人間として味わう感情の
まだ何かあるのではないかと、文学、音楽、美術と漁っているのだった、政治的、文学的、に生きざるを得なかった境遇が、生きることの飽くなき探求へと向かわせている、その結果、今死んでもいいとの満足をもって、今を生きているのだった、癌からの生還、3.11からの価値喪失、唯今在ることで喜ぶ心において、もはや何も必要は無いのだが、愛が、相手が生きていて最高と喜べているのかが、自らの人生の喜びの感情と一体であるのかが、日々の、生身において問題とはなるのだった、
人間として味わう感情の
まだ何かあるのではないかと、文学、音楽、美術と漁っているのだった、政治的、文学的、に生きざるを得なかった境遇が、生きることの飽くなき探求へと向かわせている、その結果、今死んでもいいとの満足をもって、今を生きているのだった、癌からの生還、3.11からの価値喪失、唯今在ることで喜ぶ心において、もはや何も必要は無いのだが、愛が、相手が生きていて最高と喜べているのかが、自らの人生の喜びの感情と一体であるのかが、日々の、生身において問題とはなるのだった、
唯一者意識とその思想
トンビが鷹を生み、生まれた鷹は親は無きに等しく、自力で生き方を学び、身につけた思想が、唯一者という意識、私対世界という、いつ死んでもいい、今死んでもいいとする、世界との一体の感情、世界とは存在という、毒を含む、エゴ、利己、冷血、虚無、偽善、欺瞞と、どのように捉えられようが関せず、世界を生きる、これらを可能としているのは、生い立ち、異邦人の、癌体験の、決定的には3.11の原発禍の、世界に対して微笑む、喜ぶ、絶望を生きるとは、全肯定の思想であるということ、なぜそのようにできるのか、同じ空気、時代を生きているのに、世界の悲惨、不幸に、心痛まないのか、私対世界とは、時も、存在も超えた地点、今死んでも良いとする、生命の所有意識、宇宙、存在、etcの、人間が考え得る思考の全てと一体の感情、絶望を通して永遠に至ったという意識、
今死んでもいいとする感情
恋の絶頂、名誉や、記録の達成の瞬間ではなく、動物の、生物の、交尾、受精の後の死のような、知られ、称賛された死ではなく、思索、味わいで埋め尽くされた人生において、その今がいつも頂点という感情において、死は今であっても構わないという意識、私の死の後に何があろうが、死と同じように、生を生きてきた実感なだけ、動物、植物と同じように、私を生きてきたということなだけ、
どうして?の
ミジンコが、どうして私を食べるのですかと魚に、魚は鳥にどうして私を食べるのでかとキツネに、キツネはどうして私を食べるのですかと人間に、人間はどうして私を食べるのですかと強い人間に、どうしてなのか、食べないと死んでしまうからでしょうと、食べて食べられるのはこの星の循環ということなのでしょう、なぜ死ぬのかも輪廻ということでしょう、と、
人間が動物的野生を取り戻したなら
唯一者とその思想はそうしたもの、私対世界にあって、社会国家の内なる私ではない、全人類に責任や希望を問うものではない、それらは未来の核汚染の世界が、自然に回答を与えてくれる、死すまでの私に於いての解決の一つとしての、野生の回復である、「在日コリアンの歴史」「武器なき戦い」「韓国シネマの歴史」と、本日3本の映画を見て、民族闘争、階級闘争に答えを見ようとはしなかった、それはそれで必然であるのだが、在日であれ、戦争であれ、癌であれ、私対世界、唯一者でもって答えんとする、
愛によって、知性によって等に、惑わされてはいけない、世界は金を印刷する者によって、操られているのだから、愛とはこのシステムの維持の為のものであるのだから、愛ではなく、本能、野生、一匹であらねば、
ジャコメッティ考
Tより久しぶりにTEL、その後如何かと、いつもの私の創作状況の確認、そして自分の状態、この間の起きた出来事、感じた事などの披露、今までも挙げれば、10人や20人に上るだろう、画家や、映画や、展覧会、etcの誘い、今日はジャコメッテイであった、Tは感じるところがあって、2日程絵に向かえなかったと、ジャコメッティ論を私は読んだことはないが、誰かが、どこかで論じたりしていることは知っていた、ジャコメッティについては20Cが生んだ、彫刻の必然であろう位なものであった、文学、音楽にあるシュール、前衛、実存の彫刻形であろう程の捉え方だった、それは3.11以前の私のまだ求めていた理想、有意味、価値への視点からのものであった、が、3.11を経て、あらゆる文学、芸術の中に絶望を見据えたものを探し、自らも方法を模索する中、ジャコメッティも考察の対象に、ジャコメッティに、絶望と虚無はどのように表現されているのか、何故に何が、人に影響感化を与えているのか、あのフォルムはどこから、ルーツは、ジャコメッティと核世界はどう繋がるのか、私の無価値美術館とどう繋がるのか、等々、
今やジャコメッティを遥かに超えてしまっている、ジャコメッティの孤独、不安、不条理、etcの、人間の本質の表現ではあったのだろうけれど、ジャコメッティの方法が、見たものを乖離なく表現することの闘いではあったのだろう、旧態依然の彫刻に対し、不満を自らで探って到達した形ではあるのだろう、が、私に於いては、3.11以降、瞬時に形式を得た、それはジャコメッティに似る、説明や、述語、形容詞は使わない、短いセンテンスの、句読点だらけの、吐露の、しかし戦闘的な文章への到達であった、
今も、これからも何が意味なのか、新たな芸術論が、サルトルがジャコメッティ論「絶対の探求」を書いているようだが、
〇ジャコメッティの本質、目的、意図を捉えること
〇作家の意図を超える問題を提起すること
〇読者と作家の媒介人
〇ジャコメッティとエルトリア文明の関係
サルトルは自分が感じたものを自分の言葉で語ってはいる、サルトル的ジャコメッティに実存の不条理はない、存在の不条理性を求めていたであろう、有正がジャコメッティを好んだのは、互いのパリ生活への郷愁、孤独感からの共感であろう、版画集「終わりなきパリ」、ジュネは作品世界に、自らの孤独感を重ねたのだろう、ジャコメッティは作っては壊しを繰り返し、対象に迫った、
~空間を捉えたいと、骨組みだけの家の中に、人を配し、
~顔を見ていたら、鼻だけが目立って見え、
~人間を捉えるなら、線のように頼り無く孤立し、しかし、求める存在としてそれは在り、
~犬、動物さえも、彷徨う生き物に、
~ベーコン的野生は欲せず、
ジャコメッティにとって、人間存在は生物としては葦より弱く、石や土のように、それらに無理なく近い存在として見えてのことだろう、そう見えたのであって、自らが、絶望と虚無感に捉われていたわけではない、それらを表現するためには、どうして距離があるのかと葛藤したということ、それがあの粒々の積み重ね、細い線の積み重ねとなっている、ジャコメッティの人間への関心は、自己への関心であるのだった、全ての人物像は彼の自画像であろう、形はモデルに託されるが、そこに漂うものは、私への頼りなさ、それが人に実存と、芸術の始原性を感じさせている、核世界に、芸術論など成立しないのだから、今や世界はジャコメッティだらけ、イランの廃墟、核瓦礫の一つ一つがジャコメッティの自画像、子どもはジャコメッティそのもの、ジャコメッティは見ていたのだろう、核の絶望を、それを表したいと、自我、エゴを排した原初性への憧れ、感じた事を感じたままに、考えたことを考えたままに、見たことを見たままに、生きたことを生きたままに、
誰もが、ある価値の共有のもとに
その価値とは何か、人間の幸福であり、文化科学の発展という、文化の尊重、科学の発展は、人間の幸福に寄与するものとの、芸術は存在を、音楽は感情を、文学も、哲学も、あらゆるものが人間の精神、感情、意味、価値に向かって、生みだされ、評価され、共感、共有されている、幻想ではない、内なる天皇制のように、人間のアイデンテティーのように、集団謀議、集団中毒のように、知ること、感じることと、追い求め、自らを無化、平均化、一般化し、快楽的人生を是とし、反文明、反社会は言ってみるだけ、シュティルナーといえど、反社会の先には、エゴイストの集合体としての人間がいるばかり、幸福追求という、絶望世界においても、求める宿命の生き物としての、文化、科学を、私は私の核の絶望感に応えられないから、否定、無化するのだった、
日本回帰と川端文学
「美しい日本の私」が微笑ましい、かつて私にもあった、美しい日本という感情が、春の花、夏の鳥、秋の月、冬の雪、どれも、幾つもの記憶の中にに蘇る、借家を追われ、親戚に世話になり、離婚し行方知れずの母、放火殺人未遂で刑務所に行ってしまった父、養護施設での暮らし、その時々にあった四季と自然、それらは詠う、愛でる、感嘆するものではなく、私と一体の、共有の時の記憶であるのだった、川端の「美しい日本」という感情には、川端の幼少年期の、私に似る一人の感情の記憶があっての事ではあるが、自然に対する詠嘆する心と、パスカル的驚愕との差異がある、日本を西洋からの特異とする川端、私は近代の個の、実存の、人存在の感情として自然を捉える、生け花、陶器、和歌、源氏、伊勢、侘び、寂び、もののあわれ、と、日本の独自を賛美、それらへの耽溺、憧憬を語っているが、近代、科学、存在美とはそれら日本的美意識も含んだところの、末期の美などではない、驚きと奇跡としての、月への親近などではない、荒海や佐渡にの、全宇宙的、今在ることの、自己滅却、悟りなどではなく、自己所有の、無限への、人間賛歌、人生賛歌の、美しい世界の私をこそ、




