第十二話 魔物の呪い
「ただの虫刺されなんだぞ! そこらへんの蜘蛛に刺されただけで! これしきの事にも対処出来んのか!? 貴様、それでも侯爵家の医者か!!」
分厚いカーテンで覆われた薄暗い寝室。上半身を露わにしたジョーン・ダムドー侯爵令息がベッドに腰かけながら、老医師を怒鳴りつけていた。この役立たずが!と老医師を怒鳴りつけながら、傍らにあった枕やクッションを手当たり次第に掴み、老医師に投げつけている。
ジョーンは、先日グレースに扮したシンシアに、婚約破棄を言い渡された。婚約破棄の際に明るみに出た平民ナンシーとの不貞という醜聞は、貴族の間で一気に広まりジョーンには、自宅謹慎という罰が下っていた――。
老医師や侍女、ジョーンの目に映るものすべてに当たり散らした彼は、ベッドから立ち上がり、肩でハァハァと息をしながら老医師を睨みつけた。
老医師の背後には、大きな白い布が垂れ下がっていた。その布にジョーンが投げつけた水差しがぶつかり、布は、濡れた重みでばさりと床に落ちた。露わになった壁際には、大きな姿見鏡があった。
鏡には、老医師の小さく丸まった背中と、憎々し気に顔を歪ませたジョーンが映し出され、鏡の中の彼の裸体には、毒々しい蜘蛛の巣がベッタリとへばりついていた。
彼の体に張り巡らされたそれは、てらてらと黒光りし、みみず腫れのようにぶくぶくぼこぼこと盛り上がっていた。その黒い模様は、ジョーンの首から下のすべてを覆い尽くし、それはまるで彼の体を徐々に浸食する寄生虫のようにもぞもぞと蠢いていた。
鏡に映る自身の姿に慄いたジョーンは、サイドテーブルに飾られていた花瓶を乱暴に掴み、鏡めがけて投げつけた。大きな音を響かせ、花瓶と鏡が砕け落ちる。
「また、お前か......」そう言いながら長身で整った顔立ちの男性がジョーンの寝室に入ってきた。
突然現れた男性に驚いたジョーンは、彼からその身を隠すように咄嗟にシーツを手に取り、すばやく上半身に巻き付けた。しかし、男性は、ジョーンの事など目に入らないといった様子ですぐに老医師に駆け寄り、床に力なく座り込んでいる老医師に、「大丈夫か、怪我はないか」と尋ねた。
「大丈夫です。坊ちゃん、お気遣いありがとうございます。」
老医師は、心底ほっとした様子で男性に柔らかい笑みを浮かべた。
男性は、老医師に穏やかな笑みを返し、老医師の手を取ってゆっくりと彼を立ち上がらせると、ジョーンには一瞥もせず、老医師と共に寝室を後にした。寝室を出る際に男性は、壁際に控えていた侍女たちに目配せをして彼らの退出も促した。侍女たちも安堵の表情を浮かべて寝室を出た。寝室にはジョーンが一人取り残された。
「やばい、やばい。兄上が帰ってきていたのか。どうする。だめだ。やばい。」
ジョーンは、ベッドに腰かけて頭を抱え、正気を失ったかのようにぎょろぎょろと床に視線を這わせた――。
「貴様! 我が侯爵家や私の顔にまた泥を塗る気か!」
先ほどの男性が、地を這うような声音とともにジョーンのもとへと戻ってきた。
「あ、あに――」
バキッ。
ジョーンが顔を上げて男性を見るやいなや、男性はジョーンを殴りつけた。
「ぐふっ」
男性に殴られたジョーンは、反動でサイドテーブルに肩を打ちつけて床に倒れた。
「ご、ごめ、や、やめ」
ジョーンは、殴られた恐怖で立ち上がることもできず、ガタガタと震えながら、床にへたり込んでいる。顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら男性を見上げたジョーンは、男性の足元で縋り付くようにして「お兄ちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい」と言って謝罪を繰り返した。
「なんの才もないお前にお父上が、ようやく金づる伯爵家との縁談の話を取り付けてきたというのに......平民との不貞で婚約破棄。」
男性は、その端正な顔を悪魔の様に歪ませて、ジョーンをねめつけた。
「婚約破棄の次は、虫刺され? 病気? こんな気持ち悪い体になって、見目だけがお前の取柄であったが、今のお前にはなんの価値もない。平民と変わらないな。いや、自分で稼ぐこともできない、醜い、金だけはかかる。平民以下だな。」
男性は、黙って俯き続けているジョーンの髪をわし掴みにした。
「ぐふっ。」
痛みに顔を歪ませながらジョーンは、目を固く閉じた。なんの抵抗もせずにガタガタと震え続けるジョーンに、男性は蔑むように冷たい視線を浴びせた。
「クズめ。」
そう言って男性は、ジョーンの頭を床に打ち付けた。ジョーンは、うぅ。と唸りながら、そのまま床にうずくまった。
「午後から隣国の医師団との交流会がある。お前はこの交流会に参加する。我が侯爵家の医薬品関連の契約がお前のせいで何件も無くなったんだ。何としてもこの交流会で、隣国の医師との繋がりを作って損失の穴埋めをするんだ。それが出来なかったら......わかっているな。」
そう言って男性は、ジョーンの脇腹を蹴飛ばした。
体を縮こませながら苦しんでいるジョーンを見て満足そうな笑みを浮かべた男性は、それから何事もなかったかのようにその歪んだ顔を人好きのする柔和な表情へと変えてジョーンの寝室を後にした。
「クソッ、クソッ、クソッ...」
ジョーンは、握りしめた拳を何度も床に打ち付けた――。