第1話 雨宿り
薄曇りだった空から雨粒が落ちてきた。
雑草の茂った畦道の乾いた土に、降り出した雨が点々と丸い模様を付けていく。
日暮れ近くの山里は、あっという間に湿り気を帯びた草いきれの匂いに覆われ、遠くの山々は朧げに白く霞み始めた。
道端の大きな樹の根元で用を足していた男は、首筋にあたる冷たさに肩をすくめながら慌てて着物を直し、傍らに置いてあった木箱を雨粒が当たらぬよう抱え込んだ。
「やっぱり降って来やがった」
男は忌々し気に不満を漏らすと、靄のかかった道の先にある古びたお堂へと木箱を抱えたまま走り出した。
男が雨から木箱を庇う理由。それは、その中身に大事な商売道具が入っているからだ。
この男は薬売りを生業としており、その中身には旅すがら各地で採取した様々な病に効能がある生薬が入っていた。
荷を抱えたままのおかしな格好でお堂の庇の下に駆け込むと、薬売りは木箱を雨のかからない場所へ降ろした。
そして呼吸を整えつつ懐から手拭いを出したとき、薬売りはようやくそこに先客がいることに気付いた。
軒下の一番奥、雨の届かないその一角に、角笠を目深に被った男がわだかまる影のように座り込んでいる。
男は柱に背をもたせ掛けて、静かに首だけをこちらに向けていた。
笠のせいで男の顔は口元より下の部分だけしか窺えない。
「どうも」
薬売りが反射的に会釈をすると、角笠の男は無精髭の口元を動かすことなく、小さく会釈を返した。
薬売りはまず商売道具を丁寧に手拭いで拭いていった。
それから汚れた足元を片足ずつ拭いながら、角笠の男の様子をそれとなく窺う。
しかし、相手が蓑を羽織っているせいで、殆ど特徴らしきものを掴むことができなかった。
「お互い、ついていませんねえ」
薬売りが愛想笑いを浮かべると、角笠の男はぼそりと口を開いた。
「まったくです」
角笠の男がひと言で済ませたことで、辺りに静けさが戻る。
たまたま居合わせた者同士の会話など、得てしてこんなものだと心得てはいるが、それにしても極めて不愛想な男だった。
薬売りは手拭いを綺麗にたたむと、角笠の男の傍らにある物に、ちらりと目を向けた。
それは真新しい大きな樽だった。
それが何の用途に使われるのか、伺うまでもない。
骸を入れる棺。それ以外なかった。
「お葬式ですか」
しばらくの沈黙ののち、もうあと小半時ほどで暗くなってきそうな頃合いで、薬売りがそう訊いた。
日の落ちたお堂で、骸の入った樽と同じ軒下で雨宿りをするのは、あまり気持ちのいいものではない。
中に骸が入っているのか、そうでないのかを薬売りは知っておきたかったのだ。
「寺に行く途中です」
言葉の意図を察したのだろう。角笠の男は中身が入っていることを薬売りに匂わせた。
「そうでしたか……」
いま雨宿りをしているお堂の前は丁度三つ辻になっていて、その一つは甲州街道へと続いている。
男は甲州街道から外れて名も無い田舎道に分け入り、農村を訪れては商いをしてきたが、その道中で古寺の前を通った記憶があった。
角笠の男は、その寺へと行く途中だったようだ。
「雨、止みそうもありませんね」
樽の中身の話題を避けるように薬売りは話の矛先を変え、遠くの景色に目を向けた。
雨が降る前に遠くまで見通せていた山々は、今はあらかた白々と霞んで見えない。
視界に入って来るのは、水たまりの出来た田舎道と、元々は田や畑であったであろう、雑草の生い茂る荒れ果てた農地だけだった。
「どちらから来なすった」
止みそうもない雨に、ゆきずりの相手で時間を潰す気にでもなったのか、角笠の男は唐突にそう尋ねてきた。
その問いかけに、薬売りは少し間を置いてからこう応えた。
「国は越中なんです。薬を商っておりまして」
薬売りは自分が来た方角ではなく、故郷の地名で応えた。
すると角笠の男は、大して関心が無いかのように「ほう、薬ですか」と言ったきり、また黙り込んでしまった。
どこか薄気味の悪い男だった。
骸のことを差し引いても、この男とあまり長い時間を過ごしたいとは、普通の人なら思わないだろう。
再び訪れた静けさの中で、サーっという雨音だけが続いていく。
歩き疲れたせいなのか、退屈な軒下で、やがて薬売りは半分瞼を閉じてウトウトし始めた。
そして朧げに、雨音に混ざる足音に気が付いた。
ざっ ざっ
欠伸を一つして、薬売りは足音の聴こえて来た方角に目を向けた。
すると白く煙った道の奥から、濡れて頭を垂れた雑草を足で払うようにして、番傘を差した男が一人、姿を現した。
どうやらもう一人、ゆきずりの仲間が増えそうだ。
薬売りの男は気を利かせ、少し奥へと詰めてやる。
番傘の男は、真っ直ぐにこちらへやって来ると、庇の下に入ってきた。
「お邪魔させてもらいます」
男は番傘をたたむと、羽織っていた袖のない外套を手で掃いながら、先に雨宿りをしていた二人に会釈した。
新参者の男は、おおよそ二十代半ばといったところだろうか。
癖のある黒髪の下には物静かな目。物腰の柔らかそうな印象だが、どこか野性味を帯びた雰囲気がその男にはあった。
それにしても、男の羽織っている外套は、この辺りではあまり見かけない型のものだった。
雨水を吸って色の変わった深緑色の外套を、薬売りは失礼にならない程度に観察する。
「マントって言うんです。異国の知り合いから譲ってもらったものでしてね」
恐らくその風体について尋ねられることが多いのだろう。外套の男は訊かれてもいないのに、するりとそう言った。
「へえ、異国の物ですか。それは珍しい」
薬売りは退屈を紛らわす相手ができたことを歓迎する。
「都に出て探せば、こういったものも手に入りますよ。私のこれは上方で手に入れたものですがね」
「上方ですか。私も薬の行商で二度ほど足を運んだことがあります。ささ、こちらに来てお掛けなさいな」
「では遠慮なく」
男はそのまま、外套の下に背負っていた大きな革製の鞄を軒下に降ろし、薬売りの隣に腰を下ろした。
「へえ、便利なもんだ」
「ええ、羽織っていても、こうして担いだものを降ろすことができるんです」
薬売りは興味を隠すことなく、今度は男の降ろした鞄を指さした。
「そちらの鞄も変わってますね」
よく使いこまれている感じの焦げ茶色の革製の鞄は、そこいらでは見かけない代物だった。
「これは牛の皮をなめして成型した物なんです。軽いし頑丈なので気に入ってます」
「牛の皮ですか。それにしても上手く拵えたもんだ」
鞄に興味を移した薬売りから視線を逸らし、外套の男は黙ったままの角笠の男に目を向けた。
「そちらの方はお連れさんですか?」
相変わらず愛想の無い先客を一瞥し、薬売りは首を横に軽く振った。
「いえ、私たちはたまたま雨宿りで一緒になっただけです」
「成る程。同じ境遇でしたか」
ほんの少し雨音が落ち着いてきた。
いよいよ薄暗くなってきた頃合いで、薬売りは蠟燭を一本、幾つかある木箱の引き出しから取り出して灯りを点けた。
頼りない灯りのせいで、また少し周囲の暗さが増す。
「まだ暫くこちらに居なさるんですか?」
外套の男の問いかけに、薬売りは奥にある樽をチラと一瞥した。
「いえ、頃合いを見て発つつもりです。あなたは?」
外套の男もあれが死体の入った樽であることに気付いているはずだった。
ならば、ここに長居をするつもりはないだろう。
「私も頃合いを見て発つつもりです。野暮用がありますんで」
ここを発つきっかけが出来たことを、薬売りは内心歓迎する。すると、ずっと沈黙していた角笠の男が口を開いた。
「どちらへ行きなさる?」
相変わらず顔の半分も見えない角笠の男の問いかけに、新参者の男はスッと外套から腕を上げて一本の道を指さした。
「あちらです」
雨に煙るその道のずっと先には小さな集落があった。
三里ほど歩かなければならないが、ここでじっとしているよりは、随分とましだろう。
「そっちよりも、あちらへ行った方がいい」
角笠の男は蓑の間から骨ばった生白い腕を出して別の道を指さした。
「あっちには湯治場がある。宿も幾つかあるからそこに泊まればいい」
「そうですか。ではあなたも?」
「いえ、俺はそこからの帰りなので、それに、こいつを担いでりゃどこも泊めてはくれません」
何気ないやり取りを聞いていた薬売りは眉をひそめた。
雨が降り出す前、薬売りは今日泊まる宿を求めて、いま話に出た湯治場へと向かった。
しかし、このところ降り続いていた雨で崖が崩れ、湯治場へと続く道は閉ざされてしまっていたため、引き返して来たのだ。
この男は湯治場からの帰りと言ったが、そんな筈は無かった。
確かに道は完全に塞がれていた。骸の入った大樽を背負って、獣が通る山の中を辿って来たということは考えられない。
では、何故この男は嘘をついたのだろうか。
「湯治場で誰かお亡くなりになったんですか?」
外套の男がさらに尋ねた。
「湯治に来ていた年寄りが亡くなりましてね。取り敢えず仏さんを引き取った帰りです」
薬売りは、また眉をひそめた。
この男が湯治場に行っていないのならば、この話もでっち上げだった。
男が嘘を並べる理由は解らない。しかし、掘り下げて訊いてはいけない気がした。
「もうそろそろ雨も止みそうだ。薬屋の旦那も、そこの方と湯治場に行くといい。旅の疲れを癒すにはなかなかいい所ですよ」
角笠の男は、ここで一夜を明かすつもりなのだろうか。
連れがいない方が、この得体の知れない男にとって居心地がいいのかも知れない。
しかし、何故この男は、見ず知らずの相手がこの先の湯治場にまだ行っていないと決めつける様な言い方をしたのだろうか。
外套の男は古寺の方へと続く道から現れたので、そうと分かる。だが、このお堂には三つの道が交差している。三つに一つの確率で、自分がそこから来たという可能性があるのにだ。
薬売りが考えに耽っていると、揺らめく蝋燭の灯りに照らされた外套の男は、ゆっくりと腰を上げた。
「仰るとおり、そうした方が良さそうです。薬屋さん、そろそろ私とここを発ちましょう」
外套の男はそそくさと鞄を背負うと、角笠の男に小さく会釈をしてから番傘を開いた。
「あ、待ってください」
薬売りは慌てて荷物を背負い、先に軒先を出た男の後に続く。
「蝋燭は置いて行きます。ご達者で」
薬売りがひと言残すと、角笠の男は唇を動かすことなく、コクリと一礼した。
霧雨に変わったあぜ道で、薬売りは先に出て行った外套の男の後を追う。
やがて追いついた薬売りは、貼り付くような視線を背中に感じ、お堂をほんの少し振り返ろうとした。
「よせ。振り返るな」
小さいが判然とした声で、外套の男は薬売りを諭した。
顔を前に戻した薬売りは、自分の手が小刻みに震えていることに気付いた。
「あれ……?」
手だけではない、どういう訳なのか、踏み出す脚もブルブルと震えている。
もしこの男の制止がなければ、目にしてはいけない何かを見ていたのかも知れない。
本能的な恐怖に囚われた薬売りの首筋から、冷たい汗が伝い落ちていった。




