知らなくていいこと
今にも人を殺しそうな目で帝国の第一皇子のことを睨み付けるイオン。彼から大気が歪みそうなほどの殺気が溢れ出ている。
イオンの後ろに付いてきたクロエも、その後を追ってきたファニスも、自分に向けられたものではないと分かっていながら、勝手に身体が震えてしまいそうになる。
そんな禍々しいほどの殺意を一心に向けられたレンブラントは、あまりの息苦しさに喉の奥が詰まり、声を発せられずにいた。
この場にいる全員が、イオンからの圧によって身動きが取れずにいる中、唯一影響を受けていないアレシアが言葉を発した。
「イオン、レンブラント皇子とは話をしただけで実害を受けたわけじゃないの。だから、今回の件は不問に処したいのだけど…」
アレシアの言葉に、イオンは目を見開いた。
彼女のことを二度もこんな目に合わせて、許す余地が無いと思っていた。頭の中では、レンブラントをどうやって殺るかしか考えていなかった。
「君は優しいが…今回は国同士の問題もある。大切な我が王国の王妃にこのような真似をされ、抗議をしないわけにはいかない。これは王国のためでもあるんだ。」
アレシアの願いに、イオンは珍しく首を縦に振らなかった。その瞳には強い意志が感じられる。
「このような真似って…私はお喋りしていただけよ。」
「お喋りって…クロエラ嬢から無理に連れて行かれたと聞いた。アレシアのことを陥れようと聞いてもないことを吹聴したのだろう。それは見過ごせない。」
「あら、何か証拠があって?」
「………ないな。なら捏造するか。」
「それはダメよ!当事者の私が問題ないと言って、他に目撃者もいない。それなら罰しようがないでしょう?」
「…まったく、君には敵わないな。分かったよ、アレシア。」
イオンは諦めた顔で笑った。
「レンブラント皇子、アレシアの寛大な心に感謝を。ですが、許したわけではありませんので悪しからず。それと、滞在はあと二日ありますが、その間私達の前に姿を現さないように。公式行事であっても、皇帝陛下からの命でも、仮病でも何でも嘘をついて絶対に部屋から出ないで下さい。愛すべきアレシアの頼みですから、この条件で今回は見逃してあげましょう。本来であれば今すぐにでも…」
「…わかり、ました。」
レンブラントは、イオンの顔を見ずになんとか一言だけ口にすると、目線を上げることなくその場を走り去って行った。
「クロエ、お前は戻って着替えを。ファニス、彼女が元の姿になるまで護衛をしろ。その後は僕たちの部屋の前で待機だ。まだネズミが一匹残っている。油断はするな。」
「「畏まりました」」
クロエはファニスのエスコートで足早に会場を後にした。
「アレシア、このまま歩きながら少し話をしても良いかな?」
「ええ、もちろんよ。」
アレシアは、イオンが差し出した腕を迷うことなく掴んだ。その反応の良さに、イオンは安心した顔を見せた。
すっかり暗くなったテラスをゆっくりと歩く二人。その歩幅とテンポはぴったりと重なり合っていた。
「アレシア、レンブラント皇子から、僕が即位した時の話を聞いたかい?」
不安に揺れそうになる瞳を必死に抑え、狼狽えていることを悟られないよう、普段通りの声を出したつもりが、少し力が入ってしまった。
「いいえ。特に何も聞いてないわ。」
「えっ…?」
イオンは予想外の答えに驚き、足を止めてしまった。
昨日、クロエから報告を聞いていたイオンは、アレシアの様子が変だった理由を知り、真実を話そうと決意していたのだ。
そのきっかけを作ったつもりだったが、何も聞いていないと言われ、言葉を失った。
「イオンは、私のために黙っていてくれたのでしょ?なら私は知らないままでいいわ。何をしたかなんて知らない。今こうやって、国のために命の限り尽くすイオンの隣にいられればそれで十分。今更何を聞いたって、私の心が変わることはないわ。だから知る必要なんてないの。」
「アレシア…」
イオンは隣に立つアレシアを抱きしめて、その肩に顔を埋めた。いつもよりも露出している肌にイオンの髪が当たり、くすぐったさに身を捩る。
「こんなにも狡く独りよがりの僕に幻滅することなく、僕のことを信じてくれてありがとう。心から感謝する。僕の一生を君にあげたつもりだったのに、こんなんじゃちっとも足りないな。僕は、これ以上君に何を返せるだろう。」
「またそんな大袈裟なことを言って…いつも私のことを守ってくれるでしょう?イオンがいるから私は自由に羽ばたくことができるのよ。私にとって、これ以上に幸せなことはないわ。」
「アレシアがこんなにも僕のことを…どうしよう…幸せ過ぎて怖い…この幸せの代価に僕は何を失うのだろうか。アレシアが泡になって消えてしまわないか心配だ…」
「変なことばかり言ってないで、話が済んだのなら部屋に戻りましょう。久しぶりのイブニングドレスは肩が凝って辛いわ。」
「アレシア…ごめん…」
「え?いきなりどうしたの……って、ちょっと!!!何するのよっ!!イオン!!」
イオンは軽々とアレシアのことを抱き上げると、申し訳なさそうな顔でアレシアのことを覗き込んできた。
アレシアはいきなりのことに鼓動が高鳴り、心臓が飛び出してしまいそうであった。
「アレシアが早くドレスを脱ぎたかっただなんて…気付いてやれずに済まない。一刻も早く部屋に戻り、僕が丁寧且つ迅速に脱がしてあげよう。」
「ちょっ!!そういう変な意味じゃないから!!」
「変な意味って…?アレシアは何を想像したのかな?ふふふ。今日は疲れたろうから僕が全身マッサージしてあげる。たまには香油でも使ってみようか。滑りを良くした方が気持ちいいだろうからね。確か、帝国の名産品にもあったような…使用人に尋ねてみるか…」
「お願いだから、一回黙ってー!!」
妖艶な微笑みを向けてくるイオンが言うと、全てが卑猥な意味に聞こえてくる。揶揄うためにわざとやっていると知っていても、アレシアの顔は真っ赤になってしまった。
イオンのお姫様抱っこで会場を横切り退場していく様はかなり目立っていたのだった。




