少女終末世界旅行
デストピアを描き、それも絶望をテーマにした映画はないのかと、探していて出会ったアニメ、10話まで見終わったが、シュチエーションは、終末戦争後の西暦3000年の世界に、生き残った二人の少女の話、戦車のような車に乗って、廃墟の街を冒険して回る程のものだが、最期は放射能などのエネルギー物質を食べてくれる生きものが登場して終わる、絶望世界にあって、二人の少女の明るさ、屈託のなさは良いのだが、文学における、見出されたものが、譬え絶望世界であっても、意味、テーマの、追求、発見が無い、失われた時から、見出された時への、宮崎のジブリ世界ではない、絶望への喪われた世界への視座は良いのだが、絶望を見据えた、現代への見出されるものが、
少女終末世界旅行
デストピアを描き、それも絶望をテーマにした映画はないのかと、探していて出会ったアニメ、10話まで見終わったが、シュチエーションは、終末戦争後の西暦3000年の世界に、生き残った二人の少女の話、戦車のような車に乗って、廃墟の街を冒険して回る程のものだが、最期は放射能などのエネルギー物質を食べてくれる生きものが登場して終わる、絶望世界にあって、二人の少女の明るさ、屈託のなさは良いのだが、文学における、見出されたものが、譬え絶望世界であっても、意味、テーマの、追求、発見が無い、失われた時から、見出された時への、宮崎のジブリ世界ではない、絶望への喪われた世界への視座は良いのだが、絶望を見据えた、現代への見出されるものが、
苦海浄土
石牟礼が死んだ、90才、責務のようにミナマタを描き、ミナマタと共に生きた人生、公害を犯罪として、個人対個人の問題として、国家、企業、システムを、一個の人間に対してのように、告発、呪詛し、生命の尊厳を問うている、「金は要らん、上から順番に水銀を飲んでくれ」と、フクシマの核に対しても、「原発を推進して来た者は、上から順番にプルトニウムを飲んでくれ」と呪詛する心が、「日本には抵抗する伝統が無いのね」と、スヴェトラーナに言われてしまったように、核を、私は石牟礼のように、私の責務として問い続けていかなければ、が、核汚染という、除染したとしても、移染に過ぎない、地下に埋設しても、20万年に渡る管理が要る、取り返しのつかないことへの、今や個人の問題ではなくなっている、1パーセントの世界支配にあって、絶望感だけがのしかかってくるのだった、
ジョブズと悟りと、自由
ジョブズという男が、マッキントッシュを作り、アップルを作り、アイホンを作り、今や世界企業となり、作られた製品はかってのソニーのように愛されていると、そのジョブズの資産が100兆円で、ビルゲイツ、孫、かつてのエジソンのようなモノづくり王として名を馳せ、多く科学者というものが、常に物への探求者であるように、発見と発明、特許権で人生を考え、蒸気機関、電気、コンピューター、核エネルギーと、わずか200年で、欲しいものは全て手に入れ、が、不老不死だけは得られず、かつての王と同じ、悟りという死への肯定、受容だけが残り、ジョブズ56歳ですい臓がんでの死、禅への関心を持ち日本へ、物作り、物の探求に明け暮れた人生、死も、存在も関心となることはなく、物を残して死んでいく、利便と安らぎと、喜びと幸せのためにあるものが、物作りに追われ潰えていき、王といえど、資本家、大作家といえど、変わらず、精神存在を味わう喜びは少なく、朽ちていき、今も人間の全文化が、物への、方法への、精神といえど物に従属し、存在という自由には至っていない、近代のキリストの絶対追及、禅の解脱といえど、存在への自由には至っていない、何故なら絶滅、絶望を体験していないから、個人の死、人類絶滅、それらの体験があって、そこからの再生があって、初めて得られる存在への自由というものだから、私の癌体験、そして3.11の種としての絶滅体験、これらがあって、生命への、文化への、自由、自在が誕生してるのだから、
生死への、輪廻も、永劫回帰も、天国も、極楽も、生命の永続、存在の永遠という、
タルベーラとラースロとタルコフスキー
タルベーラが4時間、12時間の長尺映画で表現したいものは、物語やプロットではなく、流れる時間そのものを写実的にと、人がどこからどこまへ歩いたのかは、初めと終わりを撮れば出来ることを、全てを撮るということは、流れにこそ意味を見いだそうとしているから、それらが一体、現代にあって、何の意味や目的があるかといえば、一つは時の流れの忘却に対する反語であり、流れの時そのものに、意味や目的があるという、存在論的メッセージを込めてであろう、長尺の中に、いくつかの又、一つの大きな物語はあるものの、その細部と全体時間がテーマとなっている、絶望の後にも、絶望の中にも、それはあるという、「サタンタンゴ」、「ニィチェの馬」の絶望と不条理の映画化ではあるが、絶望と言うものへの対立、抵抗を映像化し得ている、タルコフスキーが希望と理想を求めたのに対して、二人は、現代という核時代、全体主義後という世界にあって、絶望を見据えての、私においては、私対世界であるのだが、その私を何処に留めておくか、何が私を作っているのか、世界に対する私と言う存在、一個である、存在する意識である、私と言う、対極のネメシュ・ラースロの短編、13分の中に、ルネサンス絵画のバルールのような絶妙さの中に、絶望の中の、悪の中の、更なる絶望と悪が、
サウルの息子~ネメシュ・ラースロ
タルベーラの「ニイチェの馬」に関わった監督の作品ということで観たが、深度の浅いレンズで撮って、臨場感はあるがアウシュビッツ以降、アウシュビッツを語ることの無の視点はない、帝国主義、ファシズム、奴隷同士の、これは何なのか、人とは何なのかの、生きている間は生きる、ではなく、人間への、世界の絶望への、愚劣の裁断、無化の、自死でもいい、抵抗でもいい、生存欲でも、邪悪への、人間の新しき形が無いなら、やはりアウシュビッツを描くことは愚劣なこと、人間の文化とは何か、差別と抑圧の上に成り立っている、ユダヤといい、黒人といい、障害者といい、貧乏人といい、抵抗の上に成り立っているというが、有史以来、それだけのもの、
本質、根本的な、権力の邪悪と絶望には非力、神ではない、新しき絶対が、核の邪悪こそが世界を救う、
バイキング及びマルコポーロ
バイキングの覇者への過程、マルコポーロのジンギスハーン一族の覇権争い、それらを観る中で、ある人間の支配への感情、支配されるより支配することの、殺されるより殺すことの、常にそこには外敵という、支配抑圧の世界があり、現代といえど、グローバルな世界資本が、国家を超えて、支配抑圧のシステムを張り巡らせ、人間不平等起源論、社会契約論、理性、所有、人民主権と進んできたものが、弱肉強食、適者生存へ、今やバイキングもマルコポーロもなく、
戦後文学
啄木、透谷から始まって、16才より日本文学を漁ってきて、戦後文学を特別なものと考えて読んでは来なかった、日本文学の流れとしての戦争であった、民主文学の流れとしてのプロレタリア文学が課題としてあった、「野火」、「ひかりごけ」、「海と毒薬」、「人間の条件」、戦争という状況に投げ込まれた、人間の悲惨、不条理をテーマとしているのだが、今や人類絶滅も可能な兵器の時代にあって、ドローン、ロボット戦争の時代、金融支配の時代にあって、文学における、人の良心や、善悪、不平等など意味をなさず、SFでしか表現できず、日本文学の戦後文学とは何だったのかと、世界は常に支配、被支配の構図で、それは国家など関係なく、世界はそうして形作られ、「戦争は女の顔をしていな」くとも、傭兵、テロ、労働としての戦争が、世界に蔓延し、核戦争だけが人を戦争の愚から目覚めさせ、ストロンチウム、プルトニウム、万年単位の半減期の意味がそこにはあり、核汚染の中で殺し、奪い合うことの愚が自覚され、
ベルンハルト・シュリンク「朗読者」
映画スティーブン・ダルドリー監督の「愛を読むひと」、人の罪への有責性を描いていたが、かつてレヴィナスの有責性を受け入れ難かったが、現在、核汚染の世界にあって、未来への有責性、罪は自明のものとなり、その上で私は絶望主義を、自らの立ち位置と規定し、私の有責性を思考しているのだった、またそこからの脱却として「唯一者とその所有」、「私対世界」であるのだった、
レヴィナスの有責性、顔に対して
人間としての倫理、人間の発見、可能性をそこに重ねたが、核によって、後戻りのできない、破滅の自明な世界にあって、有責性を持たず、か弱く、空しく、レヴィナスを感じてしまうのだった、絶望に対して、無責任性と、虚無こそが力のような、レヴィナスの人間への、人間の視点は了解するが、いずれ、愛、畏敬であるところの感情に、期待も、理想も求めない、人間の歴史の過酷、残虐に於いて、レヴィナスが気弱なキリストのように思え、
朝鮮という国
櫛目土器~BC4000、ウラル系
衛氏朝鮮~BC194
漢による支配~400年間
4C~高句麗、百済、新羅、三国時代
13C~モンゴルの支配
14C~李氏王朝
16C~豊臣秀吉の出兵
17C~清国の侵攻
19C~日朝併合
1910~南北分断
20C~
5年おき、10年おきに動乱が起きている歴史、日朝併合時には毎年のように、
ニキータ・ミハルコフ
ロシア三部作を見る、貴族、エリート時代のノスタルジーと、スターリン時代の粛清、独裁への批判を、一人の女性への、愛の葛藤を通して描こうとしていた、史実的エピソードを重ねながら、6時間にわたるドラマ、多くロシアの発見、回帰の、家族、人間への回帰の視点が重点で、粗削りだが楽しめた、ソヴィエトは2800万人が戦死、ドイツは800万人、日本は400万人、ユダヤ人は400万人、ポーランドは500万人、中国2000万人、世界合計1億人近くが犠牲となった世界大戦、ナショリズム、愛国が時代を席巻した、現代、新自由主義の時代にあって、民族、国家は崩壊し、資本対無産者の、1パーセント対99パーセントの、世界は100年前の構図が自明となり、核汚染の世界にあって、それは決定的となり、
カウラ事件
日本人とは何かを考えさせる、オーストラリア人が、イタリア人が、当時受けたショックが、現代にあっても、個人の未発達、生命の尊厳、自立と他愛の欠除、近代とは何かの、ギリシャを生んだヨーロッパ、フランス革命、産業革命を経て、その中での市民、個人、人権意識、それらが日本にはなかったということ、現代であってもそれは変わらず、ヨーロッパ近代の200年、文化としては2000年という思想の歴史、日本にあって、たかだか鎖国から150年の、第二次大戦から70年の、それも外圧からの、付け焼刃の、文字面の、トイレットペーパーより軽かった、カウラ収容所の生命は、一億総玉砕と変わらず、今も、放射線管理区域に子供を住まわせ、誰も裁かれず、再びの再稼働をと、
9.11を平気でやる者が
アメリカには2万人の、否、何万人かわからない程のCIA、FBIの職員が居り、かつてあらゆる謀略やら、陰謀を仕掛けてきた、麻薬取引、武器取引、子供売買、etc、世界の諜報、権力機関はどこも同じではあるが、そうした人間が考えていることの、国益なのか権益なのか、人道、正義などお構いなしに、ヤクザのように、仕事としてやっているということ、啓蒙思想で、人間の尊厳、民主主義は、生かせていないということ、啓蒙とは権力による支配プロパガンダとなり、一部の特権に奉仕する、金と権力に捉われた者らが、支配護持のために、核の絶対悪も、自然災害の虚無のように、彼ら無知ではない、人の放棄、人の絶望、人の喪失ということ、彼ら、人時間を生きていないということ、人時間とは、人への、世界への、共感、その上での誠実、根底にある、良心というようなものに基づき生きている時間、国家の名の下に、治安維持の名の下に、抑圧と、支配を続けている彼ら、彼らこそ世界の絶望であるのだった、
世界の悪は、全て彼らによって演出されているといってよいほどの、
チョムスキーの「アメリカンドリームノレクィエム」
10項目に絞って、その変遷を説明、そして最後は、1人1人の小さな積み上げが歴史を作ると、しかし、このグローバル企業に群がる人間の、欲望と無知は、収奪と戦争と破壊を繰り返すだろう、現代の社会システム以前に、核汚染の、絶望認識を共有しない限り、人類全体が運命共同体であることに至らない限り、更なる核汚染が進行しない限り、
パステルナーク「ドクトルジバコ」
2度目のビデオ、原作も読んではいるが、残る印象がある、革命と言うものの、そして時代の中の個人と言うものの、そして愛と言うものの、で、ジバコは革命をどう捉えていたか、時代だから、改革が必要であったからと、父がトルストイと親交があり、移動派の絵描きであったから、ナロードニキの意識があり、しかし、革命が個人の抑圧を必要とすることへの抵抗、批判を持ち、愛については、自然さの自由恋愛者で、二人の女性を愛し、革命と言うものの、ロシア革命から、チリの革命まで、革命とは政治の帰結である、その中での個人とは、革命を必要とする者と、必要としない者があるだけ、必要とするものは、個人より集団を求め、愛とは、自愛、自由を通した他愛、自愛を深めていけば、自然に他愛は生まれ、自愛の人生こそが他愛へと、
イギリスの児童移民政策「オレンジと太陽」
ハンフリーズ女史の調査によって、明るみになった、イギリスの養護施設の子供たち、1900年前半、それ以前からも、孤児院と言われていた所の、15万人が、世界のあちこちに移民させられていた、高橋是清も、間違ってアメリカに移民させられたと、植民地政策による孤児、片親家庭の子供たちは、世界に無数に送り込まれ、何十年も心の空洞を持ったままの者、虐待、自殺、奴隷労働、今も続くグローバル企業の植民地政策、
トランプの虚無
45億の年収、3度の結婚、不動産王、米大統領、自信家、虚無と言うものがなんであるかとするなら、これら人生の忘却に費やされてきた境遇であろう、人生とは何かを考える、一瞬すらも味わうことなく、過ぎてしまった人生そのものであろう、
君主制、封建性が続く歴史
現代においても、大資本と労働者の状態は、1%と99%と言われるように、君主が企業に変わっただけ、封建性は、政官財の癒着となって行われ、市民、国民もそれを容認し、労働という名の奴隷制度を続けている、民主主義がどういうものかとするなら、奴隷労働からの解放でなければ、香港の学生運動のドキュメント、16歳の彼らが、民主主義とは何かと、中国専制支配に立ち向かい、国会占拠、市街占拠と、
禅について
日本の作家の多くは、最終的には禅を説き、禅に帰っていく、近代自我、哲学を深めた者が禅へ、道元へと、宮沢賢治はじめ、日本には仏教的背景の作品は多いが、一般においても、冠婚葬祭を通して、禅的文化思考は蔓延しているのだから、自明ではあるのだが、民主を、革命を、近代を、伝統、歴史の中に体験していない日本においては、自我発露の青年時代においてのみ、追求される自我であり、その過程の文学であるのだから、いたしかたいのだが、原発事故、自然災害、政治の混沌などから、メッキ的自尊の皮がはがれた日本人への、もう一度日本、日本は素晴らしいのキャンペーンの中で、禅の自画自賛がなされ、永平寺等、日本の寺社仏閣が繰り返しTVに流され、沼田健哉なる者の、自我考察も読んでみたが、ただのガイドブックに過ぎず、全人類的、自我、個人の尊厳への俯瞰はない、唯一者とその所有のような、自我、個への賛歌、謳歌の哲学こそ、現代は必要としている、核世界において、世界がどうであっても、存在する私への確信、在るだけで良いとする、自尊自愛の哲学、唯一者を自覚して、
ルサンチマンと革命
世界の富は、富豪に預けてある、必要な時には下ろすでいい、
生命とは、生きて在るだけでいい、
喜びも、苦しみも、生きている体験、
核に対して、世界に対して、私の生の哲学でいい、




