結婚とは
自由の砦、解放区であるはずなのに、抑圧、拘束を生んでいる、結婚こそ人間存在の場であるはずなのに、労働の再生産の場にすぎなくなっている、共産を主義とした二人であるなら、家庭が社会の核、単位であるなら、そこでこそ共産が貫かれ、精神、物質、行動において、人間の理想形を醸成していくもの、結婚こそ人が存在において、理想を成立させる基本のもの、それが他者へ、社会へと、が私に於いて、根底には「万葉集」「野菊の墓」「若菜集」「厭世詩歌と女性」「赤と黒」「谷間の百合」「リルケ詩集」etcの文学上の愛が、その愛の延長としての結婚が理想されていた、
核汚染の絶望の世界にあってもそれらは変わらず、結婚こそ人の希望として、被曝も、奇形も乗り越えて、
結婚とは
自由の砦、解放区であるはずなのに、抑圧、拘束を生んでいる、結婚こそ人間存在の場であるはずなのに、労働の再生産の場にすぎなくなっている、共産を主義とした二人であるなら、家庭が社会の核、単位であるなら、そこでこそ共産が貫かれ、精神、物質、行動において、人間の理想形を醸成していくもの、結婚こそ人が存在において、理想を成立させる基本のもの、それが他者へ、社会へと、が私に於いて、根底には「万葉集」「野菊の墓」「若菜集」「厭世詩歌と女性」「赤と黒」「谷間の百合」「リルケ詩集」etcの文学上の愛が、その愛の延長としての結婚が理想されていた、
核汚染の絶望の世界にあってもそれらは変わらず、結婚こそ人の希望として、被曝も、奇形も乗り越えて、
Y氏
その人生~酒、ピアノ、絵、介護、テニス、
その意味~結核後、おつりで何十年の時を生きてきた、時には写真屋になろうと、現像道具なども揃えた、が、母の介護、趣味の絵、ピアノ、テニスがあり、暮らしは母の遺族年金と、少しのアパート収入で暮らせると、生涯を労働することなく過ごしてきた、兄弟はエリートの道を、Yは結核になり道を降りることが出来、以来、何も努力などすることはないよという人生を、バスに乗る金があったらビールを買うと、酒とピアノと、複数の女がいればいい、旅は愚者のすることと、一日を、花を見て過ごせる、人間、何かをする必要などない、と、縁側の小さな庭に、メダカの池、小鳥の餌台、野良猫の餌皿、母の食事作りが終われば、縁側に座って、酒を楽しみ、オーダーメイドのピアノを爪弾き、時に油絵のキャンバスに向かい、月に何度かのテニスに出かけ、近所の同級生仲間と歓談し、Gパン、カッターシャツの、長髪スタイルで、捨て犬だったクウを飼い、転がり込んできたという、療養所で知り合った奥さんと、その50数年の時を生きてきた、エリート一家の中で、結核にかかり、これで勉強はしなくて済むと喜んだ、結婚も、子供を持つことも、願望とはならず、生きていることだけでよいとする、遺族年金、アパート収入という生活源資があり、母の介護の責務があり、末っ子のYがその任に当たるという、議論をするということがなかった、意見はするが、何かを深め合うという姿勢はない、会話には常に沈黙の間があり、それが長ければYはピアノのレッスン中の曲をハミングした、いつか、Yの友人が来ていて、その友人との会話が一言もなかった、友人も会話しに来ているのではないようだった、縁側に座りに来たというだけの、Yという人生を、田舎で自給自足をする者と比べ、ソーロの森の生活と比べて、何ら違いはなく、シンプルライフ、人生に、存在に、何ら付加することはなく、味わうという、かつて、人の生き方に、意味や理想を定義し、啓蒙、教育した時代が、今や核汚染の、非定義の世界にあって自明な生き方に、「得能五郎の生活と意見」ではない、合理、自明なYの人生を3.11以降にあってこそ、有意味であったことの、忍びよる破局の予感はあったが、長閑な、楽園の時がそこにはあり、Yは3.11を知らず2003年75歳で去ったのだった、
人には幸せになる正機がある、
では、その幸せとは何か、人多々ではあるが、人の感情を抑えて、生物本来の感情に近づくこと、人間感情の幸せという概念をやめること、生き物たちにそんな感情はない、朝起きて、食べて、遊んで、寝る、そのどれもが充たされた感情の中にある、生きていることそのものが、充たされるという喜びである、これが人の言う幸せという感情ではない彼らの喜び、向日性、生命性、本能、生きたい、そして生きているという満足、それが生き物達の姿、人間を現象学的還元すること、一日花を見て、何もしないで、時の中に座ること、只管打坐とは違う、生き物に、花に、蝶に降り立ち、彼らを生きること、今空を飛んでいる、今蜜を吸っていると、これらは人間だから出来ること、悪に満ちた、汚れた、分裂した、人間だからこそできること、「悪人正機説」ではない、人間正機説、核汚染の中、生き物たちと何ら変わらず、同じ放射能を吸い、余命を生きているのだから、
辺見庸の「1937」TV
その中で「秋刀魚の味」の批評があった、そのシーンの日本人の戦後、現在の無節操への、父の戦争と私の戦争を重ね合わせ、自らを糾弾しようとした1937、日本文学の戦後文学の持つ、戦争責任の回避、ノスタルジー、事なかれ、無責任性と、自己断罪で、南京事件、日中戦争を語っても何も見えてこない、今までの繰り返し、その先には行けない、戦争を仕組むものへの断罪へ、カミュの異邦人のように、まぶしかったから殺したのような、人の実存の先にある、今や虐殺が日常化した世界にあって、核による絶滅の時代にあって、その先をこそ、わが父、わが祖国、我々ではない、主体性、人間性の問題ではないのだった、人間というものの、不条理、虚無ではない、命の意味、生命存在全体の問題への、大道寺へ、もの食う人へのTV、etcで、自らを問うことで、問わない人間への糾弾ではない、有史以来繰り返されてきた、残虐非道、私の反省、国家の謝罪ではない、国家に守られているではない、無政府ではない、私という、国家歴史を超えた、私対世界、私対人間の、
M氏
私と歳の差15歳のM氏、酒を飲んで電話してくる、初めに私の気分を確かめるように、私の様子を尋ね、大丈夫だとすれば、政治や美術界への不満、どうしようもないの口癖、最後は自分の生活、妻のTへの思いから泣き言への繰り返し、それがもう20年も続いている、私はMには敬意を払って、励ますばかりだったが、最近は冷淡に、突き放すことが多くなった、85歳で、65歳の妻を老人ホームに見舞う日々の辛苦を、こもごもと際限なく、Hさんもいなくなった、Yさんはとっくに、でも、Mさんはまだ生きているのだからと、死の迫っていることを告げ、話を打ち切りに、死だけが人を人らしくする、死を問題にすれば、すべての話は私と世界になる、
妻と私、日本と私と、
核の問題が政治の問題にすり替えられ
核の問題は、科学の問題でも、政治の問題でもなく、哲学の、人の実存の問題であるのに、核のその本質を問うこともなく、政治に、科学に希望を求め、核による戦争抑止、核によるエネルギー確保と、核の問題が、政治、科学でどうにもならないことを知っていて、依存している人間の愚、絶望を通して希望に至れない、悪の凡庸、作家、哲学は、人類を呪詛、告訴する使命があるのに、政治や科学にへつらい、人の生や死を論じ、存在の有無は論じない、核とは生命存在の有無の問題であるのだから、今や、何を語っても、パンドラの箱は、空けられたままの、
新しき人とは
700万年前、目の仕組み、手の仕組みを進化させた、霊長目が二足歩行へと、空いた手で道具を操り、脳の発達を促し、石器、火を使い、洞窟に絵をかき、それがわずか20万年前、ホモサピエンス誕生で、5大文明、ギリシャ文明、釈迦、キリストへと、新しき人とは、こうした人の進化の延長にあるものではないだろう、人精神においてはギリシャ時代で完成している、核汚染の絶滅過程にあっての新しき人とは、この20万年を遡行した、霊長類ヒト科の、最初の人を生き始めることだろう、放射能による気候変動、種の絶滅が進む中、新しき人とは、見ることを見、生きることを生きる、原初の人存在を生き始め、一人から始める人に於いて、
ヴェルコール~海の沈黙~
昔読んだ本、無血占領されたフランスの屈辱を沈黙という抵抗で、侵略というものの滑稽を、一人のドイツ人将校のフランス文化へのあこがれを通して、そのドイツ人将校とフランス人女性を通して、戦争によっては恋愛は成就しないことの、民族の持つ文化の誇りというものの、不可侵性、人権の持つ意味のように、不条理、不正に対する、沈黙という抵抗の、力に対する精神の勝利のように、書かれ、記憶にとどめていた、その映画、昔見たオリジナルではなくリメイク版だったが、原作の雰囲気は伝わっていた、がオリジナル版と比べると、テーマの曖昧さと、甘さがあり、オリジナル版の映像は、コントラストの強い、当時のパリ風景が映し出され、占領という緊迫した時代の雰囲気がよく出ていた、戦争に対して、占領されたのだからとか、国家の形とかではない、人間一個としての、他人の生活に土足で入ってくることの無力と、滑稽を描いていた、戦争とは国家資本が仕掛け、国民が手足をやらされることの視点がそこにはあり、現代において、組織と個人、国家と個人の民族的誇りなどではない、誇りというものの、精神というものの、人間一個におけるものへの視点が要る、世界対私の、国家対私の、精神の不可侵性と、超克、絶対矛盾の自己統一などではない、自己の唯一者としての絶対性の視点が、
絶望と唯一者を基準にするなら
人生おいて、あらゆる事柄が、無意味、不必要な事で溢れているかが解る、放射線管理区域の中で、呑み、食い、遊び、いずれ地球上どこへ行っても、放射線管理区域となり、10万年に渉る核汚染の中を、生きていくこととなり、死と同じではあるが、個の死ではなく、種の、全生命の終わりであることの、過去の地球の出来事であったことが、間近に想定されるがゆえに、絶望が支配し、私限りの時の意識に、そこには、文化も歴史も、個人の死のように、意味を持たず、私という唯一者の余命の時だけとなり、
今という時の中ということ、
何をやっても、やらなくても、今という時の中のこと、人生どう生きても、無という時の中のこと、今の中に誕生しているだけ、死までのその連続なだけ、




