第三十一話 水騒動と取引
「万死に値するわね――」
オフィーリアは、凍り付くようなマダムクロッシェの眼差しに身震いをした。彼女の汚物を見ているかのような蔑みの視線の先には、小さく縮こまっているこの国の王弟がいる。
ワーデンは、その威厳などつゆほども感じさせない程にしおれた様子で、床に跪いていた。オフィーリアは、彼を見遣って少しだけ眉尻を下げた。
「貴方、分かっているわよね。貴方たちがこの島に流れてきた時にしっかりと契約を結んだはずよ。この島の湧水をきっちりと二分して、それぞれがお互いに干渉される事なく使用するって、それを、私たちの同意も得ずに、勝手に破棄するの?
私たちが、当時の契約を守り続けているのは、貴重な私たちの飲み水を貴方達から守るためよ? 私たちは、私たちの命を守るために、あんな不平等な契約を結んだの。この島の土地の半分以上を貴方たちに譲渡したわよね。
寝床が狭くても死なないけど、飲み水がないと死んでしまうから、仕方なく貴方たちの要望に応えて、平民街で我慢してせせこましい暮らしを続けているのよ。」
マダムクロッシェは、そう言い終えて腕を組むとワーデンを見据えた。
クレアは、フライパンをぎりぎりと握りしめながら眉間に皺を寄せてワーデンを睨み続けている。
レオンは、マダムクロッシェと同じように腕を組みながらも呆れた表情を浮かべていた。
オフィーリアは、困惑した様子で周りを見回した後、目の前のワーデンを見遣った。ワーデンは、罠にかかった小動物の様におろおろとしている。
マダムクロッシェの後ろに控えているキースだけは、その姿勢を変えずに視線だけをワーデンに向けていた。
「だって......。あの王女、綺麗好きで......。それで、水が足りないんだよ。彼女、湯あみに川の水を使いたくないって、俺らの飲み水を勝手に湯あみに使っちゃうんだ。
それに、洗濯につかう水も全部湧水に変えろって、ずっとごねてて、はぐらかしたら、今度は、許可なしに勝手に使っちゃうんだよ。
王女だけじゃなくて一緒に連れてきた侍女や、従者、護衛の連中も湧水を使い放題で......それに医師団の医療行為にも湧水の使用は必須だって、そう言われたら――。」
ようやく口を開いたワーデンの歯切れの悪い答えに、クレアが叫び声をあげた。
「まーた!!! あんの、クソわがまま王女かい!あいつのせいで、あたしら島の商人は、何度煮え湯を飲まされた事か!
あの女のわがままさは、人間の域を超えているよ!あいつは、魔物だ! あんなやつ、とっとと故郷に返しな!」
クレアの剣幕に、困り果てた表情のワーデンは、周りに視線を送り助けを求めるも、周りの反応は冷たいままだった。ワーデンの視線は誰の助けも得られずにおろおろと漂い続け、最後には背中を丸めて床と話し始めた。
「俺だって、何度も帝国に打診したんだ。王女様は、十分交流なさいました、もういいんじゃないですか? 元々は医師のみの来訪だったわけですし、医師だけ残ってもらって、王女だけでも、帰国なさっては? って何回も打診したんだよ。
でもなぁ。いつもはぐらかされちゃうんだよなぁ。帝国では、今派閥争いが激しくなっているらしくてさ、醜聞の多い王女は煙たがられてるんだ。
王女は、王女で、この国で持て囃されているからって、味を占めちゃったらしくって、ルークと婚約してこの国に留まるってずっと言ってるし。
もう王女も必死なんだよ。ルークがどんなに重病でも、余命いくばくもなくっても、もう、そんなのどうでもいいみたいなんだ。
結婚さえできれば......この国と縁さえ繋げれば? それでいいって......。」
「帝国の派閥争い――。」
マダムクロッシェは、そう言うと振り向きざまにキースの手を取った。素早く彼の手に顔を近づけ、小指に口付けた。それからニヤリと口角を上げたマダムクロッシェの瞳は、紅く染まっていた。
「――いいわ。湧水を当分の間、貸してあげる。ただし、条件があるわ。」
マダムクロッシェの言葉に、一瞬顔を歪めたクレアはマダムクロッシェの笑顔を見て、すぐに表情を戻した。
ワーデンは、マダムクロッシェの提案に、上目遣いで縋るような眼差しを向けた。目尻には、涙が溜まっている。
「ワーデン、貴方、あの王女と婚約なさい。それで、彼女がこの国に留まる事を正式に認めるの。ただし、その代わりに、あの子の行動を制限するのよ。
これ以上、島であの子が横暴な振舞をしないように、貴方が責任を持ってきちんと監視すること。
四六時中、彼女の傍に侍って、彼女の事を監視するのよ。
ただの世話役だったルークだって出来ていたんだから、貴方にも当然できるわよね。彼女の婚約者になるんだから。
あと、彼女との歳の差がとか言い訳もなしね。貴方のその口調、大人の威厳なんて何にもないんだから。精神年齢で言ったら貴方と王女に差なんて一切ないわ。お似合いよ。
それで、監視を続けて、もし彼女がまた私たちの迷惑になるような事を言い出したら、必ず私の所に来て相談しなさい。
その横暴な要望を、私と、島のみんなでまず話し合うから。
この条件をのむなら、期間限定でこちらの湧水の使用権を貸与するわ。
期間は......そうね。こちらも色々と準備があるから、貸与開始まで数日は欲しいところね。
準備が出来次第、貴方に連絡するわ。それまでに、しっかりと契約書も作成しておくわね。
でも、これはあくまで期間限定の貸与よ。絶対に譲渡はしないから。それで、貸与する期間だけれど、それは、長くても年末までね。延長は無し。その必要もなさそうだし?
貴方、私たちの大切な命の水を年末まで貸してあげるんだから、あの子のことをこの国でしっかりと監視するのよ。絶対に野放しにしちゃだめよ。」
マダムクロッシェは、ワーデンの前でかがみこんで彼と目線を合わせると、妖艶な笑みを浮かべて、ぺちぺちと彼の頬を叩きながら言った。
「あとね、もう一つ条件があるわ。これは、絶対に譲れないわね。ルーク、彼の事、そろそろ死んだことにしてちょうだい。」
ワーデンのこめかみから一筋の汗がたらりと流れ落ちた。
ぎゅっと拳を握りしめたオフィーリアの表情は、嬉しさであふれていた。




