殺人と戦争
ラスコルニコフの殺人と戦争論ではない、有史以来繰り返されてきた、戦争と殺人について、
戦争は仕組む者がいて、乗せられる国民が居て起きるものだが、騎士、傭兵、防人、武士、そして徴兵制による国民皆兵、侵略、防衛と、それにしてもなぜ人は戦争という殺人行為を飽きもせずやってるのか、凡庸の悪や、日常のファシズムや、内なる天皇制やらと、その内実を掴もうと様々考察されてはきたが、人が戦争に行くのは強制があるから、世間というもの、国家意識というもの、国という帰属意識、土地の所有意識があるから、侵略されたから、理不尽をこうむったから、国家的収奪があるからと、正義、大儀、やったやられたと、従属しない、仲間にならない、反抗的、と子供の喧嘩に似る、が、それでいて、なぜそれらが殺人という戦争に至るのか、盗ってはならない、殺してはならない、犯した時には目には目をと、ハムラビ、モーゼに書かれていることが、国家、権力によって免罪、無形化され、盗った盗られたが繰り返され、おこぼれに預かるもの、仕事と考える者、人権宣言、永久平和論、どれもこの地球からの利益の享受の上に成り立っている、が、今や地球は核汚染、寒冷化、温暖化の人絶滅の危機に至っている、その時代にあっての、盗った盗られたの寓、残された課題は、個人においての意味、国家、権力による抑圧からの昇華、人類共同体意識の共有、自愛、他愛、絶滅までのおつりの時間意識、生命を生きる形へ、
殺人と戦争
ラスコルニコフの殺人と戦争論ではない、有史以来繰り返されてきた、戦争と殺人について、
戦争は仕組む者がいて、乗せられる国民が居て起きるものだが、騎士、傭兵、防人、武士、そして徴兵制による国民皆兵、侵略、防衛と、それにしてもなぜ人は戦争という殺人行為を飽きもせずやってるのか、凡庸の悪や、日常のファシズムや、内なる天皇制やらと、その内実を掴もうと様々考察されてはきたが、人が戦争に行くのは強制があるから、世間というもの、国家意識というもの、国という帰属意識、土地の所有意識があるから、侵略されたから、理不尽をこうむったから、国家的収奪があるからと、正義、大儀、やったやられたと、従属しない、仲間にならない、反抗的、と子供の喧嘩に似る、が、それでいて、なぜそれらが殺人という戦争に至るのか、盗ってはならない、殺してはならない、犯した時には目には目をと、ハムラビ、モーゼに書かれていることが、国家、権力によって免罪、無形化され、盗った盗られたが繰り返され、おこぼれに預かるもの、仕事と考える者、人権宣言、永久平和論、どれもこの地球からの利益の享受の上に成り立っている、が、今や地球は核汚染、寒冷化、温暖化の人絶滅の危機に至っている、その時代にあっての、盗った盗られたの寓、残された課題は、個人においての意味、国家、権力による抑圧からの昇華、人類共同体意識の共有、自愛、他愛、絶滅までのおつりの時間意識、生命を生きる形へ、
戦争と死刑制度と警察権力
どれも国家のお墨付き、国家、社会、世間が肯定して起きている罪、物が有り余る共産主義社会になれば、戦争も、貧困も、無くなり、自由で平等な、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る社会となると、若き日理想した未来、が、今や自由で平等、物が有り余っていても、収奪、抑圧は続き、世界は100人位で支配され、核戦争と、核汚染による種の絶滅世界となり、あらゆる制度、権力、罪、個人においては無と化し、何をしてもよい時代となり、神は死んだではなく、世界は死んだと、唯一者を生きる世界に、
右の頬を打たれたら左の頬も出し、
打った相手に、思いやる心、打たれたことに捉われるのではなく、自己犠牲精神、非暴力精神、etc、人のモラル、精神としての、恨みや、仕返しではない、人の欲望に挑戦してくる言葉、自己犠牲への、しかし、そこには人間としての抵抗精神があり、右の頬を打たれたなら、左の頬もと、打った者への覚醒を促すことへの、打つ相手を見る、考える、人としての平常心がそこにはあり、相手を人として見、包む意思があり、貧しき者の福音を優先する、物を所有せずの原点への志向がそこにはあり、人権の、自由、平等、博愛の深奥がそこには、広島に原爆を落とされたなら、長崎にもと、そして三度は福島にもと、何という愛と犠牲の国、日本であることか、
小さなおうち
中島京子の小説、山田洋二監督の映画、女中の視点から、山の手の家族、市井を見た、そして戦中であっても普段と変わらぬ生活のあったことの、映画もそんな状況を、さほど批判的視点もなく、小津の東京物語のような暗澹もなく、不倫女に女中が健気にかしづくだけのような、後味の悪い映画であった、読書感想に対し、中島が、戦中が明るいとの取られ方に反論していたが、日本の戦後文学が、自己卑下、懺悔的に書かれている中で、ユニークではあるが、「ゼロの記録」や、一連の戦争肯定映画と一脈通じる詰まらなさがある、作家は戦争には心して取り組まねば間違う、戦争を女中の視点や、女中の小さな恋物語に纏めてしまっては、山の手マダムの不倫物語になってしまう、太宰の「十二月八日」のような直感する女の視点こそが、今求められ、
黒木和夫、戦争四部作
「TOMAROW明日」、「美しい夏キリシマ」、「父と暮らせば」、「紙屋悦子の青春」、「美しき夏キリシマ」が、日本の前近代、封建が捉えられ、群像として捉えられ、歴史を振り返り、見る視点があり、様々な戦争映画の中で秀逸、反戦の映画ではない、人間への、前近代への、日本への、封建への、眼差しがある、8.15から、ハイ今日からは民主主義ですよとはいかない人間、刷り込まれ、造られてしまった、日本へのレクエム、まもなく生き延びてしまった彼らが、全て死んでいく、何者でもない戦後の世代が、流浪を生きている、「飛べない沈黙」もいいと思う、原発被災者の苦悩は、ドラマでは描き尽くせない、「黒い雨」とも、戦争四部作とも違う、必然のスタイルを感じる、
ル・クレジオ講演ビデオ
青春を書く、老年を書くと題した、質問形式の講演会、温厚篤実な語りと内容、「調書」は本を持っているが読んだ記憶がない、10代20代はリアリズムだった、30代は私小説、40代は死の問題だった、クレジオの描く、実存とも違う、漂泊の人物に興味を持たなかった、白水社の「新しい世界の文学」も青春の日に読むこともなく、60を過ぎて読みだしたのだった、文体の深みは感じるが、伝わらないテーマと、モチーフに、理解に努めただけ、MのTELから、島津祐子、そしてキムヨンヒ、島津祐子繫がりでル・クレジオと調べ、調書も少し読んだのだが、1940年生まれのクレジオ、あれから5、60年、今なお人間とは、文明とはを追求し続けている、テーマが科学の合理主義、主知主義へのシャーマン的批評だが、絶望しないで、原初の復権に希望を託し、書き続けている、
世界にどのよう哲学、文学があろうが、人間は愚行を繰り返す、
人間は死ぬことを知っているから、悪と愚行を繰り返す、
悪に対して、70億人の必要悪と、8000万人の第二次大戦であっても、人口の2.5%だと、
癌の転移と同じように、悪に対して、闘っても闘わなくても同じことと、
他人の本をいくら漁っても、核に対する答えはない、核とは起きてしまった世界であるのだから、結局は私対世界の問題、
ホロコーストの映画が花盛り、ネットでは700万人が犠牲、いや100万人などと、人の悪を常に数字で理解しようと、
核以外にも悪が満ち満ちているといえど、核の悪に比すものはない、
私が私である事の喜び
私対世界、唯一者、絶望主義、生身、と様々に私を説くキーワードを綴ってきたが、私の根底に流れていたものは私である事の喜びであった、核世界であろうが、病身であろうが、死の末期であろうが、私が私である事の喜びに包まれて在る、70年間のすべての時間を私は所有している、切れ目なく、そのことごとくを思い出すことが出来る、人においてこれ以上の喜びはなく、それこそが唯一者とその所有であり、私対世界であるのだった、
何故戦争は善悪が見えなくなるか
日常であれば、人が物を盗んだら、盗んだ者に何故と、人を殺したなら、殺したものに何故と、が、その何故を問わないまま、盗られたら盗り返せ、殺されたら殺し返せと、悪だけで、考え行為してしまう、集団、国家による、やらせる者の戦争の歴史、為政者、権力者のための戦争に狩りだされた、国民という名の傭兵、民族、文化、宗教というもからの、所有から自由に至らない限り、やったらやり返せの感情に染められていく、私の国ではない、私のものではない、私の宗教、私の民族ではない、の、誰が為政者であっても同じことでいいのだ、そうした所有に無関心でいいのだ、今あることと、私が私である事だけで、核汚染の世界とはそういうこと、誰のものでもない、何も所有出来ない、無意味な星と、今と私だけが意味となった世界であるのだと、
3.11連作
掌編で、小説で、この違和感を、
〇ガイガーカウンター~京中の正門横の側溝の放射能値、団地のマンホール、小田公園の花壇、2μシーベルト、
〇癌と3.11と奇跡的に助かった、
〇俳句、短歌形式が日本的とするなら、季語、抒情にある、核、放射能へのリアリズムが、掌編において可能だろう、
〇あの除染残土の写真を撮り続けている彼のように、
〇福島3.11、東京3.11日本スケッチを、
〇イワノヴィッチのような聞き取りインタビューではなく、
〇見据えた、カフカとも違う、日本人による日本人のカタストロフィー、
〇花は咲くの歌が、広島に草木は生えないと絶望した日本が、翌年には草木が芽吹いたと重ねて、草木は芽吹くだろう、が、DNA損傷の連鎖が何万年と、
〇若き日、社会の不条理に立ち向うことで、未来を見据えた可知論を、が、核汚染に、立ち向かう未来はなく、絶対的不可知論へと、
〇個人が人を殺すことの時代錯誤、野蛮、未開、封建、が、個人は人を殺し続けられない、社会が殺しているだけ、戦争、貧困、差別、
ユダヤ正統派
イスラム教原理、キリスト教原理、ユダヤ教原理、と、どれも復興、回帰を唱え、共同体、戒律で人を縛り、どの共同体からも離脱することの困難、生まれ落ちたその日より、共同体に刷り込まれ、依存し、それ以外の世界を知らず、人間の置かれている典型がそこにはある、人間という、社会という、共同体に生まれ、教育され、そこに依存し、そこの奴隷として働き、と、内なる天皇制とは、人間のこれら社会の依存性と同じ、国家、民族、文化、価値観と、たとえロビンソンクルーソーとなっても、人はそれらを求め、依存し、懐かしみ、私対世界では生きられない人間、社会、人に繋がっていたいとする、人の目的と意味を人間の一員として、認められ、役に立ちと、人社会からは決して出ようとはせず、ソーロといえど、街へ出かけていた、国家社会とは、共同体の延長なだけだが、掟のように人を縛り付け、
日本映画論
主人持ち、予定調和、悟り、志賀直哉のプロレタリア文学への、主人持ち論ではないが、日本映画において、監督のテーマに対する先入観、捉われがあり、その捉われに沿った予定調和、セオリーで作られている、映画が、文学が、音楽が、メジャーの商品として成立しなければならないのだから、当然のことではあるが、そのような文化にどっぷりつかっている日本映画というものに唖然とする、近代が個の確立であるなら、監督、俳優、テーマにおいて、未だ日本に近代はないのだった、個の追求、獲得が、これは時代、歴史の流れではなく、人間の、風土の、DNAの問題のような、封建への、男尊女卑への、戦争への、ヤクザへの、愚民への、浪花節の、歌舞伎芝居の、義理人情の、忠君愛国の、滅私の、もののあわれ、諸行無常からの、どの映画にもそれらは流れ、1本のタルコフスキーも生まれてはいない、
愛するということ
どういう状態が愛するということか、美しさに、知性に、母性に、誠実さに、性欲に、可愛さに、行動力に、意思に、感受性に、と、様々な相手の特質を、自分に無いものに、自分より優れているものに、魅せられ、惹かれ、共感、一体を求め、若き日、リルケの愛と孤独に憧れた、愛は耐え待つもの、孤独とは生命の重さ、と、自己愛が他愛へと、




