第3話 変わり果てたもの
冷たい月光が苔むした参道を照らしている。
古寺に続く、ところどころ崩れてしまった石段は、普段あまり人の往来が無いことを、もの云わず語っていた。
そんな荒れ果てた参道に、こんな時間にも拘わらず、変わった外套を纏った男の姿がある。
雨上がりの月光に浮かび上がったその姿はどこかうつろで、月の光が作り出した幻影のようでもあった。
男は少し顎を上げて、長い石段の先に目を向けながらゆっくりと歩を進めていく。
やがて、石段を上がり切った男の前に、月明りに浮かび上がった古寺が姿を現した。
男は枯れてしまった手水舎の脇を通り境内へと進むと、やがて脚を止めた。
そこにはわだかまる影のように身をかがめ、ひたすら何かを貪る奇妙な生き物がいた。
その傍らには、見覚えのある真新しい樽が無造作に転がっていた。
立ち止まった男は、そこにいる何かに向かって、ひと言尋ねた。
「うまいか?」
うずくまる様にして何かを貪っていたそれは、男の声に反応して顔を上げた。
月光に照らされたその顔に、外套の男は一瞬眉をひそめる。
「わからない。だが腹は満たされる」
それは人に似ていた。
だが似ているというだけで、人ではなかった。
飛び出してしまうのではないかと思えるほどに、異様なほどせり出した眼球。おおよそ人間のものとは思えない丸く歪曲した背中。ゴツゴツと骨が浮き出るほどに痩せているのに腹だけは異様に膨れていた。
地獄で死体を漁る餓鬼。まさにそう呼ぶに相応しい姿であろう。
そして、その奇妙な生き物の前には、変わり果てた人間の死体があった。
力任せに腹を裂いたのか、そこいらじゅうに血と肉片が散乱しており、周囲には吐き気をもよおすほどの異臭が漂っている。
奇妙な生き物は、節くれだった手で死体の臓物を掴んだまま、クチャクチャと口を動かす。
やがて口の中のものを嚥下したそれは、ゆっくりと立ちあがった。
「あんたとはもう一度会うような気がしていた」
せり出した眼球に異様な光をたたえたそれは、口元を腕で拭って外套の男に向き直った。
「そうか。なら気のせいではなかったということだ」
外套の男は落ち着いてそう応えた。
人間ではない何かと対峙していることなど、まるで感じさせないような、そんな物腰だった。
「どうしてこうなった?」
頭上に浮かぶ月の蒼さの様に、どこか冷い鋭さを孕んだ声で、外套の男は尋ねた。
「さあ、俺にもわからねえ」
思い当ることが無いかのように、それは頭を振った。
外套の男は質問を変えた。
「では何故死体を喰らうようになった?」
「それなら答えられる」
しゃがれた声でそう応えると、それはゆっくりと目を閉じた。
「祝言を挙げる約束をしてたんだ……」
異形のものは遠い昔のことを思い出すような仕草を見せた。
語られ始めたのは恐らく、かつて人間であった頃の記憶だろう。
「美しい娘だった。気立てもよくって俺には勿体ない器量の良い娘だった。父親がおっちんで確かに家は貧しかったさ。まあ俺の家も似た様なものだったし、そんなことはどうでも良かったんだ」
頭に浮かんだことを、とりとめもなく話しているようだった。
脈絡のない話に外套の男は黙って耳を傾ける。
「将来は俺の嫁さんになるってあいつは言っていた。俺もそう思ってた。だけど結局、あいつは隣村の金持ちのせがれのとこに嫁に行きやがった」
再び開かれた異形の眼には、まだ生々しい怒りが、揺らめく炎の様に浮かび上がっていた。
「あん畜生って思ったさ。でも相手は金持ちだ。どうすることも出来なかった。だがある日、寺で墓守をしていた俺は和尚に頼まれて仏さんを引き取りに行ったんだ。すると、どうだ、その骸は俺を捨てていったあいつだったんだ。なんでも流行り病で簡単に逝っちまったらしい」
怒りを宿した眼はそのままに、その口元に邪悪な笑いが浮かび上がる。
「俺は散々笑ってやったよ。ざまあみろってな。俺を裏切って他の男のものになったバチが当たったんだってな。初めて人を食ったのはその時だ。おかしなことに、それから何を食っても無性に腹が減ってな」
黙って話を聞いていた外套の男は、まるで表情を変えることなく、そこでようやく口を開いた。
「その飢えは満たされることはない。お前は餓鬼に堕ちてしまったのだから」
異形のものは大きくせり出した眼を外套の男に向けて、やや首を傾げて見せた。
「人を食えば餓鬼に堕ちるのか。それは知らなんだ」
「いや、それだけでは餓鬼になることはない」
異形に視線を向けたまま、外套の男はゆっくりと背負っていた荷を降ろした。
「犯したな」
外套の男が言ったひと言に、異形の眼球が小刻みに動いた。
「死体を犯したのだろ。それから死肉を喰らった」
淡々と口を動かしながら、男は羽織っていた外套のボタンに指を掛けた。
「死者の肉体を穢し弄び、あまつさえその肉を食らったお前の魂は、人の姿を留めていられない程いびつに歪んでしまった。生きながら畜生に堕ちたおまえは、現の世で鬼の姿のまま生きていくことになるだろう」
男が羽織っていた外套を脱ぐと、漆黒の生地に包まれた筋肉質の肉体が現れた。
そして、その右手には得体の知れない何かが握られていた。
「だが、それも終わりだ」
異形のものは男の手にしている物に何かを感じとったのか、視線を集中させている。
男が手にしていたもの、恐らくそれは何かの獣皮の様なものだった。
男は右手に掴んでいたそれを、ゆっくりと顔に押し当てた。
すると、今までそこにいた物静かな男にある変化が起こり始めた。
「それは……なんだ……」
飛び出した眼球を目まぐるしく動かしながら、異形のものはくぐもった声を発した。
月光に雲がかかり、蒼い闇が密度を増す。
人間の眼では視認できない暗さの中で、顔に押し当てられた漆黒の獣皮が、異様な速さで男の顔を侵食していっていた。
何の変哲もない人間が何か別のものに変わろうとしている。
眼前で変貌していく男に本能的な恐怖を感じたのか、異形のものは小刻みに膝を震わせながら半歩ほど後ずさった。
雲が途切れ、月が再び境内を蒼く照らし始めた時には、その変化は終わっていた。
「おまえは、いったい……」
怪物を怯えさせるほどの奇怪な姿が月光の下に浮かび上がる。
人間が湛えることのない不思議な赤い光を、それは双眼に宿していた。
信じられないことだが、穏やかだった男の頭は、禍々しい獣に変貌していた。
うるるるる
低い唸り声。
耳まで裂けた顎からぞろりと並んだ鋭い牙を覗かせたのは、山犬のそれだった。
獣の頭を冠した人間の四肢を持つ者。この世に存在するはずのない悪魔のような姿を前にして、異形のものは膝を震わせながら身構える。
はあ―――
肺の底から熱い息を吐き出した獣の頭を持つ者は、餓鬼に向かってゆっくりと脚を踏み出した。
すると恐怖に駆られたのか、言葉にならぬ叫び声を上げながら餓鬼が動いた。
助走なしには人間では決してなしえない跳躍をした異形のものは、瞬く間に間合いを詰めて襲い掛かった。
しかし、獣の頭を持つそれはすかさず反応した。
「おごっ」
声にならないものを口から吐き出したのは、飛び掛かった餓鬼だった。
餓鬼の放った鋭い爪が到達する前に繰り出された掌底が、餓鬼の胸に吸い込まれたのだ。
野生動物のような反射神経と、化け物のような怪力であった。
「ゴボッ」
おおよそ2間くらい飛ばされた餓鬼の口から血塊が吐き出される。
胸を押さえながらすぐさま立ちあがった餓鬼の眼には、怒りと殺意が浮かび上がっていた。
「ゴホッ、ゴホッ……」
生きながら鬼となり果てた男はむせ返りながらも、人間では決してなしえない俊敏さで再び間合いを詰めた。
反撃を受けるのを避けたのか、今度は懐には飛び込まず、低い体勢で脚を狙う。
ブン
薙ぎ払った腕が空を切った。
そこにあったはずの脚が消失してしまったことに、餓鬼は眼を目まぐるしく動かす。
そして、背後に移動した気配に気づき、餓鬼は慌てて振り返った。
恐らく跳躍してそこに降り立ったのだろう。
わだかまる黒い影のような姿は、本物の獣の様に四本の脚で身体を支え、低い唸り声を上げていた。
うるるるる
身を捻って向き直った餓鬼の顔には、死に直面した者のみにあらわれる恐怖がこびりついていた。
本物の怪物がそこにいる。
自然界のあらゆる生物に生まれながらに備わっている原始的な本能が、鬼へと堕ちてしまった男の脚を止めた。
次の瞬間、餓鬼は踵を返して逃げ出そうとした。
だがもう遅かった。
ザッ
颯のような速度で間合いを詰めた本物の怪物が、餓鬼の背後で腕を振り上げた。
そして次の瞬間、うっかり落としてしまった熟れた西瓜の様に、その頭は簡単に砕け、四方に飛び散った。
血しぶきが舞い上がり、月光の境内を汚していく。
頭部を失ってなお激しく痙攣していたその体は、やがて動かなくなった。
血の匂いの充満する地面から一匹の獣が顎を上げ、月の浮かぶ空を見上げる。
やがて雲が月にかかり、空を見上げていた半獣半人の姿は闇の中へと溶けていった。
中山道と甲州街道が交わる合流地点に下諏訪宿という宿場がある。
主要な二つの道筋が交差する下諏訪宿は道中でも屈指の宿場であり、今日も旅人たちで賑わっていた。
仕入れていた生薬の大半を金子に変えることの出来た薬売りは、しばらくぶりにこの地を訪れ、幾度か利用したことのある宿にもう三日ほど逗留していた。
「お待ちどうさま」
宿場に幾つかある料理屋の中で、この「秋月」が薬売りのお気に入りの店だった。
この宿場に訪れた時には、必ずここで川魚の天ぷらを肴に地酒を愉しむ。
「日が落ちてから客が増え始めたな」
賑やかになり始めた店内で一人、薬売りは熱々の天ぷらに箸を入れて酒を愉しむ。
美味い物があると自然と酒も進むものだ。
薬売りは空になったお銚子を振ってから、すぐにお代わりを頼む。
「おねえさん、もう一本つけとくれ」
「あいよ」
元気のいい声が返って来てすぐに、新しいお銚子が運ばれてきた。
こうして客を待たせること無くもてなすのが、商売繁盛の秘訣なのだろう。
「お待ちどうさま。お注ぎしましょうか」
「ああ、頼むよ」
お銚子を運んで来た娘は、空になったお猪口に愛想良く酒を注いだ。
「すまないね」
店はかなり忙しそうだ。それなのにどういうわけか酒を注いでくれた娘に、薬売りは少し関心を持ってしまう。
器量はそこまで良くは無かったが、ニコニコと愛想のいい娘だった。店が流行っているのはこの看板娘がいるからなのかも知れない。
「あの、お客さん」
空になったお銚子と小皿を片付けた娘は、何やら言いたげにそのまま愛想笑いを浮かべていた。
薬売りは機嫌よく「なんだい」と返す。
「その、少し込み合ってきて……もし良かったらあちらの方と相席してもらえないでしょうか」
「そうかい、構やしないよ」
酒を注いでくれたのは、どうやら打算があったようだ。
この酒を飲んだら場所を変えるか。薬売りはそんなことを考える。
「すみませんねえ。お客さーん、こちらへどうぞ」
女中が案内したのは旅姿の女だった。女は会釈を一つすると「お邪魔します」と向かいの席に座った。
卓上に肘を載せて酒を飲んでいた薬売りは、女を一目見てすぐに姿勢を正した。
何というか、酔いが醒めてしまいそうなほど綺麗な女だった。
赤みがかった長い髪と透き通るような白い肌。切れ上がった大きな目が何とも美しかった。
歳の頃は二十歳くらいだろうか。
「一人旅ですか?」
こんな別嬪を前にして関心を持たない男はいないだろう。
薬売りも例外ではなかった。
「ええ、見てのとおりです」
女中にお猪口を持ってきてもらい酒を勧めると、女は特に遠慮をするでもなく、グッと飲み干した。
「いける口ですねえ。ささ、もう一杯やんなさい」
一人でゆっくり飲もうと思っていたが、こんな美人を肴に飲めるのなら話は別だ。
降って湧いたような旅の出会いに、薬売りは陽気に酒を勧める。
「私は薬売りをしております与平と申します。失礼ですがお名前を伺っても?」
「暁と申します」
あまり聞きなれない変わった名だ。
しかし、この美しい女には良く見合う名だった。
「珍しいお名前ですね。どちらの生まれで?」
「北の方です。あなたは?」
「私は越中でして、旅をしながら珍しい生薬を集めつつ、あちこち周っているんです」
「そうですか。さぞかしお忙しいのでしょうね」
薬売りは女を退屈させないように、これまでしてきた旅の話などを聞かせた。
しかし、当たり障りのない相槌はうつものの、女が薬売りの話を愉しんでいる印象はない。
長い行商の中で、人を惹きつける語り口を磨いてきた薬売りは、頑張ってしばらく話を続けてみたものの、女のあまりの素っ気なさに次第に心の中でやや閉口し始めた。
これは全く脈は無さそうだな。
そして、女が注文した膳を食べ終えて、お猪口に残っていた最後の酒に手を伸ばした時だった。
「これからどちらに行きなさるんで?」
薬売りの質問に、女は短く「台ケ原です」と応えた。
「へえ、台ケ原ですか。宿場以外はあまり何もないところですね」
「ほう、行かれたことがあるようですね」
「ええ、先週までそこにおりましたから」
すると、ほんの少しだけ女の眉が上がった。
「台ケ原へは何をしに?」
ようやく女の方からしてきた質問に、薬売り風向きが変わったことを感じ取った。
「勿論薬を売りにです。少し噂を聞きつけて、台ケ原から甲州街道をはずれて、ある村に足を運んだんです」
「ほう。どういった噂ですか?」
いったいどこに興味を持ったのか、女は間違いなく薬売りの話に関心を示し始めていた。
「少々こういった場に相応しくない話ですが聞きたいですか?」
「ええ、是非」
この女はもう席を立つだろう。そう思っていた矢先だった。
薬売りは、忙しく配膳をする女中を呼び止め、追加の酒と肴を頼んだ。
そして、薬売りは少し椅子を引くと、周囲を少し気にしながら話し始めた。
「いえね、あの辺りの村でバタバタと人が亡くなっているって噂を耳にしましてね。たった一年で若い女ばかりが四人も亡くなったのだと。馬鹿馬鹿しい話ですが呪いがどうだかと言い出した者もいるらしくって……ああ、どうも」
運ばれてきた追加のお銚子に女は手を伸ばすと、空になった薬売りのお猪口に慣れた手つきで酌をした。
「もう明治時代ですよ。呪いだなんて非科学的なことを私は信じませんよ。こういった風評は大概流行り病が原因なもんです。まあ農村部だしいい医者もいないだろうから、ここは薬屋が必要だろうと安易に考えて村へと向かったんです」
「本当ですわね。ささ、もう一杯どうぞ」
女の酌に少し気の良くなった薬売りの舌は、どんどん滑らかになっていった。
「思っていたとおり村にはまともな医者はおりませんでした。死因が特定できないせいで不安が不安を煽っていた感じで……あ、すみません。こんな話、酒を不味くしてしまいますよね」
「いえ、興味深い話です。そのまま続けて下さい」
こういった席ではあまり歓迎されない話にも拘らず、女は平然とした面持ちでその続きに関心を示した。
「心労も有ってか、体調の悪い人が多かったせいで薬は結構売れたんです。でも原因を突きとめて処方したわけではないので、すっきりしないまま私は村を出たんです」
「それだけですか?」
女の口調に、少し興ざめしてしまった感じが混ざる。
薬売りはそんな女の反応を愉しむように、ニタリと笑った。
「馬鹿言っちゃいけません。勿論続きがあります」
もう一口酒をあおると、薬売りの口調は熱を帯び始めた。
「村を出てから湯治場へと足を向けることにしたんです。宿もありますし、養生しに訪れるんなら薬も入用だと思いましてね。するとがけ崩れで一本道が塞がれてて、やむなく引き返したんです。街道へと続く辻まで戻った時にはもう暗くなりそうでした。おまけに雨も降ってくる始末で」
「ほう、それは災難でしたね」
「ええ。でも本題はここからなんです。実はその辻には古いお堂がありましてね。雨宿りに入った私は、そこである不気味な男と会ったんです」
その瞬間、明かに女の目の色が変わった。
思い通りの反応に少しいい気分になると同時に、薬売りはあの気味の悪い男のことを鮮明に思いだし、背筋に悪寒を覚えてしまった。
「どうしました? 思い出したくないものでも?」
心の内を見透かされたような気分になり、薬売りは女から一旦視線を逸らせた。
「ええ、おっしゃるとおり、お堂にいたのは蓑で全身を覆い角笠を目深に被った何を考えているのか分からない男でした。それだけではなく、その男は真新しい大きな樽を運んでて……」
「仏さんを運んでいたわけですね」
「察しがいいですね。それで余計に薄気味悪くって……でもそれだけでは無いんです。話すこともなく退屈を持て余していたら、今度は変わった外套を纏った男がお堂に現れましてね……」
再び女の眉が少し動いた。
どうやらこういった話が好きな女のようだ。
それから薬売りは、幾度も女と酒を酌み交わしながら、あのお堂から始まった奇異な体験を順を追って女に聞かせた。
「本当かどうかは分かりません。でもあの人はお堂で会ったあの男を人間ではない何かだと言ってました」
「不思議な体験をなさったのね。それでその外套の人は何者だったのでしょう」
「あの人は自分のことをヌイと言っていました。ああ、ヌイっていうのは……」
それからさらに話が弾み、気が付けばあの日に起こった全てのことを薬売りは洗いざらい女に聞かせていた。
何本かお銚子を空にした頃合いで、いつの間にか向かいの席から隣の席に女が移動していることに、薬売りは気が付いた。
嗅いだことのない甘美な匂いが女のうなじ辺りからしてくる。
南蛮由来の香油でも使っているのだろうか。
「おねえさん、何だか不思議ないい匂いがしますね」
「ええ、異国の知り合いから譲り受けたものを少々」
口元に、微笑を浮かべながら女は酌をする。
傾けたお銚子の様子では、これで空になったみたいだ。
「さあ、召し上がって」
「では、遠慮なく」
なかなか楽しいひと時だった。これで終わりかと思うと名残惜しさを禁じえない。
ゆっくりと残った酒を喉に流し込むと、女は薬売りの耳元に顔を近づけて来た。
「面白いお話だったわ。もし宜しければ場所を変えませんか?」
妖艶な女の色香が薬売りの体に纏わりつく。
その申し出を断る理由など無かった。
店を出てから女はほんの少し、薬売りの前を歩いていく。
「どちらへ行きなさるんで?」
「まあ、付いて来て下さいな」
右手に続く堀の水面には、欠けた月が浮かんでいる。
女もかなり酒を飲んでいたはずだが、その足取りはしっかりしていた。
少しおぼつかない足取りの薬売りは、やや急ぐようにして女の後をついて行く。
自分の足元を照らす提灯が歩みと共に揺れてしまうのは、酔いが回っているせいだろう。
「月明かりだけじゃあ足元が良く見えないでしょう。私の提灯を使って下さい」
「いいえ結構。夜目が利きますんで」
既視感が薬売りの頭によぎる。
そう言えばあの外套の男も同じことを言っていた。
あの暗い山道で、ひたすらに外套の男の背中を見続けていた記憶が、女の背中と重なる。
「どこまで行くんですか?」
「もう少し。退屈しのぎに今度は私が面白い話をお聞かせましょう」
気付かぬうちに、何時しかひと気のない通りに出ていた。
女は歩みを緩めずにおかしな話をし始める。
「一年で四人もの女が亡くなったとあなたは言ってましたね。普通、病で亡くなるのは幼い子供や年寄りからと相場は決まっています。何故でしょうね」
「さあ、私にはさっぱり」
「もしかすると、本当に呪いだったのかも知れませんよ」
ゾクリ。
背筋に冷たい感覚を覚えた薬売りは、その感覚を払拭するかのように、頭に浮かんだことを言葉にした。
「いや、まさか……そうだ、感染症かもしれませんよ。その……男女間の交渉でうつるものもありますし……」
これは若い女に話す内容ではなかった。つい余計なことを口走ってしまったことに、薬売りは顔をしかめてしまった。
「それは無いでしょう」
特に気にしていないのか、女は薬売りの意見をバッサリと切り捨てた。
「感染症ならはっきりとした症状が出るはず。村人の不安を増長させたのは原因が特定できなかったからでしたよね」
この女は医術の知識を持ち合わせているのだろうか。
薬売りは生半可な知識で口を滑らせたことで、いたたまれない気分になった。
「でも呪いだなんて、飛躍し過ぎでは……」
「あなたはヌイと出会った」
薬売りの言葉を遮るように、女は前を向いたまま、はっきりとそう口にした。
「得体の知れない事象が起こった時にヌイは動く。それは亡くなった四人が何らかの呪いを受けて死んだから。それを調査しているうちに、呪いをかけた存在にヌイだと名乗った外套の男は行き当たった。そう考えれば辻褄が合いませんか?」
薬売りは音が聴こえる程、生唾を飲み込んだ。
あの暗闇の山道で、外套の男から話を聞いた時と同じ感覚だった。
この女は何かを知っている。
溢れ出る妖艶な色香の陰に、そう感じさせるものを、この女は確かに内包していた。
「きっとお堂で遭った不気味な男は目ぼしい女を呪い殺してから、誰にも疑われること無く平然と死体を樽に入れて持ち去り喰らっていたのでしょう」
「呪い殺すって……いったいどうやって」
「死んだ女たちの眠っていた床下には、恐らく呪いのこもった人間の体の一部が埋まっているはず……あとはじっくりと待っていれば勝手に死んでしまう」
女の声がどこかうつろに薬売りの耳に聞こえてくる。
普通に酒を飲んだ感覚ではない酩酊感に、薬売りは少し頭を振って、記憶を辿った。
そういえばこの女はいつの間にか隣に来て酌をしていた。
うなじからしていた濃密な香油の匂いは、酒に入れた何かに気付かせないため……
「あの酒に、なにか……入れましたね」
「さすが薬屋さんね」
瞼が重い。消えていきそうな意識の中で、女の声と濃密な香油の匂いが頭の中を掻き回す。
「何を、飲ませた……」
「大したものではないわ。でもよく効くでしょう」
土を踏みしめている感覚が喪失していく。
「あなたは口をつぐんでおくべきだった」
朧げな意識の中で、薬売りは半開きの眼で空を見上げていた。
自分が仰向けに倒れてしまったことをどこかで感じながら、薬売りはあの外套の男のことを思い出していた。
ああ、そうだった。口外しないほうがいいと、最後にあの人は言っていたな……
「さようなら。もう二度と会わなければいいわね」
耳元で囁いた女の声は、どこかで途切れてしまった。




