3.11をどのように
3.11と私 〔東日本大震災で考えたこと〕
読み進めて少々嫌になるような、日本批判と共同体思考、人間を世界の中で、近代の中で、良い面も悪い面も、等しく捉えられない視点、原発、絶望をも、近代、人間の歴史の中で捉えられてはいないことの、日本は未だ近代を確立してはいないのだから、近代とは何か、個人の確立、自由の追求、民主政治、ヒューマニズム、どれ一つとして未発達、敗戦という外力で形だけは作られたのだが、内実は江戸と明治のまま、
3.11をどのように
3.11と私 〔東日本大震災で考えたこと〕
読み進めて少々嫌になるような、日本批判と共同体思考、人間を世界の中で、近代の中で、良い面も悪い面も、等しく捉えられない視点、原発、絶望をも、近代、人間の歴史の中で捉えられてはいないことの、日本は未だ近代を確立してはいないのだから、近代とは何か、個人の確立、自由の追求、民主政治、ヒューマニズム、どれ一つとして未発達、敗戦という外力で形だけは作られたのだが、内実は江戸と明治のまま、
夢を見た
靴を直して、乾燥機を直して、エミコの自転車を直して、子供の小さかった頃のビデオを見て、3.11の本を読み継いでと、そして普段より2時間ほど早く床に入って、見た夢が、金縛りにあった夢だった、団地の通路で動けなくなり、コンクリートの上で横になっていたら、人を2秒で死なせるやり方があるよと、私の上に女が覆いかぶさり、私の口にキスをしながら、心臓を圧迫してきた、息苦しくなり、やめろ、やめろと叫んでいた、その前に、玄関に何か怪しい人影があるから、エミコに見てきてと言い、その時から動けなくなっていたのだが、エミコは玄関へ見に行ったまま帰ってこないのだった、それで私はエミコを探しに団地の通路から、広場を見回していたのだった、
寝る前の2つのことから、1つはニュースで、
25歳の女性が消えたというニュース、もう1つは、3.11の本を読んでいて、今まで一緒に生活していた者が、突然居なくなるという、地震、津波のこと、これらを、私は「人が死ぬということとは」という題で、文を纏めたいと考えていたことが見させた夢であった、が、誰も不安を、孤独を、絶望を生きてはいない、日々のニュースが、日々のお笑いTVが、破滅前の、虚無感の裏返しの世界のように、忘却と、回帰と、世界は消えている、
3.11
絶望している者などいないのだった、不満と怒り、批判と呟きがあるばかり、マスとしてそれ以外はないのだった、個においても、根底に絶望を感じ取れる者など居ない、絶望したのは、しているのは、私だけなのだと、この事態になっても、誰も絶望しないという世界に慄然とする、世界に絶望という感情は、無と同じように存在しないもの、形而上学的なだけのもの、世界には有と希望があるだけで、無や絶望は存在できないのだと、人間の誕生までは、世界は有であった、が、人間の意識が、無と絶望を作っているに過ぎないのだと、
時が本当に早く過ぎ
続原発震災日誌を脱稿したのが、2014/3だった、その後、ブログ転載に2ケ月、西村の件があって、T等との議論があって、Hさんの死があって、TN、Mの癌があって、暑い夏があって、今10月、世界は3.11と3.11以降のデペイズマンの中に存在している、キリコ、マグリットが、デュシャンが表わさなくとも、世界はそのままでデペイズマン(異化、非日常化)な、放射線管理区域の中で、放射性廃棄物を食べ、子を産み、働きと、10年後、100年後を考えなければ、何の異和も驚きもなく、
次々と反原発活動家が死に
藤田佑幸も74歳で胃癌で死んでいた、3.11の発言集の高齢者は大方この4.5年で死んでいる、これからは私より年下の若死にが出てくるのだろう、3.11より5年、6.7年と爆発的に死者が、私も後何年かだと心しなければ、藤田は「波乱万丈、一点の悔いもなし」だそうだ、タンノイを持ち、陶芸、カメラ、和凧、田園生活と、反原発を融合させ、楽しんで有意味に生きたのだろう、74歳という丁度良い肉体の衰えの中で、
喉頭癌
喉に違和感が、喉頭癌だったら、余命一年、40年前の、あの消滅の不安が押し寄せる、手術しても、何をしても1年なら、何もしないとしていたのに、何か方法はないものかと、生きのびる方法を考える、それでもあと1年かと、この1年で何かをと、遣り残していることは、震災日誌だけでいいのか、絶望主義でいいのか、私対世界はちゃんと書けているのか、そしてその私対世界が人間の指針となっているのか、否、足りない、表わせていない、絶望主義の中でこそ、私対世界は意味となる、そこまで書けていない、
金があったとて、時間があったとて
何を所有し、何に費やすか、全世界を所有したとて、人間においては、金でも、時でもない、意味と、私自身をこそ所有できなければ、それなくしては、何の所有もあたらない、私の所有とは、私対世界の私の意識、生に対しての、世界に対しての、我ありの意識、唯一者としての存在への信仰、石に、木に、生き物に、世界が存在していることへの、万感の信頼、
ヤン・ヨンヒ〜「ディア、ピヨンヤン」
在日を生きた親、帰国した兄を追った10年間のドキュメント、自らは映画監督として、祖国とは何かを問い続け、津島佑子の紹介記事で、ユーチューブで見る、G他の在日の人々を思い出し、彼らの言動が思い出され、又、社会主義という思想がもった意味と、それに理想を抱いた私の青年期とが重なり、思想とは何かが、現代の無思想の中に、人間の近代とは、個人とはが、作家とは、哲学するとはと同じように、問いをそこに重ねた、祖国という感情、侵略されてみれば分るよと、国家、民族、社会、組織に組み込まれ、依存していく人間という動物、鎖につながれ育った象、掟に縛られた狼と変わらぬ、神の前の子羊という人間、
祖国愛を通して全てを疑う
存在の耐えられない軽さ、存在することへの嘔吐という問題、申京淑と津島佑子の手紙から
「死者のための日、3月23日春分の日、死者のためと、」
死者への哀悼の感情、それは死者が生前自分への、人への、社会への貢献があってのもの、私にそうした死者はいない、
「山々の美しい姿を見ると、心から敬虔な気持ちになる、」
敬虔という感情が、尊い、謙虚になり、心が洗われると、山は文句なしに美しいが、かつて御来光に、そのように心を洗われたことはない、あの手術の日の朝にあっても、只、存在の奇跡性の覚醒であった、
「この町は母のふるさと」
私に故郷という感情はない、加茂野も、古井も、大桑も、心地良い感情の絆はない、家のない、家族のない異郷の地であっただけ、
「ひそやかな追憶の群れが」
追憶をプルースト的に語ることは出来る、しかし、それは粉飾であるのだった、けっして現在からの照射ではない、
「母は10年ほど前、息子は21年前、兄が亡くなったのはもう46年前」
なのである、津島佑子の喪失感、私が父を亡くしたのは54年前、母を亡くしたのは12年前、ブンが亡くなったのは10年前、なのに無い私の喪失感、私は死者から包まれ、愛され、支えられては来なかった、私が包み、愛し、支える存在であった、多く友人にもそのようであった、
「ぼくの祖国はフランス語だ、ぼくのルーツはアフリカだ」と調書のクレジオへの、
ここでの祖国という意識、民族、文化を育んだものへの、スポーツで、祖国を応援し、文化で祖国の美点を、自分のことのように喜ぶ感情、私には無い、アイデンテティーの絆の無いものに、唯一発生するものは、自らの家族だけ、
「朝鮮特需によって日本は復興し、私はそんな日本でのんきに育った」
従軍慰安婦、植民地、強制連行、差別、収奪、これらを行った日本、その国で育った私、私が罪の意識を持つのではなく、日本という、私に罪を負わせた国をこそ、呪詛すべき、
津島佑子の世界観
死刑制度は国家が人民を殺すこと、死刑が犯罪の抑止力とは、核保有が戦争の抑止力と同じこと、
失業対策としてのブラジル移民、在日の民族教育と、ブラジル移民の日本人意識は同じこと、
祖国が苦難の支えになる、在日の民族意識と日系ブラジル人の意識、
消費社会とは「幸せ」をマニュアル化、
自殺とは、死への復讐の方法、
生きることは義務と思っている、
生きていることの意味は分らない、
死は天が決めること、




