揺れる心
拠点の夜は、地球の夜とは異なる。
空は濃い群青色に沈み、二つの月がゆっくりと交差するように昇り、地表に長く淡い影を落とす。
静寂を切り裂くのは、拠点内で規則正しく鳴る機械音だけだった。
リクは仮設の居住区の窓辺に腰を下ろし、手元のデータパッドを閉じた。
頭の奥が重く、考えがまとまらない。
記憶核の修復。未知文明〈セレナイト〉の遺産。国家サチの技術を繋げば可能かもしれない。
分かっているのに、胸の奥には拭えない不安が渦巻いていた。
背後から足音が近づく。振り返ると、そこにサナがいた。
「……まだ起きてたの?」
彼女は白い毛布を肩にかけ、髪を緩くまとめている。月光に照らされたその横顔は、普段の冷静さよりも柔らかく見えた。
リクは気まずそうに視線を逸らす。
「ちょっとな。考えごとをしてた」
サナは隣に腰を下ろし、しばらく窓の外を眺めていた。
「……わかるよ。みんな平気そうにしてるけど、心の奥では同じ気持ちだと思う」
リクは口を開きかけて、ためらった後、吐き出すように言った。
「なあサナ……俺たち、本当にこれ以上踏み込んでいいんだろうか? セレナイトの記憶を繋ぎ直すなんて、下手したら人類の理解を超えるものに触れることになる。……俺たちは、やりすぎてるんじゃないかって」
その言葉に、サナは少し驚いたように目を見開いた。
「リクが、そんな弱気を言うなんて」
「弱気っていうか……現実的に考えただけだ」
リクは唇を噛み、胸に渦巻く迷いを隠しきれなかった。
サナは小さく息をつき、彼を真っ直ぐに見た。
「……私だって怖いよ。記憶核が目覚めたら、私たちの知らない未来が動き出すかもしれない。もしかしたら人類には受け止めきれないものを突きつけられるかも」
彼女は一拍置き、しかし言葉に力を込めた。
「でもね、リク。私たちはもう“ここに来てしまった”んだよ。恐れ続けても何も変わらない。……だったら、選んで進むしかないんじゃない?」
その真っ直ぐな瞳に射抜かれ、リクは思わず息を呑んだ。
言葉が出てこない。
「それに――」サナは小さく笑った。
「もし私が怖くて立ち止まったら、リクが引っ張ってくれるでしょう? だから、逆の時は私が支える」
その言葉に、リクの胸の奥で硬く凍っていたものが、少しずつ溶けていくのを感じた。
「……ありがとう。お前がそう言うと、不思議と前を向ける」
二人が言葉を交わす間に、居住区の奥から別の足音が響いた。
「おい、まだ起きてたのか?」
眠たそうな声でユウマが顔を出す。後ろにはミカとアオトもいた。どうやら誰も眠れていないらしい。
アオトが大きく伸びをしながらぼやく。
「まったく。お前らだけ夜空見ながら青春してんじゃねえよ」
サナが呆れたように笑った。
「……覗き見のくせに、よく言うわね」
ミカは少し気まずそうに笑みを浮かべながら言った。
「でも……私も不安で眠れなくて。ねえ、ユウマ、正直に言って。あなたも怖い?」
問われたユウマは一瞬言葉に詰まったが、やがて真剣な声で答えた。
「もちろん怖いさ。怖くない奴なんていない。ただ……俺は班長だ。みんなの前でビビってる顔は見せられない。それだけだ」
その正直さに、場がふっと和んだ。
アオトが椅子にドカッと座り、ふてぶてしく言う。
「なら、俺は堂々とビビる役やるわ。怖いもんは怖い。だけど、怖いからって逃げても仕方ない。どうせ俺ら以外にできるやつなんていないんだし」
「そうよね」ミカが小さく頷いた。
「私たちはもう、責任を背負ってしまった。逃げないって決めたから、ここにいるんだもの」
リクは仲間たちの顔を順番に見渡した。
恐怖も不安も、それぞれが抱えている。けれどその奥に確かな覚悟が宿っていることを、彼ははっきりと感じ取った。
「……わかった。なら俺ももう迷わない。みんなと一緒なら、何が来ても越えてみせる」
その言葉に、全員が静かに頷いた。
外では二つの月が交差し、淡い光が拠点を包み込んでいた。
まるで彼らの決意を照らすように。
恐れと迷いを越えて、心は一つになった。
それは記憶核の修復に挑む前夜、何よりも大切な絆の確かめ合いだった。
翌日、静かに目覚めた5人は、AIユニット〈アテナ〉とともに無言で洞窟に向かう。
暗く冷たい洞窟。その中心に鎮座する石碑は、まるで永遠の眠りについた巨人のように沈黙を保っていた。だが、その内部に封じられた「記憶核」が、かすかな脈動を取り戻し始めていた。淡い青白い光がじわりと広がり、結晶のひび割れを照らすたび、空気は震え、まるで時そのものが動き出すかのようだった。
人とAIが肩を並べ、力を重ねてきた修復作業。その努力が、いままさに臨界へと達しようとしていた。
「……あと一息だ!」
リクは荒く息を吐き、汗に濡れた額を腕で拭った。喉は渇き、手は痺れている。それでも指先からは途切れることなく細やかな電子パルスがほとばしり、結晶の奥深くへと染み込んでいく。その姿は、壊れた心臓に命を吹き込む医師のようであり、同時に祈りを込める祈祷師のようでもあった。
《警告。エネルギーの流入が限界に近い。調整を要する》
冷静な声を響かせたのは帯同しているAIユニット〈アテナ〉だ。だがその声の奥には、焦燥が滲んでいた。機械でありながら、人間と同じように「失いたくない」と願っているのが伝わってくる。
サナは強く唇を噛み、一歩前へ進み出た。震える手を伸ばし、結晶にそっと触れる。
「リク、私が補助するわ! 電子パルスを均一に流すの。アテナ、波形を安定させて!」
《了解。波形を同期――開始》
アテナの投影体がわずかに輝きを増す。
その瞬間――三者の意識がひとつの糸に繋がった。光が感情となり、心と演算が調和して旋律を生み出す。その旋律が記憶核へと注ぎ込まれていく。
……だが、限界はすぐそこに迫っていた。
「バランスが崩れる……!」ユウマが歯を食いしばり、制御盤を殴るように操作した。彼の役目はエネルギーの流れの調整。暴走しかけた数値を必死に抑え込みながら叫ぶ。「出力、まだ安定しない! 誰か、補助を!」
すかさずアオトが冷静に反応する。
「右舷側の数値を0.2下げろ。波形が合えば、均衡が取れる!」
彼の声は凛としていたが、その額には珍しく汗が浮かんでいた。
ミカは必死に船内環境を監視しながら声を張り上げる。
「酸素濃度が落ちてきてる……でも、まだいける! 負担を分散させて!」
彼女の震える声には恐怖もあったが、それ以上に仲間を信じる力が宿っていた。
リクは仲間たちを見回し、かすかに笑みを浮かべた。
「……信じるんだ、みんなの力を!」
ユウマが制御棒を叩き、アオトが瞬時に新しい数式を投影する。サナが力を込め、ミカが酸素供給を必死に補正する。そしてアテナが全体を同期させた。
――そのとき。
長く走っていた裂け目が、眠る者がまぶたを閉じ直すように音もなく閉じていく。結晶の光は脈打ち、鼓動するように強さを増した。冷たい洞窟が温かな輝きに包まれていく。
「……やった……!」
リクの声が震えた。涙でにじむ視界の中で、彼は確かに「再生」を目にしていた。
《修復率、99.8%。残余欠損は自然回復に委ね可能》
アテナの報告が洞窟に反響する。だが数字以上に胸を満たしたのは、言葉にならない共鳴だった。
五人と一体のAI。リクの鼓動、サナの息遣い、ユウマの熱、ミカの想い、アオトの理性、アテナの静謐な演算――それらすべてがひとつに重なっていた。
ただの「作業」ではなかった。
これは、人間とAIが境界を越えて「感情」を分かち合った瞬間――その証だった。
光の結晶が舞い散る空間は、まるで星々が降り注ぐ天穹のように美しかった。
だが次の瞬間、低い機械音が響いた。
『――ガガガーーまずは知をーガガー示せ。――かつて我らが歩んだ叡智を、正しく継ぐ者であるかをーーーガガガガーー』
光の結晶が組み合わさり、壁が現れる。そこには記号と映像、数式と旋律が複雑に絡み合った“多次元のパズル”が浮かび上がった。
「……これは、ただの暗号じゃない。文明の記憶そのものだ」
リクが額の汗を拭いながら呟く。
《解析は可能。しかし、単なる演算だけでは届かぬ。人間の直感が必要だ》
アテナの声は冷静だが、緊張が滲んでいた。
サナが触れると、映像が彼女の心に流れ込んだ。笑い合う人々、AIと共に踊る子供たち――だがやがて対立と争いに変わる。
「これは……私たちへの問いかけ……」
彼女の声は震えていた。
ユウマが拳を握る。
「だったら答えを出すしかねぇだろ! 俺たち、ここまで来たんだから!」
ミカも涙をにじませながら頷く。
「そうよ……私たちは一人じゃない。ずっと一緒に歩いてきたんだから」
アオトは短く言った。
「答えは、論理と感情の融合だ。僕たちなら届く」
五人の視線が重なり、アテナの光が揺れる。
その瞬間、結晶が音を立てて変形した。
今度は――心を試す試練。
『――次にーー、信をー示―せ。互いを信じ、己を委ねる勇気を持つのか――』
空間が揺らぎ、彼らは光の迷宮に放り込まれた。
迷宮の深奥へ
光の壁が揺らぎ、再び迷宮が姿を変える。
今度は一本の回廊が伸び、五人――リク、サナ、ユウマ、ミカ、アオト――は自然と横に並んで立たされていた。
リクは息を整えながら、背後を振り返る。彼の瞳に映る仲間たちの顔は、皆それぞれの緊張と決意に満ちていた。
サナの指はかすかに震えていたが、その震えを押し殺すように胸の前で組まれている。
ユウマは軽く首を回し、緊張をほぐそうとするが、その瞳の奥には「ここで失敗できない」という焦燥が揺れていた。
ミカは唇をかみ、何かを呟く。彼女の思考は常に先を走り、出口を見据えている。
アオトは両手をポケットに入れ、肩を竦めるように見せつつも、視線は一点の乱れもなく光の壁を解析していた。
「……ここまでは“知”と“信”だった。なら、次は――」
リクが呟いた瞬間、迷宮が低く唸り、五人の足元が光に包まれた。
壁面に無数の模様が浮かび上がり、やがてそれらは“鏡”のような形へと変化していく。
一人につき一枚。五人の目の前に、まるで自身の姿を映すかのような光の鏡が現れた。
『――次の門を開くには、己を映せ。己を映し、己を超えよ――』
声は洞窟全体に響き渡り、空気を震わせる。
五人は同時に息を呑んだ。鏡の中には、ただの自分の姿ではなく――“別の自分”が浮かび始めていた。
リクの鏡には、険しい表情の「もう一人のリク」が立ち、嘲笑を浮かべている。
サナの鏡には、幼い頃の彼女が怯えた顔で座り込んでいる。
ユウマの鏡には、冷酷で無表情な自分自身が映っていた。
ミカの鏡には、孤独に背を向ける彼女の姿が、誰にも届かない声で何かを叫んでいる。
そしてアオトの鏡には、仲間たちを見下ろし、冷たく切り捨てる未来の自分が立っていた。
「……これが、“次の試練”か」
アオトが低く呟く。その声はいつもの冷静さを装っていたが、拳は微かに震えていた。
リクは仲間たちを見回し、強く頷いた。
「どんな幻影でも――乗り越えるしかない。みんな、ここからが本番だ!」
その瞬間、光の鏡が砕け散り、五人はそれぞれ別々の空間へと引き裂かれていった。
そこに待ち受けているのは――
彼ら自身の弱さ、恐れ、そして最も隠してきた「影」との対峙だった。




