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8話「悲しみと冷静と提案と」

「……名前?」


細々と発された声はとても澄んでいた。一切の濁りがなく、真っ直ぐに響く声はリディオの心を鷲掴みにしていた。


「そう!名前だよ」


なるべく怖がらせないように、いつもより声をワントーン上げて話しかける。少女はしばらく黙り込んだ後、軽く首を横に振り


「名前……分からないです」


「え?」


リディオとヨーナスは顔を見合わせる。少女は十歳より下には見えない。そのくらいの年なら、自分の名前を言えないということはほとんど無い。ということは


「記憶喪失か……」


少女の瞳をちらりと見る。小さい子が、いきなり記憶が無くなって知らない二人に囲まれているなんて、怖くてたまらないだろう。母親にもきっと会いたいはずだ。


「そう考えるのが妥当でしょうね。まぁ、恐怖から逃れる為に嫌な記憶ごとすべて消してしまうというのはよくある話ですから。そう心配しなくても良いでしょう」


淡々と見解を述べるヨーナスに、リディオは少し複雑な気持ちになる。もっとこう、悲しい気持ちや、どうにかしたいという、心の中身が無いのかと。


「随分と冷静なんですね?」


そう思うと、自然と言葉に怒りが乗った。反対に、ヨーナスは顔色一つ変えず


「彼女が記憶喪失だからと言って、自分に損害はありませんからね。気にするだけ無駄です」


確かに、利益も損害もない。ヨーナスの言っていることは間違っていない。ただし、合っているともいえない。ヨーナスへの不信感が漂ったが、とりあえず少女を何とかしなければという感情に駆られた。


「ヨーナス様。とりあえず、保護施設に連れていきますか?」


保護施設に連れていけば、この子の食事もきっとあるし、暖かい寝床もあるし、同じ年の友達もできるし、新しい親も見つかって幸せになると思ったからだ。


「そう…ですね。ダメもとで行ってみましょうか」


「ダメもと……ですか?」


リディオは首を傾げる。ヨーナスの言ってる意味が分からなかった。


「まぁ、行けば分かりますよ」


「そうですか。じゃ、行こうか」


手を伸ばすと、少女は小さい手でリディオの手を取った。リディオはその手を優しく包み込んだ。


         *


「そんな……!どうにかならないんですか!」


リディオは机を思い切り叩く。この行為は何にもならず、うるさい音だけが響き渡る。


「理解してください。こちらも手一杯なんです。これでももう、預かれる人数を大幅に超えています。これ以上人数が増えると、今いる子供たちの食べ物ですら、危うくなるんです」


「……っ」


奥歯を噛みしめる。全身に力が入る。


分かっている。分かっている。頭では理解している。だけど、どうしても受け入れられない。せっかく助かった子供が、別の理由で助からないなんて。


「もういいです!どうもご親切にありがとーございました!」


吐き捨てるように言葉を言い、少女の手と掴む。しかし、いくら苛ついていてもその手だけは優しかった。


「行こうか」


少女の手を引き、その場を後にした。


ヨーナスは一本の大きな木に寄りかかっていた。ヨーナスは、ここで待っていると言っていた。きっと、結果が目に見えて分かっていたのだろう。


建物から出てきたリディオに、一言だけ言葉を発した。


「これが、現実です」


「──っ」


コレガゲンジツ。


「あんな大変なことを乗り越えても、助からない人は五万といます。飢えで死ぬ人。寒さで死ぬ人。暑さで死ぬ人。感染症で死ぬ人」


「──」


「命が助かった。終わり──じゃないんですよ。その後、生きていくのも大変なんです」


「ヨーナス様は………」


声を振り絞る。細く、震えた声で問いかける。


「ヨーナス様は……見えていたんですね。戦いが終わった、後のことを」


ヨーナスは、惨めなリディオの姿をじっと見つめる。ため息をつくと、重そうな口を開く。


「そうですね。私はリディオ君よりも長く生きていますから。このようなことは何回も経験してきました。ですから、敵が撤退した後に起こりうることは容易に想像できましたよ。ですが…」


「……」


「慣れませんね。この感じは。何回経験したとしても」


ヨーナスは小さく笑い、重くて重くてどうしよもなさそうな言葉を口に出す。


「さて、その子はどうしますか」


「………」


リディオの中に、ある考えが一つ浮かんでいた。しかしそれは、生半可に口に出せない。


「私から一つ、提案があります」


ヨーナスは口角を上げながら、人差し指を立てた。

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