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特別なことは何ひとつ



 村というのは大勢のひとの集まりで、それでいて一つの生き物のように大きく動く。話題が噂に乗って広まるのも、そうして彼のことが周知されるのもあっと言う間だった。思っている以上に、小さな集団というのは目新しいもの、明け透けに言って異物を見つけ出すことが得意だ。

 その特異な経緯も相まって、数日もすれば彼のことを知らないひとはほとんど居なくなった。そして、積極的に関わり合いになろうともしない遠巻きの観察のようなことも始まる。

 新しい何かは気になる、けれど自分一人が先頭切って探りに行くようなことはしない。悪気なく見せ物にされた状況に彼は苦笑しながら甘んじていた。

 こういう人の性をよく知っているのだろうと思わせた。記憶はまるっと無くしているのに。

 そしてそんな村の一人であるところの彼女はと言えば。

 最初に拾って一晩看病―――というか話し相手をしていた経緯からか、その後も彼女は何となく彼に親しみを抱いて、行き先がないからとこの村に住まうことになった彼と親しむようになっていた。彼女はその後の彼の様子が気になっていたし、彼も何かにつけて訪ねてくる彼女を歓迎した。

 相変わらず何も思い出せない彼は、当然ながら出自もわからなかった。そのことを不安に思っていたのは最初だけで、あとは表面上にはあまり気にしていないように思われた。

「どうせ考えたって見つかるものでもないし。だったら他にやれることを見つけた方がよっぽど建設的だろう?」

 行き倒れていたという奇特な経歴の割には、堅実で合理的な考え方だった。



   * * *



 結局彼は諸手を挙げて歓迎されることこそなかったが、人なつこさから器用に村に入り込み、小さな仕事を見つけてひっそりと暮らし始めた。初対面でそれなりに好印象を獲得できる性質は彼女に対してだけではなく、万人に対してのことらしい。おおらかさがまず目に付くのだろう。

「あれ、どうしたのこんな昼間に。いつもの仕事は?」

 彼女が手伝う村の診療所に、まだ日も高い時間に彼が顔を覗かせた。彼はやって来てすぐの頃は診察という名目で医師に呼び出しを掛けられていたが、しばらく経って見つけた仕事の日々に馴染んでからはそんなことも滅多に無い。

 もちろん理由も無しに仕事を投げ出して遊びに来るような性格でもない。

「その仕事だよ。五番地の店から届け物。お代は先生からもう受け取ってるからって、配達」

「ああ、それで。ありがとう。……そのお店で働いてるんじゃなかったと思ったけど……?」

「空き時間に頼まれて来た。俺は暇だったしお使い。お礼にって野菜分けて貰えることになった」

「そっか」

 奥から彼女を呼ぶ声がした。のんびりとはしているが、手が足りなくなったので手伝って欲しい旨の呼びかけだった。彼女は少し名残惜しさを感じて彼に向き直る。

 先に言葉を押さえたのは彼の方だった。

「仕事中だったもんな、ごめん。俺ももう戻るよ、確かに渡したし」

「うん、ありがとうございました。また何かあったらよろしくね」

 じゃあ、と診療所を出て行きかけた彼の後ろ姿を、彼女が数秒見送って終わるのだろうと自然と考えた。ふいと彼が振り返るその時まで。

 不意を打たれた彼女はきょとんと彼を見返す。

「良かったらさ、分けてもらう野菜、使いに来てくれないか? 一人じゃ持て余してもったいないし、俺は料理があんまり得意じゃないし」

 今日の夕飯にでも。

 彼の提案はとてもあっさりとしていて唐突で、だから彼女は一拍その言葉を飲み込むのに時間がかかった。

 そして。

「わかった。夕飯ね」

 そうして反射のように了承してしまったのも、彼のその希望が彼女にとって楽しいものだったから。

 満足そうにして今度こそ去って行った彼を見送った彼女の足取りは何とはなしに軽やかだった。

「今日は随分と機嫌がいいな。何かいいことでもあったのか?」

「そう見えるんなら、多分楽しみなことがあるんです」

「そうか、それは良かった」

 柔らかく目を細めた医師はそれ以上は何も言わず、彼女の足取りを同じように柔らかく見守っていた。彼女自身がもう覚えていないだろう頃から、働いている彼女はよく笑っていたことを医師はよく知っている。

 その笑顔とはまた違った何かが覗いているようにも思われて、それはきっと彼女にとって良い傾向だ。

 そんなことを考えられているとは露ほども思っていない彼女は、いつものようにてきぱきと仕事をこなしていた。

 仕事の終わる時間を楽しみに感じながら。



   * * *



 何とはなしに夕飯を作って食べた二人の引き上げは早い。何せ二人ともそれぞれに仕事がある。

 てきぱきと帰ろうとした彼女について彼が送ると言い出して、断ろうとした彼女を彼がそれだけは譲らずに押し通した。

「別にすぐそこなのに。小さな村なんだからみんな私の知り合いみたいなものよ?」

「君が警戒するようなひとが居ないのと、俺が夜道の心配をするのは別。そもそも来て貰って一人で帰すなんて俺の沽券に関わるんだ、黙って送られて」

「……そういうことなら」

 ふふっと彼女は楽しそうに笑った。自分の都合を押しつけているようでいて中身は彼女のことを気に掛けていることは簡単にわかる。彼女に気を使わせないような言い回しをしていることも。

 それなら彼女はそのさりげない気遣いには気づかない振りをして素直に受け取ることが正解だった。ひととひとのやり取りに正解なんて無いのかもしれないけれど、彼女にとってはそう返すことが何よりもふさわしいと思った。

 彼女の家が見えてきても彼は引き返そうとはせず、結局はその前までやってきてからようやく彼は彼女の隣から対面へと場所を変えた。

「急なこと言ってごめんな、助かった」

「そんな、いいのに。私もご馳走になっちゃってるんだもの」

「どうしても行き当たりばったりが直らないんだよな、俺。今度はちゃんと考えるから」

 今日はありがとな、とそれを繰り返してから彼は住まいへと来た道を戻り始めた。その背を見送っていた彼女は少ししてから自身の住まいへと入る。

 思えば誰かと食事を囲むというのもとんと無かった。とても新鮮で楽しくて、いつもと何の変哲もない彼女自身の料理が格別に美味しかった。

 先ほどまでの温かさがこうして帰ってきた今でも嬉しい記憶を残す反面、他に誰も居ない住まいの寂しさを引き立てられてしまったようで少しつらくもあった。

 こんな風にもの寂しさを抱えて過ごしてきた夜はいくつもあった。今さら堪えるものではない。せめて楽しいことを思い出して彼女はそれを紛らわそうと考えた。

 今日の夕食が急だったことを謝らせてしまうほど、彼女は楽しくないように見えたのだろうか。


 彼と彼女の住まう村は、小さな大きさに見合って決して裕福ではなかったが、それだけに穏やかな場所だった。農業で住人が食べていくだけで生活が簡潔に完結する、めぼしい名所も無ければ市も立たない小さな世界。

 余所からの何かにはやや入りにくさを覚えさせるだろうけれど、余所からの何かに生活を揺るがされることは決して無い静かな場所だった。だから彼がするりと入り込めたことは本当に珍しい出来事だ。

 だから彼と彼女もまた、そんな緩やかな日々に波を立てることもなく生活を続けていた。

「ね、昨日いつもの仕事してなかったね。通りかかったけど見かけなかったからどうしたのかと思った」

「昨日……は、ああそうだ。外れの地面を起こしたいって話が来てさ、俺を借りていってもいいかって頼みがあったんだ。人手分の謝礼はするからっておじさん同士でやり取り成立。俺は労働力として一日売られた、と」

 自虐的な言いぐさに笑いを誘われた彼女は尋ねた。反論の余地くらいはなかったのかと。彼の言うところによると『おう、この若いのちょっと貸してくれ、礼はするからよ』『いいぜ、持ってけ』―――と大雑把この上ない扱われ方であれよあれよと流されたそうだ。

「そのまま引っ張られたら文句なんか言う暇も無いよ。俺はモノじゃないーなんて言って聞くひとたちじゃないし」

「ふふ、それもそうだね」

「まあ見返りは良かったからいいんだけど」

 敵わないよなぁと笑う彼の方は、口ではどう愚痴を言っても本当のところで嫌がってはいないことがわかった。そんなぞんざいな扱いを受けることも含めて嬉しいのだろう。

 遠巻きに白い目で見られているよりはずっと。

「……体調は悪くない?」

 彼女はふと思い至って問いかけてみた。やや窺うような物言いになってしまったのは思うところがあってのことだったが、あまり良くはなかったかもしれない。

 彼はそれに気づいたかどうか。

「いや? 別段これといって、かな。前は仕事明けの朝がひどかったけど、慣れた」

「鍛えられたんだね」

「そりゃあもう……」

 彼は彼なりに苦労しているらしい。

 とはいえ目立った不調も無いようで、彼女は彼に相槌を打つ傍らでこっそりほっとした。

 屈託なく笑う彼は初めて会ってから変わらなくて―――それまでのことを特別に思い出してもいないとわかった気がした。彼自身はそれまでのことを覚えていないというその事実すらも忘れてしまいがちだと早くに気づいたので、彼女は余計なことを言わないように心がけている。

 決定的に何かが欠けていることを思い出して楽しいひとは誰も居ないだろう。それに。

 彼が何かを思い出したら、それはきっと他の何もかもを取り戻すきっかけになり得る。

 そうなったら彼は仮初めに留まっているだけのこの場所から居なくなるだろう。

 彼にとっておそらく何よりも良いことだとわかるのに、その未来が訪れて欲しくないとどこかで思っている自分を見つけた彼女は少しだけそんな自分を嫌悪した。



   * * *



「ねえ、東の裏山がもう秋なんだって。何か見つかるかもしれないし、ちょっと出かけてみない?」

 稀に見る暴風雨の夜に彼がこの地にやって来てから、あの夜が夢だったかのように空模様は落ち着いてしまった。昼に強すぎる風が吹くこともなく、夜は月と星が毎日異なる夜空を描き出している。

 彼がこの村に馴染んだ頃には、彼女が彼の許を訪ねることも二人の間で自然なことになっていた。こうして二人で出かけることを気軽に提案するくらいに。

「ああ、もうそんな時期なんだ。南の広場の支度に駆り出されてたからすっかり忘れてた」

「私も昨日気づいたばっかりだよ。急に寒くなってきたから熱を出す人が多くって。子供たちなんか熱があっても遊びたがるのよ、寝かせておくのが大変なんだから」

「遊ばせておいてもいいんじゃないのか? 子供は風の子って言うし、風邪なんか吹き飛ばせる気もするけどなぁ」

 彼が冗談混じりに言った言葉に、彼女が答えなかった。唐突な沈黙に彼が訝って振り返ると、彼女は唇を固く引き結び、らしくない様子で足下に視線を落としていた。

 彼が言葉を間違ったことは明らかだった。

「……ごめん、軽率なことを言ったかもしれない。君が病気の心配するのは当たり前だよな、医者先生の手伝いをしてるんだから」

「そういう訳じゃ、なかったんだけど……ごめんなさい。あなたは悪くない」

 何でもないの、気にしないで。精一杯に装おうとしている笑顔は明らかに強ばっていた。

 彼が何かを言わなければと口を開く前に、彼女が先を取った。そうだった! と明るくした声。

「私、明日までに縫い直さなきゃいけないもの溜まってたんだ! いけない忘れるところだった! 私から誘っておいてごめんなさい、帰らなきゃ」

「……いや、やることがあるんだろ? 気にしないで。……また次の時に、楽しみにしてるから」

 彼も彼女の言い訳に気づかない振りをして振る舞った。最後の言葉でせめて次を取り付けたことになるだろうか。

 彼女はそのことには触れず、しかしそれを否定もせずに、ありがとうと言って去って行った。

 明るいばかりのひとがいる訳はない。彼女の見せた唐突な変化に、彼はそれを今初めて知ったような気がした。



   * * *



 うまく笑えていただろうか。それだけが心配だった。

 今日のことは突然すぎた。いつもなら何ともなかったはずなのに。

 駄目だなぁと彼女は一人で溜め息をついて、言い訳に使った仕事をこなすために家路を急ぐ。

 明日はきっと、今までと同じように戻れるはずだから。



   * * *



 何もなかったかのように数日が経った。変わったのは、彼と彼女が仕事の合間に二言三言、時にはそれ以上会話をする他、お互いの行き来が明らかに減っていることくらいだった。

 おそらくお互いに気を遣い合ってしまっている。少なくとも彼女の側はそうだ。何となく申し訳ないような気になって、何となく元のようになるきっかけを掴み損ねて。

 居心地が悪い訳ではない、けれど変わってしまった距離感をどうしようかと考えているうちに、先手を取ったのは彼の方だった。

 時間はあるかと何気なさを装って尋ねられ、彼女は小さく了承した。


 すれ違っていたと言っても決定的な何かがあった訳ではなかった、どうしてここ数日の距離が生まれていたのかも今一つわからない。だからこうして思い切って彼を対面にしてみても、緊張感のようなものは生まれなかった。

 最近はどうしていたかなんて他人行儀のような話から始まって、久しぶりのように思える雑談で笑い合った。

 そして、ずっと計りかねていたのかもしれない彼が改まって言った。

 この前俺が言った何かが障ったんだろ、と少し言いにくそうにして切り出した。彼が彼女の事情に立ち入っても構わないなら、出来れば話を聞いて謝りたい。

 ひょっとしたらずっと気にしていたのかもしれない。優しいところが目立つ彼はきっと明らかに彼女の傷に触れるとわかっていて話に持ち出したくはなかったはずだった。

 それでもいつまでも避けて通っていてはいけないと彼の方が真摯に考えてくれたのなら、彼女も応えるべきが道理だった。

 今はまだ話したくないと彼女が言ったなら、彼はきっと彼女のことを尊重してくれただろう。

「……私ね、ずっとひとりだったの」

 彼女はそれを始めて彼に話し出した。彼だけではない、彼女は彼女の中にあるその事実に触れることをずっと避けていた。

 自分でも触れることのできなかった重いものを他の誰かに伝えられることがあるだなんて、おそらく彼女が一番驚いていた。

 彼は何も言わずに彼女の言葉を待った。

「ずっと昔は、あの家で家族と暮らしてたらしいんだけど。……あ、らしいっていうのは変な意味じゃなくてね。小さい時だったからもう覚えてないだけ。……おとうさんとおかあさんが、居たって聞いてる」

 流行病で亡くなった、そんなこの辺りではさほど珍しくない理由で彼女はひとりになった。

 一人になったし、独りになった。

「物心ついた頃には先生が……この村のお医者さまが面倒を見て下さって。その流行病で亡くなったひとはもちろん私の両親だけじゃなかったんだけど、身寄りがなくなったのは私だけだった、みたい。それで」

 彼女が天涯孤独になったことは間違いなかった。あまり豊かではないこの時世、家族や親類が早世することもよくある話で、彼女にはそうした事柄が重なって引き取り手がなかった。

 そして、他人の子供の面倒を見きれるほどに裕福な暮らしをしている家もそうはない。程度の差こそあったが誰もがつましく日々を生きている。この村はそんな場所だった。

「だからお医者さまも余裕があって私の面倒を見てくれた訳じゃないの。ただ私の両親を看取って下さった先生で、私がひとり残されていて、誰も引き取り手がいなかったから」

 老医師が育て親代わりとは言っても、忙しい医師が全面的に子供の頃を構ってくれることもなかった。そうした環境の中で、彼女は早くに自分の身の上を感じ取るようになっていた。

 その頃から、できるだけひとりで生きて行けるように。稼ぐことのできる額は始めは少なかったけれど、幼い頃から何かしらの仕事を見つけて働くようになった。

 そんな彼女にとって日々の生活で優先されるのは、何よりもまず生きることだった。

 つましい村の中で同世代の少女たちが明るく話をしているのを横目で見ながら医師の手伝いをした。物売りの店の呼び込みに駆り出されたこともあったし、農期にはもっと幼い子供たちの面倒を一手に見ていたこともある。

 思えば慌ただしく生きていた。決して惨めな思いはしたことはなかったし、何かをこなしながら過ごした日々は充実していた。それでも、手には入らなかったものを眩しく思うことも確かにあったのだ。

 少女たちが友人同士で楽しそうに話す輪に入ってみたいと思った。親しい友人はいる、けれどそうしたお喋りで時間を潰す余裕は彼女になかった。

 裕福ではない中にも、工夫を凝らしてお洒落をしている様子は眩しかった。この世代しかないまっすぐさで、時には競うように自分を磨いて。

「頑張った、な」

「……そうかな」

「頑張った。自分でできること、ちゃんと頑張ってた」

「……うん」

 そうして普通の―――誰もが抱くような恋を、してみたかった。

 この気持ちは恋、だろうか。

 羨むばかりで手にすることがなかったから、何もかもが初めてでわからない。

 わかるのはただ、本当はずっと誰かに受け止めて欲しかったと思っていた自分がいたこと、ずっと自分でも触れられなかったものを打ち明けられるくらいに彼の存在が大きくなっていたことだった。

 明日からの彼女は今日までとおそらく変わらない。けれど少しだけ変わった明日が待っているような気もしていた。



   * * *



 久しぶりに出掛けた先は、先日提案が駄目になってしまった小高い山だった。もう秋の盛り、木々は色づいて地面も同じ色に染まっていた。

 晴れ渡った青空との対比が美しかった。

「ねえ、もうこんなに綺麗に紅葉してたんだね! 木の実とか果物とか生ってるかな!」

「紅葉が綺麗とか言った後すぐに食い気に走るなよ、ちょっと心動かされた俺の一瞬を返せ」

「ええ、だって大事なことじゃない! ほら、あなたも早く探してよ、何かないか!」

 はあ、と彼は笑顔で溜め息をついて彼女の言葉に従った。彼女の言うこともある意味では道理ではあるからだ。

 一年のうちのわずかな時間しか恵みを得られない秋の山の幸を楽しまない手はない。

「そこの茸って食べられるんじゃないか?」

「あ、本当だ! 見逃すところだった」

「しっかりしてくれよ、食料隊長」

「何その言い方ー!」

「そのまま」

「私が食い意地張ってるみたいじゃない、もう!」

「今までの話をしててそうじゃないと思ってた君が驚きだよ、俺は」

 お互い無言の了解の元にふざけ合って、そんな冗談は途切れない。他にひとの居ない色づいた林の中で笑い声が弾けた。

 村から遠くも近すぎることもない山中は若い身で動き回るには大したことのない場所だ。やってきてから収穫をあれもこれもと順調に見つけて、だからもっとと手を伸ばしたくなる。

 彼女は下へ広がるまさにその斜面に、手を伸ばせば届くか届かないかの場所に新しく獲物を見つけた。

 くるりと辺りを見回す。獲物はこの辺りに群生している訳でもなさそうだった。見えるところにあれ一つだけ。

 同時に彼のことの反射的に目が探した。ねえあんなのもあるよ、と宝物を見つけた子供のように彼に報せてみたかったのもある。―――あれを手にして、そうして見せたら彼はどんな顔をして驚くだろう。それともすごいなぁと笑ってくれるだろうか。

 そんな想像に彼女は笑顔を作って、斜面にそっと手を伸ばした。―――あと少し。

 膝や手が汚れるくらいのことは気にならない。元々山の中を散策しに来ているのだから、多少運動して土がつくくらいは想定の範囲内だった。幸い地面は秋の草の上に落ち葉がいくらか降っているくらいで、さほど汚れそうでもない。

 目の前にある獲物に向けていた手が届くかという時、彼女は喜びから油断した。

 地面に突いて支えにしていた逆の手が落ち葉か何かで滑り、前にのめっていた彼女は素直に重力に従った。

 あ、と思った時には景色が素早く後ろへと流れて―――

 彼女はがくんと何かによって強く引き留められた。力がかかっているのは腕で、そのまま後ろへ強引に引き戻される。

 大きな何かに受け止められると、そのままその中に閉じ込められていた。……温かい。

 事態を把握する前に、伸びてきた手が顔に添えられて向けられる。

「何してたんだ!」

 予想しなかった剣幕に彼女はびくりと肩を揺らした。けれどそちらを向けさせた手のひらが逃げることを許さない。

 真正面に据えられた彼の表情は見せたこともないような厳しさを露わにしていた。二人して地面に尻もちをついたような格好で、彼女は完全に彼に抱き止められている形だった。

 それでなくても一瞬に起きた出来事が多すぎた彼女は理解がついていかない。

「こんな場所であんな無茶して! 俺があと少しでも遅れてたらただじゃ済まなかった、どれだけ危ないことしてたかわかってるのか!?」

「で、でもそんなに離れてなかったし……無茶なんて」

「その判断が甘いんだ、取れるか取れないかと安全は秤に掛けるものじゃない! 現にああやって馬鹿を見たばっかりだ!」

「なっ、馬鹿って……!」

 そこまで言うことないでしょう!? ―――反射で噛みつき返しそうになった彼女の言葉は結局出ては来なかった。

 一瞬だけ彼の方が早かった。彼女の顔を自分の方に向けさせていた手を外してそのまま彼女を抱き締めた。

 唐突なことの連発で彼女は黙るしかできない。

 彼女の肩口に顔を埋めた彼が、先ほどまでの剣幕が嘘だったかのようにぽつりぽつりと話し出す。

「俺がどれだけ肝を冷やしたかわかってないだろ。やめさせようとした矢先にあんなことになって……」

「…………」

「正直よく間に合ったって俺が俺を一番誉めてやりたい。二度とごめんだ、まだ腹の底が気持ち悪い」

「……ごめんなさい。それから、ありがとう」

「怪我、ないか?」

「平気」

 実を言うと今ちょっと苦しいんだけど、とはさすがに彼女も言えなかった。それでも彼が細心の注意を払って力を加減していることは何となくわかった。

 そして少しだけ苦しいこの温かさは決して不快なものでは、ない。

 ようやく解放された彼女は伸ばされた彼の手と取って立ち上がり、村へと帰る道を戻った。



   * * *



 少し意外だった。普段が穏和な彼だけに。

 あんな大きな声を出せるだとか、あんなに険しい顔をすることもあるんだとか。

 彼女に対してそんな表情が出るだなんて考えもしなかった。あれほど心配してくれるくらいには大事に思われていると考えて、それはまだ思い上がりにはならないだろうか。

 そこまで考えた彼女はその後の出来事を思い出した。思い出して思わず顔に熱が集まる。そうなってしまった自分に少し驚いた。

 抱き締められるなんて思ってもみなかった。彼女と彼は不思議な経緯があったからこそ少し親しくなっただけの、それこそ何でもない間柄のはずで。

 だって、あんな、まるで。

 何か特別な関係の二人みたいだなんて思ってしまうのは、何を都合のいいことを、って誰かに笑われてしまう?

 些細なもしもを考えて、それを笑われてしまうとしたら。どこまで自分に都合よく考えたらわからないくらいには、彼女はその気持ちに慣れてはいなかった。




特別なことは何一つ

(そんな普通が何よりも幸せだなんて、夢見がちでも構わなかった)



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