第六十三話 本当の勇者
はぁ、はぁ、はぁ――
アーチャーは、肩で息をしながら苦しそうに顔を歪めた。
「兄ちゃん、大丈夫か? これ飲んでくれ。ルークの回復薬だ。」
テッドが、心配そうにアーチャーの顔を覗き込んだ。肩にかけていた麻のポシェットから小さな瓶を手に取り、アーチャーに差し出した。
二人は、蜘蛛の襲撃からなんとか逃げ延びて、大木の根元にできた小さなくぼみに身を隠していた。
「ありがとう、テッド。でも、俺は――大丈夫だから、お前が飲め。」
ギリと奥歯を噛みしめ痛みに耐えるアーチャーの脇腹は真っ赤に染まっていた。服が切り裂かれその隙間から止めどなく血が流れている。
アーチャーは、傷口を抑えながらも周囲を警戒し、何度も首を動かしている。その度に生じる痛みに何度も顔を歪めていた。
「ダメだ! 兄ちゃんが死んじゃう。俺は、大丈夫だ。ちっちゃいのに刺されただけだし、前みたいに毒が広がってないし、熱くもないし。」
テッドは、無理やり小瓶をアーチャーの口に押し込んだ――。
「――良かった......。血が少なくなってきた。」
テッドは、アーチャーの指から零れ落ちる血の量が少なくなったことを確認すると、力が抜けたように座り込んだ。アーチャーの隣にぴったりとくっつき、彼に囁いた。
「兄ちゃんごめん、俺が、籠をずっと持ってたから」
二人の傍らの大きな手提げ籠には山苺が入っていた。籠を抱えながら必死で走ったテッドは、しかし、逃げる途中で半分以上の山苺を落としてしまっていた。
「兄ちゃんの服も、ごめんなさい。ぼろぼろになっちゃった。」
「気にすんな。どうせ安もんだ。お前が怪我するよりずっといい。お前がくれた薬もよく効いてる。テッド、ありがとうな。
それにしてもあの蜘蛛――、まさかあんなもんを飛ばしてくるなんて、目玉もなかったし、新種か? 体から針を飛ばす魔物――」
身体に違和感を感じたアーチャーは、傷口を確かめた。先ほどまで流れていた血は、止まっていた。
「しかし、すげえな、ルークの回復薬。あっという間だ。」アーチャーは、傷口を確かめながら呟いた。
アーチャーは、それから身を乗り出してくぼみから顔を出すと、大木の周囲を再度見回した。
「あいつら耳が聞こえない代わりに、視覚はずば抜けてるからな――見つかるのも時間の問題だな」
彼が、視線を落とした草むらには二人分の足跡がくっきりと残っている。
「なあ、テッド、もしここに蜘蛛が来たら、お前、あの茂みに隠れてるんだぞ?」
アーチャーは、テッドの頭を撫でた。
「だめだよ! 兄ちゃんも一緒に逃げるんだよ。大丈夫だよ。ここにいれば、ルークとリア姉ちゃんが助けに来てくれる。それに――、兄ちゃんも強いから、大丈夫だ。だって俺らの勇者騎士アーチャーだから――。」
アーチャーは、テッドに小さく笑みを浮かべた。
「ああ、あのリアのお話か? あれは、作り話だよ。俺は勇者でも、騎士でもない、俺はただの慰謝料まみれのおっさんだ。婚約者を陥れた悪役だし、強くもない。あの蜘蛛だって、倒せなかったしな――」
本当は、大魔王ルークの方がずっとすごいんだぞと言ってアーチャーはテッドの頭を撫でた。
「――でも、兄ちゃんが悪役なのは......お姫様のためなんだろう?」
テッドは、上目遣いでアーチャーに言った。
「お姫様?」
アーチャーは、なんのことだと眉を顰めた。
「そう、アーチャーの大事なお姫様。お姫様が海の向こうにいる王子様と幸せにハッピーエンドになるように、騎士のアーチャーが悪者になって、お姫様を島から追い出したって――
だからアーチャーは、わざと泥をかぶってる騎士で、だからその泥のおかげで、ざらざらしてて、それで、大魔王のぬるぬる攻撃がアーチャーには、効かないんだ。」
「――なんだよ、それ――、ぬるぬる、ざらざらって――。めちゃくちゃな物語だな。――それに、十年以上、誰も疑わなかったのに、なんであいつが、そんな簡単に......」
アーチャーの頬に一筋の涙が流れた。
――カサカサカサ
「来たか――。テッド、絶対にここを動くなよ。籠を盾に隠れてるんだ」
アーチャーは、テッドを背にかばうようにして立ち上がった。テッドは、くぼみの中にすっぽりと入っている。
アーチャーは、後ろ手に籠で蓋をするようにしてテッドを隠すと、大きな動作で弓を引いた。アーチャーは、魔物の注目を集めるようにして一歩また一歩と魔物に近づいていった。
弓を構えたまま大げさに近づくアーチャーを魔物たちが取り囲む。木の根元に注目する魔物はいなかった。
アーチャーは目線だけを動かして、テッドを確認するとニヤリと口角を上げて、弓矢を放った――。
矢は、目の前の魔物に命中した。攻撃を受けた魔物が勢いよくアーチャーに突進してきた。周りを囲んでいた魔物も一斉にアーチャーめがけて駆け出した。
アーチャーは、背中に差していた矢の束をすばやく取り出して、剣のようにして構えた。突進してきた蜘蛛が一斉に飛び上がった。
雄たけびを上げたアーチャーは、大きく矢を振りかぶった――。
バキバキバキ!!
耳をつんざく雷鳴とともにアーチャーの目の前に小柄な影が差した。矢を握りしめたまま呆けているアーチャーに、影は聞き慣れた声で言った。
「アーチャー! お待たせ!」
良かった、間に合ったと振り向きざまに笑顔を見せるオフィーリアに、アーチャーは眉尻を下げて破顔した。
二人の周りには、何匹もの魔物が倒れ落ちていた。アーチャーはいつもの調子で話しかけてくるオフィーリアを見つめて、
「ははっ。リア、お前――、やば、キスしてもいいか?」
オフィーリアをきつく抱きしめた。
彼の背中から耳をつんざく叫び声が聞こえた。
「ダメに決まってるだろう!!!!」
大木から必死の形相でルークが走り寄って来た。彼の背中越しには笑顔のテッドが大きな籠を抱きながら歩いている。
ルークが慌てながらオフィーリアとアーチャーを引き剥がす。
「フィー、何やってんの? 大人の階段どうしたの? そこは、ダメよって断ってくれよ。」
縋り付きながら懇願しているルークに、オフィーリアは肩を竦めた。
「仕方ないのよ。これは、成り行きよ。それに......してないわ。」
「なんだよ、その浮気男の常套句みたいな台詞。どこで覚えたの。そんな階段上っちゃだめだよ。」
力なく抗議するルークに、オフィーリアは、眉尻を下げながら言った。
「さ、とにかくこの魔物たちを何とかしないと、それにここに来るまでに何匹も同じようなのを見たし、仕方ないわね。ルーク、いつものおんぶぬるぬる魔法よ!」
オフィーリアは、笑顔で両手を広げた。ルークが顔を真っ赤にしながらうんと小さく頷くと、オフィーリアは、ルークの背中に勢いよく飛びついた。
ルークは、嬉しそうな表情で、片手を上げると無数の小さな雫が一気に周囲に散らばった。
雫を全身に浴びながらオフィーリアは、はちきれんばかりの笑顔を浮かべた。
「今日のぬるぬるは、最強ね。これなら山の魔物を全部一気に殺れるわ」
ぴったりとルークの背中にくっついて深呼吸をしたオフィーリアは、天を仰いだ。両手を上げると勢いよく閃光を放つ。
山全体を覆うほどのまばゆい閃光を見上げながらアーチャーは、「最強のお姫様だな」と楽しそうに呟いた。




