夢の終わり
限界まで走って彼女の方が先に足を止めた。ただがむしゃらに走って辿り着いたのは、いつか二人で散策に来た山中。
あの頃ちょうど見頃だった紅葉は、今では葉を落としてしまって物寂しい。
夜の雨は二人の姿を闇に隠してくれるだろうが、村からそう離れている訳でもないここも追っ手がやってきたら危ない。
早く離れないと。彼女は繋いだ彼の手を確かめるようにして、もう一度歩き出そうとした。
歩き出そうとして―――握ったその手に留められた。
彼が彼女に連れられて歩くのを止めたからだ。
「どうしたの? 早くしないとみんなここまで来るかもしれない、できるだけもっと」
「……して」
「え?」
俯いた彼が口の中で呟いた言葉は、雨のせいもあってよく聞こえなかった。彼は今度こそ、彼女をまっすぐ見据えて言った。
怒っているようにも見えて、泣きそうにも見える顔だった。
「どうして、こんなことしたんだ。こんなことをしたら君まで巻き添えになる。俺だけがあの中にいれば収まっていたはずなのに」
巻き込んでしまった。彼はただそれを気にしている。
けれど繋いだ彼女の手を離さなかったし、離さない。
だから彼女も手放さない。ただそれだけのこと。
「こんなことになった俺は君から離れるべきなんだ。……ここまで巻き込んでおいて、なのに俺は」
彼女のことを思うなら一刻でも早くその手を離すべきだった。今なら村の人間たちへの言い分も立つ。
このまま彼女が彼を伴っているところを見つかったら、理性と無縁の状態にある村人たちが彼女を彼と一緒になって糾弾しに走る。火を見るよりも明らかだ。
今からでも帰れ。このままでいるよりはずっといい。
そう言って手を振り払おうとした彼の手を、彼女は離すまいと握り締めた。
「先に手を繋いだのは私だよ。こうなることなんて……最初には考えてなかったかもしれないけど、ちゃんとわかってる。危ないからって今から大人しく帰るくらいなら、とっくに走るのなんてやめてる」
あなたと一緒にいるのは私の意志。ただの私のわがまま。だからちょっとやそっとの理屈を並べられたくらいじゃ退かない。
あなたが心の底から私を拒絶するのでなかったら、私が離れる理由にはならない。
私の手を今まで離さなかったあなたが私を望んでくれているって、私は勝手に考える。
「……危ないぞ」
「知ってる」
「今まで君が持っていたもの、全部捨てることになる」
「構わない」
「何にもなくなるんだぞ。それでも俺は君に何も渡せない」
「何も要らない。あなたがいるなら他に欲しいものなんて無い。あなたがいなくなるなら残ったものに意味なんてない」
一緒に逃げよう。
静かに壮大な覚悟を告げた彼女を彼の方が唖然と見つめた。何もかもを投げ出してもたった一つが手に入ればそれで良いと言えるなんて。
彼が繋いだ手を少しだけ強く握り締めた。
その瞬間、前触れもなくざわりと茂みが音を立て、彼と彼女はとっさに気を張りつめた。今度こそ間違いなく繋がれた掌に伝わる熱が互いを励まし合うようにして。
できるだけ遠くへ駆け出そうとした二人の目の前に、全く予想もしなかった方向から飛び出して来たのは黒ずくめの人影だった。それも一つや二つではない、頭の先から真っ黒の布を巻き付け、表情どころか目元も覗かない。同じく黒布に隠された体つきは男なのか女なのか―――信じられないほどの俊敏さで行く手を阻む姿は不気味にさえ感じられた。
装いも行動も雰囲気も異質すぎる。
警戒していた村からの追っ手とは違いすぎた相手に、彼と彼女は訳もわからずに逃げるしかできなかった。
それも足場の悪い雨道を行く間に距離を詰められる。大して足音も聞こえず、足場の悪さに邪魔されている様子も感じられない。彼と彼女は初めて恐怖した。
それは生物が生まれながらに持っている感覚なのかもしれなかった。何をはらんでいるのか知れない夜闇のように得体が知れない。
今度は彼に手を引かれ、からがら走り続けていた彼女に迫った黒ずくめに彼が気づいた。そして力尽くで彼女を別の方向へ引き倒す。
とっさのことでもろに地面に倒れ込んだ彼女が必死に開いていた目に映したのは、彼女に降り下ろされるはずだった黒づくめの腕が彼の額を直撃する瞬間だった。
人体同士が殴り合ったとは思えない硬質な、それでいて鈍い音がした。
黒づくめの腕が動くに合わせて吹き飛ばされた彼はそのまま倒れて動かない。無感情に無造作にその体を引きずり起こしたまた別の黒づくめに、彼女は彼をその手から取り返そうと駆け寄る。
その寸前、彼女もまた後ろから無造作に身動きを捕らえられた。
「離してっ! 何なのよ一体!」
彼女の声が虚しいほどに夜の中空へ溶けていった。必死で抵抗してみせる彼女を黒づくめは微動だにせず捕らえ続け、また同じように全く反応を見せない。
人間らしい感情や空気を全く感じられず、彼女はうすら寒くなってまた逃れようと足掻く。
そんな抵抗も空を掻くようなものだった。
「あんたたち一体何なのよ! 何でっ……!」
私たちがこんな目に遭わなきゃいけないの!
彼女の叫びが夜闇に響いた。
しかし、今度は状況に変化があった。彼女がそう叫んだ直後、黒ずくめたちが緩慢だったその動きをぴたりと止めた。しかし彼女と彼を拘束する力が弱まる訳ではない。
逃げ出すには格好の隙だった。しかし彼女は、唐突に動きを止めた黒ずくめたちに逆に薄気味悪さを感じた。
ひとの成りをしているのに微動だにしない様子は生き物としての何かが欠けていると、直感がそんなことを訴えた。
この見てくれで人でないと思わせるだなんて、それならこれは一体何。
彼女はどうにかしてここから逃げ出して、彼を奪い返して遠ざかりたかった。
自身を捕らえる黒ずくめを引きずってでも彼に伸ばした手がようやく触れそうだったその時。
どうしてお前たちがと、聞いたか。
どの方向から聞こえたのか見当もつかない声が聞こえて、彼女は視界と感覚の全てを奪われた。
あと少しで届きそうだった彼には、結局届かなかった。
* * *
彼女はいつのまにか戻ってきた感覚を感じ、そろりと目を開いた。目が眩むということはない。
ようやく辺りを見回すと、そこは先ほどまで居たはずの森の中でも、見慣れた生まれ故郷でも、それどころか今まで生きてきて想像できた世界の様子ですらなかった。
どこまでも果てが見えない乳白色の景色。それでいて天地の境もつかない、それどころか自分が地に足をついているかどうかすら怪しくなる。
距離感というものが危うくなるような世界の中で、彼女は今の状況を必死に考えた。
いつの間にこんなところに。いやそれ以前に一体ここはどこなのか。―――彼と、あの黒ずくめたちは。
あの恐怖を思い出した彼女はばっと辺りを見回した。けれど景色は変わることなく、むしろ彼女は本当に辺りを見回したのか。見回したような錯覚をしているだけなのではないか。
視界が広すぎて不安になる。同時に狭すぎる気もして不安になった。
「……一体どういうこと……」
恐る恐る出してみた自分の声はしっかりと聞こえた。手も自由に動くし足もある。その下に無ければいけないはずの地面の感覚は感じられないけれど。
ねえ誰か居ないの、と出せる限りで声を張り上げてみた。居るかもわからない彼が応えるかもしれない、例の黒ずくめたちを呼び寄せてしまうかもしれない。賭ではあったが、何もしないでこの訳のわからない空間で時間を無駄に過ごすよりはずっといい。
彼女の声は空しく延びるばかりだった。木霊どころか反響も聞こえない。
どうしよう、と彼女は呟いた。黙っていては自分という感覚すら危うくなってしまう気すらした。
今まではこんな気分になったことなんてなかった。彼女は天涯孤独ではあっても身近には知人が必ずいた。どうしようもない穴を埋めてくれることは無かったけれど、村のみんなは優しかった。―――あんなことになって、恩を仇で返すような真似をしたかもしれない。それでも今も後悔はしていなかった。
そんな風に思えるようになってしまった理由は今となっては簡単だ。
何かを呟いてみれば、どうしたのかと尋ね返してくれるはず。そんなことが簡単に想像できる。彼の存在は彼女の中に溶け込んでいた。
今さらあんな唐突に失われるだなんて考えられない。考えたくない。
とにかく彼女はどうにかこの状況を抜け出して、彼を見つけ出したかった。
探しに行くにしてもどうやって行動すればいいのか。どこかに漂っているような感覚しかない彼女にはその術が見つからなかった。
お前は、あの男を探すのか
彼女の耳に、今までは何も聞こえなかった空間から声が聞こえた。どこかで聞いた感覚のする声だ。
一人の声にも聞こえるし、何人もの声が寄り集まって聞こえるようにも思える。重厚な男の声のようにも聞こえたし、青年のようにも子供のようにも、妖艶な女のようにも聞こえた。
「……誰?」
彼女は空間へ向かって問いかけた。声の主の姿は見えない。辺りを見回してもそれらしい人物は居なかった。
こんな場所でも空耳かと彼女は少しおかしくなった。
あの者のことなら諦めることだ。お前の手には余る
今度こそ空耳ではない。そう何度も聞き違いは起こらない。
警戒心を露わにして彼女が身構えると、目の前の空間に光が集まって見えた。
螢のような淡い光が集まって、ただの球体のようにもぼんやりとした人型のようにも見える何かを形作った。距離のわからなくなるこの場所では、それが手の中に収まってしまう大きさなのか、彼女と同じ程度の大きさなのか、曖昧としてよくわからない。
確かなのは一つ、彼女しかいないこの空間で、語りかけてきたのはこの存在ということ。
「彼を諦めろって、どうしてあなたにそんなことを言われなければならないの?」
そもそも貴方は誰?
彼女は自分でも驚くほどに堂々と尋ね返した。これだけ立て続けに不可解なことが起これば動じなくもなるだろう。
光の集まりは明滅を繰り返し、その様子は彼女の問いかけの答えを探しているようにも見受けられた。
そうしているうちにまた同じように頭に響くような声が聞こえる。耳で聞いているのか頭で聞いているのかわからないが、これがそのままこの存在が語りかけるのに使う声なのだろうと自然に考えた。
言った通りだ。あれはお前の手に余る。だから、取り返しがつかなくなる前に離れることだ
「……彼のこと?」
他に何がある
「色々あるかもしれないじゃない。それに訳のわからないことを聞かされたのならわかることから確認しようと思うもの」
道理だ
思っていたよりも話は進みやすい相手かもしれない。少なくとも一人でいるよりは確実に何かを得られるはずだった。
だからと言ってその言葉は、今すぐ頷くには引っかかるものがありすぎたけれど。
どうも事を急き過ぎたようだな。こちらとしてもお前の了承を取り付けない訳にはいかない。……聞きたいことは山とあるのだろう?
「話が早くて助かるわ。わからないことだらけだもの」
何が聞きたい?
「いま起こっていること、全て」
いいだろう
やや横暴とも取れる彼女の要求、全てを説明しろという簡潔な要請を相手はすんなりと呑んだ。多少なりとも反論されるだろうと想定していた彼女の方が逆に拍子抜けした。
あの者が在り続ければ、幾らもせずに世界が滅ぶ。
けれど、そんな風にあっさりと告げられたことを、そう簡単に呑み込める訳はなかった。
世界が滅ぶ。
何をどう転がしたらそんな大それた話に変わるのか。悪い冗談だ。
笑えない冗談だと思うのに、彼女の口角は知れず上がっていた。いっそ笑い飛ばしてしまえばいいのかもしれない。
それができなかったのはきっと、あまりに話が飛躍していたから。
あの者という言葉で指すのは彼女と一緒に居た彼のことで間違いはない。彼女にそれまで持っていた何もかもを捨てても構わないとまで思わせた、何よりも彼女のことを案じていても最後には彼女の手を取った彼は。
他の誰とも変わらずに笑って話して、そして辛いことがあれば痛そうにもしていた。
始まりは特殊だったかもしれなくても、なにも変わらないただの一人だったはずなのに。
こんな場所でこんな場面で遡上に登って、こんな夢物語のような話に関わってくるような誰かだったなんて思えない。―――思えなかった。
信じられないというのならそれも無理はなかろう。だが事実はただ一つだ
「……頭ごなしに否定したくても、まず話についていけないんだもの。どうかわかりやすく説明して欲しいわ」
そうだな。話はくどくなりがちだ、よって結論と事実から入った。……忘れるな、こちらが何をどう説明しようとお前がどう理解しようと、最後には先のことにつながる。そしてその事実は絶対に揺らがない。
心して聞くことだ。厳かとも言える声色でそう告げて、長い話は始まった。
* * *
世界は、世界の中に住まうものは預かり知らないことだが、決して唯一無二のものではない。
世界が存在する大きな世界の中に、無数とも言える世界が散らばっている。世界を内包した世界すらも、もしかしたらそうした世界の中の一つかもしれない。その全貌全てを知るものは、今のところはおそらく存在しない。
そうして同じ場所を漂う世界は大きさも決して均一ではない。強い世界もあればか弱い世界もある。穏やかな世界もあれば破滅の道しか辿ることができない世界もある。同一の世界は一つとして存在しない。
そして寿命を迎えた、あるいは何らかの形で滅びを迎えた世界は塵と消え、そうした世界の残骸や残滓から新しい世界は誕生する。
世界は同じ場所を漂っているが、世界同士が接触することはまずありえない。世界の成り立ちがそうさせるのか、理由は誰にもわからなかったが、磁石が反発するように互いを避けながら存在する。それが世界を包み込む世界の原則で前提だった。
しかし原則には例外が存在し、前提はあくまで前提でしかない。
ごく稀に何かの弾みや事故、不運が重なって世界同士が接触してしまうことは、誰がどれほど細心の注意を払っても逃れることのできない宿命でもあった。
そして不運というのは得てして重なって巻き起こるものだ。
偶然に偶然が重なって起きた世界の接触。その衝撃と歪みや捻れをすり抜けて、一つの存在が世界を渡ってしまった。
接触によって不安定になった世界に紛れ込んだ異物。本来あるべきでないものの存在は急速に大きな均衡を崩しにかかった。
それは世界全体からみたら些細な均衡の変化だったけれど、着実に平穏を蝕んだ。見逃しておけばいずれ取り返しのつかない事態を招く。
だから、
彼が世界を滅ぼすだなんて壮大すぎることを突きつけられた中で、彼自身が世界の破滅を望んでいることはなかったとわかってほっとした。ほっとした自分の器の小ささに、彼女は嫌気が差した。
彼がどう言われていても関係ないはずだった。彼一人居れば他に何が起こったとしても構わなかったのに。
何か壮絶なことが降り懸かることをどうしても案じてしまう計算高さ、この場合は自分可愛さとでも言えるかもしれない、それらに嫌気が差した。
相手の何もかもを受け入れる覚悟を固めたようでいて、その覚悟は実はひどく脆い。
それを押し殺して、今だけは彼の元へ早く辿り着きたい。
「……だから不安の種になりかねない彼を、今のうちに?」
その通りだ
「彼は何もしていない。私がよく知ってるわ」
在ることがそれだけで世界に取っての毒そのものだ。本来いるはずのない場所に存在する。死者が蘇ることと同等に、あってはならない
「私が彼を捜すことを見越して、この場所へ?」
それもある
他に一体どんな理由があるというのか。それも彼女にとってはどうでも良かった。
彼女が彼を捜すことが何故いけないのか、彼女は納得できるだけの理由を受け取ってはいなかった。
彼の存在が世界を滅ぼすだなんて未だ下手な冗談のようにしか思えなかった。そして、それは彼女の中では重要な何かを訴えることもない。
彼が手に入るなら、彼女は他に大切なものは何も無いのだから。
あの者はどこまでもこの世界の異分子で、こことは異なる世界の因子を常に持っている。ここにあってはならない何かを常に引き起こす。……例えば、荒れる必要のなかった空、降り注がなければならない場所での干魃、蔓延するはずのなかった疫病
彼女の中から何かがさらさらと流れ出していくような感覚がした。聞いてはいけないことを聞いてしまった、今あるはずのない足下が崩れるような気がした。
今、言われたことは、一体何を示唆しているのか。
「……はっきり言って。結論はどう足掻いても変わらないんでしょう? 私に対し抽象的なことを言う理由なんて何も」
あの者がやってきてから起こった異質な事象は、全てあの者が原因で引き起こされた。嵐も干魃も実りの悪さも、お前の肉親を奪った疫病と同じ流行病もな
「嘘」
嘘を言う理由がこちらにない
「だってそんなの、やろうと思ってやれるような何かじゃない!」
そうだ。あの男は何も知らない。何もしていない。何もしていなくとも世界に何かを巻き起こす。そしてそれは得てして災いと呼ばれる何かだ
彼が元々いた世界の性質がそうさせるのだという。
世界を並べて比べることが大前提になる。彼の世界は災いが溢れた場所だった。世界にそれしか溢れていなければ災いは災いにならない。
世界に生ける何もかもに何かしらの災いが染み着いたことが当たり前の世界だった。彼の世界に居るだけなら彼はその他大勢と何も変わらなかった。
平和な彼女の世界にやってきたことで、当たり前ではなくなった。
この世界に居る限り、あの男は永遠に適合することはない。災いの渦中から逃れることもない
それは彼が、何もしなくてもあんな罵声と怒声の中に引きずり込まれることがずっと続くかもしれないこと、か。
彼が引き起こしたと言われた何かは確かに驚いた。……「お前がここに来たからだ」、村のみんなが冷静さをなくしたから飛んできただけだと思っていたあの言葉は図らずも真実を突いていた。
「……聞かせて」
何だ
「彼はそれを、知っていたの?」
言ったはずだ。あの者は何も知らない。自分がまた違う世界の住人であることも忘れていただろう
「この世界にやってきたのは何かの目的があって?」
いいや、ほぼ間違いなく事故だ。本来あるべき場所から弾き出されてここへやってきた。その衝撃に耐えきれずか、環境に順応するためかはわからないが、自分が異分子だと思い至る記憶は全て忘れていた
「……彼は、何も知らなかった」
そうなるな
世界を違えた二人をこれ以上接触させることは思わしくない。彼と彼女を世界から隔離するために引き込んだこの場所で、彼女の選択を阻むだけの力はないのだという。
狭間の場所では何もかもが揺らぐ。そんな場所で、ひとが何かを一途に願う力は何者の干渉も寄せ付けない大きなものに成り得るのだと言った。
だからこそ、彼女を言葉で説得しようとした。
おかしな話だ。何が起こっているかも知らなかった、彼女のようなちっぽけな人間一人を説き伏せることしか手の打ちようがなかったというのだから。
選択は彼女の手の中にあるようなものだった。
「彼がどんなひとなのかは少しだけど知ってるわ。どんなものを持ったひとなのかはいま聞いた。……私はそれでも構わない。世界よりも私は、彼が大事」
彼女はいっそ堂々と言い切った。世界の命運が掛かっているからこそこの存在は彼女を説得しようとしたのであって、それを知った上で世界が滅びようとも構わないなんて、それは一体どれほど身勝手な選択だろうか。
彼女にとってはこの場で世間体や体面など知ったことではない。世界のために世界を選べば彼女は彼をおそらく永遠に失う。世界のためにと何よりも大切になったものを捨てられるなんて、そんな偽善は彼女に何も与えない。
ひとは得てして、何もかもを自分のために動かそうとする生き物だ。
彼女を伺っていたらしい相手はしばらく沈黙を守り、そして呆れたとも、諦めたともつかない気配が感じられた。
……本当は、これを言いたくはなかった。これを言う前にお前があの者を諦めることに、賭けていたのだが
……あの者には、元の世界に帰る場所がある
彼女の動揺を代わりに表現するように、世界が揺れて波立った。
何も知らなかったと言ったな。それは確かだ。弾き飛ばされ降り立った反動で、あの者はそれまで己の一切に関わることを忘れていた
今頃は色々なことを思い出しているころかもしれない。……自分に帰るべき場所がある。帰りを待つ者があったことも
* * *
選べ。
世界の全てを引き替えにするか、その男の全てを諦めるか。
正直に言って、それまでまるで実感がなかった。この恋が世界と天秤に掛けられるものになるだなんて、私でなくても誰が想像できるだろう。
けれど最後に、できれば知りたくなかった事実が待っていた。そんなことがなければいいと、本当はずっと思っていた。
知ったことではないと―――振り払うこともできた。
それでも心のどこかではその可能性を考えて、彼女自身が選ぶだろう答えを知っていた気がした。
「世界を滅ぼされたら困ります。だから、私は諦める」
驚くほどに静かな選択だった。
それまでの言葉を鮮やかに翻した彼女を見て、姿のよくわからない相手も少し戸惑ったらしい。
それでいいのか。
「良くは、ないけど。……でも」
初恋って、実らないものなんでしょう?
実らないならそれでもいい。彼の生きる世界が失われてしまうことの方が、私には痛い。
彼が手に入るのなら世界が欲しいなんて思わない。だけど、彼が大切なものを失ってまで私の許に来てくれることを望まない。
彼女はとても静かに言葉を繋いだ。この選択が正しいのかどうかはわからない。本当に自分が本心から望んでいる道筋なのかも、今は知らない。
―――こんなにもあっさりと手放してしまえる気持ちは、ひょっとしたら恋なんかではなかったのかもしれない。もっと一途で純粋で、まっすぐに相手に向かっていけたらどんなに良かったことか。
そんなわがままになれるほど、今の彼女は幼くはなかった。
「でもね、諦めた訳じゃない」
いっそ晴れやかに言った彼女に、相手が戸惑う気配がした。
「私、諦めは悪いから。この世界で彼を手に入れられないなら、ずっと待ってる。もっとずっと先の未来で、必ずもう一度捕まえてみせる」
遠い未来に巡り逢うことを信じている―――なんて生やさしい段階じゃない。
絶対にその未来を掴み取ってみせる。
……それをここで私に言っても詮無いことだと思うがな
「だって他に誰もいないじゃない。それに。……もう一度邪魔しに来たら今度こそ本気で抵抗してやるから」
そうならないことを祈るばかりだ
「あなたみたいなひとが一体どこの神様に祈るの? ひと、なんて言うのもおかしいのかもしれないけど」
さっきまでの緊迫した空気が嘘のようだった。
そして、果てのないように感じたこの不思議な空間が、端の方から砂のようにゆっくりと崩れていくのがわかった。視界がそこまで利くはずがないのに不思議なものだ。
相手が厳かに言葉を紡いだ。
―――選択は為された。よって世界が改変する。
全てはあるべき形へと戻るだろう。
本来ならば起こり得なかった事象に関する記憶もまた、洗い流されて失われる。
お前たち二人は、二度と出逢うことはない
それだけ聞けば残酷な末路だ。
けれど彼女は、決してそうは思わないことにした。
「歪んでいた世界が元の形に戻るだけでしょう? それなら、私たちはもう一度、正しい形になった世界で出逢えばいい。それなら今度は誰にも何も言われない。言わせない。むしろ感謝しているくらい」
揺らいでいた世界で手に入れた初恋は、世界と天秤に掛けられて無くなった。けれど初恋を代償にして彼が救われる。
何よりも。
初恋は実らない。この初恋が実らないなら、次の恋できっと同じ人を手に入れる。
初恋が初恋ではなくなって、この恋が成就するというなら。一度は残酷だと思った運命に感謝しよう。
身を切られるような別れにも耐えてみせる。
……お前の記憶もまた、ここで失われることになるのに、か
「そんなの関係ない。言ったでしょう? 私は諦めが悪くて、執念深いんだから」
違いない
狭間の世界の崩壊はすぐそこまで迫っていた。中心の彼女が溶けて消えたら、何もない場所からまた新しく二つの世界が作り直されるのだろう。
彼女の居た世界と、彼が居るべきだった世界。本当なら交わることすらなかった二つの世界。
「私の恋を引き替えにするんだもの。もう一度世界と巡り逢うくらいの執念、持つわ。世界を巻き込んだって構わない」
どんな大きさの世界だとしても、もう一度あなたを見つけてみせる。
その時は、きっと初恋ではなくなったこの初恋を、きっと実らせてみせるから。
不思議と恐怖を感じない崩壊の中で、彼女は意識が溶けるように消えていくのを感じた。次に目を開けたらきっと、全てを忘れた新しい世界の中で生きているのだろう、そんなことを他人事のように思って。
必ずまた巡り逢う。決して嘘でも強がりでもない、言ってみるなら誓いのような言葉を自分の心に刻みつけて。
彼女は選んだあるべき世界へと還った。
夢の終わり
* * *
―――こんなにもあっさりと手放してしまえる気持ちは、ひょっとしたら恋なんかではなかったのかもしれない。
けれど手放す代わりに、世界すら動かして彼を見つけてみせると心に誓った。
交わらない道筋ですらも交わらせてみせる。
恋とも初恋とも言えなかったかもしれない。
だけど、こんなに一途に純粋に、まっすぐにあなたに向かっていけるくらい、私は。
私はあなたを、愛していた。
* * *




