第十二章 進み続ける秒針
泣き疲れて眠ってしまえたら、幾ばくか楽だったはずだ。
林さんのライブの翌日、私はここ数年で、もしかしたら人生で一番最悪な体調で朝を迎えた。それもそのはず、昨日は横浜から帰ってきて、すぐにシャワーを浴びてベッドに潜り込んだというのに、一睡もできなかった。もしかしたら途中で何度か意識を飛ばしていたかもしれないけれど、それでも、ずきずきと胸が痛んで、すっとみぞおちの辺りから体温が抜けていく嫌な感覚を抱きながら朝を迎えた。一滴も、涙は溢れなかった。
枕元で充電器につながれたまま放置された携帯には、夜分数件のメールが入っていた。バイブレーションでメールの受信には気づいていたが、開く気にはなれなかった。とはいえ、いつまでも放置しているわけにもいかない。一つ息を吐いて、受信ボックスを開く。
「…林さんと、本間さん、」
メールの送り主は案の定二人だった。林さんからは、昨日はごめんね、とひたすら謝罪が綴られていた。嫌な気にさせたよね、ごめんね。その一文を、どんな気持ちで林さんが打ち込んだかはわからない。せめてライブが、笹井さんにとってそれ以上に楽しかったものなら、救われるんだけど。そんな文章で締めくくられた林さんからのメールは、文面から後悔や寂しさみたいなものが感じられて、読んでいて胸が痛くなった。
一方の本間さんからのメールは、昨日はちゃんと帰れたか?なんて、いつも通りのテンションだ。恐らく林さんがたくさんのごめんねをメールに込めるだろうことを予見していたに違いない。あまりにもいつも通りで、けれど最後には、あまり気にしすぎないように!なんてありがたいアドバイスまで添えられていた。年の功にはやはり敵わない。
「…えっと、私こそごめんなさい、と。」
急に帰ってしまったことのお詫びは、二人ともに。そして林さんには、むしろ私のせいで林さんが嫌な気持ちになってしまっただろうことを謝っておく。本間さんには、アドバイスへのお礼だ。ぽちぽちと打ち込んで、送信までしてからグッと体を伸ばした。起き抜けよりは気分も体調もいいかもしれない。あとはとにかく、気にしないでいられるよう気持ちをすっぱりと切り替えなければ。切り替えさえできれば、きっと大丈夫。根拠のない自信に一つ頷いて、ひとまず顔を洗うために、ベッドからようやっと抜け出した。
その日は、とにかく頭を空っぽにしてしまいたくて、いつもよりレポートに没頭した。大学の図書館、窓際に数席だけ設けられている間仕切りで確立されたLANケーブル完備の個人用スペース。そこに大量の参考図書を持ち込んで、ゼミの研究室から拝借してきたノートパソコンで無心にタイピングする。来年に控えた卒論に向けて、前準備と課されたゼミのレポートを一気に書き上げてしまう。それからついでに、卒論よりもっと間近に控えた就職活動に向けて、ポートフォリオのラフもまとめてしまう。バイトのシフトの入っていない日でよかった。ハッと気づいた時には、窓から見える空はすっかり夕暮れだった。濃いオレンジ色が、濃紺の夜を空の端から引きずり出してきている最中。逢魔が時、という表現がぴったりとあてはまる光景だった。
「…あ、」
急いで帰らなければと本を片付け、ノートパソコンを研究室に返しに行く途中、カバンの中でしつこく振動する携帯電話に気づいた。慌てて引っ張り出せば、ちょうど切れてしまって静かになる。確認すれば、一時間ほど前から数件のメールと着信が残っていた。それはすべて、本間さんと林さんの名前だ。林さんの名前に、ぎゅ、と胸が軋む。どうしたものかと悩んでいると、手の中でまた携帯電話が振動する。思わずボタンを押してしまって、そそっかしい自分にため息をつきたい気持ちをぐっとこらえて、それを耳に当てた。
「もしもし。」
「あ、笹井さん?今どこにいるの?」
「大学です。すみません、メールとか…全然気づかなくて。」
「ううん、いいよ。ただ、本間さんがバイトないみたいだけど帰り遅くないかって騒ぐから…。」
「あはは、すみません。もっと早く切り上げるつもりだったんですけどね。急いで帰りますから、大丈夫って伝えていただけますか?」
耳に押し当てた携帯から聞こえてくるのは、少しだけ慌てたような林さんの声だった。カラカラと何でもないように笑いながら言葉を紡げば、林さんもわかりやすくほっとしたような声になる。これはきっと、帰りを心配した以外にも、昨日のことも関係しているのだろう。けれどよかった、普通に、話せているらしい。ほっとしたような林さんの声音から何となく悟って、私は思わず一つ、安堵から息を吐きそうになってしまう。けれど今それをすれば、訝しがられるのはわかっているから、ぐっと耐える。
「大学なの?それなら、迎えに行くよ。」
「え、」
「ちょうど近くのスタジオにいて、僕もこれから帰るところだから。いつもの駐車場で待ってて。すぐ行くから。」
「…はい。」
林さんにしては珍しく、こちらの都合を聞くよりも先に主張を押し通すような言葉選び。それにあっけにとられながら頷くと、慌ただしく電話は切られてしまう。何にそんなに、慌てているんだろう。小首をかしげつつ、研究室への歩を再開した。
暗くなった構内を早歩きで抜けて、待ち合わせに指定された駐車場へ向かう。ぐるりと見まわしても、まだ林さんの車は到着していないようで、急ぎすぎたかと一つ息を吐いた。携帯電話を取り出せば、受信メール一件の文字。
「…気にしないで、良いのに。」
帰りがけに捕まったから、十分くらい待っていてほしい。その言葉に、苦笑いがこぼれた。忙しい人なのだ、本来。そんな人が私にばかり構っていて良いわけがない。ごめんね、というその一言を打ち込むくらいなら、最初から迎えに行くなんて、そんな優しさを私に与えなければいい。
「笹井さん!」
「林さん!ごめんなさい、お手数おかけして。」
研究棟の壁側に並ぶ花壇とベンチ。ギリギリ駐車場が見える位置に陣取って、何をするでもなくぼんやりとしていたら、目の前を見知った車が通り抜ける。慌てて立ち上がれば、運転席の窓が開いて、眉を下げた表情の林さんが顔をのぞかせた。
「僕だって帰るついでなんだから気にしないで。買い物寄る?まっすぐ帰る?」
「ありがとうございます。そしたら、ちょっと寄ってもらっていいですか?寄らなくても平気なんですけど、買い足したいものがあって。」
「うん、いいよ。そしたら行くよー。」
「はーい。」
林さんは二人きりで車で帰る時、いつもこうしてスーパーへの買い出しに付き合ってくれる。急を要さないけれど、ないと心許ない調味料の予備を買いたいとお願いすれば、快く頷かれた。そして静かなエンジン音が車内に響き、するりと車は走り出した。
「何買うの?」
「ソースとお砂糖の予備がなくって。」
「あー…僕らも使ってるし、減り早いよね。」
「うーん…別にそれで、じゃないですよ?」
「そう?」
「そうですよ。あ、林さん、今日の夜、あと一品悩んでるんですけどどうしましょうか?」
「煮物!」
「ですよねえ。」
二人で買い物かごを交互に持つのもだいぶ慣れた。一つ品物をかごに入れるたびに持ち手を交代していく。そろそろかぼちゃの季節だし、かぼちゃの煮つけが食べたいかもしれない。鶏ひき肉がこの間安かったから冷凍庫に入っているし、前にも作ったことがあるけれどひき肉あんかけを上にかけたら美味しい。煮物というリクエストからサクサクと追加の買い物をかごに追加して会計を済ませる。かぼちゃ重たいでしょ?と林さんは車までの距離も、マンションの駐車場から部屋までの距離も買い物袋を渡してはくれなかった。
「…じゃあ、また、後で。」
「はい、待ってますね。急いで作りますから!」
「うん。ありがとう。」
部屋の前で別れるとき、少しだけ林さんが何か言いたげな表情を浮かべていて、それがどことなく引っかかる。けれど林さんは少しだけ言葉を選んで、それから小さく口をつぐんで、結局その、つむごうとした言葉を飲み込んでしまったようだった。にこりと浮かべられた少しだけ陰のある笑顔に胸の内が小さく痛む。それをごまかして私も、いつもどおりを心がけて笑顔を浮かべて部屋に入った。私が部屋に入ったのを見届けてから林さんの部屋の玄関が音を立てるのが玄関の壁越しに聞こえる。
「…はあ、」
玄関脇の壁に寄りかかって、思わずため息がこぼれた。何をしているんだろう、何がしたいんだろう。近づいた気になって、近づいてもいない距離を改めて自覚して勝手に傷ついて、恋心とはだから厄介だ。高望みなんてしない、今以上なんて望まない、そう思い続けている、はずなのに。
「支度、しなきゃ…。」
ぽつり、つぶやいてどうにか体を動かす。少しずつ何かが軋んでずれていく感覚を無視することしかできなかった。気づかないふりをするしか、できなかった。それがどれだけそのあとの自分を追い詰めることになるかなんて、この時の私には、一切想像できなかったのだ。
*
表面上は今まで通り。お互いの胸中まではわからないけれど、何かがあっただなんて傍から見たら分からない程度にはすぐにお互いの気まずい空気感を消すことはできた。言ってしまえば林さんが少しばかり強引に迎えに来てくれた辺りで、何となく三人が三人、何もなかったと見なかったふりをしたのだと思う。それで表面上は、きれいに凪いでいた。けれど、張りぼてのそれがいつまでも続くわけではない。
「陽子ちゃん、大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。バイトも、痛手ながら多少シフトこれから減らしてもらうことになりましたし。」
「うちが結構痛手だからな、笹井ちゃん。」
「ご迷惑おかけします…。」
大学三年生の秋。冬も見えた肌寒い季節、就職活動が本格化した。バイトのシフトも減らしてもらって、その分を就職活動に充てなければならない。大学の授業は必修の単位は卒論以外取り切っていたし、卒業必要単位数も、実をいうと四年生の後期まで一科目ずつ取れば問題ない程度まで取っている。だから生活のための最低限のシフトに入り、あとはすべて就職活動に専念できる状況だった。とはいえ私が目指している業種が比較的狭き門であること、そこに加えて現状の就職難といわれる時勢がある。少しばかりナーバスにもなっている私を、本間さんはカウンター席で今しがた私が出したコーヒー片手に気遣わしげに眺めていた。
「まあ、笹井ちゃんならどうにでもなる!俺が保証する!」
「田中さん…!ありがとうございます!」
どや顔で私の背中をたたいてくれる田中さんの手が、痛いけれどそれ以上に嬉しい。今日のシフトもそろそろ交代時間だ。ユキちゃんが来るまでに洗い物を片付けてしまおう、と私は制服の袖を捲り直して洗い場に立った。
「…陽子ちゃん、無理してないか?」
「何がですか?」
林さんが大学まで迎えに来てくれるのと同じくらいお馴染みになった、本間さんと並んでのバイトからの帰り道。言いにくそうに問われた言葉に、きょとんとして返す。本間さんは何をそんなに心配しているのだろう。そりゃあ、就職活動が大変なことも、これからが忙しくてどうにかなってしまいそうになることも重々承知している。けれどもまだまだ序盤のこの時期にこんなにも心配がられるなんて、何かあったのだろうかと、思わず隣の本間さんをのぞき込んでうかがってしまった。
「なんか、焦って見えるんだよな。今の陽子ちゃん。あのライブの後からずっと。」
あの、ライブ。その言葉にピタリと足が止まってしまった。数歩先に行ってしまってから、本間さんが私が立ち止まったことに気づいて足を止める。本間さんの言うあのライブとは恐らくというか確実にあの横浜の出来事のことで、でも私たちは多分、誰もそこに何か禍根が残ったなんておくびにも出さずあの後過ごしていたはずだ。なのに、なぜ。ぐるぐると疑問符が思考を巡って、思わず縋るような眼差しを本間さんに向けてしまった、気がする。
「…何となくなら、分かる。陽子ちゃんがピリピリしてる理由も、予想はついてる。でも、それで張りつめちゃダメだ、もっと善博と、俺を頼れよ、な?」
「…本間、さん、」
ひゅ、と喉が小さく鳴った。だって、だって、だって。微かに走ったヒビから目を逸らさなければ不意に崩れ落ちてしまいそうで、けれど何もしないでそこから目をそらすこともできなくて。結果私は、自分をとことんまで追い込むことしかできなかった。けれどそれで火事場の馬鹿力とでもいえる状態を維持できているのだから問題はないと思っていた。けれどそれを駄目だと言われたら、私はどうしたら良いのだろう。
「ありがとうございます。でも大丈夫です、ただ、ちょっと就活でナーバスになってるだけですよ。」
ぐるぐると定まらない思考で、どうにかはじき出した選択肢は、笑って誤魔化す、だった。おそらくは正解ではないであろう選択肢。でもそれが一番私には気楽なものだったのだ。へらりといつも通り笑って、ごめんなさいと眉を少し下げてみせる。それでそれ以上踏み込んではこないであろう本間さんの性格を知っている。案の定本間さんは少しばかり納得がいかないと言わんばかりの不服そうな表情を浮かべはしたけれど、やっぱりそれ以上は追求しないでくれた。
就活にもう少し気持ちを持って行きたいからとお願いして、夕食作りもメニューの品数を減らしてもらいつつ継続していた。今日のメインはオムライス。それにアスパラとポテトのベーコン巻き、サラダ。本間さんと林さんがほのぼの会話しているのをBGMに、食べながらも今後のことを考える。夕方の会話が残っているのか、時折ちらりと本間さんがこちらを伺うから、その度に大丈夫と笑ってみせる。それでいつも通り、のはずだったのだ。
「…何かあったの?」
「へ?」
唐突に林さんの気遣わしげな問いが私に向けられる。考え事をしながらゆっっくり咀嚼していた口の中のオムライスを急いで飲み込んで向き直れば、常より深刻そうな表情を浮かべた林さんと目があった。何があったと思わず本間さんに目線をやると、慌てたように首を振られた。
「何かって、どうしてですか?」
「…本間さんには相談してるの?」
「え…?」
視線が一度本間さんに流れたからか。眉間にしわを寄せて、林さんはやるせないと言いたげに一つ溜め息を吐く。二の句がつげないでいる私には、林さんは薄く諦めたような笑みをこぼした。
「僕、お邪魔虫だよね。この状況。」
「善博、何言ってんだ?」
「だってそうでしょ。僕まで夜ご飯お願いしてるの、迷惑でしかないってこの状況なら誰だって思うよ。」
「だからなんでそうなるんだって!」
何が、起きた。すうっとみぞおちの辺りが瞬間的に冷える。本間さんと林さんが目の前で言い合っていて、林さんは私を見限ったような目で見る。どうして。それまでぼんやり考えていた就活のあれこれあんて一瞬で吹き飛んだ。飲み込んだはずのオムライスで少しだけ吐き気を感じた。多分それくらい、私は一瞬で混乱したのだと思う。
「っ、陽子ちゃん!?」
「え、笹井さん…?」
不意に言い合いが止む。二人は二人して、顔色を変えて私を覗き込む。顔色が悪いと騒ぎ出す本間さんに、大丈夫と言いかけて、口を噤んだ。大丈夫じゃない。林さんの言葉にどう返したら良いか、分からない。
「…ごめん、なさい。」
「どうしたの?」
「なんでも、なんでも、ないんです…あの、ごめんなさい…!」
心配をかけたくなくて。何かあったわけではない。ただ就活のプレッシャーがあるだけ、自分でキャパオーバーを起こしているだけ、でもそれを言ったら心配してくれる優しい人たちだからそれを言いたくなくて、けれど大丈夫だと嘘を言えるほど強くもなくて。すとんと、不意に納得する。本間さんが言っていた張り詰めているとはこういうことかと。自分でがんじがらめにしてしまって、動けない。
何を言って良いか分からなくて、でも二人に言い合いをさせてしまったととにかく謝れば、二人は心底困惑したように、大丈夫だからと頭を交互に撫でてくれた。その体温が優しくて、今の私には何より痛かった。
「…えっと、あの、ごめんね。」
「林さんが謝ることなんて何もないです。むしろ本当、ごめんなさい。」
「笹井さんが謝ることは何もないでしょ?」
その日はいつもより少し早く二人は帰ることになった。そして品数を減らして続けて行くはずだった夜ご飯作りも、一時中断としてもらった。帰り、先に部屋を出た本間さんは多くは語らず、ただ一度肩を叩いて出ていった。それを見送った林さんが、言いにくそうに口を開くから、慌てて頭を下げる。
「…夜ご飯も、私が言い出したのに…。」
「大丈夫だよ。気にして僕もちゃんと食べるから、そんなに心配しないで。笹井さんは自分のことにもっと集中して?」
「…はい。」
「…じゃあ、僕もこれで。おやすみ。」
「おやすみなさい。」
ぱたん、と扉が音を立てて閉じる。二人が帰っていった玄関先で私はまるで抜け殻みたいにぼんやりとしながら、ただ、立ち尽くしていた。
ただ一つ胸に残ったのは、帰り際向けられた林さんの背中がどこか私を拒絶しているようで、きっと今までみたいにはいられないんだろうという虚無感と予感だった。




