ベンジャミン・クレメンタイン
偶然、ネットで知った歌手、人間であることを教えてくれた、魂、言葉、声、表情、人間とは何であるかを体で体現している、癌が治った頃の、あの人間としての感情が戻ってきたような、どこまでも、生きていることの喜びに涙していた、家族とブンとの暮らしがそこにはあった、新しき人が誕生していると、絶望の子が、27歳クラブのその子供が、この世界の絶望の中から新しき人が誕生していると、3.11より5年、ベンジャミンに会えたことの喜び、音楽の力、反抗とは、この魂の声のこと、文学に、哲学に、絵画に、まだ新しき人は生まれてはいない、が、ベンジャミンという音楽に新しき人を見、
ベンジャミン・クレメンタイン
偶然、ネットで知った歌手、人間であることを教えてくれた、魂、言葉、声、表情、人間とは何であるかを体で体現している、癌が治った頃の、あの人間としての感情が戻ってきたような、どこまでも、生きていることの喜びに涙していた、家族とブンとの暮らしがそこにはあった、新しき人が誕生していると、絶望の子が、27歳クラブのその子供が、この世界の絶望の中から新しき人が誕生していると、3.11より5年、ベンジャミンに会えたことの喜び、音楽の力、反抗とは、この魂の声のこと、文学に、哲学に、絵画に、まだ新しき人は生まれてはいない、が、ベンジャミンという音楽に新しき人を見、
祈りと嘆き
世界を追悼する
人類の行末を
間もなく訪れる破局を
この悲嘆は人を誕生させるか
絶望のまま潰え去るか
記憶の世界だけが
喜びと悲しみ
無気力なのではなく、
読みたい本が無い、行きたいところが無い、やりたいことが無い、だから人にも会いたくない、となるのは自然なことだが、3.11の核汚染、政治状況、世界の構造等の共有の中で、かつてやりたいことに興じる意味がわからないのだった、この世界を去るまでを、考え抜きたい、この人間の現実と未来を、どのような現実であっても、生き抜く人間の力を、その意味を、時間とは3分あればいいような、人間存在の意味を、無から誕生した人間であるのだから、無へと、宇宙は無であるのだから、物質としての有ではあっても、精神としての存在は無であるところの宇宙、只の有、精神もどれ程のことか、ただ束の間の無の有という時を知っており、感じているということなだけ、この精神にしても、無の有が無ければ、只の有の無、沈黙なだけ、
世界の陰謀を知ってこそ
自らの芸術が私対世界になることの、マルクス主義的に、社会の仕組み、歴史を捉えていた若き日、世界の陰謀は、日米独占資本でくくり自明としていた、それらを倒し、政治構造を変え、社会民主的に革命を進めるのだと、そこには政官財への一定の肯定と信頼のようなもので、資本主義を発達史的に捉える感情があった、が、現代の陰謀は、破滅的で、狂気的、資本主義構造の悪魔的姿を晒らしている、公然となされる悪、個々の権力者の醜悪さと、悪魔性、利権構造、支配欲だけでは説明できない、彼らの、そして彼らに組する者らの、人間というものの無意味性、悪の自明性、アジェンデ政権が転覆されたとき、CIAの策略は知らされていたが、いま世界の陰謀の数々が明らかになるにつれて、世界構造の維持事体が陰謀で張り巡らされているものとなり、
こうした認識を経て初めて世界は私と分離され、私に対する存在となり、自らの芸術が私の意味と成ったのだった、
Yと語ったことが
Yの「自己悲愴」という、ブラブラ川崎の地を歩いて、過去を回想するという作品だが、批評を加えず肯定で終えたことの心地悪さがあって、また日々進行する世界の絶望状況にあって、私のこと以外は全て肯定でよいのだとは思うのだが、常に世界に振り回される自己に対して、再度私の位置を見据えねばと、終日ネット情報を収集、考察して過ごす、「続原発日誌」の「核を通して人は、死のように世界の破滅を我が事とするに至り、初めて自由を手中にしたのだ」との結論は、私の確信になっている、核の平等性、核の絶対性、核の無謬性が故に、人間は初めて自由からの逃走ではなく、真の自由を手てにしたのだとの、あとは生きることだけ、破滅も調和も、絶望も希望も念頭に入れず、只生きることだけで良いとなったことの、有正の日本論、ドストエフスキー論を読んだが、この只生きることだけの前には、有正の説く「経験」など、文学オタク、哲学オタクに思えてくる、世界は只生きることだけに至っているのだから、
文学とは
サルトルが自己の文学を、ベランダの植木に水をやっているようなものと、文学を人に見せたり、自慢したりするようなものではなく、趣味位のものとの、平素な営為を語っていたが、私において、文学とは自己との対話、この対話にどれ程の時間を費やしてきたか、対話することが生きている実感を感じたからこそだが、何かを、誰かに示すためではなかった、が政治活動、文学活動の中で、意味や目的、巧く、良いものといった、目的、意味のための文学に変質していった、それが3.11を得て、初めて、只生きることだけで良いとなり、ベランダ園芸となったのだった、
Mの膵臓癌
昨日、全ての人間は膵臓癌か糖尿病で死ぬことになるだろう、生きのびても透析にたよった生活となるだろうと言ったことが、身近で現実となり、プルトニウムというものの空恐ろしさを思い知る、100万年に渉り生物を特に膵臓と骨に、子供に蓄積され、遺伝子を傷つけ、全生物を変更絶滅させて行く、一日10個のプルトニウム、一生で100万個の内部被爆、もう出てしまっている、大気圏内で循環している、Kの夫の白血病、Sの脳腫瘍、KYちゃんの脳梗塞、Hさんの肺がん、Tさんの脳梗塞、Tも、Hさんも親子で早死に、かつてはその不条理に悲しんだ、が今それらが必然、自明の、様々な原因物質による、またDNAの転写ミスによる、それらを抑制除去する免疫低下による結果として捉えるとき、あらゆる病は太古よりあったことの、しかし、3.11以降の余計な死である、放射能による死の自明性は、人の死への尊厳を失わせ、ただ憤りばかり、川端康成の死への、末期へのあの虚無感だけが、存在感を持ち、本当に死は自明、必然、只の事実となったのだった、そこに感傷も、悲哀も、神秘も、崇高も、虚無も、絶望も、鎮魂も、人間的といわれる感情の何をもはさむ必要がなくなったのだった、これこそが放射能の持つ明晰、完全、無謬性であるのだった、




