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全てがいらなかった訳じゃない


 この季節にしては天気がぐずつく日が続いた。これ以上気温が上がらなければ作物の収穫に影響が出る。それはそのままその先にやってくる冬を乗り切れるかどうかを左右するはずだった。

 彼女が彼と話す話題にも自然とそんなものが多くなっていた。

「……珍しいの。毎年、この時期この村の辺りは気候が良くて、そこまで土が豊かでなくても何とか食べていけるくらいの収穫はあったのに」

「天気が崩れることも?」

「それはもちろんあるよ。でもこんなに続くのは初めて。……私の覚えてる限りね。でも、村のみんなも言ってるから本当に珍しいのかもしれない。……そういえば、あなたと初めて会ったのも、」

 彼女は言葉を切った。あなたと初めて会ったのも、今までになかったこんな天気の日だったね。

 自分の考えに何だかよくわからない不安を感じて、彼女はとっさにそれを言うのを止めた。

「……初めて会ったのも、何?」

「う、ううん。こんな雨の日だったかなぁ、なんて」

「あの時はもっと酷かったろ、……あんまりよく覚えてないけど」

「…………」

 失念していた。

 彼はその日までの経緯を何も覚えていなくて、普段そうは見えなくてもどこかで気にしていない訳がない。

 簡単に口に出して良い話ではなかったと、彼女は自分に言い聞かせていたはずなのに。

「……ごめんなさい」

「え、何で君が謝るんだよ。謝るところ何にもないだろ?」

 おかしな奴だなあ、と屈託なく笑う彼はどこまでが彼女への気遣いだろうか。気負わせまいと気丈に振る舞っているだけなのか、本当に気にしていないだけなのか。

 いずれにしても彼女の方が気を使ってしまったのも事実だった。

「君がいつも気にしてくれてるのは知ってたよ。俺が気に病むと思って、触れないようにしてくれてたって」

 それでもその中で病気をしていないか体調を崩していないかも、いつも。

 ありがとうと少し言いにくそうにした彼は、彼でも面と向かって感謝を伝えるなんて照れくさくて仕方ないんだと思わせた。そういったことは何歳になっても、いや年を重ねたからこそ難しくなる。

 彼のその言葉を受け取った彼女は、一方で少しだけ後ろ暗かった。

 彼を心配するのは彼女が好きでやっていることで、彼女の勝手だ。それに彼が気づいてこんな風に感謝されたくてのことではない。気づいてくれたことは嬉しかったけれど。

 でも。

 彼女は裏側で、彼がこのまま何も思い出さなければいいとすら考えていたのだから。

 それだけは彼のためでも誰のためでもなく、彼が離れていくことを怖れた彼女自身のために。

 ねえ、私はあなたにそんな風にお礼を言って貰うような資格はないのよ?

 あなたがあなたのことを思い出すのが、あなたにとってきっと何よりもいいはずなのに。

 私は私のために、あなたがこのままで居ればいいと思うような私なんだから。

 どれだけ良いひとを繕おうとしても、結局は自分に都合の良い未来をどこかで望んでしまう。

 彼女は自分勝手な汚さを奥底に抱いて、それでも笑った。



   * * *



 そうしてその日は突然やってきた。

 何の変哲もない今日だと思っていた。彼女は診療所で忙しく働いて、ひょっとしたら彼がひょっこりとやって来て雑談をする。そんな何気ない日常というのがどれほど尊くて大切だったか、破綻してからでなければ人はわからない。

 幕開けは彼女が働く診療所に村人が運び込まれたことだった。

 容体を見ながら医師の指示を待つ彼女は、伊達に長くその片腕を務めていない。その症状を一目見た瞬間に医師が顔色をさっと変えた様子を、一瞬の後に他の誰にも気取られないように表情から動揺を掻き消した様子をしかと見ていた。

 ただ事ではなかったはずだった。

 そうして―――何かが引き金になったかのように、次々と同じように村人が運び込まれてきて。そして大人の誰もが異変を感じ取り始めた。


 先生、何か悪い病でもうちの村に来たのか?

 直るんですよね。大丈夫ですよね?


 経験と時間を重ねてきた医師はその全てに鷹揚に答えた。

 この医師が言うならきっと大丈夫だと、ようやく波立った不安が落ち着こうとしていた、その間際。

 今となっては誰かもわからない、とにかくその場に居た誰かが、気づいてしまった。

 十数年前にこの村を襲った流行病と、似すぎてはいないか。

 いっそ気づかれないままならばよかったのに―――彼女も医師もきっとどこかでそう思った。せめてもう少し後から。いや、それでも流行病という事実は決して変わらない。

 いきり立つようにその事実はその場に広まった。恐怖するなと言い聞かせるには少なくない死者を出した。流行病の恐怖を時間が薄れさせてくれるには、この小さな村の十年という時間は短すぎる。

 村人の集団が混乱を極めることはある種の必然だった。

 騒ぎを聞き付けたのか、あるいは単にいつものように仕事が片付いたからか、そこへ彼がやってきた。人垣の後方を回るようにして、立ち動いていた彼女を捕まえた。

「……やっぱり、何かあったのか?」

「ちょっと、ね。本当に何もなければ、いいんだけど」

 彼女は自分の声が震えていないか心配だった。実を言うと、もっと先から感じている寒気や手足の震えは抜けきっていない。

 注意していたがこの距離感では気づかれてしまったようだ。彼が何も言わずに彼女の手に手を添えた。

 彼女の両親を奪っていったかつての流行病に似すぎていた症状。両親のことは覚えていない、けれどずっと独りで生きてきた彼女が動揺するには十分だった。

 不安を隠そうとして隠し切れていないだろう顔で彼を見上げると、彼は黙って笑った。

 根拠はないけれど、心配することはない。そんなことを伝えようとしてくれているのだろうと何となく考えて、彼女は深く息をつくことができた。

 ありがとう。

 彼女はそう彼に伝え―――ようとした。

 結局言葉に乗せることは叶わなかった。

 そうだ、と妙に響いた誰かの声が聞こえた。輪の外れに居た彼と彼女は、どうしてか一斉にたくさんの視線が向けられたことを感じた。

 はっきりとわからない感覚で心地が悪かった。輪の誘導をしているようになっている誰かは大声で話した。その矛先は彼女というよりは確かに彼に向けられて。

 十数年前に村を襲った流行病。彼女から家族を奪った疫病。

 何の前触れも無しに村を襲うことなど、普通では考えられなかった。

「お前が来たからだ!」

 投げかけられた言葉は耳を塞ぎたくなるほど響き、身が竦むほど厳しかった。場の誰も彼もに聞こえる声に影響されたのか、彼へと向けられる隔意は目に見えるように膨れ上がっていく。

 あらゆる方向から彼を糾弾する声が立ち上がった。彼はそれに対して何を言い返すでもない。

 きっと言い返す余裕もないほどに呆気に取られてしまったに違いなかった。謂われのないことで口々に自分を責める言葉の数々をただ黙って聞いている。

 強烈な悪意に晒されたことの無い彼女は竦むばかりだったが、ついにたまらなくなって前へ出た。

「みんな落ち着いてよ! 彼が来たから何かが起こっただなんてそんなこと、」

「だったら他にどんな理由があるというんだ!」

 叫び付けるように被せられ、彼女は言葉を切るしかなかった。あまりの激しさは何か物理的な力を持っているかのようだった。

 暴走し始めた怒りか憤りか、もう何とも名前の付けられなくなっている勢いはどこまでも止まるところを知らない。ぶつけどころを求めたそれは、理不尽という言葉を忘れてしまったように―――正に冷静さを忘れてしまったのだろう、何らかの熱すらもって彼を攻撃した。

 お前のせいだ、お前さえ来なければ、お前がこの災厄を連れてきた。

 疫病神め。

 その身をもって私たちに償え。

 怒りの渦に呑まれていた彼女はどこかで頭の芯が冷めるのを感じた。

 ただ黙って立ち尽くし、彼女からはどんな表情をしているのか窺えない彼の腕を渾身の力で引き寄せた。

 長身の彼がいとも簡単に姿勢を崩して彼女を省みる。自分のどこにこんな力があったのか―――そんなことを考えている場合ではない。

 こんな場面に意表を突かれたのか、彼は年齢らしくないきょとんとした表情を見せた。

 ああこんな時じゃなくて、もっと何でもないときにその表情を、もっと他の顔も見たかった。

 一瞬の目配せをしただけで彼女は彼を伴い、雨の中を迷いなく駆けだした。後から村人の怒号が聞こえるが気にしている時ではない。

 逃げよう。

 言葉を交わした訳ではない、けれど今は彼女に何も抵抗しない彼は、彼女の考えをわかっているはずだった。





全てがいらなかった訳じゃない

(ただ、引き替えにしたって構わなかっただけ)



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