第一章 笑顔をばら撒く人
携帯のアラームが耳元で騒がしく鳴った朝。ベッドから起き上がればそこは、まだ見慣れない私の城だった。引っ越しでダンボールがまだ少し残る、ワンルームの城。ベッドから降りてカーテンを開ければ、眩しいばかりの光が室内に差し込んだ。眩しい。
「…よし。」
ひとつ気合を入れて、冷たい水で顔を洗い、お湯を沸かしながら、ミドリさんが昨日くれたパンをかじる。
昨日。ミドリさんのご好意に甘えて、私と本間さんは大家さん宅で引っ越し蕎麦という名の夜ご飯をご馳走になった。そこで私は、色々な話、主に近所のスーパーのセール情報だとかをミドリさんから教わった。食後は、そろそろご帰宅であろう一階の住民の皆様にご挨拶。帰りには、明日の朝ご飯用に、と菓子パンまで頂いてしまった。流石にそこまでは、と遠慮しようかと思ったのだけれど、何でも私の入居で、一年ぶりに満室となったらしく、ミドリさんはいつも以上に浮かれていたらしい。ぽそり、と大家さんに呟かれては受け取らないわけにはいかなくて、何だかんだと全室の挨拶についてきて下さった本間さんと菓子パン片手に帰路についたのだった。
シュンシュンと沸騰を告げるヤカンから直にマグカップにお湯を注いで、熱々のコーヒーを喉に流し込む。寝起き特有のぼんやりとしていた思考回路がすっきりとしていく。
今日私がやらないといけないことは、大きく二つ。まずは街に出て街を知ること。ついでに持ち込みきれなかった生活必需品と食べ物の買い出し。後もう一つは、アルバイト先を探すこと。これはかなり重要で、しかも急務だ。どうにかして一週間以内に目星はつけたい。今はまだ三月。とにかく新学期の始まる四月の頭までには決めておきたいところだ。
「あ、林さん。おはようございます。」
「あ…。」
着替えを済ませてからの行動は我ながら、結構素早かった。鞄に財布と、真新しい鍵のついたキーケース、それから携帯だけを突っ込んで部屋を出る。鍵を閉めていると、近付いてくる人の気配を感じた。顔を上げれば、昨日挨拶をしたばかりの隣人。どうやら今お帰りの様子の林さんが、ドアノブに手をかけていた。
「おはようございます。えっと、…笹井さん、でしたよね。」
「はい。覚えて下さっててよかったです!」
目は少し泳いでいたし、若干しどろもどろな感じも伝わってきたけれど、林さんが話して下さっている。昨日は必要最低限の挨拶しかできなかった相手だ。これから少なからずお隣さん、関わりもきっと多くなるはず。ただお話ししているだけなのに嬉しくなって思わず笑みも深くなった。それに、昨日本間さんから、嫌った訳じゃないと言われてはいたけれど、でもこうして実際にお話しして、やっと安心したというのもある。
「…お菓子、」
「はい?」
「…美味しかったです、ありがとうございました。」
何を言われているのか一瞬分からなくて、目をぱちくりやっていたものの、すぐに思考は追いつく。どうやら昨日の菓子折りが話題らしい。
「良かったです。甘いもの、お好きなんですか?」
「…まあまあ…?」
にこにこと問いかければ、何とも微妙な反応。どっちなんだろう?と疑問符は残ったけれど、ここで今更ながらハッとした。
「って、ごめんなさい!お引き留めしてしまって…すみません…。」
一体何をやっているんだか。話せて嬉しかったのは事実。だからって明らかに帰りがけっぽい林さんを玄関前で引き留めて話し込むなんて、馬鹿じゃないのか。例え初対面で嫌われていなかったとしても、これで図々しい奴と嫌われかねない。
ああああ、と絶望感に苛まれながら謝れば、不意に、頭上でクスリと空気だけで笑う気配がした。今この場にいるのは、私と林さん。と言うことは、今笑ったのは?
「そんな謝らないで大丈夫ですよ。」
ふわり。浮かべられた笑みは柔らかくて。思わず、見とれてしまった。
「笹井さんこそ、大丈夫ですか?」
「え、あ、はい!私は、別に、その…えっと、」
時間、と続けられた言葉に、見とれて固まっていた私は、慌てて首を振る。そんな私の様子がおもしろいのか、林さんは笑顔のまま。
「お買い物ですか?」
「っはい。」
ぶんぶんと勢いよく首を振れば、林さんは堪えきれず、といった風に、のどの奥でクツリと笑った。
「気をつけて行ってらっしゃい。」
「行って、きます。」
林さんに見送られて、ふらりとした足取りでマンションを後にする。バクバクとうるさい心音は耳の奥で直に聞こえるし、きっと今の私の顔はきっと真っ赤だ。
「天然タラシ…!?」
もしかしたら隣人は、ただの人見知りさんじゃなくて天然タラシかもしれない。ぐるんぐるんと渦を巻く思考のまま、私はとりあえず、昨日ミドリさんに教えられた駅前の商店街へと向かった。
細々した生活必需品や、明日以降の食生活のための食品やら。買わなければならないものは思っていた以上大量にあって、お昼を過ぎてようやくある程度買い物を終えた私の両手は、大量の買い物袋で塞がっていた。手が痛い。限界値に挑戦中のビニールが手のひらに容赦なく食い込んだ。とりあえずどこかしらで一度手を休めなければ無事に帰宅するのは難しいだろう。そう思って目に付いた、駅前の全国チェーンのコーヒーショップに足を向けた。
「カフェラテと…サンドウィッチのセットで。」
「かしこまりました。六百円でございます。」
気づけば昼ご飯も食べぬままひたすらに買い物に集中していた。いい加減お腹も減ったなあ、と、店長イチオシ!貼り紙のされたセットメニューを頼んで、カウンター席に荷物を置く。そこまできて、やっと一息つけた気がした。
足を休めたのは、きっと朝家を出発して以来。そう思えばどっと足に疲労が蓄積されているような気がして、重たく感じた。すぐに運ばれてきたカフェラテとサンドウィッチを口に運べば、歩き回って空っぽに近くなっていた胃に染み渡っていくように思えた。少し大げさだけれど。暖かいカフェラテにほっとしながら、別に寒くもないのにカップを両手で包み込んで指先を温める。何に対して、ということはないけれど、少し安心した。
「…はあ、」
ぼうっとしながらも、考えるのは自分自身が身を置く新しい環境のこと。主にお隣さんに対してのこと。本間さんは昨日だけで、年の離れたお兄ちゃん、のような感覚を抱き始めていた。これは別に本間さんからそう言われたから、というのが理由ではない。確かに実年齢は四十代、らしいのだけれど、でも本間さんは話しているとすごく若い、内面が。もしかしたら私が老成しているキャラクターなのかもしれないけれど、それを差し引いても若い。もちろん見た目も、年齢にしては若いのだけれど。
少し長めの跳ねた襟足が印象的で、背はそんなに大きくないけれどがっしりしているからか、大柄に見えて。服装の傾向は、昨日の印象的に、エンジニアブーツとライダースをサラっと着こなすタイプ。笑うと目尻にシワができて、くしゃっとした可愛らしい表情になる。多分、若い頃はモテたんだろう、というか遊んでたんだろうな、という感じ。そして今もきっとモテているに違いない。ミドリさんの手料理をいただきながらそう、思ったことを伝えれば、そんなことない!と慌てて否定されていたけれど、きっとあのリアクションは遊び人だったに違いない、と妙な確信を抱いた。
本間さんはどうやらあのマンションで二番目に長く暮らしていらっしゃるらしく。マンション内だけじゃなく近隣住民の方含め、結構いろんな人の相談役をすることが多いらしい。それを聞いて納得したのは内緒だ。話しやすいのだ、本間さんは。昨日だけで私も、どれだけいろいろなことを話したことか。とにかく、話しやすいし、的確と思われるアドバイスをくれる、という安心感、そして相手を否定しない包容力が感じられて。すごい人だなあ、と、昨日だけで思った私は、そのまま直ぐに本間さんに懐いてしまった。
そして一方、逆隣の林さん。今日の朝は、本当に驚いた。そして嬉しかった。昨日、挨拶の時。事故的に触れた指先に、気まずそうな表情を浮かべられた瞬間、背筋を嫌な汗が伝った。嫌われたのだろうか、何かしてしまったのだろうか。本間さんには慰められたけれど、やっぱり心の底には不安が沈殿していた。それを一晩経ってから拭ってくれたのは、林さん本人だった。昨晩とは打って変わって、普通に、といっても口は重そうだったけれど、それでも話してくれたことがすごく、嬉しかったし安心できた。
林さんは、本間さんの情報によると二十代後半、らしい。ふわふわとした色素の薄い髪、前髪が少し長くて、全体的なフォルムも、きっと一般的な社会人にしては髪が長いほうだと思う。とはいえ長髪、とまではいかないのだけれど。それに、少しだけ眠そうな目と、薄い唇。肌も白くて、少し女性的な感じもした。でも肌の色が白いからか、薄らと青く見える髭のあとに、どんなに中性的な雰囲気を感じても男性なんだな、と思った。失礼かもしれないけれど。
今日も話していて思ったけれど、林さんの声は少しだけ高い。そして気だるげな雰囲気をまとっている。可愛らしい見た目と、声のトーンに相反する気だるげな雰囲気の醸し出す色気みたいなものが、少し心臓に悪い。というか、挨拶の時の無表情と気まずそうな表情と、笑顔の対比がギャップが凄まじかったのだ。今朝見送ってくださる時に浮かべられていた、柔らかな笑顔。どこか少年っぽさの残る表情に感じて、多分昨日の不安が解消されたことも関係はしていると思うのだけれど、どうにもホッとした、以上の感情を抱いてしまう。可愛らしかったな、とか、ちょっときゅんとしたな、とか。邪な感情だと分かっているし、でもこれがそれ以上、恋愛感情にはなりえないタイプのときめきだというのも逆に分かってもいた。
「ん?」
考えながらサンドウィッチを口に運んでいれば、不意にカウンター横に貼られたチラシが目には入る。そこに踊っていたのは。
「…アルバイト募集…。」
ぽつり、声が漏れる。そこに踊っていたのは私が探していた言葉だった。サンドウィッチが手元からこぼれ落ちそうになって、咄嗟にキャッチする。とりあえずカフェラテを飲んで一息ついて、それから再度、まじまじとチラシを見つめた。割とこっそり貼られてたチラシは、明らかに手作りで、一瞬で私はここに申し込もうと半ば衝動的に決めていた。の、だが。
「お嬢ちゃんバイト探してんのか?」
「ふあっ!?」
不意に近くでかけられた言葉に、ビクリと肩が揺れる。思っていた以上にチラシに集中していたらしい。バッと勢いよく、声の方向に顔を向ける。すると、カウンターの向こう側、先程私にカフェラテとサンドウィッチを運んできてくれたオジサマが、じっと私を見つめていた。
「えっと、」
「見たことない顔だけど、お嬢ちゃんもしかして最近越してきた感じ?」
「え、あ、はい…昨日、」
「昨日?」
結構馴れ馴れしいしグイグイくるオジサマだ。どちらかといえば押しに弱い私は、素直に答えてしまう。若干引き気味で。
「あー…そっかそっか、うん。なるほどねえ。」
私の答えを聞いて、オジサマは顎に手を当てて何やら一人で納得していらっしゃる。それを、ぼんやりと見つめる。何があった。
「もしかして、もしかしなくてもミドリさんとこのマンションに新しく引っ越してきた女の子って君かい?」
「!そ、そうです!」
何でわかったんだろう。疑問符は浮かんだけれど、でもまあ、駅前のコーヒーショップだし、割と私の越してきたマンションは駅に近い方だし、そもそもそんなに大きな街じゃないし。だから、だろうか?なんて安直に思いながら頷くと、返ってきたのは予想の遙か斜め上をゆくリアクションだった。
「やっぱりなー!あ、オレ三○二号室の田中。よろしく。」
「え…!?」
フリーズ。するしかなかった。だってここにもご近所さんというか同じマンションの方がいらっしゃるとか。というかこんなすんなり遭遇するとは。不思議だ。そういえばさっき商店街でもマンションの方が店員さんで、ご挨拶させていただいた。何という遭遇率。某持ち運び可能なモンスターゲームもビックリだ。
「一○八号室に越してきました、笹井陽子です。よろしくお願いします。」
ぺこり、と頭を下げれば、オジサマ、改め田中さんはにこにこと笑って下さった。何というか。昨日含め今日恐るべき確率で遭遇しているマンションの皆さんは本当に人当たりの良い人たちばかりみたいだ。尤も、近所付き合いをしなければならないとなった時点で、ある程度それに耐えられない人は省かれるだろうから、そういう人が多いのは当たり前なのかもしれない。
「笹井ちゃんは今学生か?」
「はい、そうです。」
お嬢ちゃん改め、笹井ちゃん呼びが確定したらしい。そこから、えらくフレンドリーな田中さんのペースにはまって、何で引っ越してくることになったのかの経緯と、バイトを探すちょっと切実な事情をさらっと話してしまった。大学三年生をぽんっと雇ってくれるようなアルバイト先なんて今のご時世少ない。はあ、と最後の方はため息混じりに話しきれば、そこまで笑って聞いていた田中さんは笑みを深くして私に問いを投げかけた。
「何ならうちで働くか?笹井ちゃん。」
「え…いいんですか!?」
思わず大きな声が出たのは不可抗力だ。だって驚いたんだもの。確かにアルバイト募集のチラシは目の前にあるけれども、そんなに世の中簡単じゃないはずじゃないのか。ぽかん、としている私の頭に、田中さんの大きくてゴツゴツした手が降ってくる。
「バイト先探してたんだろ?なら遠慮すんな。嫌じゃなきゃうちで働けよ。」
願ってもみない田中さんの言葉に、思わずじんとした。ありがたいことこの上ない。急いで口元を拭って、膝の上で手を揃え頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
「笹井ちゃん元気だなー。」
あまりにも勢いよく頭を下げたためか、田中さんは少し苦笑い。それに恥ずかしくなって頬を掻けば、接客業なんだ、元気がなきゃ困るだろ、と、フォローされて。田中さんの気遣いに余計に恥ずかしくなったのだけれど、それは言うべきではないと、私も苦笑いを浮かべてみた。
そんなこんなで。初出勤の日程を早速決めて、その際に履歴書を一応形式だけでも良いから持ってきてほしい、と田中さんに頼まれる。そりゃあそうだろう。履歴書がなければ経歴も何も分かったもんじゃない。でも、予想の数十倍、否、数百倍すんなりとバイト先が決まった。これは嬉しい誤算だ。
田中さんにお礼を言って、重い荷物を抱えてマンションまで帰る道すがら、私はひどくご機嫌だった。だってバイト先は見つかるし、街中で偶然であったマンションの方々は皆さんすごく良い人たちだし、朝は林さんと話せたし。良いことずくめ。しかし知らず浮き足立ちながらマンションのエントランスのオートロックを抜け、そこに広がる光景を見た私は、一瞬で凍り付いた。
「…え?」
ドアが一室、半開きになっている。何故。思い浮かぶのは疑問符ばかり。幾らオートロックとはいえ、ドアが開きっぱなしなんて不用心なことこの上ない。住民が開けたまま、なんて考えにくいし、じゃあ、どうして?
恐る恐る近づいていけば、ドアが開いていたのは、私の隣室。林さんの部屋だった。
何があったのだろう、どうしたのだろう。ただ立ち尽くしている私のもとへ、背後から一つの足音が近づいてくる。ジャリ、とコンクリートを踏みしめる音。嫌な汗が、背筋を伝った。
「陽子ちゃん、どうした?」
「ほ、本間さん…!」
誰?そう思って、微かに気を張っていた私の肩を叩いたのは、本間さんの大きな手のひら。びくりと肩を揺らして振り返れば、そのリアクションに驚いたのだろう、どうした?と眉を下げる本間さん。ほっと肩で息を吐いて、それから、あれ、と私のフリーズの原因である半開きの扉を指し示した。すると本間さんはあっさりと、またか、と呟く。え?また?
「ちょっと待っててな。」
「え、あ、はい。」
本間さんは驚くほど躊躇いなく半開きの林さんの部屋の扉に手をかける。そして玄関の靴を確認した後、部屋の中へ入って行った。置いてきぼりで状況もつかめないままの私は一人ポツンと立ち尽くすだけ。もしかしてこれは新手の放置プレイですか。そろそろと、本間さんに倣うように扉に手をかけ、中を覗く。すると中から本間さんが私を呼んだ。
「え、入って良いんですか?」
「来ればわかる。」
多分にやにやしてるんだろう、本間さんの表情が安易に分かる声音だった。お邪魔します、と呟いて靴を脱ぐ。私の部屋と鏡みたいに逆作りになっている、けして長くはない廊下を抜け部屋に辿り着けば、窓際のベッドで眠る林さんとその脇にやっぱりにやにやしていた本間さんが居た。
「善博のやつ、やっぱり眠ってやがった。」
「…えーっと、」
「こいつ結構抜けてんだよ。で、鍵閉めるの忘れるし、下手したらドアも閉まってない。だから、慣れてやってな。」
仕方ない奴、とでも言いたげな本間さんの目線を追って、林さんを見遣る。男性の部屋という感じの、乱雑な室内。ぐしゃぐしゃのベッドにうつ伏せになって眠る林さんは、すうすうと気持ちよさそうな寝息を立てている。というか室内に人の気配を感じないのだろうか。よく寝ているのはいいことなのかもしれないけれど、でも、鍵閉め忘れたり云々含めて、危なすぎやしないだろうか。
「…それって、大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃあないな、本来は。」
やれやれ、といった風な本間さん。でも確か、二番目に長く暮らす本間さんとその次に長く暮らす林さん。それだけ付き合いも長ければ、確かに慣れるだろう。でもそれで許容しちゃっていい問題なのだろうか、果たして。
「いくら注意しても直んないから、皆諦めてんだよなー。」
だから陽子ちゃんも慣れてやって。続けられた言葉に、頷くしかない。まあ別に、驚きはしたけれど何か迷惑だったとか被害があったとかそういう訳でもないし。というか皆が皆慣れて受け入れているのなら、私もそれに倣うまで。と、いうか。
「…林さん、よく眠ってますね。」
「人の気も知らないで、な。」
「ふふ。」
すうすうと寝息を立てる林さんにそっと近づく。朝会った時よりも濃くなった髭と、起きている時よりも幼い表情のアンバランスさ。思わず、ふわふわとした林さんの髪に手を伸ばした。触れればやっぱり、見た目通りの柔らかい指通り。そっと撫でれば、ん、と小さい声が上がって、起こしてしまっただろうかとドキリとする。けれどそんなことはなく、林さんは変わらず寝息を立て続けていた。もしかして気持ち良かったのだろうか。
「善博とはうまくやれそう?」
不意に本間さんが問いかける。ヤバいごめんなさい、一瞬本間さんの存在忘れてました。
「林さん優しいですし、大丈夫ですよ。」
「なら良かった。」
にこりと満面の笑顔で本間さんに振り返れば、私以上の笑顔を浮かべた本間さんに、ぐりぐりと頭を撫でられた。その手の感触はまだ慣れなかったけれど安心できるもので。本間さんに促され、私は林さんの部屋を静かに後にした。
聞いたところ。本間さんが昨日言っていた、林さんの抜けているところというのの大部分は、どうやらドアの事らしかった。本間さん含め一階住民は、林さんの部屋のドアが開いていたら、そっと閉めることにしているとのこと。今日中まで入っていったのは私に林さんの事を教えるためだったらしい。だから今後、林さんの部屋のドアが開いていたら、私も閉めておけばいいと。本間さんから話を聞いて、一頻り頷いた私は、重い荷物を抱え直して部屋に戻った。
買ってきた中で食品で生物は全部冷蔵庫に仕舞って、そのほか、例えばティッシュとかは、適当に置き場所を考えながら仕舞っていく。全部を片づけて、今度は昨日途中だった段ボールに取りかかり。そんな風にしていたらあっという間に時間なんて過ぎていく。ハッと時計を見れば、いつの間にか夜は更けていて、そろそろ夜ご飯を作り出しても、というより食べていても良いくらいの時間だった。広がった荷物を端に避け、空になった段ボールを潰して、手を洗った。
「笹井さん、いる?」
さて、今晩は何を作るか。そんなことを考えているとチャイムが鳴って。扉を開けると、そこには一○四号室の尾形さんが立っていた。尾形さんは初対面の印象がクール、といったふうだったから、なんというか、明らかにお風呂上がりっぽい無防備な格好でタッパー片手の目の前の姿が限りなくギャップに満ち溢れていて、同性なのに一瞬ドキリとしてしまった。美人ってずるい。
「どうかされました?」
「ん、これ。作りすぎたからおすそ分け。食べられる?」
「筑前煮!うわあ、凄く好きです!!」
「そう、良かった。」
差し出されたタッパーの中身は、美味しそうな筑前煮。思わず喜びを素直に口にしたら、尾形さんはふわりと笑った。それまで無表情だったのに、一瞬の笑顔にきゅんとする。可愛い。ってさっきから私は何を考えているんだろう。
「タッパーは適当に、今度返してくれればいいから。」
「え、あの、いいんですか?」
「…作りすぎただけだから。」
タッパーの中身が好物の煮物で脳内お花畑だった私は、尾形さんの一言で一瞬で引き戻される。そうだ、わざわざ持ってきてくださったんだ。でも、どうして?だって私と尾形さんの部屋は隣同士なわけじゃない。明らかにお風呂上がりの濡れた髪で来てくれた尾形さんに対して、感謝と喜び以外に、疑問符が浮かび上がる。それを遠まわしに問えば、尾形さんはフイと踵を返して、そのまま颯爽と部屋へ戻ろうとしてしまう。その瞬間、ちらりと覗いた尾形さんの耳元は赤く染まっていて。
「尾形さんっ!」
きっとこれは、尾形さんの優しさだ。クールな印象に、一瞬で憧れと畏怖を抱いた私に、きっと尾形さんは気づいていたに違いない。近づくきっかけを、尾形さんがくれた。なら私はそれを有り難く掴ませて頂くしかないじゃないか。
「おすそ分け、ありがとうございます。ご馳走様です!」
「ん…どういたしまして。」
踵を返したとき以上に照れたように頬を染める尾形さんは、すごく綺麗だ。にこりと笑ってお礼を言えば、尾形さんの無表情の中にも喜色が浮かんで見えた。今度こそ帰るため振り返った尾形さんはそのあと一度も、短い距離、振り返らなかったけれど、その姿をきちんと見送ってから私は部屋に戻る。タッパーの中身はまだ温かかったから、お皿に移して、他にご飯とインスタントのわかめスープを添えて、本日の夜ご飯完成。一瞬だった。
「いただきます。」
尾形さんがくれた筑前煮はすごく美味しかった。でももしかしたら、本当の美味しさ以上に美味しく感じていてもおかしくはないのかもしれない。だってすごく嬉しかったのだ、尾形さんがわざわざおすそ分けに来てくれたこととか、タッパーが見るからに新しいこととか、色々。
「…幸せ、だなあ。」
ぽそりと呟くのは本音。昨日引っ越してきて、それで今日。まだ一階の方がほとんどだけど、でも街中でも同じマンションの皆さんにご挨拶して、皆さん良くしてくれて。そりゃあ、初日なんだから、当たり前かもしれない。それでも、初めての一人暮らしで心細かったというものもあって、なんというか、ひどく安心したのだ。バイト先がすんなり決まったりだとか、そういうのも、全部含めて。
ここで暮らしていくという事。それは、自分一人で何でもできなくちゃいけないということ。つまりは周りの人との支え合いを築くのも自分自身だ。大丈夫、きっとやっていける。根拠のない自信を抱いて私は、その夜初めて自分の新しい家で一人での食事を終えた。
後日、筑前煮の入っていたタッパーに、切り干し大根を作って尾形さんの部屋を訪れたのは別の話。