序章 108号室の住人
大学三年に進級する春。神奈川県のキャンパスから、都内のキャンパスへと通学先が変わった。今まで実家暮らしだった私だが、如何せん通学に片道二時間半は厳しい。サークル活動に勤しみ、これからは就職活動だって始まる。ということで、私、笹井陽子、この度一人暮らしを始めることにしました。
西東京の片隅。駅から徒歩五分。引っ越しを決めたマンションは、一階だけはワンルームで、家賃まあまあ。二階以上は階ごとによって部屋の間取りが変わるらしい。エントランスはオートロックで、大通りに面している。一人暮らしの学生に優しく、家賃に学割がきくという好条件な物件。私が入居を決めた一階の一室は、ワンルームといえどキッチンは広々しているし、お風呂場とトイレは別々だし、何より建物は綺麗。
一階、というところが初めての一人暮らし、不安ではあったけれど、すぐにこのマンションに住むのを決めた。不動屋さんから紹介されて物件を見学に行った際にご挨拶した大家さんが、すごくいい人だったから、というのが大きな理由。それ以上に私の心を射止めたのは、このマンションに暮らすにあたって、一つだけ科される条件だった。
住民は近所付き合いを大切にすること。
元々が実家暮らしだった私は、近所付き合いが結構好きで。朝通学のために家を出て、お向かいさんのおばあちゃんがお花に水をやってるところに挨拶をしたりだとか、旅行から帰ってきたら隣近所にお土産を配って歩いたりとか、そういうのを小さい時から当たり前にしてきた。それを以前、ぽろっと友人に言ったら、すごく驚いた顔をされたのだ。
曰く、近年そこまで近所付き合いの深い土地なんてあまりない、と。友人も実家暮らしだったけれど、近所の人と仲良くしたりという事はあまりなかったらしい。それを聞いて私は純粋に、淋しいな、と思った。一人暮らしをしようと部屋を探し出した時にその友人から、一人暮らしになったら必然的に近所付き合いなんて消える、と言われた。それがずっと心の片隅に引っかかっていて。近所付き合いが希薄、っていうのは確か近年の社会問題の一つに挙げられていなかっただろうか、とかそんな事を思いながら部屋を探していたのだ。契約の決め手になったのは、確実にこの条件。
晴れて進級の決まった私は今日、一人暮らしを始めるマンションに、引越し業者のトラックとともにやってきた。
「あらあら陽子ちゃん、待ってたわよー。」
「大家さん!」
到着と同時に大家さんと大家さんの奥様に出迎えられ、和やかにお話をしながら部屋の鍵を受け取る。そして業者さんに色々お願いだとか指示をしながら荷物を新居に運び込んだ。私の城となるのは、一○八号室。南向きの大きな窓が開放的な、十畳のワンルーム。そこにベッドやらクローゼット、パソコンデスクなんかの大きな家具と、細々した物の詰まったダンボールを運び込んで、お昼過ぎに到着したのに、気づけば夕方。業者さんにお礼を言って見送ったところで、大家さんの奥様、ミドリさんが、お疲れ様、と缶コーヒーをくれた。
「疲れたでしょう?大丈夫?」
「大丈夫ですよー。初めての経験だったので、テンパりましたけど。」
業者さんに、ベッドはこっちでー、だとか、テレビ台はここで、とか、そういった指示を出すのは結構骨が折れた。自分自身ダンボールを開けながら同時進行でお願いしなければならないから、慌ててしまって、うまくいかなかったのだ。素直に告げれば、ミドリさんは、ふふふ、と上品に口元をほころばせて笑った。ミドリさんは小柄で、ちょっとふくよかで、人を安心させるような笑顔がとても素敵な奥様だ。推定年齢五十代前半。多分、私の母よりちょっと上くらい。
「引越しは初めてなの?」
「はい。祖父母と両親と暮らしてたので。」
「あらそう…。じゃあ、隣近所への挨拶、一緒に回りましょうか?」
不安じゃないかしら?そのミドリさんの提案はとてもありがたいものだった。正直、引越しの挨拶ってどうしたらいいかわからない。一応実家から、両隣のお宅くらいには菓子折りを持っていけ、と持たされてはいるものの。初めての経験で勝手も分からないから、どうしたものか、と今まさに悩んでいたのだ。だって挨拶は早いほうがいいだろうし。だけれど突然インターホンを押してご迷惑にならないものだろうか?と、頭を捻っていたタイミングだった。
「お願いしてもいいですか…?」
「ふふ、お節介なおばあちゃんに任せなさいな。」
「ありがとうございます!」
ぺこり、と頭を下げれば、陽子ちゃんは良い子ねえ、なんて、ほんわかしたミドリさんの声が降ってくる。そうですか?と聞けば、最近の若い子の大体は、うちの近所付き合いを大切に、っていう条件が気に食わないみたいなのよー、と残念そうにミドリさんは漏らした。つまるところ、若い、というか学生の入居者はあまりいないらしい。そしてミドリさんは結構な世話焼きさんみたいだ。お母さんとかおばあちゃんだと思って甘えてくれていいのよー、と、契約書にサインした時に言われたセリフでなんとなく把握はしていたけれども。
とにもかくにも、ミドリさんに連れられて、平日の夕方に家にいるであろう住民の皆様にご挨拶に回ることが急遽決定。まずは部屋に戻って両隣の方にお渡しするための菓子折りを取り、一○九号室のインターホンを押した。
「はーい、っと。」
ガチャリ。扉の外にいるのがミドリさんだと確認した上で開かれた玄関。鍵を開けたのは、恐らく四十代くらいの男の人だった。男の人はミドリさんに、どうしたんすか?なんて質問して、次の瞬間、ミドリさんの後ろに隠れるように立っていた私に気づく。
「ん?そこのお嬢さんは?」
「紹介するわね、今日から引っ越してきた陽子ちゃんよー。」
「えっと、お隣の一○八号室に越してきました、笹井陽子です。あの、これ、よろしければ…。」
ミドリさんに促されるまま名前だけ告げて、とりあえず菓子折りを差し出してみる。嫌に緊張して、変な汗をかいている。男の人は菓子折りを受け取ると、目尻にしわを寄せて、ありがとう、と笑ってくれた。
「陽子ちゃんな。俺は本間裕介、よろしくなー。」
ぽん、と頭に降ってくる大きな手のひら。握手じゃなくて頭を撫でられるとは、完全にお子様扱いである。まあ良いんだけど。聞けば本間さんは私の推測通り四十代前半らしく、未だ独身。結構長いことこのマンションに暮らしていらっしゃるそうで、何か困ったことがあったらいつでも頼れ、と言ってくださった。
年の離れたお兄ちゃんだと思いなさい、とちょっと茶化して言っていたけれど、頼もしいことこの上なかった。お兄ちゃんというよりかは親と年の近い本間さんだけれど、ちょっと話しただけでも楽しい方なのがなんとなくわかって、本当に本間さんの言葉通りにしよう、とこっそり心に誓った。むしろ本当にお兄ちゃんに欲しい。初対面だけれど、本間さんの兄貴肌っぽい部分が感じ取れた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします!」
にこりと笑って頷けば、いい子だ、なんてぐりぐりと頭を撫でられる。大学は共学だけれど正直、父親くらいしかまともに男の人と接したことがないから、若干どぎまぎしてしまう。どうリアクションをとればいいのか。
「えっと、」
「ん?ああ、嫌だったら言ってくれな。悪い悪い。」
「いえ、嫌というか、その…。」
困ったように、申し訳なさそうに笑う本間さんに、何と返したら良いか分からなくて思わず口ごもる。あわあわしていると、助け船を出してくれたのはそれまで私と本間さんのやりとりをニコニコ見守っていたミドリさんだった。
「嫌なんじゃなくて、ビックリしちゃったのよねー。」
「なんだ、そっか。ならよかった。」
必死にミドリさんの言葉に無言のまま頷けば、本間さんはほっとしたように笑った。びっくりさせてごめんなと言われて、いいえ、と首を振る。そんな私達のやりとりを見て、仲良くしなさいね、と笑うミドリさんに、勿論、と、本間さんと二人で返した。
「そうだ、林くんの所にこれから行くんだけど、裕介くんも来るかしら?」
「ああ、それならついて行きますよ。」
「えっと、」
「じゃあ行きましょうか。」
状況の飲み込めないまま、ミドリさんに背中を押される。RPGゲームのダンジョンでもないのに、何故か仲間が増えたらしい。背中を押されるまま着いたのは、本間さんとは逆側の私のお隣さん、一○七号室だった。
「あー…陽子ちゃん。」
「はい?」
チャイムに指をかけた本間さんが、ちょっと難しい顔をして、こちらを見やる。それに思わず背筋を正した。この先に、何があると言うんだろう。
「悪い奴じゃないんだ。」
本間さんの言葉の先が見えない。でも何となく、ここに住むという、さっきミドリさんが言っていた、林さん、のことを言っているんだろうと思う。
「ただちょっとなんて言うか…人見知りで。若干抜けてる奴で、うん、まあ…良い奴だから。よろしくしてやってくれな。」
「はい。」
にっこり笑って間髪入れずに頷けば、本間さんはちょっと面食らったような顔をする。でもすぐに笑って、陽子ちゃんならきっと大丈夫だな、と、また頭を撫でられた。それから押されたチャイム、待つこと数秒。
「善博ー?」
ガチャリと音を立てて、ドアが開く。というか、チャイムを鳴らしたはずの本間さんは、そんなに待ってもいないのに躊躇いなくドアノブに手をかけた。それにも驚いたけれど、普通にドアが開いたことにもっと驚いた。ぽかん、としている私の元へ、ちょっと気怠げな、高めの男の人の声が聞こえてくる。
「本間さん、何ですか?」
「喜べ、お前に客だぞ。」
「お客さん?」
それまで本間さんの背中に隠れるような形で立っていた私は、本間さんの言葉に、怖ず怖ずと前に進み出た。菓子折りを胸に抱え込んで。
「あの、お隣に越してきました…笹井陽子です。あの、これ…つまらないものですけど。えっと、よろしくお願いします。」
菓子折りを差し出して、ぺこりと腰を折る。顔を上げたときに、やっと林さんの顔を見た。わざわざ本間さんが断りをいれるから、どんな怖い人なんだろう、と若干身構えていたのだけれど。目が合ったのは、無表情だけれど、若いほんわかした雰囲気の男の人だった。
「あ…林、善博です。よろしくお願いします…。」
ぼそっと、そう言うと林さんは、ありがとうございます、と言って菓子折りを受け取ってくださる。瞬間、微かに触れた指先にビクッと肩を揺らして、気まずそうに林さんは静かに閉じる扉の向こうへとフェードアウトしていった。って、あれ?
「私…嫌われました?」
一瞬。本当に一瞬で終わった接触に、そっと後ろの本間さんとミドリさんを振り返る。すると私の不安を掻き消すように、本間さんはよくやった!と、わしゃわしゃ頭を撫でてくれた。状況が飲み込めない。ぽかん、とする私に、ミドリさんはぽそりと、林くんの人見知りは相変わらずねえ、と呟いた。人見知り?
「善博はかなりの人見知りなんだよ。」
陽子ちゃんを嫌ったとか、そういうんじゃないんだ。本間さんの言葉に私はホッと、胸を撫で下ろす。だって近所付き合いをするのが条件のマンションで、入居初日からお隣さんに嫌われた、なんてなったら泣いてしまう。安堵したのが、あからさまだったのかもしれない。本間さんとミドリさんは、大丈夫と、肩を叩いて笑った。
「まあ、そのうち善博も慣れるだろうし、そうしたら何も不安なんてないだろ。」
「はい…そうですね。」
勿論初めての一人暮らし、不安ばかりだ。でもきっとどうにかなる気がして、私は本間さんの言葉に笑って相づちを打つ。
「陽子ちゃん、今日の夜ご飯、もしなんだったらうちで食べていきなさいな。引っ越し蕎麦食べましょう?」
「良いんですか?」
いきなりのミドリさんの、有難いお言葉にびっくりしていると、ニコニコとミドリさんは、バタバタして疲れたでしょう?と労ってくれた。どうやら、一人暮らしで越してきた新しい住民は、大家さん宅で引っ越し蕎麦を食べるのが習わしらしい。驚いている私の耳元でそっと本間さんが教えてくれて、それにほお、と頷いた。
「そうだ、裕介くんも食べていく?」
「お邪魔します!!」
そんな私と本間さんのやりとりに、ミドリさんが本間さんに声をかけると、まるで待ってました!とでも言わんばかりの勢いで本間さんは手を挙げた。その勢いとリアクションに思わず吹き出せば、少し恥ずかしそうに本間さんは頬をかく。ミドリさんはミドリさんで、裕介くんは相変わらずねえ、と、コロコロと笑った。
引っ越しの挨拶もまだまだ済んでいないし、全然他の部屋の方ともお会いしていないし、正直私が出会ったのは、大家さんとミドリさんと、両隣のお二人だけだけで、これからどうなるかなんて分からないままだ。それでも私は確信する。きっとここでの生活は、楽しいものになる。他にどんな方が住んでるかもわからないけれど、でも、大丈夫な気がした。根拠なんて何もないけれど、それでも、私はここで初めての一人暮らしをきっと、楽しんでやっていけるに違いない。親元を離れてここに暮らすことを決めて良かった、そんな風に、引越し初日の数時間で思えた。
そしてこの時の私の直感じみた思いは、後の数日で確固たるものへと変わっていく。