みこさまと、おせち料理。
これは、妻と4歳の息子を持つ、ある男の話。
元日で車が少ない道路で、
その男は、朝から車を走らせ続けていた。
後部座席には、妻と4歳の息子が乗っている。
ウトウトとしているふたりに、その男が話しかけた。
「正月休みなのに、遠くまで連れてきて悪かったね。
ふたりとも疲れただろう。
でも、もうすぐ着くから。」
行き先は、その男の両親の故郷である、
地方の小さな村だった。
その男は幼い頃、
両親に連れられて、故郷の村から都会に出てきた。
しばらくして、両親を事故で失った。
苦学して進学。
卒業後、大きくはないが安定した企業に就職して、
それから妻子にも恵まれた。
その間、故郷の村には一度も帰っていなかった。
亡くなった両親は親戚付き合いも無く、
駆け落ち同然で都会に出てきたと、後になって知った。
昨年の暮れ頃、
そんなその男の元に、一本の電話が掛かってきた。
どうやって調べたのかその電話は、故郷の村の村長からだった。
村長の要件は、こうだった。
子供の顔が見たい。
今度の正月に、子供を連れて村に帰って来て欲しい。
もし村に帰って来なかった場合、
村に残っている両親の親戚に、不利益があるかもしれない。
そういう、半ば脅迫じみた話だった。
その男には大晦日まで仕事もあったので、
どうにか丁重に断ろうとしたのだが、
どうしてもとしつこく頼まれ、終いには脅迫じみたことを言われ、
とうとう断ることができなかった。
では、一泊だけ。
そういう条件で、
その男は、妻と息子を連れて、
正月から故郷の村へ行くことになったのだった。
電話を切る時に村長から、
必ず子供を連れてくるよう、何度も念を押された。
そうしてその男は、
元日の朝から車を何時間も走らせているのだった。
朝から車を走らせ続けて、
もうすぐ夜になろうかという時間になった頃。
車が進む山道の先に、やっと村が見えてきた。
「よし、村に着いたよ。
ふたりとも疲れただろう。」
その男が車の後ろを振り返ると、
後部座席では、妻と息子がヘトヘトになっていた。
ふたりとも、曲がりくねった山道で疲れてしまったらしい。
「もうすぐ休めるからね。」
早く車を止めて、妻と息子を休ませてやろう。
その男は、村の中へ車を滑り込ませた。
村の入口には、出迎えの男たちが待ち構えていた。
手に松明のような明かりを持って、その男の車を誘導する。
その誘導に従いながら、その男は首をひねった。
「あの人達、車が着く前から村の入口に立ってたな。
もうすぐ村に着くなんて、連絡してないんだけどな。
まさか、ずっとあそこに立っていたんだろうか。」
それではまるで、誘導ではなく見張りだ。
そんなことを考えながらも、その男は車を移動させていく。
そうして、村で一番大きい家の前に車を停車させた。
「よし、やっと到着した。
まずは荷降ろしをして、それから少し休ませてもらおう。」
その男はシートベルトを外しながら、後ろの妻と息子に話しかけた。
後部座席のふたりは、ぐったりとして頷いて返した。
その男が、妻と息子を連れて車を降りると、
すぐに村人達に歓待された。
出迎えの村人の輪の中から、
一番年長らしい男が前に出てきて、話しかけてくる。
「やあやあ、よく帰って来てくれましたね。
子供さんは、ちゃんと連れて来てますね。」
村長が、その男の顔のすぐ近くまで顔を近付けてくる。
それから、その男の息子の姿を見て、満足そうに頷いた。
その男は、妻と息子と一緒に頭を下げた。
「今まで帰って来られず、すみません。
これが息子です。」
「今、お幾つですか。」
「息子の歳ですか?
4歳です。今年の7月に、5歳になります。」
息子の歳を聞いて、村長の目が光ったような気がした。
何度も頷きながら言う。
「・・・そうですか、それはよかった。
ささ、宴の準備が出来ていますので、こちらへ。
荷物などは全て、村の者が運んでおきますので。」
「いや、今日は疲れていますので・・・」
「そんな、遠慮せずに。
さあこちらです。」
そうして、その男と妻と息子は、
村に到着して早々、休む間もなく、
すぐに宴の会場へと案内された。
案内されたのは、車を止めた場所の目の前の家。
村で一番大きなその家は、村長の家だった。
その村長の家の中の広間が、宴の会場として用意されていた。
広間の広さは、学校の教室より広いくらい。
畳敷きの広間に、長机と座布団がいくつか設えられていて、
20人ほどの村人たちが待ち構えていた。
宴の準備は万端だったようで、
その男と妻と息子が広間に案内されると、すぐに料理や酒が運ばれてきた。
「では、今宵の宴を始めましょう。」
その男と妻と息子が、
まだ席に腰を下ろしたかどうかという時に、
村長の合図で、慌ただしく宴が開始された。
「さあさあ、お祝いの酒です。遠慮せずに。」
村人の男はそう言うと、その男に顔を近付けて来た。
その男は手に盃を持たされ、盃に酒が注がれていく。
酒を注がれたその男は、断ることも出来ず口をつける。
無理をして盃を開けると、あっという間に次の酒が注がれた。
「あの、今日は疲れていますので、お酒はこのへんで・・・」
その男は、盃を手で抑えながら、やんわりと断ろうとする。
それを村人達が、顔を近付けて笑い飛ばす。
「あっはっは!
何をおっしゃいます。
まだ飲み始めたばかりではありませんか。」
そうしていて気が付いたのだが、
この村の村人達は、やたらと顔を近付けてくることが多い。
しゃべる時は、鼻が付きそうなほど、
酒を注ぐ時は、注ぎ口に鼻を付けんばかりに、顔を近付けている。
これが、この村の人の距離なのだろうか。
そうしてその男が村人達の様子を観察していると、
近くに座っている妻と息子の様子に気がついた。
村人達が妻にも盃を渡そうとしているのを見て、その男が慌てて止めた。
「あっ、すみません。
うちの妻は下戸なんです。
だから、お酒は控えさせてください。」
「そうなんですか?
それじゃ仕方がないな。
じゃあ、おせち料理を食べてください。
この村のおせち料理は、特別なんですよ。
息子さんも、ぜひどうぞ。」
酒を注ごうとしていた村人の男が、代わりに重箱を差し出してきた。
その男と妻と息子は、箸を手に取って重箱の中を覗き込んだ。
重箱の中には、おせち料理がぎっしりと詰め込まれていた。
黒豆、数の子、伊達巻、蒲鉾、などなど。
どれも美味しそうだが、特別な料理ではない。
どこにでもある、典型的なおせち料理だった。
これのどこが、特別なおせち料理なのだろう。
特別なのは味付けの方だろうか。
そんなことを考えながら、その男が重箱を突付こうとすると、
箸の先に、大きな目玉が転がっていた。
「うわっ!目玉!」
危うく箸を取り落しそうになる。
その様子に気がついて、村人達が笑い声を上げた。
「あっはっは。
やっぱり驚かれましたか。
それは、人間の目玉を模した和菓子ですよ。
この村では、悪い出来事や流行病が起こると、
悪くなった体の部位を、次の年のおせち料理にして食べるんです。
そうやって厄払いするんですよ。
その目玉は、その模造品の和菓子です。」
そう説明されて、
その男は落ち着いておせち料理の目玉を観察した。
和菓子だという話だが、その目玉は本物のようにしか見えなかった。
本物の人間の目玉など、取り出して見たことは無いが。
その男は、冷や汗を一筋流して、愛想笑いを浮かべた。
「そ、そうなんですか。
それは確かに、珍しい風習ですね。
・・・ということは、
この村では去年、目の病気が流行ったんでしょうか?」
「ああ、いやそれは・・・」
質問された村人の男は口籠った。
何か失礼なことを聞いてしまっただろうか。
その男が謝ろうかと思った時。
宴をしている広間に、村人の声が響き渡った。
「みこさまが御越しになったぞ。」
騒がしかった広間が、しんと静まっていく。
広間にいた村人達の顔が、一斉に入り口の方を向く。
そうして広間の入り口から現れたのは、身なりの良い人影だった
広間に入ってきたのは、巫女のような和装の少女。
歳は13~14歳といったところだろうか。
その少女の周りを、村人達が恭しそうに取り囲んでいる。
少女は目をつぶったまま、手には杖を突いていて、
ゆっくりゆっくりと歩いている。
そうして少女は、その男の前にやってくると、
静かに頭を下げて話し始めた。
「遠いところから、よくいらっしゃいました。
私は、この村で巫女のようなことをしています。」
横から村長が口を挟む。
「こちらは、この村の、みこさまです。
みこさまは、厄払いをしてくださる。
実は、お願いがありまして。
この村では、
その年に4が付く歳になる子供が、
その年の、みこさまになるんです。
そうして、みこさまが代替わりしていくのです。
お宅の息子さんは、今丁度4歳だそうで。
ぜひ、みこさまになっていただきたい。
そのために今日、こうして来ていただいたのです。」
その説明を聞いて、
その男は、ここに呼ばれた理由が、やっと分かった。
今年の正月に村に戻って来るように。
しかも、必ず息子を連れて来るように。
それは全て、巫女の代替わりのため。
巫女に年齢制限があるからだったのだ。
理由は分かったが、
義理を果たすために、一泊だけという約束で戻ってきただけ。
村の事情に関わるつもりは無かった。
その男は、村長に向かっておずおずと切り出した。
「折角ですが、息子には幼稚園がありますので・・・。
私も仕事が忙しくて、そうそうこちらの村には来られませんし。
巫女なんて大役は務まらないと思います。
そもそも、うちの子は男の子ですので。」
村長は柔和な笑顔で応える。
「男の子?
全然問題はありませんよ。
それに、この村に引っ越せと言ってるのでは無いんです。
お手間は取らせませんから。
お願い出来ませんか。」
「儀式の時だけで構いませんから。」
「なんなら、名義だけでも結構ですので。」
そう言って、村人達が、
入れ代わり立ち代わり説得してくる。
断るのが難しい雰囲気。
・・・何かが引っかかる。
何か、食い違っていることがあるように感じる。
しかし、話す度に酒を注がれ、酔いが回ってきたのもあって、
その違和感の正体を考えることができない。
村人達に説得されて、
その男は断り切ることができなかった。
「わかりました。
では、儀式の時だけ。
儀式の時だけ、参加させてもらいますので。」
結局その男は、息子を村のみこさまにすることに了承してしまった。
その一部始終を、
みこさまと呼ばれた少女は、静かに聞いていた。
誰にも気付かれないように、首を小さく横に振る。
それから、みこさまと呼ばれた少女は口を開いた。
「要件が済んだようですね。
では、私はこれで。」
腰を上げて立ち上がろうとする。
少女は立ち上がる途中、
目の前に座っていたその男の顔に口を近付けて、
耳元でそっと耳打ちした。
「お話したいことがあります。
夜、お部屋に伺います。
村人達には内緒にしてください。」
そうして、みこさまと呼ばれた少女は、
香木の様な香りを残して、広間から出ていった。
みこさまと呼ばれた少女が出て行って間もなく。
宴は解散する運びとなった。
まるでその宴は、歓待の宴ではなく、
巫女の跡継ぎを決めるために開かれたかのようだった。
その男と妻と息子は、今夜泊まる部屋へ案内された。
案内された部屋は、村長の家の中の広間とは別の、
こじんまりとした部屋だった。
その男は、すっかり酔いが回ってしまい、
長旅の疲れもあって、早々に床についたのだった。
宴が終わって、村人達が寝静まった深夜。
その男は、喉の乾きを覚えて目を覚ました。
「・・・喉が渇いたな。
台所に、水を貰いに行こうか。」
隣の布団では、妻と息子がすやすやと寝息を立てている。
ふたりを起こさないように、抜き足差し足で静かに歩く。
そうして、静かに部屋のふすまを開けると、
目の前に人影が立っていた。
驚いて、危うく悲鳴を上げそうになる。
よく見るとその人影は、
宴の時に会った、みこさまと呼ばれた少女だった。
その男は、高鳴る胸を抑えて口を開いた。
「びっくりした!
驚かさないでくださいよ。
あ、そう言えば、お話があるんでしたか。
どんなご用件でしょう。」
「・・・ここでは人目に触れるかもしれません。
部屋の中に入れて頂けませんか。」
「妻と息子が寝ているんです。
他の場所ではだめでしょうか。」
「実は今からする話は、奥様と息子さんに関係することです。
ぜひ、おふたりにも聞いていただきたいのですが。」
月明かりに照らされた少女の顔は、真剣そのもの。
その気迫に押されて、その男は少女を部屋へ案内した。
妻と息子が眠っている部屋の中。
その男は、みこさまと呼ばれた少女を入れて、
部屋の明かりを点けようとした。
それを、少女が静かに鋭く静止する。
「明かりは点けないで。
内密にお願いします。」
ただならぬ様子に、眠っていた妻と息子が目を覚ました。
その気配を察して、少女がふたりにも話しかける。
「おふたり共、お目覚めになりましたか。
そのままお静かに、私の話を聞いてください。」
そうして、
月明かりだけの部屋の中で、
みこさまと呼ばれた少女が話し始める。
それは、この村の古い古い風習の話だった。
この村では古くから、
その年に4がつく歳になる子供を、みこさまとして崇める風習があった。
みこさまとは、巫女様ではなく御子様のこと。
そして御子様は、
村の悪いものを、その体で肩代わりしてくれると信じられていた。
災害や疫病などで、村人の体に広く害が及ぼされる出来事があると、
年が変わる節目に、
御子様の体から、その害があった部分と同じ部分を切り取って、
供物としていたのだそうだ。
村人たちの足が悪くなったら足を、心臓が悪くなったら心臓を、
御子様の体から切り取って、神への供物として神前にお供えする。
そしてそれを、
節目の時に食べる食べ物、
つまり御節料理として、村人達で食べる。
そうすることで、体の悪くなった部分を治していたのだという。
そこまで説明を聞いて、
その男と妻と息子は、震え上がっていた。
その男が、声を潜めて聞き返す。
「その風習は、今でも?」
「はい。続いています。
幸運なことに、ここ数十年は、
儀式が必要なことは、この村には起こりませんでした。
しかし・・・」
みこさま改め、御子様と呼ばれた少女は、言い難そうに話を続けた。
「しかし去年、この村に伝染病が発生しました。
その伝染病は、目の病気でした。
今までにない病気で、原因などは詳しく分かっていません。
その伝染病のせいで、村人達のほとんどが視力を失いかけました。」
その男には心当たりがあった。
この村の村人達が、やたらと顔を近付けてきた理由。
それは、伝染病で目が悪くなっていたからだったのだ。
御子様と呼ばれた少女は説明を続ける。
「原因不明の伝染病が発生して、
村人達は、過去の風習に従って対応しようとしました。
しかし、困ったことがありました。
去年、御子に選ばれたのは、
14歳になる、生まれつき目が見えない私でした。
目が見えない私では、村人達の目の厄を肩代わりできない。
少なくとも村人達はそう考えました。
他に4が付く歳の子供は、この村にはいませんでした。
御子と御節料理の儀式が出来ないまま、村人達の病気は悪化していきました。
村人達はそれを祟りだと考えました。
何とかして儀式をしなければ、病気を治すことができない。
そうして白羽の矢が立ったのが、あなたの息子さんだったのです。
あなたの両親は、この村の出身。
息子さんは、去年4歳になった。
であれば、その息子さんは御子になる資格がある。
そう考えて村人達は、
この正月の御節料理の儀式のために、
あなたと息子さんをこの村に呼んだのです。」
説明を聞いて、
その男は、村人の話を聞いていた時に感じた違和感の理由が分かった。
違和感の正体。
それは、息子なのに巫女になれと言われたことではなかった。
巫女ではなく御子なのだから、男の子でも問題はない。
問題なのはそこではなく、
去年4歳になった息子が、今年の御子様になることがおかしいのだ。
去年4歳になったのだから、息子は去年の御子様でなければおかしい。
しかし、去年の御子様は、目の前にいる少女。
御子様が既にいるのに、もう一人の御子様を選ぼうとしている。
それが違和感の正体だった。
御子様と呼ばれた少女の説明を聞いて、
その男は深刻な表情になっていた。
その隣では、妻と息子が震え上がっていた。
このままここいたら、息子は何をされるかわからない。
その男が、口から唾を飛ばしながら言う。
「それでは、すぐにここから逃げないと。
ここにいたら、息子がどんな目に遭わされるか分からない。」
少女が口の前で指を立てて制止する。
「しっ、静かに。
村人達に気付かれてしまいます。
もう既に、
あなたたちが乗ってきた車も、国道に繋がる道も、
村人達に抑えられてしまっています。」
「そんな!
じゃあどうしたら。」
「こうなることを予想して、車を用意してあります。
運転手も、信用できる人です。
その車は、
この村から国道へ繋がる道とは逆、
村から山の奥に進んでいき、古い吊橋を渡った先にあります。
この部屋を出て右手に進むと裏口があります。
鍵を開けておきましたので、その裏口から出てください。
それから、左手方向の森の中を進んでください。
しばらくすると、深い谷があります。
そこに架かる古い吊橋の更に先、開けた場所に迎えの車があります。
幼い子供を連れて夜の山道を進むのは大変でしょうが、堪えてください。」
「・・・従うしか、なさそうですね。」
そうして、その男は、
妻と息子を連れて、深夜の村から逃げ出すことになった。
そうしてその男は、取るものも取らず、
妻と息子を連れて部屋を出た。
村人達に見つからないように、腰を落として身を潜める。
足音を立てないようにして、廊下を進んでいくと、
月明かりの先に、小さな裏口らしい扉が見えた。
静かにゆっくりと扉を開け、村長の家から外に出る。
今は真冬。
外は月明かりの寒空の下だったが、
窒息する水の中から出たような気分だった。
しかしまだ道半ば。
ここから夜の山道を進まねばならない。
御子様と呼ばれた少女が、立ち止まって言う。
「・・・私はここまでです。
この目では、一緒に行くのは無理でしょう。」
「しかし、私達を逃したことが村人達に知れたら、
あなたの身が危険なのでは。」
その男が心配そうに言う。
しかし、少女は首を横に振った。
「心配しないでください。
これでも、御子様の端くれなんです。
村人達も、手荒なことはできないでしょう。
ただひとつ、あなた達にお願いがあります。
もしも、村人達が追いかけて来ても、
決して後ろを振り返らないでください。
もうこんな風習は、これっきりにしたいのです。
だから、許してくださいね。」
そう話す別れ際の少女は、寂しそうな微笑を浮かべていた。
村長の家の裏口で少女と別れてから。
その男は、片手で息子を抱きかかえ、
もう片手で妻の手を引いて、夜の山道に入って行った。
鬱蒼とした木々が、月明かりさえも遮ろうとする。
その男は、月明かりの破片を辿って、
少しずつ山道を進んで行った。
そうしていると、背後が何やら騒々しくなってきた。
それほど遠く離れてないところから、村人達らしい話し声が聞こえる。
「やっぱり、どこにもいないぞ!」
「勘付かれたか?
誰かが手引したんじゃないだろうな。」
「今はそんなことを言ってる場合じゃない。
すぐに追いかけるぞ。
表の見張りは何も見てないから、きっと山道に入ったんだ。」
聞こえてくる話の内容から、
少女の言う通り、車で国道に向かわなかったのは正解だったようだ。
早く行かなければ、直に村人達は追いかけてくるだろう。
その男は、額に汗を浮かべながら山道を進んだ。
その男は息子を抱え、妻の手を引きながら、深夜の山道を進んでいた。
背後から迫る人の気配が、段々と追いついてくるのを感じる。
不慣れな山道、
それも子供を抱えていては、
逃げ切ることは難しいかもしれない。
どこかに身を潜めてやり過ごすか?
いや、大人数で山狩りでもされたら、隠れようがない。
打開策も無く、
背後から近付く人の気配が、すぐ近くまで迫った頃。
目の前の森が急に開けた。
森の山道が開けた先、
そこには、大きくて深い谷が、道を切り裂くように横たわっていた。
月明かりの下で全容は分からないが、迂回路は見当たらない。
谷は深く、下に降りて抜けることもできそうもない。
その男は、記憶を辿ろうとする。
「あの少女は何と言っていたのだっけ。
確か、谷に吊橋があるという話だったか。」
少女の言葉を信じて、谷に架かる橋を探す。
しかし、どこにも橋は見当たらない。
この谷ではないのだろうか。
そう思った時、暗闇の中に、何かの影が見えたような気がした。
よく目を凝らすとそこには、
荒縄と板切れで作られた、粗末な吊橋が架けられていた。
近付いて確認して、その男は思わず言葉を漏らした。
「まさか、これを渡れと言うのか?
冗談だろう。」
そう思うのも無理はない。
その吊橋は、荒縄と板切れで作られただけの粗末なものだった。
古くなったせいか、
床の橋板があちこち崩れていて、
足元は穴が空いている場所の方が多いくらいだった。
これでは、
吊橋を渡っている最中に、いつ崩れるかも分からない。
そうして逡巡していると、背後の森から数人の人影が姿を現した。
「そこに誰かいるのか?」
「あれを見ろ!見つけたぞ。」
もたもたしている間に、
村人達が追いついてきてしまった。
その手には、大きな刃物や棒切れを持っている。
このままでは、
谷底に落ちるのとそう変わらない結果になりそうだ。
その男は意を決して、
抱いていた息子を抱え直し、妻の手を強く握った。
「迷ってる余裕は無さそうだ。
ふたりとも、絶対に手を離すなよ。」
そうしてその男は、ふたりを連れて吊橋を渡り始めた。
渡り始めてから気が付いたことだったが、
ボロボロなのは橋板だけ、
吊橋を吊るしている縄は補強されているようで、
見た目とは裏腹に、しっかりとしていた。
少なくとも、
渡っている最中に、吊橋が千切れてしまうようなことは、
無さそうだ。
谷には時折風が吹いて、その度に吊橋が大きく揺れる。
その男は、
足を踏み外さないように、
一歩一歩確実に歩みを進めて行った。
そうして、
村人達が吊橋にたどり着いた頃には、
その男と妻と息子は、手の届かない場所まで吊橋を進んでいた。
月明かりの導きもあって、
それから何とか無事に吊橋を渡り切ることが出来た。
「よし、渡りきったぞ。
あの少女の話では、この先に迎えが用意してあるはずだ。
追いつかれる前に行こう。」
その男の掛け声に、腕の中にいた息子がコクリと頷く。
手を引いている妻の返事を確認しようとして、
その男は、後ろを振り返ってしまった。
背後では、
追いかけてきた村人達の数人が、
吊橋を渡ろうとしている最中だった。
明かりになるものは、
月明かりと、
村人達が手にしている松明の明かりだけ。
しかも村人達は、昨年の伝染病で目をやられていた。
それでも無理に吊橋を渡ろうとした村人達が、
吊橋の床板を踏み外して、次々と谷底に吸い込まれていった。
まず、先頭になって渡る村人が、橋板を踏み外して落ちる。
すると、
後ろに続く村人達が、
後を追うように谷底へと落ちていく。
そうして、
後から追いついてきた村人達が、
次々に橋の穴から消えていった。
何も見えず状況が理解できない村人達は、
声すらあげられず、真っ暗な谷底へと消えていった。
「見ちゃだめだ!」
後ろを振り返ろうとする妻と息子を、その男が止めた。
「あの少女が、決して後ろを振り返るなと言っただろう?
言いつけを破るのは、私だけで十分だ。」
そうして、その男と妻と息子は、
吊橋を渡った先の山道を進んで行った。
それを追いかける村人は、もういなかった。
吊橋を渡った先。
山道を進んでいくと、やがて森が途切れて道が開けた。
そこは、山道の待避所の様な場所だった。
足元は舗装された道路で、
山を登る方と下る方と、それぞれ道が繋がっている。
その待避所のようなところに、黒い車が停車していた。
車の側には、白髪に黒いスーツを着た初老の男が、静かに佇んでいた。
初老の男が、その男たちの姿を見つけて、
静かに声をかけた。
「・・・お待ちしておりました。
御子様から、あなた方を安全な場所までお送りするよう、
言い付かっています。
どうぞ、こちらにお乗りください。」
後部座席のドアが、うやうやしく開かれた。
その男と妻と息子は、
倒れ込むようにして、車の後部座席に収まった。
説明もそこそこに、初老の男の運転で車は動き始めた。
揺れをほとんど感じさせない動きで、車は滑らかに走っていく。
どうやら、山を下って行くようだ。
その男は、後部座席からバックミラー越しに、
運転している初老の男に話しかけた。
「助けていただいて、ありがとうございます。
あの、あなたは・・・?」
初老の男が、ちらっとバックミラーを見て返事をする。
「この度は、村の事情に巻き込んでしまい、誠に申し訳ございません。」
会釈をして、それから話を続ける。
「わたくしは、御子様の従者でございます。
わたくしの家は代々、御子様に仕えてまいりました。
わたくし自身は、
今の御子様がお生まれになった頃から、
お世話を仰せつかっています。
ですので、今の御子様のお考えについては、
存じております。
わたくしも、村の悪しき風習を憂慮していました。
生身の人間を生贄にするなど、昔も今も許されることではない。
なんとかそれを止めさせられないか、機会を伺っていました。
そうして今夜、やっとその機会がやってきたのです。
今夜あの村では、たくさんの人が犠牲になるでしょう。
しかしそれは、生贄を求めて山に入った人達。
村で大人しくしている村人には、起こらない不幸。
村の勢力図は一変するはずです。
そうして生き残った村人達で、もう一度全てをやり直す。
それが、御子様が考えた方法でした。
そのためには、御子様の代わりになる御子が必要だったのです。
巻き込んでしまって、申し訳ありませんでした。
ですが、もう大丈夫です。
わたくしの責任で、あなたたちを安全な場所までお送りします。
後の処理は、わたくしの方で致しますので。」
そう口にした初老の男の横顔は、決意の表情をしていた。
それから、その男と妻と息子は、
山を下った町まで無事に送り届けられた。
夜は明けて、既に電車が動き出している時間だったので、
すぐに切符を買って帰路についたのだった。
それから数週間後。
怪奇!連続転落事件。住民が消滅した村。
と題された新聞記事が、紙面を少しだけ賑わせた。
その記事の内容はこうだった。
新年早々、ある地方の村で、
村人が多数、谷底で転落死しているのが発見された。
その村では去年、原因不明の伝染病が発生していて、
事件との関連が疑われているという。
被害者の人数は、村の人口と比してとても多く、
労働力となる成人の男を一度に多数失ったのもあって、
村は存続を諦めて、廃村になる見込みだという。
亡くなった村長に代わり、
村の指揮を執っている代表として写真に映っていたのは、
あの御子様と呼ばれた少女だった。
それから更に半年ほど過ぎた、夏のある日。
あるマンションの一室。
初老の男が、ドアの向こうに声をかけた。
「お嬢様。
そろそろお出かけにならないと、
始業式に遅刻してしまいますよ。」
「わかってるー!
今、出かけるから。」
ドアの向こうから、元気な女の子の声が応える。
間もなくして、ドアが開けられた。
部屋から出てきたのは、
あの村で御子様と呼ばれた少女だった。
和装ではなく、学校の制服に身を包んだ少女は、
部屋の中を早足で歩くと、食卓に置かれていたトーストを手に取った。
「時間がないから、これ食べながら行くね。」
「お嬢様、お行儀が悪いですよ。
・・・仕方がありませんね。
いってらっしゃいませ。お気をつけて。」
そんな初老の男の言葉を背中で聞きながら、
少女は玄関に腰を掛けて靴を履くと、元気よく立ち上がった。
玄関のドアを開けて、外に出る。
外はまだ夏の陽気だった。
少女は目の上に手をかざして、眩しそうに空を見上げた。
「うーん、夏の太陽が眩しいわ。
今日もよく晴れそうね。」
それから少女は、
真っ直ぐ前を向いて駆け出した。
「いってきまーす!」
あの村は無くなってしまったが、
村の風習のご利益は、確かに存在したようだった。
終わり。
お正月ということで、おせち料理をテーマにしました。
おせち料理は元々、御節料理と書くもので、
節々に食べる料理なら、正月料理とは限らなかったようで。
御節料理が、おせち料理というひらがな言葉にされて、
返って意味が分かり難くなっているように感じます。
そんな、ひらがな言葉の害悪も盛り込んで、この話を作りました。
お読み頂きありがとうございました。