彼女が呪いの宝石姫だと誰が言ったのだろうか
「セルリアンの王女、イリーナ。俺は、おまえとの婚約を破棄する!」
学園の卒業パーティーのために設けられた夜会でその声が響いたとき、その発言を浴びせられた本人は、その会場の誰よりも静かな顔をしていた。
澄み渡る海のようなあざやかな青色の髪に、同じ色の瞳。セルリアン王国の王女であるイリーナは、その発言を受けて静かに頭を下げた。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
イリーナの行動により、会場内はざわめいた。まさか王女が発言を受け入れるとは思っていなかったのかもしれない。
それは婚約破棄を突き付けたこの国の第三王子のジルベールも同様のようだった。深い緑色の瞳を細めて、イリーナの真意を探ろうとしている。だけどイリーナの海が凪いだような表情からは何も得られないとわかったようで、チッと舌打ちをすると傍らの令嬢の腰を引き寄せた。
輝いている金髪に、小柄な見た目は少し小動物を思わせるかもしれない。少しおどおどしながらも、控えめに殿下を見上げて微笑んでいる。まるで見せつけているかのようでもある。
彼女は小動物みたいな見た目を利用して、これまで散々イリーナを侮辱してきた。伯爵令嬢のアンジェリカは、とても腹黒い女なのだ。
思わず足を踏み出そうとして、イリーナに視線で制される。
あなたの出る幕はない、と伝えているのだろう。ただの護衛騎士であるエリオンには、彼女の身辺警護しか任されてはいないのだから。もどかしくって、握りしめた拳が震える。
それにしても、なんて愚かな王子なのだろうか。
セルリアン王国と、エバーグリー王国の間に、国同士の結束を固めるための縁談が持ち上がったのは、もう十年も前だ。両者が成人したら、ジルベールはセルリアンに婿入りすることになっていたが、その前に他国を知るいい機会だろうとイリーナはエバーグリーの貴族たちが通う学園に三年間通うことになった。彼女の護衛騎士として、エリオンも一緒にエバーグリー王国にやってきた。
だが、エバーグリー王国にやってきたエリオンは、イリーナの婚約者であるジルベールにとても失望することになる。
この学園に入学をする前に、二人の婚約は大大的に発表されている。
それにも関わらず、ジルベールはなにが気に入らないのか、傍らに婚約者ではない令嬢を侍らせて、イリーナを散々蔑ろにしてきた。学園の夜会にはイリーナを同伴せず、学園内ですれ違っても挨拶すらしない。
それに学園に入学してからしばらくして、イリーナにまつわるよくない噂話を耳にすることが多くなった。
動物を殺すのが趣味だとか、夜な夜な逢引をしているだとか。しかも護衛騎士であるエリオンと恋仲だとか。そんなこと、あるわけがないというのに。
学園内だけで広がっていた噂も、月日が経つごとに広く伝わるようになった。いまではイリーナの悪い噂を、エバーグリー王国の全員が知っている。
だから夜会の会場にいる多くの貴族たちは、婚約破棄も当然だと思っているのだろう。驚いた顔を見せたものの、イリーナに向ける視線は憐みなんかではない。
『呪いの宝石姫』『この国に、不幸をもたらすもの』
それらが、隣国セルリアンの王女イリーナに対する印象である。
「はっ。何も言い返さないのか。やっぱりあの噂は真実か。呪いの宝石姫。宝石なんてたいそうな名前がついているが、しょせんは性根の腐った女だな!」
「…………」
「おまえがいままで散々、この国で悪いことをしてきたのは知っている。動物の死骸がおまえの部屋から出てきたことも、男と夜に逢引していたことも。すべて目撃者がいるのだからな」
実際にそんな事件は起きていない。動物の死骸が彼女の部屋から出てきたことはないし、夜に男と逢引をしていたこともない。護衛の自分も二人っきりで夜に会ったこともなかった。
そのはずなのに、彼女の噂話には目撃者が多数いた。
「しかも挙句の果てに、俺の愛するアンジェリカを虐めたと見た。おおかたこの愛らしさを妬んだのだろう」
「ジルベールさまぁ。怖かったですぅ」
目を潤ませて腕に縋りつくアンジェリカに、ジルベールの瞳に喜悦が滲む。自分を慕い、崇めてくれるアンジェリカがかわいらしくって仕方がないのだろう。
ジルベールが小柄なアンジェリカを特別に目を掛けているのは、同じ学園で過ごしている者なら誰もが知っていることだ。
そして呪いの宝石姫により、アンジェリカの周辺で不幸があったことも。
はじめはアンジェリカの物が無くなっただけだった。一度だけなら気づかないうちに紛失したのだろうと推測されたが、立て続けに彼女の物が無くなった。
さて、犯人は――で目星が付けられたのがイリーナだった。王女がそんな姑息な真似をするわけがないとエリオンは訴えたが、イリーナの悪い噂を根拠に王女ならするだろうと皆が口を揃えた。
それからしばらくして物が無くなるだけではなく、アンジェリカの持ち物が切り刻まれたり、ごみ箱に捨てられたりした。ある夜会の前にアンジェリカが支度をするために部屋に戻ると、ジルベールの用意したドレスが切り刻まれていたこともあったそうだ。
そしてそれらの犯人はイリーナだと誰もが思った。
証拠はない。だけど彼女が悪いのだと、皆が口を揃えて言うのだ。
そしてそれらの発言を、イリーナは否定しなかった。肯定もしていないのだけれど。
彼女はただ、「このまま時間が解決してくれるわ。すべては、成るように成るものよ」と口許に形だけの笑みを浮かべるだけだった。
「おまえの悪行は、すべて公の元に晒されている。今更逃れられるとは思うなよ」
「……婚約破棄は受け入れました。ですので、わたくしはこれにて失礼いたします」
イリーナは形だけの笑みを浮かべると、第三王子に背を向けた。歩きだした彼女の背中にジルベールが何か言っているが、彼女はそのすべてを海が凪いだように静かな眼差しで聞き流していた。
会場から出ると、エリオンはつい目の前の背中に問うた。
「よろしいのですか?」
「ええ、もちろんよ。前にも言ったでしょ、すべて成るように成るものよ」
ふ、ふふっ。
イリーナが笑みを漏らす。この国に来てからはエリオン以外に見せたことのない笑み。
「あの奢り高ぶった虚栄心が、見るも無残に砕け散るのが、いまから楽しみだわ」
それからしばらくして、エリオンたちはセルリアン王国に戻ることになった。
婚約破棄を聞きつけたセルリアンから、すぐに戻ってくるようにと書簡が届いたからだ。エバーグリーの見送りは簡素なものだった。
◇◆◇
セルリアン王国に戻ったエリオンたちは、しばらくは静かな日々を送っていた。
王宮で静かに過ごすイリーナは、時折ふと楽しそうな笑みを浮かべるが、その理由をエリオンが知ることはできない。たとえ教えられたとしても、知る必要のないこと。
ある日、イリーナにお茶会に招待された。ただの護衛騎士である自分が王女と同じ席に座るのが申し訳なく断ろうとしたが、イリーナがそれを許さなかった。
お茶の席に座ると、イリーナが滔々と語りだした。
「手に入れると不幸が起こると云われている呪いの宝石があったとしましょう」
その言葉に、ドキリとした。
呪いの宝石姫と噂されていた、彼女のことだろうか。
「その宝石を手に入れてからちょっとした事故や怪我などが起こったとしたら、誰もがその呪いの宝石のせいだと思うでしょう? たとえ呪いの宝石を手に入れる前から、よく起こっていたことなんだとしても。呪いの宝石を手に入れたことにより、それらのちょっとした不幸が際立っただけなんだとしても」
イリーナの話を、エリオンは静かに聞く。
彼女の声は軽やかで、いつもは凪いでいる瞳に、楽しそうな感情が浮かんでいた。
「人間関係もそれと同じよ。おかしいと思われている人がいて、それにちょっとした悪い噂があったら、いままで気にしてこなかったちょっとした行動が目についたり、鼻についたりするの。そしてそれらに信じられない噂が合わさったとしても、人はそれを真実だと思うのでしょうね」
エバーグリー王国で、彼女の噂を広めたのは、誰だったのだろうか。
そして、それを知って、行動を起こしたのは――。
「人を悪役に仕立てるのなんて、そんなちょっとした噂話だけでも、事足りるものよ」
にっこりと微笑み、彼女は静かに紅茶をすすった。その優雅な仕草に惚れ惚れしそうになるが、ただの騎士である自分にはすぎた光景だった。
そして脳裏に浮かんだ憶測も、口にする必要のないことだ。
エリオンは王女のただの護衛騎士であり、彼女の真意を知る必要はない。
「ふふっ。――ねえ、エリオン。お父さまから、面白いお話を聞いたの」
エリオンはただ静かに話を聞く。イリーナの言葉を遮ることは許されない。
「どうやらエバーグリー王国は、王子を切り捨てることにしたそうよ」
セルリアン王国に戻ってから、イリーナの周囲は海が凪いだかのように静かだった。
だけど外の世界は違っていた。
王女を侮辱されたことに怒ったセルリアンは、軍隊を国境に向かわせたのだ。
宣戦布告はなかった。だけれど、セルリアンはいつでもおまえの国に攻め込むことができるぞ、と伝えているようなものだ。
それに狼狽えたのがエバーグリーだ。
セルリアンとエバーグリーの戦力はほぼ同等だ。
だけどセルリアンはすでに国境に軍隊を布陣している。このままだとエバーグリー内で戦争が始まるだろう。そうなるとエバーグリーで甚大な被害が出ることになる。
エバーグリーはそれだけは避けたかったのだろう。
そもそもイリーナとジルベールの婚約は、両国の繋がりを強めるためであった。
海に面しているセルリアンの運搬経路を、山に囲まれた国であるエバーグリーは必要としている。
それなのに第三王子は愚かにも婚約破棄を選択した。そしてエバーグリー王国は、大切な王子を不穏な噂のある王女にやるわけにはいかない。取引は別の形で結びたいと、厚顔無恥にもそう言った。
エバーグリーがそう言った背景には、王女側に過失があるとそう思ってのことだったのだが、それをセルリアンが跳ね返した。
呪いの宝石姫。
動物を殺して、夜な夜な不貞を働く王女。
それらすべての証拠が捏造されたものだと証明されたからだ。
王女の部屋から動物の死骸なんて出てきていないし、逢引している王女もみたことはない。目撃者たちは、ただ言わされていただけだった。
だけど一国の王女に対してなんでそんなことができたのか。
それは彼女の悪い噂があったから。
王女なら、そうするだろうと、目撃者たちは心の奥底でそう思った。だから信じてしまった。
そして目撃者たちは口を揃えて、唆してきた人物の名前を言った。
『第三王子、ジルベール』
エバーグリー王国は戦争を回避するために、国に混乱を招き入れた王子の首を、セルリアンに差し出すことにしたのである。
「――あんな首、要らないのに」
ジルベールの首で戦争は回避できたが、海の運搬経路問題はまだ残っていた。
エバーグリーは最後まで抵抗しようとしたが、軍隊をチラつかせたセルリアンの前には声を小さくすることしかできなかった。だから両国の縁談で取引される予定だった物の金額をさらに跳ね上げて、三倍も増額してしまった。
それによりこの一連の出来事は、一応幕を閉じたのだ。
「あの王子は最後まで抵抗していたそうね。自分は噂に従っただけで、何も悪さをしていないのだと。その噂が真実がどうかまともに調べもしないで、噂に乗っかって言いたい放題していたくせに、ね」
呪いの宝石姫。
その噂の出どころは、いったいどこだったのだろうか。
「あの王子は、最初に会った時から不愉快だったわ。上の兄王子二人は歳が離れていて、わたくしと歳が近いのがあの王子しかいなかったから、しかたなく婚約したのに……。あの王子は、わたくしを蔑ろにすることを選んでしまった。だから――」
『噂』を、利用することにしたのだ。
「――まあ、でもやっぱり首は要らないわね。他国にでもあげようかしら」
そんなものを他の国が貰っても困るだろう。イリーナのことだから冗談の可能性もあるけれど、きっと周囲が止めるはずだ。
「冗談よ」
エリオンの焦りを感じ取ったのか、イリーナがにっこりと笑みを浮かべる。
それからこちらの視線を伺いながら、ポツリと言葉を溢した。
「ねえ、エリオン。……わたくしね、偶然生まれた噂の中で、ひとつだけ本当だったら嬉しいことがあるの」
その海のように鮮やかな瞳に、吸い込まれそうになる。
「それはね、あなたと恋仲だという噂よ」
「――っ!?」
エリオンは叫び出しそうだった。
「でも、困ったわ。わたくし婚約破棄されてしまったの。傷物の女なの」
悲し気に目を伏せながらも、どこか冗談めかして言うイリーナ。
貴族や皇族にとって、婚約破棄はとても不名誉なものらしい。婚約破棄された側に何か問題があるのではと思われて、次の縁談が結べなくなる場合もある。実際にエバーグリー王国では王女側に非があると思われていた。
エリオンにとってイリーナは高嶺の花だ。
はじめて彼女と顔を合わせたのは、約四年前――エリオンが騎士になった時のこと。
海のように深い慈愛を浮かべた王女様。その姿に、エリオンは一目惚れをした。
この人について行こう。それを心に決めた瞬間でもあった。
その時から、エリオンにとってのイリーナは、誰よりも光輝く、美しい花だった。
傷物なんかではない。ましてや呪いの宝石なんかでもない。
「――あなたは、傷物ではありません。とても美しい方です」
エリオンの言葉に、イリーナが嬉しそうに微笑む。
「ありがとう。なら、わたくしの気持ちに、応えてくれる?」
「それは――」
言葉に詰まる。彼女が自分に思いを寄せているのなんてそんなの信じられないが、彼女の海のように鮮やかな瞳から目が離せない。
(真剣なんだ。真剣に、オレを――)
エリオンはただの騎士だ。だけど、王女が望むのなら――。
「いまはまだ答えなくてもいいわ。でも、いつかは応えてくれると嬉しいの」
「――オレは、ずっとあなたを傍で護りたい。そう、思っています」
エリオンの言葉に、イリーナの瞳が大きくなる。
「そう。やっぱり素敵ね。あなたのそういうところが、わたくしは好きなのよ」
それからうっとりを未来を思い浮かべるかのように微笑むと、手を差し出した。
立ち上がり、跪いたエリオンは、その指に誓いの口づけをした。
これまでも、これからも、イリーナのただ一人の騎士でありたい。
もうすでにこの剣や心に誓ってはいたけれど。
エリオンは、あらためて誓うのだった。
※24.3.9追記
お読みいただいた皆様、ありがとうございます。
主人公を名前を途中から誤ってエリオスと書いてしまっていましたが、「エリオン」が正確です。
誤った状態で読んでくれていた方、本当に申し訳ありませんでした。