核によって初めて人は国、文化を超え
民族自決、自由と独立、抑圧と抵抗、これらが国家、民族の名において行われ、しかし、支配、秩序意識において、核は全てをくじく、自由というものが、抵抗しない弱弱しい人間ばかりとなって、独立などという気概もなく、労働意欲、欲望もなく、支配をしているのか、養っているのか判らない人間群ばかりとなり、
コソボのリンダ柔道家のTV、世界チャンピオンの選手に、コソボ国民が夢を託す話、民族、国家の持つ意識の過去性、核以降の世界には、民族、国家は未来形ではない、インターナショナルな労働者意識にしても、核を生きる連帯がないなら、ただの二項対立、矛盾意識に過ぎず、障害者問題にしても、障害が核によってもたらされていることの関与を問わないなら、障害は自らのことであり、これら核を何とかしようではなく、この絶望こそ、人を人足らしめるもの、核というものは決して絶望ではなく、絶滅までの喜び、絶望を通した希望、人間であり続けることの意味と喜びへと向かう哲学となるはずとの私の希望、戦争も、貧困も、障害も、全て超えられる思考としての核、人が初めて新しき人としての哲学を歩みだして行くのだと、
核によって初めて人は国、文化を超え
民族自決、自由と独立、抑圧と抵抗、これらが国家、民族の名において行われ、しかし、支配、秩序意識において、核は全てをくじく、自由というものが、抵抗しない弱弱しい人間ばかりとなって、独立などという気概もなく、労働意欲、欲望もなく、支配をしているのか、養っているのか判らない人間群ばかりとなり、
コソボのリンダ柔道家のTV、世界チャンピオンの選手に、コソボ国民が夢を託す話、民族、国家の持つ意識の過去性、核以降の世界には、民族、国家は未来形ではない、インターナショナルな労働者意識にしても、核を生きる連帯がないなら、ただの二項対立、矛盾意識に過ぎず、障害者問題にしても、障害が核によってもたらされていることの関与を問わないなら、障害は自らのことであり、これら核を何とかしようではなく、この絶望こそ、人を人足らしめるもの、核というものは決して絶望ではなく、絶滅までの喜び、絶望を通した希望、人間であり続けることの意味と喜びへと向かう哲学となるはずとの私の希望、戦争も、貧困も、障害も、全て超えられる思考としての核、人が初めて新しき人としての哲学を歩みだして行くのだと、イスラエル、パレスチナ問題にしても、土地のないユダヤ人に土地を与え、追い出されたパレスチナ人も土地を得、そうしたことを可能にする政府を共に作り、原始共産制を法律、政治として行い、めざし、何故なら、子も増えない、人口は減り、病人ばかり、何を作っても核廃棄物の世界にあって、互いは助け合い、慰めあうしかなく、核にメシアはないのだから、宗教は今や成立しないのだから、核に、未来に、絶望に、目を据えて、あらゆる評論をやってみること、美術論でもいい、文学論でもいい、すると、ある価値から論じられていることが解る、価値という、意味という有、それらを無価値の絶望という無価値から評論したなら、結局、全ての文化が、人間かくあるべき、美はかくあるべきといっているだけ、それらは人間の破滅に至る過程が良く描かれているといったものに、戦争が起きてそうなってしまった状態で、そうした作品に何の意味が、反原発の作品が、実際に事故が起きて、無価値の意味を知ったように、全文化の絶望を生きる作品でない限り、ノスタルジーに過ぎず、核を生きる力になどなり得ないのだった、
T、Sの感想
Tが私の原稿(続原発震災日誌)を読むのは迷惑だったと語った、仕事にかかろうとしている矢先に、1000枚もの原稿が送られてきて、でも読まないと失礼だし、自分も負けているからと、10日間苦行のようにして読んだと、私に共感者などいらないのだった、絶望主義に共感されても、欺瞞と重荷を感じるだけ、絶望など見ないで、Sの言うように希望を信じて生きるしかないと、現実を見据えていく事の方が気楽だ、TもSもそうあって欲しい、私は、私の3.11をあの作品で超えたのだから、私の3.11であり、この世界への決別ができたのだから、世界の絶望を見据えて、刻々を生き、書いていくことだと、絶望を見据えないで、刻々などないのだから、私の生はこの刻々をこそ所有したかったのだから、もうTとも、Sとも語ることはないだろう、
Hが死んだというのに
Hの通夜の後、ドトールでS、T、SUと又しても陰謀論の話になり、やりあうこととなった、この四人の会話と心境を、あの世のHから見たらどんな小説になるかと、書いてみたら面白い、今や一人の死の尊厳は無くなった、この3.11以降の世界にあって、死は尊厳を剥奪され、死一般に取って代られ、
私の場合の死への感情の変化、
原発、核、世界の絶望の認識度合いが、その人の人格を計るバロメーターとなり、親戚、友人といえど、かつてのような、血縁的、家族的な感情で接することが出来なくなった、人の死はかつては何よりも重大な、絶対的な不可侵の感情領域であったのに、3.11以降、核という予定死の中の死にすぎないとの感情が有り、核を容認、核汚染地帯に住み、核汚染食品を食べ、自業自得の死であるとの、死というものが自明さに満ち、サルトルの言う事実に過ぎなくなり、世界は今や核のボタンを握る一部の狂人の手の中にあり、と、死は常に風に舞っており、毎日のように著名人の死が報じられ、無名の人の死など知ることも無く、今や人は従容と死んで行く時代に、そんな死に満ちた世界に、どのような尊厳がと、通夜の席の陰謀論議とは現代の世界そのもの、
なぜ核が人間存在にとって根本的なものに、
個人にではない、民族、国家、限定でもない、全生命、地球そのものへの問題だからである、直ちにではない、確実に、不可逆の問題だからである、こんな問題が起きたのは、1945年の原爆投下から以降ではあるが、現実化、顕在化したのは、スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマの核汚染から、戦争でもないのに故郷を追われると言った、陰謀論も、終末論、メシア論も無化するところの存在の根本的問題であるからであった、今となっては希望は、この喪失の現実共有、破滅までの、癌転移後の余命のような、一日一日を、在ったことの奇跡性を感謝し共感し合い、時を送るだけなのだが、これらをニィチェのように1日100枚の原稿を書いたとしても今や意味は無く、ドストエフスキを、有正、を読み継いでいるのだが、何も考えられない現代人において、罪の意識など、とらえようもないのだった、
人と会って
語ることは、原発、核汚染、政治文化のこと、どれも絶望的であることの、そして彼らは私を批判することは無く、頷くのだが、諦めが最期に共有されるばかり、なるようにしかならないとか、日本は壊れているとか、誰と話しても、おめでたい人間以外は、絶望の肯定に終わるのだった、漫画の世界が現実になっていることは、子供でも知っている、子供に夢や希望を説いても、どの子供も信じてなどいない、大人に合わせているだけ、彼らは絶望の子であるのだった、教育で何とかなる話ではないのだった、私が人間の文化あれこれを探しても、哲学、文学の叡智であっても、救済、打開の方法は見出せないように、核を無くす科学は無いということ、とチェルノブイリ報告、核に科学は通用しない、まして文化芸術が出来るわけも無し、それらはただ見方を変えるか無視するか、忘却するだけの話、科学で解決できないことは、無ということ、絶望であるということ、子供に理想や希望は考えないことと、現実を考えることと、子供の心を摘むようなもの、科学で解決できないものがあるということは、何も教えられないということ、戦争であろうが病気であろうがいずれ科学で解決が可能と、道筋を示すことか出来る、しかし、核だけは道筋も、方法も無いのだった、核が分裂することは人の死と同じように、自然現象なのなのだから、作ってしまった核、十万年の寿命、




