばかり幼く見えて可愛らしい。くすりと唇の端で笑って、食材の物色に一人戻る。お味噌汁は、お豆腐と油揚げでいいだろうか。笹井家の鉄板メニューだったのだけれど。むう、と顎に手を当て、しばし悩んでやっぱりこれにしてしまおうと手に取る。はて、あとは足りない野菜メニューをどうするか考えよう。
「陽子ちゃんー。」
「はい?」
「一人でサクサク行かない!また探すことになるだろ?」
「あはは、ごめんなさい。」
背後から手に持っていたお豆腐と油揚げを取り上げられて、振り返ればやっぱりいたのは本間さん。と、林さん。林さんは呆れたように微笑んでいる。なんというか、二人のパワーバランスが見えてきたような気がする。
「お味噌汁と煮魚と、ピーマンの肉詰め、他に何かリクエストってあります?」
「野菜少なくないか?」
「そこが問題なんですよ!」
「適当に野菜炒めでいいんじゃないの?」
「…適当ってところが嫌です。」
ぎゃあぎゃあと。今度は三人でじゃれながら残りのメニューを考えていく。結果、煮魚が手のかかるメニューなんだからと手間のあまりかからない野菜炒めで丸く収まった。意見をまとめるまでに私が拗ねて、林さんに適当という発言を撤回してもらう、という私以外からすれば七面倒な場面もあったのだけれど。
「って、会計陽子ちゃん持ちは却下な!」
「え、」
「却下。」
「な。」
「うん。」
レジでお財布を出そうとしたら、両サイドから伸びる手にそれを阻まれる。びっくりして二人を見やれば、瞬間的に割り勘で金額を計算した林さんがぼそりと本間さんに金額を告げて、二人が勢いよく会計を済ませてしまう。
「え、ちょ!」
「作ってもらう側だからこれくらい当たり前だろ。な?」
「いやいやいや!」
正直三人前の食材を二人で割り勘とか、明らかに外食より高くなる。だめです、嫌です、と駄々をこねるけど、二人もそこだけは譲る気がないらしい。終いには本間さんに、じゃあご飯食べないとまで言われてしまって、仕方なく、限りなく不服だったけれど口を噤むしかなかった。むう、と拗ねた顔を隠すこともなくパンパンに詰まったレジ袋を持てば、それを取り上げようとする二人の手。それからくるりと身を翻して逃げた。
「お会計させてくれないなら、荷物持ちします!」
「えー…。」
まじか、と頭を抱える二人に、してやったり、と笑ってみせる。にかりと元気良く笑えば、一本取られたと本間さんが笑ってくれる。林さんも諦めたようにそれに続く。じゃれあうように雑談をしながらマンションに帰り、並んだ玄関の前で鍵を取り出して私たちも並ぶ。
「荷物置いてから陽子ちゃんの家行けばいいよな?」
「そうですねえ。でもすぐにはできないですよ?」
「じゃあ、面倒だろうけど連絡してもらう、とか。」
「嫌だ、俺は手伝う!」
「手伝わせません。」
「一刀両断、だと…!?」
個々の主張が笑えるくらい噛み合わない自分たちに、思わず笑いが溢れる。結果、荷物を置いて落ち着いたタイミングで二人がうちに来ることでまとまり、私は笑い続けながら鍵を開け、家に入った。
「じゃあ、待ってますねー。」
「おう。」
「またすぐあとで。」
「はーい。」
パタン、閉じた扉の中で、玄関先の靴を端に並べる。アルバイト用と普段用のスニーカーとパンプスをきちんと並べておいて、キッチンに買ってきた食材の詰まったレジ袋を置く。別段片付けができないわけでもないから、すぐに二人がこの部屋に来ても困らない程度の状態ではあるはず。大丈夫、だよね。不安になりつつも、きっと大丈夫だ、と自己完結しておく。羽織っていた上着とカバンを下ろして、初めて使う客用の座布団を引っ張り出してから、エプロンをつけた。
二人は、煮魚の下ごしらえ中にやってきた。ピンポンとなるインターホンに、数メートル移動して対応する。
「いらっしゃいませ。」
「よ!」
「…どうも。」
へらりと笑う本間さんと、どことなくそわそわしている林さんのコンビの様子が、少しだけ面白かったのは内緒だ。二人は室内に入ると、すぐに料理に戻った私の背後、室内をしげしげと眺めているようだった。汚くはないけれど生活感がする程度には散らかっている室内。あまり見られるのも恥ずかしい。訴えれば、ごめんな、なんて軽い謝罪が聞こえて、二人が座布団に腰を下ろす気配がした。
「いいよな、女の子の料理する後ろ姿って。」
「本間さんが言うと変態っぽく聞こえるけど。」
「んだと!?善博は何とも思わないっていうのか?そんな事ないだろ?」
「…まあ、可愛いとは思うけど。」
「ちょっと何変なこと話してるんですか!」
背後の男二人の会話に、さっと顔が赤くなる。二人に特に他意はないのだろうけれど、可愛いとかあまり言わないで欲しい。別に見た目を評する意味ではないと分かっていても、少し困ってしまう。というかだいぶ困る。男の人からそんな風に言われたことが全くないのだ。親戚のおじさんを除くが。
もう、と溜め息を吐く間に炊飯器が音を立てる。食器棚から自分のものと客用の茶碗やらお皿やらを取り出し、盛りつけ開始。煮魚を崩さないようにお皿に乗せきったところで、背後に人の気配を感じた。
「どうしました?」
「盛りつけ、手伝うよ。」
笑う本間さんに、どうしようかと悩むこと数秒。そういえばさっき別れる前、手伝うと声を上げていたなあ、と思い出し、フワと笑ってみせる。
「嫌です。」
「ええ!?」
「嘘です。じゃあ、お味噌汁お願いしてもいいですか?」
「…陽子ちゃんが酷い…!」
「本間さんのせいだよ。」
「善博まで!」
「騒ぐならやらないでいいです。」
「やります!黙ります!」
本間さんと林さんは本当に仲がいい。やりあう二人を見て、思わずくすりと笑みがこぼれた。お盆に載せるほどの距離ではないから、盛りつけが終わった順にお皿を運ぶ。煮魚、ピーマンの肉詰め、野菜炒め、お味噌汁とご飯と、作りおきだけどおから炒めも。並べれば、一人暮らし用にしては大きいけれど、実際そこまで大きくはないテーブルがいっぱいいっぱいになっていた。
「うまそう!」
「うん、美味しそう。」
「味の保証はしませんよー。」
豪華な食事になったなあ、と無駄に客観的に思っていれば、二人の心なしか浮かれたような声。それに水を差すように、照れ隠しの言葉を呟けば、満面の笑顔が返される。
「はいはい、照れ隠しすんなー。」
「あ、煮魚うまい…。」
「本当です!?」
ぽんぽんと宥めるように私の髪を撫でる本間さんに、ぎゃあ、となっていれば、その隙にメインの煮魚を口にした林さん。ポロリとこぼれた感想に、思わずガタ、と反応してしまった。
「うん、すごい美味しい。」
「お、マジだ。」
「よ、よかった…!」
にこりと笑う林さんの横で本間さんも煮魚を一口。そうして目を丸くして美味しい、とつぶやいてくれるから、思わずガクリと肩を落として息を吐いた。ほっとした。別に料理が苦手なわけではないけれど、でも特別上手いわけでもないから心配だったのだ。それでもそんな私の安堵など他所に、二人はパクパクとどんどん食べ進めていく。嬉しい。
美味しいと言いながら勢いよく食べてくれる二人の姿に幸せを感じたのも束の間。大皿に盛り付けていたはずの野菜炒めが半分ほどにまで瞬殺されているのを目にし、食いっぱぐれる!と慌てて私も箸を持った。既に残り少なくなっているピーマンの肉詰めを一つ死守。野菜炒めも少し手元の小皿に取り分ける。煮魚は思っていたより出来が良かったらしく、というか使った白身魚が、甘めの身だったからか、いい感じになっていた。ほろほろと崩れる魚を咀嚼していれば、なあなあ、と肩を揺らす本間さんの大きな手のひら。はい?と目線をやれば、想像以上に真剣な眼差しがそこにはあって、ちょっと驚いてしまう。
「陽子ちゃん、これまた作ってくれって言ったら怒る?」
「こんなんでいいなら、別にいいですけど。」
「あ、僕も食べたい。」
まさかの懇願に、曖昧にうなづく。するとさらにまさかな同意が反対側から聞こえてきて、一瞬ポカン、と惚けてしまった。
そんなこんなで、三人での夕食がデフォルトになったのはこの日からのことでした。