第九話 すんすんしたい欲求と身体強化
『レオンの首筋と耳の匂いをすんすんしに行くんだ――』
テッドが満面の笑みでルークにそう言い放った瞬間、オフィーリアは、脱兎のごとく走り出した。
「やばい、ルークに邪魔されちゃう。先に着かなきゃ。」
彼女が目指すは、学校の廊下を突っ切た先にある渡り廊下の向こう側。レオンがいるギルド本部である――。
「フィー!」
そう叫び声を聞いた彼女の横にはすでにルークがいた。彼は、全力疾走しているオフィーリアにいとも簡単に追いついてきた。
ルークの俊足にオフィーリアは驚いた様子で彼の足元を盗み見る。柔らかな光が彼の足を包んでいた――。
「ルーク、ずるい! 身体強化、そんなんで魔法を使うなんて。」
叫びながらオフィーリアは、ルークを睨んだ。ルークは、オフィーリアの抗議など耳に入らないと言った様子ですました顔をして疾走を続けている。
「そっちが、その気なら......私だって――」
オフィーリアは、不敵な笑みを浮かべた。
彼女の黒い微笑みを見たルークは、一瞬だけ動揺の色を見せたが、そのまま全力で走り続けた。
「勇者の新魔法よ。見てなさい。」
キンと凍えるような鋭い眼差しで前を見据えたオフィーリアは、神経を研ぎ澄まし、両脚の隅々にまで雷魔法を行き渡らせた。速度を上げる。
ルークは、オフィーリアが閃光を身に纏い彼と同じ速度で走っていることに驚愕し、走ることを忘れるほどに呆けてしまった。
その一瞬の隙を見逃すことなくオフィーリアは、さらに魔力を込めて速度を上げた。ルークを引き離す。
「勝ったわー!!」
叫びながら一気に廊下の突き当りに到達したオフィーリアは、あっという間に角を曲がりその姿を消した――。
渡り廊下に出ると、真っ赤なドレスを纏ったシンシアとレオンが並んでオフィーリアの方へと歩いてきていた。
二人は、猛ダッシュをしているオフィーリアに驚いた表情を見せたが、彼女が「つがいーーーー!!」と叫んだのを聞き、レオンは呆れた表情をして腰に手をあて立ち止まった。シンシアは蠱惑的な笑みを浮かべて立ち止まり、オフィーリアを歓迎するように両手を広げた。
シンシアの表情を見たオフィーリアは、すべてを察したように目を輝かせた。シンシアの腕の中へと迷いなく走っていく。
「レオン!!」
ルークの叫び声を聞いたオフィーリアは、不意に走る速度を落としてルークの様子を窺った。
ルークは、オフィーリアが速度を落としたことにも気がつかない様子で、なりふり構わずにその身体を突っ込み、レオンの胸に飛び込んだ。
「ルーク、どうした?」
困惑した様子のレオンが、ルークを受けとめた。レオンに抱きかかえながらようやく正気を取り戻したルークは、恥ずかしそうにしてレオンから離れる。
一部始終をニヤニヤとしながら見守っていたオフィーリアは、ルークが恥ずかしそうにしてレオンに言い訳を並べているのを横目に、シンシアにそっと抱き着いた。
「テッドから聞いたわ。やっと完成したのね。レオンで試したんだね。もちろん貴方もつけているんでしょう?」
シンシアの首に手を回しながらオフィーリアは、頬を染めてうっとりとした表情でシンシアを見上げた。
そうよとシンシアは静かに頷いた。
シンシアも、恋人を見るかのような熱い眼差しをオフィーリアに向けている。
シンシアの首すじにゆっくりと顔を近づながらオフィーリアは、その香りをじっくりと堪能した。
「甘いわね。香りが......やっぱり――すごいわ。」
オフィーリアは、恍惚とした表情を浮かべながら深く息を吸った。その瞳を閉じながら一気に吐いたその熱い吐息は、シンシアの首筋を一気に駆け上がった。シンシアはピクリと反応し、それから恥ずかしそうにしてくしゃりと微笑んだ。
オフィーリアは、目を閉じたままシンシアの肩に顔を埋めた。妖艶な笑みを浮かべながらシンシアは、オフィーリアをきつく抱きしめた。静まり返った渡り廊下に極限まで密着した二人の呼吸音だけが響き渡る。
ルークがたまらずゴクリと息をのんだ。レオンは、「馬鹿な奴らだ。」と呟いている。
ようやく顔を上げたオフィーリアは、シンシアに満面の笑みでありがとうと言ってシンシアから離れた。
役得だなと嬉しそうに呟いたシンシアは、それからオフィーリアの頭を撫でながら言った。
「どうだった? 俺の新商品、番の香り。名付けて、ソフィアの誘惑。最強だろ? お前、俺の匂いに完全に誘惑されたな。」
「もう、ほんっと最強。あのソフィアが言ってた匂いのそのまんま。完コピ成功だね。さすがシンシア。幸せの香りだったわ。誘惑されたわ。本気で。買うわ。これ。もう、シンシア、最高!」
オフィーリアは、シンシアに抱き着いて最高と繰り返しながら頭をシンシアの胸に擦り付けた。シンシアは、よかったな、最高かと言いながら満足そうに笑顔でオフィーリアの頭を撫で続けた。
「シンシアって?! なに!? 一体どうなってんのーー!?」
叫び声をあげたルークは、それから頭を抱えて床に倒れ込んだ。シンシアって、新しい友達って、男だったの? 聞いてないよと、力なく呟くルークに、レオンが、苦笑している。
「姉ちゃんたち早いよ。酷いぞ。俺を置いてくなよ。」
はぁはぁと言いながら、テッドが走ってきた。
「みんなには置いて行かれるし、はぁ。学校の窓から蜘蛛が入ってきて腕、噛まれたし、はぁ。はぁ。もう最悪だよ。」
いじけながら腕を眺めるテッドにオフィーリアが駆け寄った。
「蜘蛛?! 噛まれたの?! どこ? 手?」
テッドの手を取ったオフィーリアの腕に、小さな蜘蛛が一匹、どこからともなく落ちてきた。
オフィーリアが身に着けていたブレスレットが突然光りだした。
ブレスレットから発せられたまばゆい光は、蜘蛛を包み込んだかと思うと一瞬で蜘蛛を焼き切った。ジジジという音と共に一瞬にして蜘蛛は、消え去った。
「――うそでしょ。魔物。」
怯えた表情をしてオフィーリアは、レオンとルークを見上げた。
二人は、かすかに残るブレスレットのその仄かな光をただ茫然と眺めていた。