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3.11から5年たち

宇宙飛行士の秋山氏が100代までも恨んでやると、失われたフクシマの怒りを表わしていた、5年たち、回りは忘却へと、強制避難区域の解除、帰村へと、秋山氏はどうしているのか、私は5年が経てど、3.11以降の価値転倒はそのまま、全てが虚無に、Tがカラバジョ、ベンシャーンと、そして北海道旅行と、私はそれらに少しも惹かれず、只、時を過ごしているばかり、買った大学ノート40冊を、文字で、言葉で埋め尽くすことだけと、

恨の韓国、ルサンチマンの被抑圧者、日本の無常観、どれも自由平等、豊かさへの希求と欠如の境遇から、誰を恨むか、元には戻らない命のように、失われた自然の山河、世界のどこもかしこも、人はすべからく世界構図の中、私は誰を恨んでいたわけでもない、この世界の不条理に、何もが、誰もが取り巻かれたことへの呆然自失の感情、不条理が条理になってしまったことへの、解決不能の無力感、5年が経っても少しも衰えず、癌の再発への開放のようにはなれず、

3.11から5年たち


宇宙飛行士の秋山氏が100代までも恨んでやると、失われたフクシマの怒りを表わしていた、5年たち、回りは忘却へと、強制避難区域の解除、帰村へと、秋山氏はどうしているのか、私は5年が経てど、3.11以降の価値転倒はそのまま、全てが虚無に、Tがカラバジョ、ベンシャーンと、そして北海道旅行と、私はそれらに少しも惹かれず、只、時を過ごしているばかり、買った大学ノート40冊を、文字で、言葉で埋め尽くすことだけと、

恨の韓国、ルサンチマンの被抑圧者、日本の無常観、どれも自由平等、豊かさへの希求と欠如の境遇から、誰を恨むか、元には戻らない命のように、失われた自然の山河、世界のどこもかしこも、人はすべからく世界構図の中、私は誰を恨んでいたわけでもない、この世界の不条理に、何もが、誰もが取り巻かれたことへの呆然自失の感情、不条理が条理になってしまったことへの、解決不能の無力感、5年が経っても少しも衰えず、癌の再発への開放のようにはなれず、


世界の構図


広島の原爆が日本製であったとは、信じる、信じないではなく、世界の支配者たちにとっては、日本、米国などの国家意識は無く、世界は全部自分のものという意識、それがRS、RK一族に象徴される世界構図、世界戦略ではあるが、国家、民族意識を持つのは庶民、市民、わが社から始って、わが国、わが民族と、庶民の国家意識は内なる天皇制の意識、依存意識、アイデンテティー、共同体、共同幻想、支配者たちにとってはこれらをどのように維持コントロールするかということ、そこに金融、軍事、教育、文化の戦略が立てられているということ、バチカンの陰謀は、世界構図の典型、宗教を建前にして、利殖と世界支配に興じている、

一族意識は有るが、民族意識は無い、国家意識は有るが、愛国意識は無い、所有意識は有るが、飼育者としての意識、一国を支配できる金と、システムを持つものにとって、世界はゲームに過ぎない、核といえど、一アイテムに過ぎず、


実存という領域の新しき人


実存というものが私を超えて存在するものと措定しても、私というものを通してしか、認識は無いのだから、実存とは私の実存ということになるのだった、


美的実存〜リルケに見る、青年の日、あの詩情に、耐えること、待つこと、重さ、孤独、などの感情に、リルケの美的実存を感じた、


倫理的な実存〜ドストエフスキーの思想、人物に宗教的救済を拒否した、人間に留まって苦闘する姿に、人としての倫理とは何かを、


宗教的実存〜ガブリエル・マルセルの形而上学日記に、恩寵に至る過程に、


こうした領域が、段階がすべて捨象され、人類が体験、思考したことのない世界への突入、核世界という、そこでの新しき人、実存という私を消滅させた世界、種としてだけの、存在そのものの私、物質と等価の個人となった存在、実存を無化させた、人間の認識を措定出来ない世界、核とは人間を消滅させた位置、そこでの新しき人とは、

神だけの世界に、ギリシャ神話の世界に帰った世界、

終末、絶滅を、予見できる人間にあって、癌において、余命を覚悟する人間にあって、いかなる哲学が、美的、倫理的、宗教的ではない、死生観的実存が、個人の死が、全体の死へ、個人の苦しみが、全体の苦しみへ、恨みは最早誰に向けるべくもなく、全体のものであり、世界構図も、優劣もなく、他者の命を引き受けるばかりの、


シュティルナーにおける自己所有とは


自己所有こそ、自己否定、自己制約を持ち、自由とは、何かからの逃走に過ぎず、自己性と、自由の差異、


家族愛がどのように


私の文学的出発も家族愛ではあった、林芙美子の「泣き虫小僧」を読んで、初めて書いた小説が同じ題名の「泣き虫小僧」、小一で転校していく私を主人公に、家族愛をテーマに書いている、多く日本の作家の描くテーマ、優しい母と、厳格な父、本日は井上靖の「母の記」を見て、作家というもの、その家族というものの嫌らしさ、井上の父母への俗的な感情の詰まらなさなど、家族とは一体何かを考えないではいられなくなった、私はことさら私の父母、家族への感情を特異なものとは思わないが、一般的ではない家族ではあった、父の桶屋の廃業、父の実家に身を寄せ、母の家出、私の養護施設行き、父の放火事件と、これらの体験は一般的な家族愛のテーマでは埋まらないものがあった、より強い、乖離の無い、一体、無私の、人間関係を求め、文学探求を生きてきた気がする、それが未踏のテーマであった、が、現実の家族に、人間には求められず、私対世界という、私一人で世界を愛すへと、それが3.11の絶望感に遭遇し、決定的となったのだった、「唯一者とその所有」とは、私対世界の論理的、哲学的、帰結であるのだった、チェルノブイリ以降のように、3.11以降も、世界は、未来は、相変わらず一般的、俗的家族愛、人間愛で進むのであろうが、そこには新しき世界、人、家族は無いのだった、「チェルノブイリの祈り」-スベトラーナの中に軽うじて、核と愛が、戦争と愛が、


私対世界


私の所有ではないこの星と言った時、この星が核で汚染、悪の蔓延の世界であっても、私は超えて在る、私対世界の意識は、この所有から離れ、自在な私の所有、私という唯一感から来ているものである、この星への哀悼でいいのだった、私の時、私の世界でいいという、家族からも、社会、国、宇宙からも自在な、私という時の所有こそが意味、実存も、死さえも、私の世界であるという視界、世界は私という時の属性、私という時の所有物、


絶望名人の返上


癌宣告の時のように、私という時を生きていることを忘れ、世界と一体化したがための絶望であった、核礼賛、終末論も同じ感情から発生している、私対世界は、それらへの決別である、5年経ち転移が無かったと、再生へ至ったように、3.11より5年、遅ればせながら、私対世界が戻ってきた、私の時が甦ってきた、この星よ、この世界よと、


「アウシュビッツ以降、詩を書くことの野蛮」と、「フクシマ以降、詩を書かないことの野蛮」


アドルノは現代文化を、物化、効率化ととらえ、その象徴をアウシュビッツと捉え、アウシュビッツの罪過を刻印した、ではフクシマは、アウシュビッツを無化するほどの罪科、全人類への、全生物への、それへの忘却、無視等あり得ず、フクシマを語らない文化などあり得ず、


共産を主義とするとは


国家、社会は自らのものとする、私の世界への対象、私の所有と同じ、世界所有の意識、疎外対象ではない、政治、経済、文化、自ら作るものとしての世界、所有に対しての、死生観に対しての、私対世界としての考え方、


何のために生まれ、生きているのか


政治経済社会の理想実現のために、生まれ生きているのではない、一度死んで、生きているものにとっては、新しき人であるのだった、生きてあることへの絶対的賛歌、アウシュビッツが、核汚染が、核戦争があろうとも、死への絶滅行進であろうが、今在ることへの万感の愉悦、

人生とは何ぞや、そしていかに生きるべきかと、小4より養護施設という境遇は問いかけてきた、中卒で社会に出、工員として働く中、同じ問いかけが、そして実存主義、共産主義へと、そこには70億人の人生があり、様々な職業、様々な境遇を生きる人々が、人生とは何かは、有史以来の人の生きた姿の中、文化の中にと、そしていかに生きるべきかは、いつの時代にあっても反抗にあり、在りたい姿としての追求の中にありと、

癌体験、3.11は三度問いかけてきたのだった、先ず受胎告知があったことの、そして出生したことの、そして五体満足であったことの、あらゆる病気の待ち構え、人生50年の計画、今や死は条理となり、人生とは何ぞや、そしていかに生きるべきかは、今や明確に捉えられる時代になったということ、今在ること、今まで在ったことの、奇形も、病も、いづれ訪れる死も、必然となり、人生とは何かとは、今在ることの、今まで在ったことの、万感の愉悦へと、


絶望の書から、希望の書へ


生命の一個の死を受容するように、人類の死を肯定し、その上での生命の賛歌、この私と世界の関係性がつかめたなら、絶望は、希望、意味、存在へと至る、死に至る病ではなく、生にいたる病となる、人間が、人類が何をしようが、この時間、悠久の一こまであることの、宇宙、太古の感覚は、普遍、希望である、何千憶兆個の生命と、生命一つとの関係性、


私はどこからやって来たか


裕福な、愛に育まれた家族の中からやってきた者と、貧困と、諍い、不安の中からやって来た者と、が、同じ核汚染の、大地と水と空気の中で育って来た者、奇形も、病も、未来も、同じ宿命を持ち、有史以来の、人はどこら来て、どこへは、問うこともない時代へと、


世界は、国家、宗教、民族を超えた支配構造の中で営まれているで良いだろう


国家も、民族も、支配維持の道具、装置であり、世界は支配維持のために営まれている、人が生きるということはそういうことであり、生きることを生きるなど考えたことの無い種族であるということ、世界の諸問題を常に世界支配構造と、それらを支える者らで構成、運営されているという視点、文化、芸術といえど何ら変わらず、私という唯一者からのものではないということ、


「ペスト」と核汚染


2.3日で死ぬ場合と、10年、20年で死ぬ場合の違い、一つの病気で死ぬ場合と、様々な病気で死ぬ違い、人には見えないからと、痛くも痒くも無いからと、DNAの損傷が自明となっても、核汚染の世界を生き、この核汚染の現実は、小説を歯牙にもかけない、アウシュビッツ体験を、戦争を、人は様々に物語るも、お話に過ぎないものにしてしまう、「ペスト」はカミュ1947年の発表だが、核もアウシュビッツも知っていて書いてはいるだろうが、どちらも手に負えぬものであったのか、思想が追いついていかなかったのか、3.11以降の世界は、「ペスト」も、「異邦人」も、文学の成立要件である人間基盤そのものが、喪失してしまったのだ、

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