幼馴染みの眼鏡が死んだ。
「──あっ!!」
ある日の仕事帰りのことだった。いつもの人混みだらけの歩道をぼんやりと歩いていると、通りすがりの人と肩が当たり、ぶつかった勢いで掛けていた眼鏡が外れた。
「よっ──あ、しまっ!」
慌てて俺は、外れた眼鏡を空で掴まえたが、掴みが甘くて眼鏡は俺の足元のアスファルトにカツンッ!と落ちた。拾おうとして落ちた眼鏡に手を伸ばした、時。
カッ!
「あっ!」
通りすがりの人に眼鏡を蹴られてしまった。
「俺の眼鏡っ!」
眼鏡は通りすがりの人々にカツンッカツンッと蹴飛ばされ、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする。俺は眼鏡を拾おうと必死になって、人混みのなかを泳ぐように眼鏡を追う。
そして。
「はぁ……良かっ──」
通りすがりの人々に蹴られながら、眼鏡は歩道の端にあった服屋の壁に当たってようやく止まった。
が──
パキャッ!
「あ……」
俺の目の前で。
眼鏡は、思いきり踏み潰された。
ザッザッザッとした、雑踏音。
車の走り過ぎる音やクラクション。
さっきまで煩かったその音たちが、だんだん遠退いていく。俺は眼鏡を拾おうとしてしゃがみ、手を伸ばしたままの状態で呆然としていた。
その間も眼鏡は音もなく他人らに踏み潰され、ぐしゃぐしゃになっていく。
大切な、俺の眼鏡。
幼馴染みからもらった、俺の黒ぶち眼鏡。
その眼鏡が、壊れた。
まるであの日のように、俺は壊れた眼鏡を静かに見つめていた。
8年前、高校生になってすぐのこと。俺の誕生日に、かのこはその黒ぶち眼鏡をくれた。
「ふふっ、フレーム無しの眼鏡も似合うけど、黒ぶち眼鏡もめっちゃ似合ってる!かっこいいよ」
と、俺の手を握りながらにいっと微笑んでかのこは言った。俺はそんなかのこが可愛くて、人通りの結構ある歩道の端で、人目も気にせずにかのこの唇にキスした。普段、こんな人通りの多いところでキスなんてしないけど、無性にキスしたくなった。
「ちょっ、も~……こんなところでキスするなんて恥ずかしい~!」
「ごめん、かのこが可愛くてつい……」
「やめてよも~……付き合う前は無口で無愛想だったくせに、ほんと、付き合ってからめっちゃデレるじゃん(笑)」
俺とかのこは保育園の時からの幼馴染みで。小さい頃は、かのこのことを妹みたいなやつだと思っていたけど、中学に上がり、だんだん綺麗になっていくかのこを見ていると何だか意識しはじめて──……気づいたら、俺はかのこのことを『妹』ではなく『異性』として見ていた。恋…していた。
そして中学の卒業式の日に、俺はかのこに想いを伝えた。両想いだったようで、俺が告白するとかのこはすぐにOKしてくれて付き合うことになった。
「はやくお家に帰って、奏翔のお母さんと誕生日ケーキ作らなきゃ♪」
「はは、家に帰るって俺ん家だろ。俺ん家はいつからかのこの家になったんだよ。まあ……いつかは本当に、俺ん家もかのこの家になるんだろうけど──」
そう言いながらぼんやりと俺は、かのこと俺、そして子供と3人で手を繋ぎながら俺の家に帰る妄想をしていたが、いくらなんでも気が早いと恥ずかしくなり、俺は首を振って妄想を消した。が、そんな妄想をしていたことをかのこに気づかれたようで。
「ちょっとも~奏翔ったら、何想像してるのぉ~?奏翔のえっちぃ」
「は、はぁ?何がエッ……だよ!?べ、別に何も想像してないし」
「動揺しちゃって可愛い~♡」
「うるさいなー……あ、靴ひもがほどけてる」
横断歩道の前、するり、と。
かのこと繋いでいた手をほどき、俺はしゃがんで靴ひもを結び直す。俺がしゃがむと同時に、信号は青に変わったようで。
「奏翔~青になったよ、はやく行こ」
「うん、かのこ先に渡ってて」
俺は良い歳して蝶々結びが苦手で。苦戦しながら靴ひもを結ぼうとしていた。
「はーやーくぅ!かーなーとぉ!」
かのこは横断歩道の真ん中に立ち、俺のことを待っていた。
パッポウ パッポウ パッポウ
「もう少し……かのこ、横断歩道の真ん中は危ないから、さっさと向こうに渡っとけよ」
パッポウ パッポウ パッポウ
俺は少しイラつかせながら、やっと靴ひもを結び終え。
「──よし!かのこ、今行───」
まだ、横断歩道の真ん中で立って俺を待つかのこ。俺は立ち上がってかのこのもとに駆け寄ろうとした──……
時。
ドンッ!!!
一瞬の出来事だった。
猛スピードでトラックが俺の目の前を通りすぎたのと同時に、何か大きなものがぶつかったような音が聞こえた。
そして、さっきまで目の前にいた筈のかのこの姿が、俺の視界から消えた。
パッポウ パッ──
チカチカして、青信号が赤に変わった。
ざわつく人々。
上がる悲鳴。
だんだんその音が、遠退いて……いく。
無音の中。何が起こったのか、俺は理解できずにいた。ただ、目の前にいた筈のかのこはあれ以来、俺の前から消えてしまった────
───────……
ザッザッザッ
ピーピーピピー!!
パッポウ パッポウ パッポウ
無音から。
音が、溢れてくる。
すると、俺の頬にあったかいものが零れた。
涙、だ。
───あの日、かのこは死んだ。飲酒居眠りトラック運転野郎のせいで。即死、だった。
かのこの亡骸は思い出したくもないほど、酷く。腕や足はありえない方向に曲がったり千切れてたり。顔は……誰か分からないくらい、ぐしゃぐしゃになっていた。
だから俺は、その亡骸をかのこだって理解できなかった。いや……理解、したくなかった。
だって、数分前までかのこは笑ってたし。なにより、かのこの体温が、まだ俺の手に残ってた……から。
かのこが亡くなって、俺は泣かなかった。かのこの葬式の時も、泣かなかった。泣けなかった。
心の何処かで、かのこはまだ生きてるとか。かのこは今何処かに行ってて居ないんだ、とか。かのこが亡くなったことを俺は受け入れられなかった。
───けど。
かのこからもらった眼鏡の亡骸を見て、もう……かのこはこの世に居ないんだって今更分かって。
「ぅ……ふぅう……かのこっ……なんで……なんでっ!うわああああああっっっ!!!」
騒々しい音が通りすぎていく、中。
俺は大声で泣いた。
かのこの亡骸を抱きしめながら、俺は8年分の涙を溢した──────……